春三番の大嵐

1972年の3月31日から4月1日にかけて,日本近海で春三番の大嵐が吹き荒れました。海は大シケになり,3000トン級の船舶を含む海難50件が発生し,合わせて死者・不明100人以上という戦後3番目の海難となりました。

春三番の語は1972年4月1日付朝日新聞朝刊の見出しに登場しました。

死者10,不明65人に
春三番の海難事故48件

そればかりか,気象庁の公式記録である「気象要覧」でも次のように使われています。

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春三番があるなら春二番,春一番も当然あったわけで,春二番は3月24日が該当します。また,この年の春一番は3月20日に観測され(東京),観測史上もっとも遅かったのですが,この春一番をもたらした低気圧によって富士山では死亡・不明24人という史上最大(当時。その後これを超える事故があったかどうかは興味がないので知りません)の遭難事故,また九州西方の男女群島付近で漁船が座礁し,死亡・不明13人を出しました。

ちなみに,俗に“花おこしの春二番,花散らしの春三番”などといわれることもありますが,調べてみるとほとんど一致しません(笑)

児島高徳

戦前は――といってももちろんイラク戦争や湾岸戦争前ではなくて第二次世界大戦前ですが,超有名だったらしい人物です。「♪船坂山や 杉坂と/御あと慕いて 院の庄……」ではじまる唱歌「児島高徳」もあります。ただし,『太平記』にしか登場せず,実在した人物かどうかは不明です。

時は元弘二年三月なかば,児島高徳とその一党は隠岐に流される後醍醐先帝を奪還する機会を虎視眈々と窺いますが,情報が間違っていたり,警備が固かったりしたため奪還をあきらめ,せめて奪還の意志だけでも先帝に伝えようと思い,宿泊している建物の庭にある大きな桜の木の幹に10字の詩を刻みました。

天莫空勾践  天,勾践を空しうする莫れ
時非無范蠡  時(に)范蠡無きにしも非ず

元弘二年三月なかばは今の暦では1332年4月上旬~中旬にあたります。『太平記』にとくに記述がないところをみると,桜の花はまだ咲いてはいなかったのでしょう。また,江戸時代の詠史川柳に

三郎は毛虫を筆で払ひ退け

というようなのがありますが,まだ毛虫はついていなかったと思われます。

ついでに,『太平記』には「御警固の武士共、朝に是を見付て……」とあるので,高徳は夜のうちに10字の詩を幹に刻んだものと思われます(まあ,いくらなんでも真っ昼間にはやらんでしょう)。真っ暗な中でよく刻めたものです。とくに“蠡”なんてかなり難しかったに違いありません。

八百屋お七火あぶりの刑

天和三年三月二十九日(グレゴリオ暦で1683年4月25日),八百屋お七が火あぶりの刑に処せられました。

写真は八百屋お七のお墓です。

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八百屋お七の放火については次のとおりです。(Active Weather Express vol.13より)

天和二年十二月二十八日(グレゴリオ暦では1683年1月25日,以下同様)に駒込大円寺から出た火は,折りからの北西の季節風に煽られて本郷,神田,伝馬町,日本橋に燃え広がり,3500人以上の死者を出しました。これが江戸十大火のひとつ「お七火事」です。

お七(八百屋お七)は実在の人物で,放火の咎で天和三年三月二十九日(1683年4月25日)に火炙りの刑に処せられたのも事実のようですが,お七が放火した火事については天和二年一月説,「お七火事」説,天和三年三月説などがあり,特定できる確固たる根拠はありません。ただ,皮肉なことに「お七火事」がお七が放火した火事ではないことは確かなようです。私的にはお七の放火は天和三年三月だろうと思います。

この火事は,天和三年三月二日(1683年3月29日)の夜,本郷の森川宿の八百屋の娘お七が近くの商家に放火したところを通行人に発見され,すぐに消し止められたというもので,今流にいえばボヤです。しかし,当時はボヤでも放火は放火,市中引き廻しの上火炙りと相場は決まっていました。

放火の動機は,天和二年十二月二十八日の火事(要するに「お七火事」)でお七の家も被災して正仙院というお寺に仮住まいした際,そこの“イケメン”と恋仲になったのですが,新居が完成して会えなくなり,再び火事になれば会えるという妄想が放火に駆り立てたとされています。なお,この動機についても諸説ありますが,お七の年齢,被災した火災,仮住まいしたお寺の名前,“イケメン”の名前などに違いはあるものの,大筋では似たりよったりです。
お七のお墓は,文京区白山の円乗寺に現在も存在します。お参りすると,恋の成就に霊験があるとか,ないとか。

ちなみに,内田康夫『追分殺人事件』では,1987年3月7日にこのお墓の前で男が殺されます。作品ではこの日雪が降っていたことになっていて,実際に東京では午後から雪になりました。降雪の深さ合計は7日が3cm,翌8日が2cmとなっています。

権現堂桜堤巡礼母娘殺人事件

埼玉県幸手市にかつての利根川治水の要衝のひとつ権現堂堤があり,その役割を終えた今では,桜の名所となって権現堂桜堤とよばれています。“桜のトンネル”ということばにウソ偽りはなく,また桜と菜の花のコントラストもすばらしいです。

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この桜のトンネルの中ほどに巡礼供養塔があります。

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享和二年(1802)六月,今流にいえば梅雨末期の大雨によって権現堂堤が二〇〇間(約 360m)にわたって決壊しました。ちょうどこのとき,名主の水塚で巡礼の母娘が雨宿りをしていましたが,村人たちはこの母娘を人身御供にして龍神さまの怒りを静めてもらおうと,名主の制止を振り切って堤防まで引きずり出し,激流に突き落としてしまいました。村人たちは「母と娘がみずから進んで身を投じた」ということで口裏を合わせました。

名主はその後,この堤防で死体となって発見されました。狂死したとのウワサもありましたが,真相は不明です。

名主は死ぬ前にこの母娘を哀れんで堤防沿いに桜の苗木を植えました。これが今の桜堤の原形になっているという話もあります。

現在の権現堂桜堤の桜のようすは,埼玉県立幸手高校のホームページに毎日紹介されています。

(※写真はいずれも2005年の撮影です)