愛と希望は勇気のしるし?!

きょうは愛と希望と勇気の日らしいです。クサい単語を3つ並べただけのしょうもない名前の日です。

由来は次のできごとです。

1959/01/14 第3次南極観測隊,昭和基地に1年間放置されていたカラフト犬のタロとジロが生きていたことを確認

犬が2頭生存していることはすぐに確認できたみたいですが,あまりの変わりようにどの犬かはしばらくわからなかったようです。第一報では別の名前が報じられています。

第一便が基地から船に帰る途中,無線電話で「クマ」と「モク」が生きていたと報告してきた
(朝日新聞1959/01/15付夕刊)

あまりの変わりようというのはやせ細っていたということではなく,まったくの逆で,丸々と太っていたとのことです。基地に置いてきた食糧にはまったく手をつけておらず,おそらくペンギンなどを捕獲していたのでは……と想像されていますが,何を食べていたのか本当のところはいまだによくわからないそうです。

タロとジロ以外の13頭は死亡,または行方不明ということになっています。

第1次越冬隊で犬の担当だった北村泰一氏の『南極越冬隊タロジロの真実』によると,第4次越冬中に行方不明になった福島隊員の遺体を第9次越冬隊が発見した直後,基地の近くから白い犬の遺体が発見されたそうです。行方不明になった犬のうち色が白かったのはシロとリーダー犬リキだけで,北村氏はリキではないかと書いています。

リキは映画南極物語では最後まで残った4頭のうちの1頭で,シャチの襲撃からタロとジロを守った傷がもとで力尽きたことになっています。もとの飼い主だった姉妹の姉を荻野目慶子が演じていました。当時はまだかわいい(笑)

また,2011年にTBSで放映された日曜劇場南極大陸でも,タロとジロが発見される直前まで生存していました。

リキはリーダー犬だったということもあってか,フィクションではクライマックスを盛り上げるための“ダシ”として使われやすいようです。

4頭のうちのもう1頭は風連のクマで,「南極物語」ではタロとジロを基地近くまで“送り届けた”あと,いずこともなく去っていきました。

「南極大陸」ではなんかよくわからないうちに流氷に乗って流されたんではなかったかな。「南極物語」での去っていくシーンがあまりにもかっこよかっただけになんかなあという感じでした。

なお,置き去りにしたことについて今も昔も批判がありますが,事態が急を要しており,連れ帰るにも薬殺するにも時間的余裕がなかったようです。

どうでもいいですが,“愛と希望と勇気”と聞くと次を思い出してしまいます(笑)

以上,愛と希望と勇気の日 | 能天気Express Hyper (2009/01/14)に少し書き足しただけの手抜き記事でした。

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八百屋お七の墓が呼ぶ(お七火事)

天和二年十二月二十八日(グレゴリオ暦では1683年1月25日,以下同様),駒込大円寺から出た火は,折りからの北西の季節風に煽られて本郷,神田,伝馬町,日本橋に燃え広がり,3500人以上の死者を出しました。これが江戸十大火のひとつお七火事です。

お七(八百屋お七)は実在の人物で,放火の咎で天和三年三月二十九日(1683年4月25日)に火炙りの刑に処せられたのも事実のようですが,お七が放火した火事については天和二年一月説,天和三年三月説などがあり,特定できる確固たる根拠はありません。ただ,皮肉なことにお七火事がお七が放火した火事ではないことは確かなようです。σ(^^;)的には,お七の放火は天和三年三月だとするのがもっとも違和感がありません。

この火事は天和三年三月二日(1683年3月29日)の夜,本郷の森川宿の八百屋の娘お七が近くの商家に放火したところを通行人に発見されすぐに消し止められたというもので,今流にいえばボヤです。しかし,当時はボヤでも放火は放火,市中引き廻しの上火炙りと相場は決まっていました。

放火の動機については,天和二年十二月二十八日の火事(要するにお七火事)でお七の家も被災して正仙院というお寺に仮住まいした際,そこの“イケメン”と恋仲になったのですが,新居が完成して会えなくなり,再び火事になれば会えるという妄想が放火に駆り立てたとされています。

このあたりは諸説ありますが,お七の年齢,被災した火災,仮住まいしたお寺や“イケメン”の名前などに違いはあるものの,大筋では似たりよったりです。

お七のお墓は文京区白山に現在も存在します。知る人ぞ知る恋愛成就のパワースポットです。

お七のお墓

内田康夫センセの『追分殺人事件』では,1987年3月8日にこのお墓の前で男の変死体が発見されることになっています。作品では前日から雪が降っていたことになっていますが,実際に東京では午後から雪になりました。降雪の深さ合計は7日が3cm,8日が2cmとなっています。

ちなみに,2004年に放送された女と愛とミステリー 信濃のコロンボ事件ファイル5 追分殺人事件では,雪は積もっていませんでした。死体が発見されたのはここです。

お七のお墓

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大蔵省炎上 (1940年)

♪あゝ 一億の民は泣く~と歌われた紀元二千六百年の1940年6月20日21時53分,麹町区大手町の逓信省航空局新館に落雷して炎上,火はみるみる広がり,航空局新館・旧館,農林省営林局,神田橋税務署,対満事務局,厚生省,大蔵省などが全焼しました。中央気象台の一画も焼けました。

「気象要覧」によると,このときの雷雲は17時30分ごろ荒船山の東斜面に発生し,御荷鉾山→群馬県藤岡町→熊谷市鴻ノ巣町→大宮町→浦和市と移動してきたもので,東京市で大暴れしたあと,23時10分ごろ千葉県勝浦町沖の太平洋で消滅しました。ひとつの雷雲がこのような長時間にわたって存在し続けるとは考えにくいので,おそらくマルチセル型だったのでしょう。

この年は奇しくも平将門公の没後1000年にあたっており,雷が落ちたのは将門公の首塚の近くでした。もともと大蔵省はこの首塚を取り壊そうとした経緯があるので,将門公のたたり再燃と噂されました。平将門は菅原道真の生まれ変わりという説もあるそうで,そうだとするとたたりの手段に雷を使ったというのも説明がつきます。

ちなみに,大蔵省本庁舎に落雷したとする文献やサイトがありますが,誤りです。そちらのほうが話としては面白いですが。

※この記事は大蔵省炎上 | 能天気Express Hyperほとんどそのままです。

付記

国会図書館の近代デジタルライブラリーで中央気象台彙報. 第17冊 昭和15年6月20日關東地方の大雷雨 雷雨報告という文献が公開されています。

20140620-1

興味のあるかたは検索してみて下さい。URLを貼るなどという親切なことはしません。

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この間の遺恨おぼえたか!! (645年)

皇極天皇四年六月十二日,飛鳥板葺宮の殿中において,中大兄皇子が蘇我入鹿に突然,

この間の遺恨おぼえたか!!

と斬りかかりました。留守居役の中臣鎌足も

殿中でござる!!

と止めにはいるふりをして中大兄に加勢して蘇我入鹿にひと太刀ふた太刀浴びせたものだから,蘇我入鹿は

話せばわかる!!

と抵抗することもできずその場で絶命しました。

これが世にいう乙巳のクーデターです。なんかちょっと(かなり?)違うような気が……。

ちなみに,『日本書紀』のこの日の条に

是日雨下潦水溢庭

とあります。時期的に梅雨末期にあたり(ユリウス暦で645年7月10日),飛鳥付近にいわゆる梅雨末期の豪雨でもあったのかもしれません。

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虎が雨

阪神タイガースとかいう名前の野球チーム関係の涙雨ではありません。プロ野球には全然興味がないからわからないんですけど,阪神って今年も最下位なんですか?

さて,虎が雨とは五月二十八日(旧暦)に降る雨です。今日降る雨ではありません。

建久四年五月二十八日,ユリウス暦で1193年6月28日のことです。源頼朝が催した富士山麓での大巻狩の深夜, 曽我十郎祐成曽我五郎時致の兄弟が月のない真っ暗な闇の中,松明を手に父の仇である工藤祐経の陣屋に討ち入りました。

寝込みを襲われた祐経はあっけなく討ち取られましたが,その後の十番切りとよばれる乱戦の中で兄十郎は朝比奈四郎に討たれ, 弟五郎は捕らえられました。そして翌日,頼朝による尋問ののち処刑されました。

十郎には虎御前という愛人がいました。五月二十八日にその虎御前が十郎の死を悲しんで流す涙が雨となって降るのが「虎が雨」 であると伝えられています。

兄弟の敵討ちの記憶と梅雨という気象現象が結び付き, そこに田植えのために雨を乞う人々の思いが重なって徐々に用いられるようになったもの
~『曽我物語の史実と虚構』

のようです。

『吾妻鏡』には仇討ちの日の天気について次のように書かれています。

小雨降る。日中以後霄《は》れ。……

まず,はじめ小雨が降っていたが,日中から晴れたとあります。そして,祐経を討ち取ったあとの「十番切り」 のときは

雷雨,鼓を撃ち,暗夜に燈を失ひ……。

とあり,激しい雷雨だったようです。

江戸時代には,兄弟の仇討ちのときに雨が降っていたことは常識になっていたらしく,次のような詠史川柳があります。

泥足で工藤が夜具をはね除ける

しかし,『吾妻鏡』や真名本『曽我物語』では「十番切り」に雷雨の記述があるので, 兄弟が工藤の陣屋に向かう途中はまだ雨は降っていなかったと思われます。そうでないと“なけなしの銭”で買ったらしい松明が消えてしまいます。

なけなしの銭で松明二本買ひ

これもまた,江戸時代の詠史川柳です。曽我兄弟は貧乏だったというのも江戸時代の常識だったようです。

今では曽我兄弟なんかよりウルトラ兄弟とか宇宙兄弟なんかのほうが有名みたいですが,六代目宝井馬琴さんの夜討曽我 紋づくし,機会があったら聞いてみて下さい。思わず引き込まれます。

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大仏の頭が落ちる

斉衡二年五月二十三日(ユリウス暦で855年7月10日),東大寺から都に,大仏の頭が落ちた,との報告がありました。

この前,五月十日,十一日に地震の記録があることもあり(六月二十一日,二十五日にも地震の記録がある。ついでに六月一日には日食の記録がある),地震によって落ちたとされることがありますが,『文徳実録』には

毘盧舍那大佛頭自落在地

とあるだけで,地震で落ちたとは書いてありません。

誰かが故意にやったのだとしても,もうとっくの昔に時効が成立していますね(笑) 奈良県警というと,2時間サスペンスでは誰だろう?

直接関係ないですが,5月23日というと,1960年5月22日のチリ沖地震(M9.5)によって発生した津波は太平洋を渡っている最中で,まだ日本には到達していません。すでに到達したハワイでは最大波高10.5mを記録しています。

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稲村ヶ崎の奇跡?! (1333年)

鎌倉」と題する唱歌があります(芳賀矢一作詞)。鎌倉の観光ガイドのような長い歌で,次の歌詞ではじまっています。

♪七里ヶ浜の いそ伝い
稲村ヶ崎 名将の
剣投ぜし 古戦場

ここに歌われている名将とは,もちろん新田義貞です。元弘三(1333)年五月,分倍河原での一時的な退却あったものの稲村ヶ崎まで順調に攻めのぼってきた新田義貞も,天然の要害,鎌倉への侵入路を捜しあぐねていました。五月二十一日の夜半過ぎ,意を決して稲村ヶ崎の浜で数万の自軍を背にしてひとり馬から降り,兜を脱いで沖合いを伏し拝み,龍神に祈りを捧げます。

……仰願ハ内海外海ノ竜神八部,臣ガ忠義ヲ鑒テ,潮ヲ万里ノ外ニ退ケ,道ヲ三軍ノ陣ニ令開給ヘ

祈りおわって,黄金づくりの太刀を海中に投じると,なんと不思議なことに,今まで潮の干いたことがない稲村ヶ崎の海が二十余町にわたって干いたではありませんか。

どうでもいいですが,TBSの世紀のワイドショー! ザ・今夜はヒストリーでこの場面を再現したときはなぜか真っ昼間に太刀を投げ入れていました。

いずれにしても,こうして生じた干潟から義貞軍は一気に鎌倉に攻め入り,鎌倉幕府の要人はもはやこれまでとほとんどが自害。ここに鎌倉幕府は滅びるのです。

以上は太平記に載っている話です。果たして潮が干いたのはほんとうなのか? 真実や如何に?

これについては諸説あり,いちばんもっともらしい(と私が以前思っていた)のは,義貞は潮の満ち干を知っていて,士気を鼓舞するためにひとり芝居を演じたという説です。

ところが,この説には致命的な欠点があります。この日は旧暦の五月二十二日ですから,稲村ヶ崎あたりの干潮は午前2時から3時ごろです。したがって潮が干いたのは事実でしょうが,これはいつでも起こっていることで,“今まで潮の干いたことがない”稲村ヶ崎が干上がったことを説明できません。それに上州育ちの義貞が潮の満ち干についてそれほど詳しかったとも思えません。

さらに潮が干いたあとは歩きにくく,海というものに慣れていない上州の軍勢がスムーズに通れたかどうか疑問です。江戸時代の詠史川柳に

義貞の勢はアサリを踏みつぶし

というのがあります。

ということで,ドラえも~ん,なんとかしてよ~とタイムマシンでも借りない限りほんとうのところはわかりませんが,私的にはこの話は作り話で,義貞軍の本軍は稲村ヶ崎を通ったのではなく,別のところを通って鎌倉に攻め込んだのだと思います。

ただ,義貞軍本隊が化粧坂路を進んでいたころ,大館宗氏率いる右翼軍の一隊が由比ヶ浜を突破しており(ただし,大館宗氏はその後の戦いで討死),このときにひょっとして潮が干いたのを利用したのが,話を面白くするためか軍記物にありがちな針小棒大癖のためか誤ってか義貞軍本隊の話として伝えられたのでは……と思えないことはありません(根拠はないです)。

ところで,鎌倉といえば,大仏です。唱歌「鎌倉」にもあります。

♪極楽寺坂 越え行けば
長谷観音の 堂近く
露座の大仏 おわします

ここに歌われているように,奈良の大仏さんと違って鎌倉の大仏さんは露座,早い話が雨ざらしです。

もちろん,つくられた当時は大仏殿のようなものがそれなりにあったようです。ところが,3回の大風(そのうちの1回は『吾妻鏡』に載っている台風と思われますが,他は確認していません)によって倒壊,追い撃ちをかけるように1495年の津波によって流され,それ以来露座となったのでした。

この津波は,1498年の明応東海地震によるものとされてきました。しかし,最近の研究では1495年の相模湾を震源とする地震に伴う津波と考えられるようになっているようです。

それにしても,大仏殿が流されたのに大仏さんはよく踏みとどまったものです。

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長篠の合戦 (天正三年)

桶狭間(山)の合戦から15年後,天正三年五月二十一日(グレゴリオ暦で1575年7月9日),織田信長が徳川家康と連合して設楽原で武田勝頼を破った戦いです。

名だたる武者から組織された武田の騎馬軍団を織田の名無しさん足軽鉄砲隊が三段撃ちという新戦法で壊滅させた戦術革命ともいえる画期的な戦い……と最近までいわれてきた戦いです。実際には,武田の“騎馬軍団”も織田鉄砲隊の“三段撃ち”もなかったし,まして“戦術革命”をもたらしたといえるような戦いではありませんでした。

ちょっと馬の歴史を調べればわかるように,当時の日本の馬はかなり小さく,平均すると120~140cm程度の体高で,現在ではポニーとよばれる大きさでした。有名なところでは,宇治川の先陣争いで名を馳せた佐々木四郎高綱の生喰《いけずき》は145cm,源義経が乗ったと伝えられる青海波《せいがいは》は142cmでかなり大柄な部類ですが,それでも160~165cm程度である現在のサラブレッドとは比べるのもかわいそうなくらいです。しかも体重は220~260kg程度で,今のサラブレッドのせいぜい半分です。さらに当時まだ蹄鉄は使われていませんでした。

このような“ポニー”が蹄鉄なしで重武装の武者を乗せたりしたら,そもそも戦場を駆け回れるかどうかわかりませんし,かりに戦場を駆け回れたとしても,すぐにバテてしまってとても“いくさ”にならなかったのは火を見るより明らかです。しかも当時は去勢の習慣がなかったため(なぜか日本だけらしい)気性の激しい馬が多く,整然と隊伍を組んで命令一下突撃などできたのか,はなはだ疑問です。

戦国時代になると,馬に乗って戦場にやってきても,馬から降りて戦うことが多くなっていました。武田軍の中に馬に乗って織田陣に切り込もうした武者はもしかしていたかもしれませんが,とても“騎馬軍団”などといえる集団ではなかったはずです。

話が馬のほうにヨレてしまいましたが(ブリンカーをしたほうがいいかな(笑)),合戦の前日は一日中雨が降っていました。戦いの舞台となった設楽原は水田地帯で,この雨のため泥沼と化して足場がたいへん悪くなっていました。合戦の当日は朝から雨が上がりましたが,足場が悪いのには変わりなく,20kgにもおよぶ甲冑を着込んで,5kgほどもある鉄砲を撃ち,撃ったらその鉄砲をかついで最後方に下がって弾を込め……なんて三段撃ちを続けざまに2~3回もやったらすぐにバテてしまいます。かりにこんなことができたとすれば,それは名無しさん足軽の寄せ集めなどではなく,サイボーグのような超人的な精鋭部隊だったでしょう。別の意味で“戦術革命”だったに違いありません。

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桶狭間(山)の合戦

永禄三年五月十九日(現行のグレゴリオ暦に換算すると1560年6月22日)正午過ぎ,織田信長は

敵は疲れとるぎゃ~! この一戦に勝てば末代までの功名だぎゃ~!! 一心に励めだぎゃ~!!!

ニコチャン大王弁を話したかどうかは知りませんが,桶狭間山に陣取る今川軍の本陣を目指し進軍を開始します。その数およそ2000ですが選りすぐりの精鋭部隊。一方,桶狭間山の今川義元の本隊は,その数不明(笑) 諸説あるようですが,全軍の数もホントのところ15000から20000くらいだったそうですから,本隊には5000くらいがいたものと思われます。しかし戦闘員がどのくらいいたかは不明です。

すると突然,一天にわかにかき曇り,突風とともに猛烈な雨が降り出しました。突風によって沓掛峠のふた抱えもあるくすのきが音をたてて倒れました。信長軍では

これぞ熱田明神のお力だぎゃ~!!

とささやき合ったそうです。

この突風はダウンバーストガストフロントだったのかもしれません。ダウンバーストについて,『気象科学事典』による説明を見ておきましょう。

ダウンバーストは,積雲や積乱雲から生じる,冷やされて重くなった強い下降気流のこと。地面に到達後激しく発散し,突風となって周囲に吹き出していく。突風の風速は,10m/s 程度のものから強いものでは 75m/s に達する。 吹き出しの水平的な広がりは,数 km 以下と小さく,寿命は10分程度と短いことが多い。

どっちにしろ,気象庁の機動調査班が現地調査を行なっても,物証が残ってないため今となっては確認できないでしょう。

突風が文字どおりの追い風になったかどうかはわかりませんが,熱田明神云々からもわかるように,精神的な追い風にはなったことでしょう。今川軍にも何らかの影響を与えたかもしれません。

信長は自軍の行動を今川軍に隠すつもりはなかったようですし,天候の急変を利用しようとする意図もなかったようですが,突然の強雨と突風によって今川軍に気づかれにくくなったことは確かです。

信長軍は雨が止むのをみはからって,今川軍本陣に攻めかかりました。今川軍は大混乱におちいり,混乱の中で偶然にも今川義元が討ち取られたことは広く知られているところです。

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江戸の桜田 雪が降る(1860年)

万延元年三月三日の上巳の節句,早い話がひな祭り,頃は五ツ半時(午前9時ごろ),あかりをつけましょ ぼんぼりに――ではなくて,総勢60余人からなる大老井伊掃部頭直弼の行列が桜田門外にさしかかったとき,お花をあげましょ 桃の花――でもなくて,18人の水戸浪士らが行列に襲いかかり,五人ばやしの 笛太鼓――いいかげんシツコいですが,早い話が大老を暗殺しました。世にいう桜田門外の変です。

赤穂浪士の討ち入りや二・二六事件の襲撃のときは実際には雪は降っていなかったのですが,このときは実際に雪が降っていました。ただ,ドラマや映画で描かれているような“大雪”ではなかったようです。と,見てきたようなことをいう>σ(^^;)

60余人ものお供の者がついていながら大老をむざむざ討ち取られてしまったのは,すべてが戦闘員というわけではなかったからということもあるでしょうが,もっとも大きな理由は,この日は朝から雪が降っていたため,雪水がしみるのを防ぐために刀に柄袋をつけていて,刀をなかなか抜くことができなかったからといわれています。さらには,テロ集団がまさか白昼堂々と襲ってくることはないだろうという,油断というより固定観念のようなものがあったのかもしれません。

万延元年三月三日は今の暦では1860年3月24日にあたります。晩雪ではありますが,現在の平年値でも東京の終雪は3月11日,3月の降雪日数は2.2日ですから,とくに珍しい現象というほどではありません。ちなみに3月の最深積雪は1969年に記録した30cmです。

なお,藤原ハカセによると,この日赤い雪が降ったといって江戸の人が騒いだそうです。(1925年1月31日付東京朝日)

井伊掃部頭が桜田門外で暗殺された時にも赤い雪が降つたと云つて江戸人が騒いださうだ

桜田門外の変のあと,文久二年正月十五日に老中安藤信正がやはり水戸浪士らに襲われる坂下門外の変が起こりました。このときは老中側のテロ対策が抜かりなかった……というよりも襲撃側の計画がかなりズサンだったらしく,老中は軽傷を負っただけで,襲撃側が全滅しました。この日は現在の暦では1862年2月1日にあたり,時期から見て雪が降っていたかも……と思ったのですが,どうやら雪が降っていたという記録はないようです。

これは今の桜田門。邪魔な“内堀ランナー”の通り道になっています。

筆者は桜田門と聞くと桜田門外の変よりもむしろこれが真っ先に思い浮かびます。

土曜ワイド劇場や今はなき火曜サスペンス劇場の見すぎなのでしょうねえ。

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【付記】写真を追加。それに伴い一部書き換えました。[2015/03/02]