大仏の頭が落ちる

斉衡二年五月二十三日(ユリウス暦で855年7月10日),東大寺から都に,大仏の頭が落ちた,との報告がありました。

この前,五月十日,十一日に地震の記録があることもあり(六月二十一日,二十五日にも地震の記録がある。ついでに六月一日には日食の記録がある),地震によって落ちたとされることがありますが,『文徳実録』には「毘盧舍那大佛頭自落在地」とあるだけで,地震で落ちたとは書いてありません。

誰かが故意にやったのだとしても,もうとっくの昔に時効が成立しています(笑)

関係ないですが,1960年5月22日のチリ沖地震(M9.5)によって発生した大津波は太平洋を渡っている最中で,まだ日本には到達していません。すでに到達したハワイでは最大波高10.5mを記録し,大きな被害が出ています。

稲村ヶ崎の奇跡

鎌倉」と題する唱歌があります(芳賀矢一作詞)。鎌倉の観光ガイドのような長い歌で,次の歌詞ではじまっています。

七里ヶ浜の いそ伝い
稲村ヶ崎 名将の
剣投ぜし 古戦場

ここに歌われている名将とは,もちろん新田義貞です。元弘三(1333)年五月,稲村ヶ崎まで怒濤の勢いで攻めのぼってきた新田義貞も,天然の要害,鎌倉への侵入路を捜しあぐねていました。五月二十一日の夜半過ぎ,意を決して稲村ヶ崎の浜で数万の自軍を背にしてひとり馬から降り,兜を脱いで沖合いを伏し拝み,龍神に祈りを捧げます。

……仰願ハ内海外海ノ竜神八部,臣ガ忠義ヲ鑒テ,潮ヲ万里ノ外ニ退ケ,道ヲ三軍ノ陣ニ令開給ヘ

祈りおわって,黄金づくりの太刀(いつどこで準備したんでしょう?)を海中に投じると,なんと不思議なことに,今まで潮の干いたことがない稲村ヶ崎の海が二十余町にわたって干いたではありませんか。こうして生じた干潟から義貞軍は一気に鎌倉に攻め入り,鎌倉幕府の要人はもはやこれまでとほとんどが自害。ここに鎌倉幕府は滅びるのです。

以上は『太平記』に載っている話ですが,どこまでが事実なのでしょうか? 果たして潮が干いたのはほんとうなんでしょうか?

これについては諸説あり,いちばんもっともらしい(とσ(^^;)が以前思っていた)のは,義貞は潮の満ち干を知っていて,士気を鼓舞するためにひとり芝居を演じたという説です。

ところが,この説には致命的な欠点があります。この日は旧暦の五月二十二日ですから,稲村ヶ崎あたりの干潮は午前2時から3時ごろです。したがって潮が干いたのは事実でしょうが,これはいつでも起こっていることで,“今まで潮の干いたことがない”稲村ヶ崎が干上がったことを説明できません。それに上州育ちの義貞が潮の満ち干についてそれほど詳しかったとも思えません。

さらに,潮が干いたあとは歩きにくく,海というものに慣れていない上州の軍勢がスムーズに通れたかどうか疑問です。江戸時代の詠史川柳に

義貞の勢はアサリを踏みつぶし

というのがあります。

ということで,ドラえも~ん,なんとかしてよ~とタイムマシンでも借りない限りほんとうのところはわかりませんが,σ(^^;)的にはこの話は作り話で,義貞軍の本軍は稲村ヶ崎を通ったのではなく,別のところを通って鎌倉に攻め込んだのだと思います。

ただ,義貞軍本隊が化粧坂路を進んでいたころ,大館宗氏率いる右翼軍の一隊が由比ヶ浜を突破しており(ただし,大館宗氏はその後の戦いで討死),このときにひょっとして潮が干いたのを利用したのが,話を面白くするためか軍記物にありがちな針小棒大癖のためか誤ってか義貞軍本隊の話として伝えられたのでは……と思えないことはありません(根拠はないです)。

ところで,鎌倉といえば,大仏です。唱歌「鎌倉」にもあります。

♪極楽寺坂 越え行けば
長谷観音の 堂近く
露座の大仏 おわします

ここに歌われているように,奈良の大仏さんと違って鎌倉の大仏さんは露座,早い話が雨ざらしです。

もちろん,つくられた当時は大仏殿のようなものがそれなりにあったようです。ところが,3回の大風(そのうちの1回は『吾妻鏡』に載っている台風と思われますが,他は確認していません)によって倒壊,追い撃ちをかけるように1498年の津波によって流され,それ以来露座となったのでした。

ちなみに,ここでいう津波は正真正銘の(?)津波です。以前は“津波”と“高潮”は区別されていませんでした。例えば,東京・江東区の洲崎神社に「津波警告の碑」(波除碑)がありますが,この津波は高潮のことです。はっきりと区別されるようになったのは1934年の「室戸台風」のころからです。

さて,その1498年の津波ですが,『理科年表』によると,マグニチュード8.2~8.4程度の今でいう「東海地震」に伴って生じたもので(明応東海地震とよばれています),「紀伊から房総の海岸を襲い,伊勢大湊で家屋流失1千戸,溺死5千,伊勢・志摩で溺死1万,静岡県志太郡で流死2万6千など」という凄まじい被害を引き起こしています。

大仏殿の流失はその津波による被害のひとつです。それにしても,大仏殿が流されたのに大仏さんはよく踏みとどまったものです。

ちなみに,この明応東海地震による津波で,日蓮の生家跡に建てられた誕生寺が流されて海に沈みました。しばらくして別の場所に再建されましたが,1703年の「元禄地震」(ひとつ前の関東地震といわれます)による津波で,またもや流されました。というわけで,現在,天津小湊町(鴨川市に合併したみたいです。σ(^^;)が去年の1月に行ったときはまだ天津小湊町だった)にある誕生寺は3代目という話です。「日蓮の生まれ給いしこの御堂」は海の中です(内田康夫『日蓮伝説殺人事件』参照)。

長篠の合戦

桶狭間の合戦から15年後,天正三年五月二十一日(グレゴリオ暦で1575年7月9日),徳川家康と連合して設楽原で武田勝頼を破った戦いです。

名だたる武者から組織された武田の騎馬軍団を織田の名無しさん足軽鉄砲隊が三段撃ちという新戦法で壊滅させた“戦術革命”ともいえる画期的な戦い……と最近までいわれてきた戦いです。実際には,武田の「騎馬軍団」も織田鉄砲隊の「三段撃ち」もなかったし,まして“戦術革命”をもたらしたといえるような戦いではありませんでした。

ちょっと馬の歴史を調べればわかるように,当時の日本の馬はかなり小さく,平均すると120~140cm程度の体高で,現在では“ポニー”とよばれる大きさでした。有名なところでは,宇治川の先陣争いで名を馳せた佐々木四郎高綱の生喰《いけずき》は145cm,源義経が乗ったと伝えられる青海波《せいがいは》は142cmでかなり大柄な部類ですが,それでも160~165cm程度である現在のサラブレッドとは比べるのもかわいそうなくらいです。しかも体重は220~260kg程度で,今のサラブレッドのせいぜい半分です。さらに,当時まだ蹄鉄は使われていませんでした。

このような“ポニー”が蹄鉄なしで重武装の武者を乗せたりしたら,そもそも戦場を駆け回れるかどうかわかりませんし,かりに戦場を駆け回れたとしても,すぐにバテてしまってとても“いくさ”にならなかったのは,火を見るより明らかです。しかも当時は去勢の習慣がなかったため(なぜか日本だけらしい),気性の激しい馬が多く,整然と隊伍を組んで命令一下突撃などできたのか,はなはだ疑問です。

戦国時代になると,馬に乗って戦場にやってきても,馬から降りて戦うことが多くなっていました。武田軍の中に馬に乗って織田陣に切り込もうした武者はいたかもしれませんが,とても「騎馬軍団」などといえる集団ではなかったはずです。

話が馬のほうにヨレてしまいましたが(ブリンカーをしたほうがいいかな(笑)),合戦の前日は一日中雨が降っていました。戦いの舞台となった設楽原は水田地帯で,この雨のため泥沼と化して足場がたいへん悪くなっていました。合戦の当日は朝から雨が上がりましたが,足場が悪いのには変わりなく,20kgにもおよぶ甲冑を着込んで,5kgほどもある鉄砲を撃ち,撃ったらその鉄砲をかついで最後方に下がって弾を込め……なんて三段撃ちを続けざまに2~3回もやったらすぐにバテてしまいます。かりにこんなことができたとすれば,それは名無しさん足軽の寄せ集めなどではなく,サイボーグのような超人的な精鋭部隊だったでしょう。別の意味で“戦術革命”だったに違いありません。

桶狭間の合戦

永禄三年五月十九日(現行のグレゴリオ暦に換算すると1560年6月22日)正午過ぎ,織田信長は「敵は疲れとるぎゃ~! この一戦に勝てば末代までの功名だぎゃ~!! 一心に励めだぎゃ~!!!」とニコチャン大王弁を話したかどうかは知りませんが,桶狭間山に陣取る今川軍の本陣を目指し進軍を開始します。その数およそ 2000ですが選りすぐりの精鋭部隊。一方,桶狭間山の今川義元の本隊は,その数不明(笑) 諸説あるようですが,全軍の数もホントのところ15000から20000くらいだったそうですから,本隊には5000くらいがいたものと思われます。しかし戦闘員がどのくらいいたかは不明です。

すると突然,一天にわかにかき曇り,突風とともに猛烈な雨が降り出しました。突風によって沓掛峠のふた抱えもあるくすのきが音をたてて倒れました。信長軍では,これぞ熱田明神のお力だぎゃ~!! とささやき合ったそうです。

この突風はダウンバーストかもしれません。ダウンバーストについて,『気象科学事典』による説明を見ておきましょう。

ダウンバーストは,積雲や積乱雲から生じる,冷やされて重くなった強い下降気流のこと。地面に到達後激しく発散し,突風となって周囲に吹き出していく。突風の風速は,10m/s 程度のものから強いものでは 75m/s に達する。 吹き出しの水平的な広がりは,数 km 以下と小さく,寿命は10分程度と短いことが多い。

突風が文字どおりの追い風になったかどうかはわかりませんが,熱田明神云々からもわかるように,精神的な追い風にはなったことでしょう。今川軍にも何らかの影響を与えたかもしれません。

信長は自軍の行動を今川軍に隠すつもりはなかったようですし,天候の急変を利用しようとする意図もなかったようですが,突然の強雨と突風によって今川軍に気づかれにくくなったことは確かです。

信長軍は雨が止むのをみはからって,今川軍本陣に攻めかかりました。今川軍は大混乱におちいり,混乱の中で偶然にも今川義元が討ち取られたことは広く知られているところです。

5月の“五月雨”

●五月晴れとなりは何をする人ぞ

話の順序として“五月晴れ”から。

“さつきばれ”を『スーパー大辞林』で引くと次のように載っています。

(1) 新暦五月頃のよく晴れた天気。
(2) 陰暦五月の,梅雨の晴れ間。梅雨晴れ。[季]夏。《男より女いそがし―/也有》

もともとは(2)の意味で,いつのころからか(1)の意味に変わったといわれています。

それがいつごろのことなのかはハッキリとはわかりませんが,倉嶋厚さんの『季節ほのぼの事典』によると,1961年発行の『広辞苑』に「[1] さみだれの晴れ間 [2] 転じて五月の空の晴れわたること」とあるそうなので,1960年代のはじめにはすでに一般化していたものと思われます。

σ(^^;)自身は『スーパー大辞林』の(2)の意味で使われた例を見たことがありません(上に挙げられている例句を除く(笑))。お天気番組などの「今日は五月晴れの一日でした」というような表現に文句をいっている人も,(2)の意味で使われた例を実際に見たことがあっていっているのか,はなはだ疑問です。そもそも,(2)の意味の“五月晴れ”っていったいどのくらい一般的に使われたことばなんでしょう? かりにホントによく使われたことばなら,そう簡単に意味が変わるとも思えませんが,そのあたりはどうなんでしょうねえ。

ちなみに,今の時期に「さわやかな“五月晴れ”」というのは(今年の5月はそんな日は少ないですが),俳句的にいえば二重の間違いになっているようです。

まず,“五月晴れ”は,俳句では今もって(2)の意味でしか使われない(らしい)から×。次に“さわやか”は本来,どういうわけか秋の季語なので×。まあ,σ(^^;)は俳句には興味がないのでどうでもいいですが。

●五月雨をあつめて早し××川

意味を変えて生き残っている(再生した!?)“五月晴れ”に対し,ほとんど死語になっているのが“五月雨《さみだれ》”です。

旧暦は平均的に見れば今の暦よりも30日あまり遅いですから,旧暦の五月は今の暦の6月くらいに相当し,ちょうど梅雨の時期です。だから,五月雨《さみだれ》は梅雨どきの雨,あるいは梅雨そのものです。ただ,今は“さみだれ式××”という表現を除いて,めったに使われなくなりました。

ついでですが,五月雨といえば,蕪村の

さみだれや大河を前に家二軒

には,俳句の好きでないσ(^^;)も圧倒される迫力を感じます。同じ蕪村の句でも

さみだれや名もなき川のおそろしき

だから何なの? と反応したくなります。

なお,五月雨で増水した川を“五月川《さつきがわ》”とよぶそうです。

●5月の“五月雨”

沖縄や奄美地方では5月の梅雨は当たり前です。しかしそれより北では,もっとも早い九州南部でも梅雨入りの平年日は5月29日ですから,梅雨といえばふつうは6~7月です。5月に梅雨のような状態になったときは通常“梅雨のはしり”あるいは“はしり梅雨”とよばれます。

ところが,5月がほとんどまるまる梅雨にはいってしまった年があります。

1963年の5月は,4日に移動性高気圧が三陸沖に去って東シナ海に前線を伴った低気圧が現われてから,早くも“はしり梅雨もよう”になりました。10日には気象庁が「例年より約十日早く〝はしり梅雨〟にはいった。とくに,下旬から六月はじめにかけては全国的に曇雨天が多く,しかも,低温が予報される」という向こう1か月の予報を発表しています。

その後も前線が日本付近に貼りつき,気象庁は28日,“梅雨入り”を発表しました。ただ,当時の発表は今とは違っていたようで,新聞には取り上げられていません。今だったら必要以上に大騒ぎするでしょうね。まあ,号外が出るほどのバカ騒ぎにはならないでしょうけれど。

梅雨入りの時期はのちに修正され,東海が4日,関東甲信が6日,中国が8日,九州と北陸は28~30日,四国と近畿は特定できない――となりました。

こうなると,どこまでがはしり梅雨でどこからがホンモノの梅雨なのか区別できません。もともと自然現象に明確な境界などあろうはずはなく,はしり梅雨とホンモノの梅雨の区別もあくまで便宜的,人為的なものです。

ちなみに,この年の梅雨の時期の新聞には,“気違い梅雨前線”という,今ではまずお目にかかれない表現が出てきます。

濃霧の紫雲丸衝突事故

51年前の今日,国鉄宇高連絡船「第八紫雲丸」が貨物船「第三宇高丸」と衝突,168人が犠牲となる事故が起こりました。

瀬戸内海は平均的に見ればそれほど霧の発生しやすいところではありませんが,5月から梅雨の時期にかけては温かく湿った空気と冷たい空気とが混ざり合ってできる混合霧が発生しやすくなります。

1955年5月11日,濃霧の中,紫雲丸が乗客781人と乗組員63人を乗せて高松港鉄道第一岸壁を出港したのは6時40分でした。そして16分後の6時56分に第三宇高丸と衝突,わずか5分後に横転・沈没しました。

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事故の原因は紫雲丸の船長がやってはいけない左転をやったためとされていますが,σ(^^;)は疎いので,これ以上は触れません。このあたりのことについては萩原幹生『紫雲丸はなぜ沈んだか』(成山堂書店)が詳しいです。

犠牲者168人のうちの100人は修学旅行の生徒でした(そのうち81人が女生徒)。ほとんどは衝突後に自分の荷物を取りに船室に戻って犠牲になったようです。

当時はまだ物質的に貧しかった時代,子どもを修学旅行に行かせることは多くの家庭にとって大きな経済的負担でした。子どもたちはそのことをよく理解しており,この日のために揃えてもらったバッグや水筒,家族のために自分で買ったおみやげがきっとかけがえのないものに思えたのでしょう。修学旅行生の中でも女の子の犠牲が多かったのは,体力的な問題,水泳教育の問題のほかにも,こんなところにも原因があったものと思います。

衝突から沈没までわずか5分間だったにもかかわらず多くの人が救出されたのは,第三宇高丸の乗組員の救助活動によるところが大きかったようです。

ところで,当時の天気図を見ると,国際情勢から,中国の気象データがすべて空白になっています。西のほうの正確な気象情況がわからないというのはいってみれば見えないところから石が飛んでくるようなもので,このような条件下で天気図を解析して予報を組み立てなければならなかった当時の予報官の苦労が偲ばれます。

メイストーム・デー

まだ先ですが,5月13日はメイストーム・デーです。とはいっても,この日にメイストームに関係のある何かが起こったというわけではありません。

聞くところによると,この日は2月14日のバレンタインデーから88日目にあたり,“八十八夜の別れ霜”のごとく,そろそろ別れ話が出てくるころ,裏を返せば別れ話を切り出すには手ごろな時期――というような意味合いのようです。誰が考え出したのか知りませんが,よくできていると思います。

メイストーム・デーの嵐を乗り切ると,6月12日は「恋人の日」,そのあとには7月7日の「ラブスターズデー」(サマーラバーズデー,サマーバレンタインデーともいう)も控えています。ちなみに,メイストーム・デーの翌日の5月14日はグリーン・デーだそうですが,ほとんど広まってはいないようです。ついでに,4月14日のオレンジ・デーもほとんど知られていませんね。

というわけでメイストームです。May Storm なのでしょうが[ついでにドイツ語では Maisturm],もちろん和製英語[和製独語?!]です。モノによって多少意味するところが違うのですが,比較的新しい『気象科学事典』には「4月後半から5月にかけて,日本海や北日本方面で発達する低気圧,またはそれに伴う暴風雨」とあります。

きっかけとなったのは,1954年5月8日09時に黄海に発生した1008mbの低気圧です。この低気圧は9日09時に朝鮮半島の東に進み 988mb。その後,北海道を横断し,10日09時にエトロフ島の北に進んだときは 950mb まで発達しました。北海道を通過した低気圧としては,1934年3月の「函館風」と並んで観測史上もっとも強いもののひとつでした。

この低気圧によって海難事故が相次ぎ,数字は資料によって異なりますが,『理科年表』によると,死者31,不明330,住家全半壊12359,船舶の沈没・流失・破損348などの大惨事となりました。

当時は日本で数値予報の研究がスタートしたばかりのころでした。その研究グループがモデルとして研究したのがこの1954年5月の低気圧で,これに「メイストーム」と名づけたのがメイストームの起源とされています。

メイストームが新聞に初登場したのは,σ(^^;)が調べた限りでは1961年5月29日付朝日新聞夕刊の天気図の解説欄です。これはいわゆる “台風くずれ”(死語)の低気圧が再発達しながら日本海を進んだもので,このとき強風とフェーン現象による乾燥によって「三陸大火」が発生し,1万人以上が被災しました。

ちなみに,この“台風くずれ”(死語)の低気圧が東シナ海にあってまだ台風4号だった5月28日には東京競馬場で第28回日本ダービーが行なわれました。好天に恵まれ,甲州街道は午前中から車の列でマヒ状態。入場者は8万4千人の新記録となりました。

勝ったのはハクシヨウ,2着はハナ差でメジロオー。ダービー史上もっとも僅差の決着といわれています。

一般の記事としては,1970年5月26日付朝日新聞夕刊に「“特急低気圧”が通過 東日本にメイストーム」とあるのが最初だと思います。ただし,朝日以外は調べていません。

1979年5月10日付朝日新聞朝刊には次のような変則?!メイストームも登場します。

記録のメイストーム 王,快気祝いアーチ 一気に3打席連続

なお,メイストームは賞味期限つきの現象なので,毎年発生するとは限りません。どこまでの低気圧をメイストームとするかにもよりますが,発生しない年のほうが多いです。