雨のF1日本GP (1988年)

F1が日本の一般ピープルに注目されはじめ,モータースポーツがNHKでまともに取り上げられるようになったのは,中嶋悟がロータス・ホンダのNo.2ドライバーとなり,フジテレビで全戦中継するようになった1987年からでしょう。

もう28年も前なんですねえ(^^;)

そのF1人気をさらに盛り上げたのがアイルトン・セナでした。

アイルトン・セナは1987年はロータスのアクティブサスペンションが不調だったこともあってそれほどでもなかったのですが,1988年にホンダエンジンとともにマクラーレンに移ってから本領を発揮しました。

この年はマクラーレン・ホンダ旋風が吹き荒れ,イタリアGPを除いて同じマクラーレンのセナとアラン・プロストのうちどちらかが勝つという圧倒的な強さでした。

こうして迎えた1988年10月30日日本GP決勝。ポールシッターのセナがスタート直後にエンジンをストールさせるという波乱の幕開け。

プロストがスタートできないセナを横目で見ながら追い越していきます。しかし下り坂に助けられ,エンジン再始動,1コーナーを14位で回り,オープニングラップを8位で通過します。その後も驚異的な追い上げを見せ, 2周目で6位,5周目で3位まで順位を上げ,20周目には2位を走行していたレイトンハウス・マーチのカペリのリタイアがあって2位まで上がり,トップを走るプロストの背後にひたひたと迫ります。

そして27周目の最終コーナーの立ち上がりでプロストが周回遅れにひっかかってじゅうぶんに加速できないのに乗じて,セナはプロストのスリップストリームにはいり,第1コーナーでプロストのインに飛び込み,ついに先頭に躍り出ました。このときのフジテレビの空撮映像は大川アナ(当時)の実況ともあいまって絶品でした。

レース序盤から時折降っていたしぐれ模様の雨が後半にやや強くなりました。ただ,降水量としては大したことはなかったようで,最後まで全車スリックタイヤのままでしたし,レース短縮もありませんでした。

セナは滑りやすくなった路面も無難にこなしてそのままチェッカーを受け,ついにワールドチャンピオンの座に就いたのでした。

メーン・スタンド後方にかかった虹が,新チャンピオンを祝福しているように見えた。(スポニチ 1988/10/31付)

この日は日本の東海上を進んだ低気圧が千島列島付近で964mbと猛発達,東~北日本を中心に強い冬型の気圧配置になりました。

長野や松本では平年より20日も早く初雪が降って最早記録を更新したほか,各地で初雪を観測,野沢温泉では20cmの積雪があり,初滑りが楽しめました。また,43日も早く榛名山の初冠雪が観測されています。

この日,私は埼玉県の本庄市に出かけていまして,山々が雪化粧していたのをよくおぼえています。日本GPの結果が早く知りたくて,脱兎のごとく家に帰ってNIFTY-serve(当時)の時事通信ニュースを見ました。パソコン通信は当時のニューメディア(死語か)でした。 今ならあわてて帰らなくてもケータイで結果を知るどころか,ワンセグでレースを見ることだって可能です。

セナはこの年を含めて3回ワールドチャンピオンになりますが,1994年5月1日,サンマリノGPでのレース中の事故で天に召されました。若いF1ファンにとっては伝説の人なのでしょうね。

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NHKがモータースポーツをはじめて生中継 (1989年)

30年くらい前まではNHKはモータースポーツをスポーツと認めていなかったそうで,イロモノ的に扱ったり,1977年富士スピードウェイで開かれた日本GPでの観客死亡事故を伝えたりすることはあっても,ニュースでスポーツとして取り上げることはなかったようです。当然生中継などすることはありえませんでした。テレビの草創期にはプロレスを生中継したこともあるというのに……。

ところが,時代の流れか,中島悟がロータスに加入したころが風向きが変わり,1987年シーズンの開幕前に子ども向け情報番組(「600こちら情報部」だと思ったら違ったようだ)でF1特集が企画され,中島悟が電話出演したりしました。

そして1989年4月8日,NHKが鈴鹿サーキットから世界スポーツプロトタイプ選手権(WSPC)第1戦の予選を中継することになりました。しかし――。

当初は13時からの公式予選2回目を生中継する予定だったようですが,日本の南海上を通過中の低気圧に伴う大雨のため,予選2回目は翌日,決勝の朝に延期になり,マシンの走行の生中継も事実上,翌日に延期になりました。

というわけで,初の生中継が行なわれたのは4月9日です。決勝レースではザウバー・メルセデスがワンツーを決め,この後しばらくメタリックシルバーのC9がWSPCを席巻することになります。WSPCのシリーズからは外れましたが,この年のルマン24時間レースもワンツーフィニッシュでした。まだユノディエールがシケインで分断されず,テルトルルージュからミュルサンヌまで6kmの直線だった時代です。

ついでですが,この年からしばらくの間,NHKはBS1で鈴鹿8耐を生中継していました。そういえば,この年の中継には本田美奈子さんがスポットゲスト出演したんですよねえ……。

というわけで,写真は本文とはあまり関係なく,朝霞駅前にある本田美奈子の記念碑:

このあたりにあります↓

どうでもいいですが,朝霞台駅でも北朝霞駅でもなく,朝霞駅ですので(笑)

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雨のF1日本GP

雨の中,鈴鹿での最後のF1日本GPのフリー走行がはじまりました。

雨のF1日本GPと聞いて1976年を思い出す人は,そうとう年期のはいった人だと思います(早い話が年寄り)。珍しもの好きのσ(^^;)はテレビでは見ていたはずですが,当時自動車レースにそれほど興味があったわけではないので,ほとんど記憶にありません。歴史で学んだクチです。

この年はJ.ハント(マクラーレン)と“不死身”のN.ラウダ(フェラーリ)がチャンピオンの座を争っており,ラウダが3点リードして最終戦の日本GP(富士スピードウェイ)を迎えました。

10月24日の決勝レースは雨ともやのため1時間40分遅れのスタート。2周目にラウダが早くもリタイア。「こんな危険な状態の中では走れない」と自らレースを辞めたもので,“勇気あるリタイア”ともいわれていますが,ホントのところはハントの自滅待ちか,この年雨のニュルブルクリンクで瀕死の重傷を負っていたので雨が恐くて逃げ出した……といったところでしょう。まあ,真実を知るのは本人のみ。

レースはM.アンドレッティ(ロータス)が優勝,ハントは3位にはいって4点を獲得し,逆転でチャンピオンになりました。

この日の天気図は次のとおりです。

翌1977年も富士スピードウェイでF1日本GPが開催されましたが,G.ビルヌーブが観客席に突っ込んで2人死亡するという事故が起こったこともあり,日本での次のF1開催まで10年待つことになります。そしてこの事故からちょうど30年の2007年,富士にF1が戻ってくることになっています。

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