なんと,この時期に台風が上陸

1990年は一昨年2004年ほどではないにしても台風が6個上陸した台風の厄年で,19号,20号,21号が3レンチャンで和歌山県に上陸――などという珍しい記録も生まれました。

その台風漬けの年にとどめを刺したのが28号でした。上陸したのがなんと師走も迫ろうという今日11月30日,もちろん戦後もっとも遅い上陸台風です。ただし,1894年に台風ではなさそうだけれどもいちおうは台風(颱風)のようなものが上陸したという記録があるので,観測史上もっとも遅いとはいえません。

この台風は21日09時にグアム島の南海上で発生した“ただの熱帯低気圧”が発達して22日15時に台風となったもので,フィリピンの東海上から沖縄の南東海上を通り,30日の14時ごろ,当時の分類で“大型で並の強さ”を保ったまま和歌山県白浜町の南に上陸しました。この年6個目の台風上陸,和歌山県への上陸はこの年4個目です。18時には温帯低気圧に変わって日本海に抜けました。

室戸岬で最大風速31.6m/sを観測していますが,風よりも雨による被害が大きく,浸水家屋が1414棟にのぼりました。

明けて翌12月1日は関東地方を中心に亜熱帯のような陽気になり,東京では最低気温17.0℃,最高気温23.5℃と,ともに12月の記録を更新しました。

与禰姫が圧死

天正十三年十一月二十九日(1585年),畿内・東海・東山・北陸諸道で大地震が発生しました。
天正地震です。震源域は白川断層で,マグニチュードは7.8とされてきましたが,
複数の断層が同時に動いたもっと規模の大きい地震だったという説もあります。

大河ドラマ功名が辻」で与禰姫が圧死したのがこの地震です。σ(^^;)は予告編しか見ていませんが。
他に大河ドラマ関係では,越中国の木舟城が倒壊し,城主前田秀継夫妻など多数が死亡しました。前田秀継は前田利家の弟です。ただし,
利家とまつ」でこのシーンがあったかどうかは知りません。見ていなかったので。

さて,当時,現在の岐阜県北部,白川郷のほぼ中央の帰雲《かえりぐも》とよばれる地域に,勢力を誇っていた内ヶ島氏の居城,
帰雲城《かえりぐもじょう》がありました。帰雲城はこの地震によって生じた大規模な土石流に巻き込まれ,
城下町もろとも土砂深く埋まったといわれています。

内ヶ島氏は金山を開発していたといわれ,実際かなり潤っていたそうです。このため,帰雲城とともに莫大な財宝が埋まっている……
という財宝伝説があります。

しかし,いまだ財宝発掘に成功した人はいないようです。川口探検隊も藤岡探検隊も,訪れたという話は聞いたことがありません。
それもそのはず,帰雲城がどこにあったのか,またどこに埋まっているのか,わかっていないという話です。

そういえば,数年前,帰雲城の財宝伝説をめぐるサスペンスドラマが放送されました。何というドラマだった気にはなっているのですが,
思い出せないし,検索しても見つかりません。実はそのドラマでこの財宝伝説を知ったのでした(笑)

11月29日の他の事件――:

AD1980/11/29 川崎市の予備校生,一柳展也が両親を金属バットで撲殺=金属バット殺人事件

AD1987/11/29 大韓航空機,ビルマ沖でバンコク空港と交信後消息を断つ

AD1992/11/29 第12回ジャパンカップトウカイテイオーが優勝。父シンボリルドルフに続き父子2代制覇

AD2003/11/29 イラク北部のティクリート付近で午後5時ごろ(現地)バグダッドの日本大使館所有の乗用車が襲撃され,
2人の日本人外交官が殺害される

津軽にはホントに“七つの雪”が降るのか?

新沼謙治さんが歌った「津軽恋女」(古い歌ですが)の中に

♪津軽には七つの 雪が降るとか
こな雪 つぶ雪 わた雪 ざらめ雪
みず雪 かた雪 春待つ氷雪

という歌詞があります。

この“七つの雪”の出典が太宰治『津軽』であることはよく知られています。その『津軽』では,巻頭に「津軽の雪」としてこの“七つの雪”が並べて書いてあり(ただし順序は“こな雪,つぶ雪,わた雪,みづ雪,かた雪,ざらめ雪,こほり雪”),最後に「東奥年鑑より」とあります。

その『東奥年鑑』(1941年)を見てみると,「積雪ノ種類ノ名稱」として次のように説明されています(ほぼ原文のまま。ちなみに,国会図書館ではこの書物は破損防止のために複写禁止なので,手で書き写しました(笑))。

こなゆき 濕氣の少い輕い雪で息を吹きかけると粒子が容易に飛散する
つぶゆき 粒状の雪(霰を含む)の積つたもの
わたゆき 根雪初頭及び最盛期の表層に最も普通に見られる綿状の積雪で餘り硬くないもの
みづゆき 水分の多い雪が積つたもの又は日射暖氣の爲積雪が水分を多く含む樣になつたもの
かたゆき 積雪が種々の原因の下に硬くなつたもので根雪最盛期以降下層に普通に見られるもの
ざらめゆき 雪粒子が再結晶を繰返し粒子が肉眼で認められる程度になつたもの
こほりゆき みづゆき,ざらめゆきが氷結して硬くなり氷に近い状態になつたもの

つまり“七つの雪”は降ってくる雪ではないのです。確かに,「かたゆき」なんて,降ってきたらちょっと恐そうな名前です。

『東奥年鑑』をよく見ると,続いて「降雪ノ種類ノ名稱」として次の4つが挙げられています。

こなゆき,つぶゆき,わたゆき,みづゆき

おわかりでしょう。ほんとうは津軽には四つの雪しか降らないのです(笑)

シムソンズが準優勝!!

2005年11月27日,結成して2~3か月(ひょっとして1~2か月かも)しかたっていないはずのシムソンズが第18回北海道女子カーリング選手権大会で準優勝しました。

決勝は3連覇を狙う北見エンジェルス相手に,前半は大きくリードを許したものの第6エンドで3点をゲット,続く第7エンドでも2点スチール(のはずだけど,なぜかこのエンドも後攻だったような気が……)して同点に追いつき,第8エンドは相手に1点を取らせ第9エンドをブランクにして最終エンドでラストストーンをキープするという前日はじめて1点を取ったチームとは思えない高等戦術を見せ,最後の一投に逆転をかけましたが,レイズヒットがわずかに外れ,6-8で惜しくも敗れました。

とはいっても,映画「シムソンズ」の中での話です。実際のシムソンズは2002年12月に解散しています。シムソンズのメンバーだった小野寺さんと林さんがチーム青森を率いて今年のトリノ五輪に出場し旋風を巻き起こしたことは記憶に新しいところです。

そのほかの今日のおもな事件――:

AD1978/11/27 自民党総裁候補予備選挙で,大平正芳福田赳夫を上回り第1位になる。福田「天の声にも変な声がある」と本選挙立候補辞退

AD1983/11/27 第3回ジャパンカップ,アイルランドのスタネーラが直線で抜け出して優勝。キョウエイプロミスが右前脚けいじん帯断裂の重傷を追いながらも勝ち馬にアタマ差まで詰め寄って2着確保

AD1988/11/27 横綱千代の富士,千秋楽で大乃国に破れる。連勝記録は53でストップ

AD1994/11/27 愛知県西尾市の東部中2年の大河内清輝(13)が,同級生11人の現金の要求や暴行,いじめにより自殺。その後,学校側が自殺を「突然死」と教育委員会に説明,また生徒に口封じをするなど,「事件隠し」も発覚

第4回JC

11月25日の歴史をひもとくと,ハラキリをやった時代錯誤のはなはだしい人もいたようですが,こんなモンには興味はなく,
何といっても1984年の第4回ジャパンカップです。日本の競馬会に衝撃を与えた第1回JCから3日後……いえいえ3年(+3日)後です。

σ(^^;)はカツラギエースの単勝を5000円ほど買っていました(笑) あとシンボリルドルフの単勝もいくらか(1000円程度)
買っていたと思います。今も昔もこんなに馬券を買うことはきわめてまれです。

大逃げをうったカツラギエースに4コーナーを回って後続が一気に迫ったとき,もうダメだと思いました。しかし,
大逃げの割に前半の1000mは61.6秒で見かけほど速くなく,勝負処で息をつくことができたので,西浦騎手が追い出すと,
カツラギエースは二の脚を使って先頭でゴールしました。スタッフが練りに練った作戦だったらしいです。

σ(^^;)の頭の中がまっ白になったことはいうまでもありません(笑)(5000×4080÷100=□円)

ちなみに,11月25日には第1回ジャパンカップダートも行なわれています(2000年)。

風船おじさんどこ行くの?

1992年11月23日,風のおだやかな琵琶湖畔から,風船おじさんが改造したひのき風呂にヘリウム風船をつけた「ファンタジー号」に乗り,米国ネバダ州のサンドマウンテンを目指して飛び立っていきました。

この飛行計画,鳴き砂の保護を訴えるという目的はともかく,やっていることがメチャクチャで,食料は1週間分だけしか積んでおらず,通信手段はなんと携帯電話! 電源もさることながら(当時の携帯電話は電池の保ちがものすごく悪かった),基地局がないところでどうやって通話するんでしょう。一説にはコードレスホンの子機だったという話もあり,いずれにしてもあまりにもズサンです。

風船おじさんは25日,宮城県の金華山沖で海上保安庁の飛行機に目撃されたのを最後に消息不明になりました。おそらく太平洋に墜落するべくして墜落し,海の藻屑と消えたのでしょう。いくらなんでもこんななんの役にも立ちそうもないオッサンを北の将軍さまが拉致するとも思えないし(笑)

元禄地震

元禄十六年十一月二十三日(グレゴリオ暦で1703年12月31日),相模トラフを震源域とする非常に強い地震が発生しました。「元禄地震」とよばれています。

1923年の「大正関東地震」と似ていることから,ひとつ前の関東地震といわれていますが,規模は元禄地震のほうが大きかったようで,マグニチュードは7.9~8.2と推定されています。

震度は神奈川県の湘南地方と房総半島南部で6強から7,東京都心で5強と推定されています。ヒューザーアパグループ耐震偽造マンションなどひとたまりもないでしょう。ビンボー人が無理してマンションなんかを買ってはいけないといういい教訓です(<そうなのか?(笑))。

房総半島や相模湾の沿岸部を中心に大津波が襲い,とくに房総半島では死者6500人以上といわれています。この津波で,1498年の「明応東海地震」の津波で流されて別の場所に再建された日蓮の誕生寺が,再び海に沈みました。

現在,(旧)天津小湊町にある誕生寺は3代目という話です。「日蓮の生まれ給いしこの御堂」は海の中です(http://www.notenki.net/location/uchida.html#id0005。また内田康夫『日蓮伝説殺人事件』参照)。

第1回JC

1981年11月22日,冬型の気圧配置になって木枯らしの吹く東京競馬場で,第1回ジャパンカップが行なわれました。

外国からは7頭が参戦しましたがとても一流とはいえないメンバー。しかもヨーロッパからの参加はなし。迎え撃つ日本馬は,当時のトップホースだったホウヨウボーイモンテプリンスを含め8頭が出走しました。

勝ったのはアメリカのメアジードーツで,それまでの日本レコードを0.5秒更新する2.25.3のタイム。日本馬は「日の丸特攻隊」サクラシンゲキが前半の1000mを57.8秒という気違いラップでブッ飛ばしたのが目立っただけで,最高着順は公営出身のゴールドスペンサーの5着という惨敗でした。サクラシンゲキ小島太がレースをブチ壊したともいえるでしょう。

海外の二流馬に席巻されて,日本の競馬関係者はかなり衝撃を受けたらしいです。σ(^^;)はただの傍観者ですから,しょせんこんなものと思っただけです。当時,海外の競馬なんてほとんど知らなかったですが。

第1回ジャパンカップの話題を独占?したのは「インドのシンザン」オウンオピニオン。ゾウと併せ馬をやったなどというウワサもありましたが,ホントのところはどうだったのでしょうか。

トルコからもデルシムという馬が招待されて来日したのですが,調教中に故障して,レースに参加することなく帰って行きました。

ショックのあまり20年は勝てないのではないかとか思われた日本馬ですが,実際には3年後に(ただし,日記上では3日後に(爆)),意外な形で勝つことになります。

赤壁の戦いと東南の風

建安十三年十一月二十日,曹操率いる魏の主催者側発表80万の大軍と周瑜率いる数万の呉の軍勢が長江の赤壁(現在の湖北省)でぶつかりました。赤壁の戦いです。

赤壁の戦いといえば東南の風です。周瑜はこの東南の風のおかげで曹操の大船団を焼き討ちにすることができたとされています。十一月二十日はもちろん太陰太陽暦での日付で,ユリウス暦では208年12月15日となり(グレゴリオ暦でも同じ),季節は冬。データがないので確認はできませんが,天気図類から推察すると,この時期は赤壁付近でも西~北の風が卓越し,“東南の風”はほとんど吹かないようです。

『三國志演義』では,諸葛孔明が七星壇を築いて祈祷を行ない,3日3晩“東南の風”を吹かせたことになっています。三国志ファンにはおなじみの場面です。

一方,正史の『三国志』では,この“東南の風”がどういう状況で吹いたのか記述がありません。しかも,強風が吹いたという記述はありますが,向きまでは書いてありません1。いずれにしても,この風を利用して猛将の黄蓋が投降と称して魏の大船団に接近し,決死の活躍で火をかけることになっています。ただ,周瑜ほどの知将ならばある程度観天望気はできたはずで(少なくともブレインはいたはず),風が変わりそうだという読みがあってこの計を使ったのだと考えるのが妥当でしょう。

『演義』では,赤壁の戦いは前半のクライマックスだけあって,孔明の祈祷以外にも話を盛り上げるいろいろな脚色がなされてます。例えば,黄蓋は“投降”する前に周瑜と示し合わせて苦肉の計という芝居を打ったことになっています。また,曹操は大決戦を前にして戦勝の前祝いの宴会を開き,槊を横たえて「短歌行」を賦すことになっています。曹操ファンのσ(^^;)の好きなシーンだったりするのですが。

對酒當歌
人生幾何
譬如朝露
・・・・・・

酒に対して当に歌うべし
人生 幾何ぞ
譬えば 朝露の如し
・・・・・・・

この詩の中の「月明らかに星稀に (烏鵲南に飛ぶ)」のフレーズは高校の漢文の教科書に載っていました。っていうかそれで知りました。

しかし,実はこの詩は制作年が不明だったりします。さらに,不吉だと「短歌行」にケチをつけて突き殺される劉馥という人物は,このころ孫権の10万の大軍から合肥の城を死守していました。ただしこのときはすでに病死していたようです。

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  1. かなり前に中華書局発行の標点本で見たため,見落としの可能性もあります。