なんかプロジェクトX風のタイトルになっていますが……(笑) あの番組もはじめのころはおもしろかったんですが,そんなにネタが続くわけないですよね。ヤラセも発覚したようですし……。
さて,敗戦後間もない今から58年前,首都・東京の水没という危機に瀕して,一級河川の堤防の爆破という非常措置がとられたことがありました。1947年9月18日,葛飾区東金町8丁目地先の江戸川右岸堤でのことです。
1947年9月8日にマリアナ東方の海上で発生した台風はこの年11番目の台風で,Kathleenと名づけられました。Kathleenの読みかたはカスリーン,キャスリーン,カスリン,キャサリン(関係ないけれど,故山村美紗の作品を思い出す),キャザリンなどなどありましたが,1949年に気象庁が「カスリーン」に統一しましたので,ここでもカスリーン台風と表わすことにします。
カスリーン台風は14日03時には鳥島の南西400kmの海上にまで進み,中心気圧960mb,最大風速45m/sの最盛期を迎えます。そして15日午後には日本列島に最接近,上陸はしませんでしたが,接近とともに秋雨前線(この用語,当時はまだ存在しません)を刺激し,関東から東北地方を中心に記録的な大雨を降らせました。
とくに14日から15日にかけて利根川・荒川の上流域に降った雨はすさまじく,例えば前橋の357.4mm,秩父の519.7mmは今でも日雨量のダントツの1位となっています。
この雨は各地で土砂災害を引き起こし,やがて利根川や荒川に流入,利根川では15日の夜になって水位が急激に上昇,栗橋付近では過去最高の9.17mに達しました。そして翌16日00時20分ごろ,右岸堤が大音響とともに決壊し,濁流が収穫をひかえた穀倉地帯を南に流れはじめました。一方,荒川の堤防も15日の20時ごろ熊谷付近で決壊し,粕壁町(当時)付近でふたつの川から流れ出た濁流が合流してゆっくりと南に流れ,18日には東京都との境にある桜堤(桜土手)に達し,堰きとめられる形で湛水をはじめます。
湛水をこのまま放置すれば水没地域は増える一方,しかも桜堤が決壊すれば東京の下町が水没し,被害がどのくらい増えるか想像もつきません。時の安井誠一郎・東京都知事は,西村実・埼玉県知事,川口為之助・千葉県知事,内務省と協議,派閥がらみもあって反対する千葉県知事を説得し,江戸川右岸堤を破壊して濁流を江戸川に流すことを決定,朝霞駐屯の進駐軍第二旅団工兵隊にダイナマイトによる爆破を依頼します。工兵隊はただちに現場に急行,ダイナマイト18本を埋設して爆破を敢行しますが,さすが一級河川の堤防だけあってびくともしません。より強力なダイナマイトを使用するには手続きが必要であり,堤防の爆破作業は一時中断されます。
そうこうするうちに,19日02時45分ごろ,桜堤の中を通っていた樋管が水圧にたえ切れず抜け落ち,ついに最後の砦の桜堤が崩れはじめました。桜堤を突き破った濁流は一気に葛飾区内に流れこみ,葛飾区,江戸川区が水に浸かりました。
しかし,夜を徹しての江戸川右岸堤の爆破作業は,最後は人力を投入して19日15時15分にようやく幅10mにわたって切り開くことができ,たまった水が江戸川に流れ出し,下町の全面水没の危機は避けられました。
ホッとする暇もなく,20日03時10分ごろ,今度は中川の右岸堤が葛飾区亀有2丁目付近で決壊し,綾瀬川と中川ではさまれた地域は完全に水没,足立区の一部も水没しました。家の軒先の高さまで水に浸かったところもありました。
東京の下町に流れこんだ濁流はさらに南下し,船堀付近から東京湾に注ぎはじめました。
荒川の堤防の開削などにより,水は徐々に退いていきましたが,排水作業はなかなか進まず,水に浸かった地域から水が完全に退いたのは11月になってからでした。
カスリーン台風による東京の被災者は37万人を超え,葛飾区民はほぼ全員が被災し,江戸川区民は67%,足立区民は11%が被災しました。しかし,表現の善し悪しはともかくとして,死者・不明者の数だけでいえば東京は13人に過ぎません。死者が多かったのは群馬県,栃木県,埼玉県です。また,岩手県も一関市を中心に大きな被害を受けています。岩手県は翌年のアイオン台風でも壊滅的な被害を受けることになります。
関係資料によると,このあたりで決壊したようです。とくに目印となるようなものはありません。
このあたりで爆破作業が行なわれたようです。記念碑のようなものはありません。
広大な公園です。はずれとはいえ,とても23区内にあるとは思えません。
一日中ボケーッとしていられるところです。
水元公園からから江戸川の堤防に出て3〜4kmほど下流に歩いていくと,あの寅さんの舞台,葛飾柴又に着きます。
ちなみに,柴又帝釈天は映画の感じに比べるとかなり狭いです。
葛飾柴又の対岸です。
さらに向こうには野菊の墓文学碑などもあります。一度行ってみたいのですが,交通が不便でね……(^^;)
とはいっても,σ(^^;)は野菊の墓にはとくに興味はありません。「野菊の墓」殺人事件に登場するので行ってみたいだけです。
周辺というにはちょっと?遠いですが,埼玉県幸手市で見つけたものです。
江東区木場にある洲崎神社の境内に波除碑《なみよけひ》があります。
寛政三年九月四日(グレゴリオ暦で1791年10月1日)の高潮で洲崎一帯に甚大な被害があったため,幕府がこのあたり一帯の土地を買い上げて空き地とし,家をつくることを禁じました。そして寛政六年に建てた2つの波除碑のうちのひとつがこの碑なのだそうです。
もうひとつの波除碑は,同じ江東区内の平久橋《へいきゅうばし》の西詰にあります。説明文によるとこちらは波除碑《なみよけのひ》となっているので,名前がほんの少し違います。
この寛政三年九月四日の高潮は『武江年表』に次のように記載されています。
大嵐,昨夜中より大雨,南風烈く,八月より強し。巳刻,高潮,深川洲崎へ漲りて,あはれむべし,入船町・久右衛門町壱丁目弐丁目と唱へし吉祥寺門前に建つらねたる町家,住居の人数と共に一時に海へ流れて,行方を知らず。弁才天社損じ,拝殿・別当所,其外流失。其かへしの浪,行徳・船橋塩浜一円につぶれ,民家流失す。其外諸方家屋吹損じ,川々水謐る。昼時にいたり潮引く。関東筋すべて洪水あふる。
この年は八月六日と八月二十日にも台風による被害があり,とくに八月六日には高潮が起こっています。『武江年表』に「八月六日,大風雨。小田原辺より江戸迄,海辺,高潮上る」とあります。九月四日の高潮はこれよりも規模が大きかったようです。
説明板によると,元禄時代にこの地に遷ったころは「海岸にして絶景」だったそうです。今では想像もできませんが。
上の『武江年表』からの引用文中にある“弁才天社”とはこの洲崎神社のことのようです。
洲崎神社の境内にあります。
NHKの朝ドラ天うららに出てきた赤い橋です。
近くに両国国技館があるからといって“よこづなちょうこうえん”ではありません(笑)
ここは火災旋風によって38000人がほぼ瞬時にして死亡した被服廠跡地です。慰霊碑や慰霊堂,記念館などもありますが,なんというか,形だけあるという感じで,空疎な感じがします。80年前の惨事など風化しているという印象です。
正確な名前は東京都慰霊堂のようです。震災,戦災あわせて162600体の遺骨が安置されているそうです。
野球するヤツがいるんだあ……。
1923年当時,荒川放水路(現荒川)の工事が続けられていて,多くの朝鮮人労働者も働いていました。関東地震直後のデマで,軍隊や警察ばかりでなく一般の日本人が数千人ともいわれる朝鮮人や数百人の中国人を虐殺したことは最近では比較的よく知られていますが,ここには数百人の虐殺された朝鮮人が埋められたといわれています。
橋自体は撤去されています。
それにしても,何にも残っていません。この国民はなんでも風化させるのが得意なようです。たとえ自らが被害者の場合であっても……。
あまりにも平和な風景……。
ちなみに,荒川河川敷というと,金八先生やプロボクサー大場政夫の少年時代の1対40の決闘を思い出す人もいるかもしれませんが,どちらもここからは上流側です。