桜の下つながりで

願わくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ

とは西行の有名な歌ですが,ここで取り上げるのはもちろん,西行はほぼこの歌のとおりに死んだというメジャーな話ではありません。

内田康夫センセの作品のプロローグで台風が描かれることがあります。たとえば,『平家伝説殺人事件』では「伊勢湾台風」(1959年)が,『箱庭』では「リンゴ台風」(1991年)が描かれています。『華の下にて』のプロローグにも台風が描かれており,しかも「台風17号」と書かれているのですが,しかし何年の17号なのかはわかりません。そこで推理してみました。

御母衣ダム建設の監視小屋でのできごとなので,時期は1959~1960年と思われますが,1959年の17号は石垣島の東海上あたりでふつうの熱帯低気圧に変わっていますし,1960年の17号は台湾に上陸しました。ちょっと時期はズレますが,1958年の17号は9月25日18時に和歌山県に上陸し,死者・不明45人などの被害を出しています。しかし,「死者の数は四百人を超えた」とあるので,これも違うようです。17号は実は15号の間違いで1959年の台風15号,すなわち「伊勢湾台風」だと考えるのがもっとも無難のような気がしますが……。

なお,御母衣ダムといえば建設によって水没する村から移植された荘川桜が有名で,この作品のバックグラウンドのひとつになっています。

壇ノ浦の合戦

元暦二(寿永四)年二月十八日(ユリウス暦で1185年3月21日),屋島の奇襲に成功した源義経は兄・範頼と合流,平家を西に追撃します。この間,平家についていた熊野水軍,河野水軍が義経軍に加わり,水軍の勢力は一気に逆転しました。ちなみに,熊野水軍を率いる熊野湛増は武蔵坊弁慶の父親だという伝説もあります。

しかし,平家側にはまだ九州を地盤とする強力な水軍がついており,彦島を拠点に起死回生を図ります。

三月二十四日卯の刻(ユリウス暦で1185年4月25日午前6時ごろ),田野浦に待ち受ける平家軍と義経軍との間で合戦の合図である矢合わせがはじまりました。この前後,義経軍では,源義経と梶原景時との間で先陣をめぐってあわや同士討ちという場面もありましたが(軍紀がしっかりしている平家に対し,軍紀があってなきがごとしの源氏),昼ごろまでには平家軍主力と義経軍主力が約3kmを挟んで対峙,決戦がはじまりました。

通説では,はじめは平家軍が潮の流れに乗って義経軍を攻めたてたが,午後1時半ごろ潮流が変わると形勢逆転,源氏が潮の流れを利用して一気に平家を滅ぼしたとされています。

しかし,柳哲雄『潮の満干と暮らしの歴史』によると,このときの潮流はもっとも速い壇ノ浦沖でも1ノットに満たず,主戦場になった満珠,千珠島付近では0.2ノットに満たなかったそうです。ここで,1ノット=約 0.5m/s=約 2km/h です。

ついでですが,「1時間に10ノットの速さで……」というような文をたまに見かけることがあります。ノットknot自体が速さの単位なので,“1時間に10ノット”の速さというのはまったくもって意味不明です。

話を戻すと,0.2~1ノット弱程度の潮の流れでは,その影響が多少はあったにしても,決定的な要因とは考えられません。『平家物語』にもあるように,平家から源氏への武将の寝返りと,義経軍のとった非戦闘員である水夫を狙い撃ちにするという“卑怯な”戦術によるところが大きかったと考えたほうが無難なようです。義経が強かったとすれば,このように当時の合戦の作法にはなかった卑怯な戦法をとったところが大きかったと思われます。

ところで,『平家物語』の壇ノ浦の合戦に関する部分には,天気に関する記述はほとんどありません。たまに見つけても,

しばしは白雲かとおぼしくて,虚空にただよひけるが,雲にてはなかりけり,主もなき白旗一流まいさがって,源氏の船のへに棹さをづけのおのさはる程にぞ見えたりける。

というような超自然現象だったりします。この現象は義経によって「是は八幡大菩薩の現じ給へるにこそ」と源氏勝利の瑞兆とされました。

ちゃんとした天気の記述が見当たらないということは(見落としがあるかもしれません),この日は,見通しがよく,雨も降らず,風もない絶好の決戦日和?!だったということなのでしょう。

おもな参考文献: 柳 哲雄. 潮の満干と暮らしの歴史 (風ブックス (006)). 創風社出版, 1999.

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