新潟-上野112時間列車の旅

1963年1月23日16時05分,急行越路が新潟駅を発車していきました。このときはまさか上野駅まで112時間もかかる道中になるとは誰も思ってはいなかったでしょう。

当時の新聞からこの列車の足取りを拾いながら,三八豪雪の一端を見てみることにしましょう。はっきりした資料に基づいているわけではないので,不明な点が多いです。

1月23日16時05分 新潟駅を出発

大雪警報をついての発車でした。定刻に出たかどうかはわかりませんが,多少遅れたとしてもこれからの遅れに比べれば大した問題ではないでしょう。

新潟県下越地方は19時半ごろから最大瞬間風速30m/sの暴風雪となりました。この影響で新潟-長岡間の信越線などが22時過ぎまでストップ,その後ようすを見ながらゆっくり運転を再開しましたが,「越路」は23時ごろ保内駅構内で雪の吹きだまりに突っ込んで身動きが取れなくなり,そのまま保内駅で滞留することになります。

一方,前日から18年ぶりという大雪に見舞われていた北陸本線は,夜から全面運休となりました。

1月24日 押切駅で立ち往生

どうやって押切駅まで動いたのか不明です。

暖房が切れたために列車内に火鉢が差し入れられましたが,乗客約400人のうち311人が一酸化炭素による中毒症状を起こしました。うち重症だった3人がラッセル車で長岡まで運ばれて入院しました。のちに乗客のひとりは「(国鉄は火鉢を差し入れてくれたが)おかげで中毒が起こった。ほんとは暖房に必要な水を補給すべきだった。その機会もあったのに」と語っています。

12時30分ごろ,福井県勝山市の横倉地区で大規模な表層なだれ(俗にアワとよばれます)が発生,住宅4棟と公民館,神社などをのみ込み,16人が犠牲になりました。

このころから富山・石川・福井の北陸3県では,外部との交通が途絶して孤立状態となり,物資が不足する市町村が出はじめました。

一方,最低湿度6%とカラカラに乾いた東京の深川で早朝,ガス漏れによる爆発・火災が起こり,一家6人が焼死(爆死?),17棟が全焼しました。

また,鹿児島では前夜からの積雪が17cmに達しました。

1月25日~27日 長岡駅から動けず

どうやって押切駅から長岡駅まで動いたのか不明です。

開通のめどが立たないため,25日の夜から乗客は近所の旅館に泊まることになりましたが,その扱いたるや「囚人の収容所なみの扱い」(ある乗客)。

27日の朝,“除雪協力隊”を乗せた“救援列車”が上野から東北本線・磐越西線経由で長岡駅に到着しました。レールにこびりついた雪はラッセル車を脱線させるほどかたまっていて,ツルハシでたたき割るしか方法がなかったということです。

一方,26日14時30分ごろ,福井県美山村芦見地区で下校中の児童8人と引率の教師1人が“アワ”に巻き込まれて生き埋めになり,児童3人と教師が死亡するという事故が起こりました。この前後にアワ=表層なだれが各地で頻発しています。

1月28日01時45分 長岡駅を発車

自衛隊,除雪協力隊など約1000人を動員して,27日夜にようやく開通のめどが立ちました。

当初は27日22時過ぎに発車の予定でしたが,除雪作業が長引いたため,28日01時45分,ラッセル車2台を先導させての強行発車に踏み切りました。

1月28日08時29分 上野駅に到着

106時間21分遅れで,やっと上野駅に到着しました。もちろん国鉄史上第1位の遅れの記録です。屋根には雪が1m以上積もり,連結器や車輪のまわりには氷が貼りつき,悪戦苦闘ぶりを物語っていました。雪に閉じこめられていたときの乗客は約350人でしたが,到着したときにはなぜか650人になっていました。

小出駅に足止めされていた下り急行「佐渡」も,08時03分に88時間48分遅れで新潟駅に到着しました。

このようにしてある意味で三八豪雪の象徴となった「越路」と「佐渡」は多くの人の協力によって終着駅にたどり着きましたが,もちろん三八豪雪はこれで終わったわけではありません。

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