東京湾の高潮

1917年9月25日にフィリピンの東方海上に発生した颱風が,30日の夜半ごろ駿河湾に到来し,沼津付近より上陸しました。

東京では10月1日03時30分,714.6mmHg(約953hPa)を観測,

東京に於て気圧の斯の如き低度に降りしこと中央気象台創立以来未だ嘗て之れあらず (『気象要覧』)

1日03時30分銚子で風速51.8m/s,同じく03時東京で39.6m/sを観測しました。1

東京湾では,台風の中心気圧が低かったことに加え,台風が西側を通ったために南よりの強風が吹き荒れ,さらに大潮(9月30日は中秋の名月だった)に満潮が重なるという最悪の状況となり,記録的な高潮が発生しました。

沿岸一帯もっとも害を被り家屋流出し人畜の死せるもの累々として其惨状見るに忍びざるものあり (同)

このときの最高潮位は東京湾平均海面(T.P.)上3.1mと推定されています。

当時の新聞から見出しをいくつか拾うと(東京朝日)

10月1日付

大暴風雨襲來
市内の被害甚大
東亰の始まつて以來曾てなき猛威を揮ふ

列車悉く立ち徃生
發着列車の所在不明
東亰上野兩驛の混雜

穩原小學校破壞

全市暗黒
電綫切斷して危險限りなし

品川に海嘯起る
海岸の家屋數夛浚はれ死傷者も亦夥しき模樣

月島全く孤立
慘憺たる築地河岸
暴風雨中火亊起こる

洲埼方面の慘状
海と化せる木塲方面
泥舩數十隻吹上げらる

号外も出ています。

深川は水地獄
折柄の滿潮に河川は氾濫
家皆床上に浸水す
避難民叫喚修羅塲の如し

ちなみに,当時はまだ颱風(=台風)ということばは一般化していません。

90年前とはいえ,いまの東京からは考えられない惨状です。ただ,伊勢湾台風なみの高潮が起こればいまでもどうなるかはわかりません。とくに最近は防災というと地震対策に偏る傾向が強いので,高潮は半分忘れられているかも。そういえば,明日から緊急地震速報の一般提供がはじまります。

4日になってもまだ惨状が次々と伝えられていますが,

食料品大暴騰
突拍子な白米相塲
魚類は殆ど皆無
青物は四五倍の値上

というように悪徳商人も目立ちはじめました。こういうヤカラはいつの時代,どこの世界にも現われれるようで,一昨年のハリケーンKatrinaの被害のあと,米国副大統領の息のかかった悪徳企業グループが災害をタネに荒稼ぎをしようとしていたそうです。

この台風によるおもな被害は,死者・不明1304人,負傷2022人,全壊家屋36459棟,半壊家屋21274棟,流失家屋2442棟となっています。

なお,この高潮により,江戸時代以来続いていた行徳の塩田が大打撃を受け,姿を消しました。浦安ディズニーランドが開園したころまであった谷津遊園は,その塩田の跡地につくられたのだそうです。

にほんブログ村 環境ブログ 天気・気象学へ
にほんブログ村


  1. ともに補正前の値。 

公営競技と台風

1955年9月29日22時ごろ,台風22号薩摩半島に上陸しました。九州を縦断して日本海に抜け,北海道に再上陸する前後に温帯低気圧に変わりました。

この台風は,どちらかというと日本海を通過中の10月1日に発生した新潟大火で知られていますが,上陸時の中心気圧が940mbと勢力が非常に強かったため,九州から中国・四国地方にかけて暴風と高潮による被害も大きく,それに加えて竜巻が発生したこともあり,死者・不明68人,重軽傷314人など,あまり知られていない台風にしては大きな被害が出ています。

当時,柳井市南浜(ただし現在の地名。当時の地名は知らん(^^;))にあった柳井オートは,高潮による浸水を受け,さらに堤防の決壊も加わり,敷地全体が水没した上にスタンドなどの建物も全半壊しました。

翌年1月にはなんとか開催にこぎつけましたが,折からの経営不振もあり,1957年に山陽オートに移転という形で,事実上廃止されました。

競馬に限らず,競輪にしても競艇にしてもオートにしても,一定水準以上のコースを維持しなければならない上に広大な敷地を抱えているわけで,しかもすぐそばに川や海があったりすることも多く,台風などの自然災害には弱いといえるでしょう。

最近では,レース場の数も減ったせいか,台風による大きな被害は聞きませんが,2004年,台風16号による高潮で高松競輪場のバンクの内側が水没しました。しかし,10月の共同通信社杯競輪(G2)は予定どおり行なわれました。ちなみに,高松競輪と観音寺競輪で2005年1月に「台風災害復興支援競輪」を開催したことは,いつかの日記で書いたような気がします(誰も読んでないでしょうけれど(笑))。

また,2002年には台風6号によって次のようなこともありました。

競争《ママ》馬のひざ付近まで水位

 足利市五十部町の渡良瀬川河川敷にある足利競馬場では、11日午前2時過ぎから放水路の水位が上昇、競馬場東側の厩(きゅう)舎兼住宅11棟が床上浸水した。午前4時ごろには2家族が孤立、市消防がボートで救出した。けが人はなかった。
 厩舎では馬400頭が飼育され、一時は水が馬のひざ付近まで上がってきたという。馬はぬれたエサを食べないため、厩務員は乾いた地面を探して、ぬれた干し草を干し直したり、厩舎にたまった水をくみ出すなどの復旧作業に追われた。
 ある厩務員は「馬が無事だから良かったが、脚に傷があるまま水につかると、そこから菌が入るのではないかと心配だ。しばらく気を抜けない」と疲れた表情で話した。[2002年7月12日19時3分更新]毎日新聞

いまはなき,足利競馬場……。

事件3件

今日はセンセの作品で起こった事件がσ(^^;)調べで3件もあります。偶然なのでしょうか。

起こった順に見ていきましょう。

まず,『讃岐路殺人事件』から。“事件”といえるかどうかわかりませんが。

AD1988/09/28 深夜,瀬戸大橋の橋の上に不審な車が放置されているのが発見される。瀬戸大橋自殺者第1号と思われたが……(内田康夫『讃岐路殺人事件』)

次に,『箱庭』から。昨日の日記でも取り上げました。

AD1991/09/28 台風19号で大損害を受けた厳島神社の大鳥居付近に,男の変死体が流れ着く(内田康夫『箱庭』)

3件目は『皇女の霊柩』から。

AD1995/09/28 群馬県松井田町恩賀の県道92号「松井田軽井沢線」脇の山林で,男性と見られる腐乱死体が発見される(内田康夫『皇女の霊柩』)

リンゴ台風Mireilleと箱庭

1991年9月27日16時過ぎ,台風19号Mireilleが中心気圧935mb,中心付近の最大風速50m/sという“非常に強い”勢力で長崎県佐世保市の南に上陸しました。その後,加速しながら日本海を北東に進み,28日08時ごろ965mbで北海道渡島半島に再上陸,28日15時に千島近海で温帯低気圧に変わりました。

台風が非常に強い勢力で上陸し,勢力をほぼ維持したまま日本海を速い速度で北東に進んだため,沖縄から北海道まで全国で暴風が吹き荒れました。くわしくは気象庁のサイトなどを参考にしてください。

リンゴ台風

この台風は通称「リンゴ台風」とよばれます。それは,青森県で収穫前のリンゴの70%以上が落下するという被害があったからです。ただし,農作物に限っても被害はリンゴだけではなかったのにもかかわらずリンゴ台風とよばれる理由は,σ(^^;)にはわかりません。σ(^^;)的にはもっともしっくりくる通称ではあります。

台風の暴風にもめげずに落下しなかったリンゴの一部は,「落ちないリンゴ」として受験生のお守りに珍重されていました。

当時受験屋だったし,近くの神社でも発売されていたので,よくおぼえています。値段はたしか悪税込みで1000円程度と聞いたような記憶があります。あくまでお守りなのでリンゴとしては高めでした。ご利益があったかどうかは……個人情報保護法により(?),公にはできません(笑)

◆箱庭

広島県の宮島にある厳島神社は,このリンゴ台風によって当時の新聞の見出しによると「創建以来の天災」に見舞われました。中国新聞9月28日付夕刊には次のようにあります。

同神社では二十七日午後七時半ごろ,突風のため能舞台と能楽屋の柱が折れ倒壊。屋根がそっくり砂浜に座る形になった。・・(中略)・・また,回廊中央部にある平安時代に建てられた左右門客神社,国宝の左右楽房のうち西側楽房が流失,東側楽房も大きく傾いた。回廊もあちこちで床板がめくれ上がり,通り抜けができなくなったほか,本社祓(はらい)殿などの屋根の軒先が壊れた。

神社職員らの話では,午後七時過ぎから,回廊に海水が上がり始め,ピークの午後十時半ごろには水位が回廊の上八十三センチに達し,手の施しようがなかったという。

そして台風一過の翌日,次のような事件が起こります。

AD1991/09/28 台風19号で大損害を受けた厳島神社の大鳥居付近に,男の変死体が流れ着く(内田康夫『箱庭』)

台風14号列伝

今年は台風13号まで発生しましたから,次の台風は14号ということになります。

歴代の台風14号を見てみると,迷走気味の台風が目を引きます。平均的には夏場に発生することが多いということもあるのでしょう。

目についた台風を年代順に見ていきましょう。

まず1954年。9月18日の夜に伊豆半島を通過したあと19日の00時ごろ房総半島に上陸しました。洞爺丸台風(15号)の露払い的な台風でしたが,単純に最盛期の強さを比べると,14号のほうが強い台風でした。

気象庁は上陸間近な17日15時の中心位置を,いったん発表したあと距離にして100kmも訂正しました。このため,予測上陸地点も大きく変更され,各地の防災担当者をあわてさせました。

1960年の14号は,ローマ五輪の開幕を祝って(?)あらわれた「五輪台風」のトップバッターでした。しかもいったんは日本の東海上に去っていったのに,なごり惜しそうにループを描いて戻ってきました。忘れ物でもしたのでしょうか。

1962年の14号は8月26日朝,潮岬付近に上陸,三重県から福井県に抜けました。
この日の午後,毎度のことながら多摩川でのんきに釣りをしていたマヌケな連中がいました。ところが急な増水で中州に取り残され,救助隊も立ち往生。折からの17~18m/sの強風で,警視庁や自衛隊のヘリも離陸できない状態。
こうした中,果敢に救助に向かったのは立川基地所属の米軍36空軍救助中隊の大型ヘリ。のちに警視総監から感謝状が贈られました。米軍もごくまれにいいことをすることがあるものです。

1964年の14号は16号とつるんで奇妙な動き。「藤原効果」を一躍有名にしました。そのあと16号を吸収する形で再発達し,枕崎付近に上陸,九州を縦断しました。

1974年の14号は,いったん上海の南に上陸して“弱い熱帯低気圧”になった直後にUターンして沖縄付近で台風に復活,進路を北東に変えて8月26日10時ごろ浜名湖付近に上陸しました。その後,東日本を縦断して温帯低気圧に変わりました。

ちょうどこのころ,役立たずの原子力船「むつ」がよせばいいのに母港を出港しようとしていました。250隻もの漁船に包囲され離岸できない状態でしたが,台風14号によるうねりで一部の漁船が避難した隙をつき,強行出航していきました。原子力船の未来を象徴するような,見送る人もほとんどいない,わびしい出港でした。

出港してはみたものの,6メートルの波により20~25度の横ゆれ。実験班5人ばかりか女性船員3人も船酔いを起こしました。船員が船酔いしますかねえ……?

ちなみに,むつは出航して間もなくの9月1日に中性子漏れを起こすことになります。

1985年と1986年の14号も,“弱い熱帯低気圧”になったあと復活を遂げました。

このうち,1985年の14号は8月30日23時ごろ三浦半島に上陸しました。1985年8月といえば日航123便墜落事故。このころ御巣鷹の尾根(正確には高天原山の尾根)では遺体捜索と機体の検証作業が続いていました。

台風14号による風雨に備え,検証・捜索活動にあたる警察官や自衛隊員が全員下山していた群馬県・上野村日航ジャンボ機墜落事故現場は,三十一日朝から「台風一過」の快晴となり,遺体の捜索と機体などの検証活動が再開された。
 現場周辺は,三十日午後から風雨が強まり,前橋地方気象台の調べでは,上野村に近い多野郡万場町で,三十日午後三時の降り始めから三十一日午前五時までの総雨量は六一ミリだった。
 このため,現場周辺の土砂崩れや,証拠品の機体の流失が心配されたが,前日,ロープで残がいを固定したり,木材で残がいの底上げをして流失防止の作業をしており,土砂崩れや大きな落石もなく,台風による実害はまったくなかった。…… (31日付朝日夕刊)

ちなみに翌31日,台風13号が枕崎付近に上陸したあと九州を縦断,死者・不明12人の被害を出しました。

時代は下って2005年。ブッシュの忠犬ポチがバカのひとつおぼえの郵政民営化を狂行しようとして抵抗に合い衆議院を解散。総選挙の最中に14号がやってきました。

“候補者の顔”消える? 大型で非常に強い台風14号の本県接近に伴い、高知市選挙管理委員会(山岡敏明委員長)など各市町村選管は5日午前、衆院選(11日投票)のポスター掲示板の一時撤去や補強などの応急措置を取り始めた。選挙期間中の掲示板の取り外しは異例。

ポスター掲示場は、公示前に県内5858カ所に各市町村選管が設置。くぎや針金で地面などに固定した木製の支柱に掲示板を取り付けているが、台風14号の接近に備えて県選管は4日、各市町村選管に風雨に備える対策を指示した。

県内最多の601カ所に掲示場を設置している高知市選管は5日朝、九州を縦断する台風14号の進路予想を基に本県上陸という最悪の事態も想定し、取り外しを即決。すべての掲示場を点検して吹き飛ぶ危険のあるものを撤去するよう、掲示板設置業者に依頼した。

業者は午前9時から8班体制で市内に散らばり、支柱を残した状態で掲示板を撤去。業者によると、背面に壁がなく風が吹き抜ける場所にある掲示板はすべて取り外すため、「設置した掲示板の7―8割は撤去することになる」。作業が終わるのは6日午前になる見通し。(高知新聞9月5日夕刊)

このように要らぬ出費を強いられる自治体が相次ぎました。

また,この14号により,内田康夫『高千穂伝説殺人事件』で高千穂町議会議員がはねられる舞台(?)となった高千穂鉄道が,壊滅的な被害を受けました。

史上最凶の“三つ子”

1966年9月22日21時,台風25号,26号,27号が同時刻に発生しました。台風の三つ子です。観測史上,三つ子の台風はこの1組だけです。双子の台風は何組かあり,最近では去年の台風7号と8号,2000年の15号と16号が双子です。四つ子以上の台風の記録はありません。

三つ子に話を戻すと,彼女たち1は仲が悪かった――かどうかは知りませんが,それぞれ独自の道を歩むことになります。中でも26号はとくに凶暴になり,5日前に発生した24号と義姉妹[1]の杯を交わし(?),24号の“鉄砲玉”として東日本に殴り込みをかけることになります。

同じ日に2つの台風が上陸

24日09時の天気図を見ると,九州に上陸寸前の大型の台風24号(984mb)があり(当時の分類では“大型で並”),その東に小さいですが965mbの台風26号があります(同じく“中型で並”)。姉貴分24号と妹分26号といった感じですが,妹分のほうが強力です。しかも,24号が上陸を躊躇していたのに対し,怖いもの知らずの26号は60km/hという猛スピードで北上し,25日00時過ぎ,御前崎の西に上陸しました。これに引きずられるように24号も重い腰を上げ,10時過ぎ,高知県安芸市付近に上陸しました。記録上,同じ日に2つ以上の台風が上陸したのはこの日だけです。

この24号と26号のように,2つの台風が東西に並んだとき,東側の台風が鉄砲玉のように高速で北上してくる――という現象は,比較的よく起こります。秋雨前線と台風 | Notenki Express 2014に出てきた1965年の24号と25号もそうでした。これは藤原効果の現われとみることができます。藤原効果については藤原効果と足尾台風 | Notenki Express 2014もご覧ください。

26号は上陸後,猛スピードのまま富士山のすぐ西を通過,関東北西部,東北地方を通って三陸沖に抜けました。台風がすぐ西を通過した御前崎では24日23時 17分に最大瞬間風速50.5m/sを観測,さらに富士山では25日01時07分に国内最高となる最大瞬間風速91m/sを観測しました。

また,26号の進路付近の静岡県北部から山梨県にかけての山岳地帯と栃木県北部山岳地帯では,南よりの強風による地形性降雨によって60~100mm/hの激しい豪雨(NHK的にいえば“猛烈な雨”)となりました。

秘湯梅ヶ島温泉

武田信玄の隠し湯とも伝えられる梅ヶ島温泉。温泉の発見は古く,記紀の時代に遡る――というような伝説の真偽はともかく,安倍川上流のひっそりとした峡谷にあることは事実です。少なくとも1966年当時はそうでした。裏を返せば世俗の交通や通信とは途絶した辺境の地ということですが,それが悲劇を生みました。

台風26号の直撃により,梅ヶ島村で25日01時までの1時間雨量が115mmを記録するなど安倍川上流では激しい豪雨に見舞われ,このため安倍川は急激に水かさを増し,2時ごろ10軒の旅館のうち8軒を押し流しました2。流された旅館の中には,慰安旅行で訪れていた県経済連の20~31歳の9人の女性職員が宿泊していた泉屋も含まれており,1人は助かりましたが,8人が犠牲になりました。梅ヶ島温泉では合わせて33人が死亡または行方不明になりました。

11kmほど下流にある梅ヶ島村役場でこの惨事を知ったのは朝になってからで,それも水死体が流れてきたという連絡を受けてからだったそうです。自衛隊などの救援隊が赴きましたが,途中の県道の土砂崩れなどで,丸1日経ってもたどり着けませんでした。

全然関係ありませんが,このblogの左上に住み着いているさすらいペット,ときどき梅ヶ島温泉で休憩します。

壊滅した文化村

山梨県足和田村では100mm/hに達する猛烈な雨が降り,25日1時25分ごろ土石流が発生しました。直撃を受けた根場集落では全戸数41戸のうち全壊32戸,半壊5戸,床上浸水4戸などほとんど壊滅状態となり,住民218人中63人の死者・行方不明者が出ました。

根場集落は豊かな森林資源によって日本一,二の文化村を誇っていました。この災害の一因が木を切りすぎたことだった――のかどうかはさだかではありません。

根場集落はこのまま廃村となりました。今も根場という地名があり,ググると“根場民宿村”などがヒットします。しかし,昔の“文化村”根場との関係は不明です。あえて書く必要がないから書いてないのでしょうが,ひたすら口をつぐんでいる感じがしないでもありません。

にほんブログ村 環境ブログ 天気・気象学へ
にほんブログ村


  1. 当時の台風はすべて女性名なので,義兄弟ではなく義姉妹になります:-) ちなみに,24号,26号,27号の名前はそれぞれHelen,Ida,Juneで,25号には名前がありません。これは当時女性名をつけていたJTWCが台風(TS)とは認めなかったためでしょう。 
  2. “13軒のうち9軒”と書いてある新聞もあります。「気象要覧」では“11軒中9軒”になっています。 

「漂泊の楽人」ドラマ化

前の日記と重複しますが,今日は

09/20 早朝,沼津の千本浜海岸で詐欺グループ「保全投資協会」の元社員の水死体が発見される(内田康夫『漂泊の楽人』)

のような事件が起こった日です。

この『漂泊の楽人』がドラマ化され,10月15日に月曜ゴールデンで放送されるらしいです。月曜ゴールデンだけに,ハッキリいって期待しないほうがいいでしょう。でも,金曜プレステージの岡部警部シリーズよりはマシかも知れませんけどね……。あれよりヒドい「内田康夫ミステリー」ドラマがこの世にあるとは思えませんので。

月曜ゴールデンでの「浅見光彦シリーズ」(いわゆる“沢村光彦”)の場面設定のいい加減さは↓に書いたとおりです。

『長崎殺人事件』と長崎豪雨
http://notenkiexpress.blog95.fc2.com/blog-entry-290.html

まあ,伊勢湾台風と長崎豪雨に関してはコジツケみたいなものですが,成沢久子さんの年齢に関しては???が100個くらいつきます。

『漂泊の楽人』は事件の根っこが太平洋戦争中にあり,しかも作品の発表からすでに20年経っているため,去年の9月に放送された月曜ゴールデン「佐用姫伝説殺人事件……悲劇を招く遊女の幻?叶わぬ愛を貫く女の涙が佐賀・唐津の海に消えてゆく…」の成沢久子さんの年齢と同様のおかしな設定になる可能性が十分にあります。

ところで,『漂泊の楽人』は1989年1月17日に火曜サスペンス劇場で「越後路殺人事件」として放送されたことがあります。クライマックスで,なんと,国立駅前が登場!! という意外な展開がありました。百恵ちゃんクレープで有名だった駅の脇のクレープ屋さんもチラッと映っています。

“ニューシティー銀行国立支店”はたぶん北口にある今の三菱東京UFJ銀行だったと思います。原作では「××銀行前橋支店」なんですけどね。(××は伏せ字ではなく原作でも××)

けっこうよくできたドラマだったと思いますが,ヒロインの漆原肇子役が黒木瞳というのがアレでした。そういえば,火曜サスペンス劇場浅見光彦ミステリーのヒロイン役はアレなのが多かったです。その中でσ(^^;)がもっとも腹が立ったのは「琵琶湖周航殺人歌」でした(笑) それでも「多摩湖畔殺人事件」の橋本千晶が安達祐実というのとは天地の差があります。それだけ安達祐実の橋本千晶役がヒドすぎるのですが。でも,おそらく安達祐実ってセンセの好みなんですよねえ……(-_-;) (『黄金の石橋』を参照)

記録によると,1998年7月17日に金曜エンタテイメントで「漂泊の楽人・越後・沼津殺人事件」も放送されているのですが,たぶん見たことがなくてまったくわかりません。

まぼろしの湖出現

台風が残した“湖”、奥日光に4年ぶり出現
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20070915i404.htm

 ラムサール条約登録湿地の奥日光(栃木県日光市)にある小田代原(おだしろがはら)に、台風9号の大雨の影響で“湖”が4年ぶりに出現した。

 奥日光では、台風9号により557ミリの総雨量を記録。浸透しきれない雨水が草原の低地に約3ヘクタールの楕円(だえん)にたまった。「小田代湖」とも呼ばれ、4年前の台風では約5か月間、姿を見せていた。今回は「1か月は見られそう」(県立日光自然博物館)という。[読売新聞2007/09/15]

このような湖の出現ならばいいのですが(この程度の規模の水たまりで“湖”といえるかどうかは別として),かつて埼玉平野の南部に歓迎されない湖が出現したことがあります。

1947年9月中旬,カスリーン台風がやってきました。台風そのものは最盛期を過ぎていましたが,前線を刺激して関東地方と東北地方に大雨を降らせました。

15日の夜になって水位が急激に上昇した利根川では,16日00時20分ごろ,栗橋付近の右岸堤が大音響とともに決壊,濁流が土地の傾斜に従って南に流れはじめました。そして18日には東京都との境にある桜堤(桜土手)に達し,堰きとめられる形で湛水をはじめます。こうして琵琶湖の8倍という,巨大な面積の湖が出現したのでした。

湛水をこのまま放置すれば水没地域は増える一方,しかも桜堤が決壊すれば東京の下町が水没し,被害がどのくらい増えるか想像もつきません。果たしてどういうことに……? この続きは,首都を水没から守れ!!~1947年カスリーン台風~(http://www.notenki.net/location/other2.html#id0001)をご覧ください。

ホントは怖い台風中継

有名な台風中継の動画↓

YouTube – 阿部レポーターの台風中継(台風中継後スタスタ歩く)

最後の1~2秒によってそれまでの苦労が水の泡,ただのヤラセだったことがバレてしまいました。

人間が風の中で立っていることのできる限界は20m/s程度といわれていますが(体験済み(笑)),これはあくまで一様な空気の流れの中での話であって,実際の風にはいわゆる風の息があるために前後左右にゆさぶられることになります。これではバランスをとるのが精一杯で,とてもレポートなどできません。まあ,それでもレポーターはせいぜいマイクしか持っていないので楽でしょうが,川口探検隊的にいえば,真っ先に洞窟にはいらなければならないカメラマンや照明さんはどうなんでしょうねえ……。

結局,何か物体が飛んできたりする危険なども考えると,限界は10m/sってところではないでしょうか。いずれにしても“台風中継”ができるということはレポートできる程度の風しか吹いていないということであり,裏を返せば風は吹いているけれどもさほどでもないということを身をもって知らせているわけです。

この視点からすると,民放が好きこのんで「ものすごい風です!!」とかやっている台風中継はすべてヤラセだと思って間違いないでしょう。ギョーカイではヤラセではなくヤリというらしいです。

1965年9月18日未明,台風24号の取材のために東京・江東区方面に出動していたラジオ関東(現・ラジオ日本)の取材車が,記者やアナウンサーら6人を乗せたまま晴海埠頭から海に転落,全員死亡するという事故が起こりました。光る海面を舗装道路と見間違えたのだろうといわれていますが,全員が死亡したため真相はわかりません。ヤラセではない本当の台風中継がいかに危険なものかがわかります。

ほとんど同じですが,↓もご覧ください。
台風中継のヤラセ http://notenkiexpress.blog95.fc2.com/blog-entry-53.html
ついでに,秋雨前線と台風 http://notenkiexpress.blog95.fc2.com/blog-entry-341.html