雪が招いた痛ましい日曜日

1964年10月24日は東京五輪閉会式の日。
世紀の祭典が終わりを告げているその陰で,北海道には白魔の手先が……。

札幌に“白い季節”がやってきた。二十三日からぐんと冷え,二十四日朝から全市に降った雪はいったん消えたが夕刻からまた降り出し,自動車が行きかう車道や舗道の道はすぐとけて春先のよう。ぬかって足をとられたり,すべったりで,市民にとって“ユキ悩み”の悪路。(1964年10月25日付北海道新聞朝刊)

そして翌25日の朝,雪が降りしきる定山渓鉄道(定鉄)の豊平の公園下の踏切で,ほぼ満員の乗客を乗せたバスと電車が衝突,39人が重軽傷を負うという事故が起こりました。

ちなみに,この日の積雪17cmは札幌における10月の最深積雪第1位の記録となっています。

山に初雪降るころに…

「小さな日記」という歌があります。

1968年にフォー・セインツというフォークグループが出したなかなかいい曲です。いかにも1960年代という感じのする曲で,1970年代にはやり出すいわゆるニューミュージックのわけのわからなさや,同じく1970年代に忽然と現われて消えた四畳半フォークの貧乏くささがありません。ちなみに,四畳半フォークの代表とされる「神田川」の舞台は三畳ひと間の小さな下宿で,四畳半の広さすらありませんけれど(笑)

さて,「小さな日記」の中で,彼はどうして死んだのでしょう? 詞では「山に初雪ふる頃に」つまり季節的には広い意味でちょうど今ごろ,「帰らぬ人となった彼」とあるだけで,山で死んだとは書いてありません。そこの交差点で飲酒運転の車に轢かれたのかも知れないし(当時は“交通戦争”ということばがありましたし),通り魔に襲われたのかもしれません。

でも,ふつうに考えれば,山に行って帰ってこなかったのでしょうね。もちろん家出ではなく,帰ってはきたけれどいわゆる無言の帰宅。おそらく“雪”で滑って転落死したか,天気の急変を読めずに軽装で行って凍死したかということなのでしょう。いずれにしても無謀登山による自業自得の死,ということになりますが……。だから彼とのことは思い出したくもない過去なのかも知れません。元も子もないですけど(笑)

それともうひとつ。何をやっているときに小さな過去がつづられた「小さな日記」を見つけたのでしょう? おそらく押し入れか物置の奥の奥にしまってあったと思われるのですが。引っ越し作業の途中だったのでしょうか。

ちなみに,この曲を歌っていたフォー・セインツはのちにフォー・クローバーズという名前で「冬物語」を歌うことになります。同名のドラマ「冬物語」の主題歌ですが,「冬物語」をパクってつくられたのがあのキムチの悪臭漂うドラマ「冬のソナタです。

炎のゴブレット

2002年10月23日,『ハリー・ポッター』シリーズの第4巻「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」が発売されました。

 世界で1億6000万部を超える大ベストセラーのファンタジー小説ハリー・ポッター」シリーズの第4巻「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」(J・K・ローリング著、静山社、上下セットで3800円)が23日、全国の書店で発売された。シリーズはこれまで3巻の累計で国内1234万部を記録しているが、第4巻の初版部数は史上最高の230万セット。各地の書店が異例の早朝販売を実施し、「ハリポタ」ファンが待望の最新刊に列をつくった。

 東京都八王子市の「くまざわ書店八王子店」は解禁となる午前5時から販売開始。開店前に、親子連れや出勤前の会社員ら100人以上が並び、物語と同じように魔法使いの格好をした子供の姿も。出版元の静山社社長で翻訳者の松岡佑子さんが魔法使い姿で駆けつけ、購入した一人一人に直接本を手渡した。(毎日新聞)

ハリポタ発売というと毎回話題になる「くまざわ書店八王子店」ですが,今年5月の第6巻「ハリー・ポッターと謎のプリンス」発売の当日には,松岡佑子さんは登場しなかったようですね。

その他の今日のおもな事件――:

AD0200/10/23 官渡の戦い

AD1977/10/23 F1日本GP(富士),G.ビルヌーブのフェラーリが宙を舞ってコースアウト。立ち入り禁止区域にいた会場整理のアルバイトとカメラマンを直撃し2人死亡。優勝はJ.ハント

AD1986/10/23 札幌,10月としては第2位の12cmの積雪

AD1994/10/23 台風33号が発生し,日本の南海上に台風が4つ並ぶ

文永の役と“台風”

対馬壱岐を蹂躙した元軍が博多に上陸したのは文永11年10月20日のことでした(先遣部隊は前日に上陸していたらしい)。この日は現行のグレゴリオ暦では1274年11月26日になります(ユリウス暦では11月19日)。そして次の日の朝,元軍は博多湾からいなくなるわけですが,これについて弘安の役同様に“台風”によるものといわれてきました。しかし,そうではなかったと考えるほうが自然です。

まず,この時期にお誂え向きに台風がやってくる可能性ははなはだ低いです。確かに11月30日に上陸した1990年の台風28号のようなケースもありますが,これはきわめてまれな例です。というわけで“台風”といわれるのは実は“温帯低気圧”なのでしょうが,以下,温帯低気圧である可能性を含めて“台風”と書くことにします。

“台風”が来たと記載した信頼できる日本側の記録は,実はないそうです。“台風”説の根拠とされる『勘仲記』には

或人云去比凶賊船数万艘浮海上而俄逆風吹来

とあるだけですし,『八幡大菩薩愚童訓・筑紫本』には

夜明ケレハ廿一日之朝海之面ヲ見ニ蒙古之舟共皆馳テ帰ケリ是ヲ見テコハ如何ニ此方ハコナタヘ彼方ハカナタヘ後合ニ落ル事コハ何事ゾ今日ハ九国ニ充満シテ人胤モ無ク滅ビナント終夜歎合シニ如何ニシテ角ク帰ラン是者只事ナラヌ消息泣笑シテ色メキテ人心付キニケリ

とあるだけで,“台風”の影響についてはひとことも触れていません。

大船団が“台風”によって沈んだのならば大量に漂流物が残るはずですが,そのような記述もありません。

一方の『高麗史』には13500人あまりが還らなかったという記述がありますが,前後から考えて,兵を撤退した後に暴風雨に遭い,多くの損害を出したと見るのが自然です。

元軍の事情はどうあれ(意図的か,支えられなくなってか),自ら撤退したというのが真相で,“台風”(実体は急速に発達する温帯低気圧。いわゆる“爆弾低気圧”)に遭ったのはその帰路のことでしょう。

というわけで今では“神風説”はほとんど影を潜めているようです。エリック・ドウルシュミート『ウェザー・ファクター―気象は歴史をどう変えたか』でほとんど無批判に“神風説”が採用されているのは,筆者の調査不足か偏見によるものでしょう。

ところで,5年前,NHKの大河ドラマで「北条時宗」が放映されていました。かなりメメしくてオープニングもダサくて,合戦シーンもショボくて,視聴率が↓↓だったのも納得です。ただ,文永の役での元軍の“消滅”は なるほど!! でした。

超大型Tokage来襲

記憶も新しい2004年10月20日の13時ごろ,台風23号が955hPaの勢力で高知県土佐清水市付近に上陸,18時前に大阪府泉佐野市付近に再上陸して本州をほぼ中央本線沿いに通過,そのあと武蔵野線→常磐線と乗り継いで(?!),茨城県から太平洋に抜け,21日09時に温帯低気圧に変わりました。

1990年以降では最悪の台風被害となり,消防庁のまとめによる被害状況は死亡95人,行方不明3人,重軽傷555人,住家全半壊8685棟,床上浸水14323棟,床下浸水41132棟などとなっています。また日本損害保険協会によると,支払保険金が過去5番目の多さになっています。

超大型というのは風速15m/s以上の強風域の半径が800km以上の台風です。超大型台風の出現は2001年の11号以来です。なお,23号が土佐清水市付近に上陸するときには“大型”にランクダウンしていました。

また,Tokageというのは23号のアジア名。日本が提出した星座シリーズのひとつで,とかげ座のとかげです。

10月の台風上陸は珍しいというほどではありませんが,この台風の上陸は戦後(もちろんイラク戦争後ではなく太平洋戦争後)の台風の中では3位タイ,戦後の10月の台風としては2位タイの遅さでした。

10月の上陸台風でもっとも遅かったのは,1967年の34号です。ちなみに34というのは上陸した台風でもっとも大きな番号です。

1967年の秋は,台風は発生するものの日本列島に近づかず,秋雨も東日本ばかりで,西日本を中心に渇水が生じていました。そんなところに34号がやってきて前線を活性化してくれたために北九州では恵みの雨になりました。

34号は10月28日に伊良湖岬付近に上陸,中部地方から関東北部を通過して太平洋に抜けました。

しかし,ほとんど不意打ち気味に上陸して暴風雨を引き起こしたため思いのほか被害が大きく,死者・不明47人,住家損壊2959棟,浸水26842棟におよびました。

1955年の26号は2004年の23号と同じ10月20日に上陸しました。この台風も不意打ち台風で,17日に台湾付近で発生したと思ったら,40~70km/hで北上し,まさかまさかと思う暇もあらばこそ,20日正午ごろ和歌山県田辺市付近に上陸,さらにスピードを増して70~90km/hで紀伊半島,名古屋,中部山岳地帯,関東北部を通過して福島県原ノ町付近から太平洋に抜けました。

上陸時の中心気圧は985mb程度で,それほど強くはなかったのですが,猛スピードで通過したためとくに進行方向の右側で暴風が吹き荒れ,富士山では20日15時55分ごろに瞬間風速72.5m/sを観測,16時過ぎには風速計が吹っ飛びました。

この年はこの26号が現われるまでは上陸した台風は1個だけで,

廿五個のうち日本に近づいた台風はざっと数えて七個。今年もどれ一つとして“予報官泣かせ”でない台風はなかったが,予報官たちの一致した意見は「米は豊作,台風は不作」だった。(10月12日付朝日新聞)

と書かれたりしていました。

なお,26号とは直接の関係はないようですが,18日23時40分ごろ銚子で竜巻が発生し,住家19戸が全半壊,7歳の女の子が下敷きになって死亡しました。

10月20日に続くのは10月19日上陸の観測史上最強台風TIPです。

鳴くよウグイスの放火殺人

『三代実録』の貞観十六年(874)十月十九日の条に次のような記述があります。

甲戌十九日。太政官奏。沙弥教豊。俗名上毛野豊麻呂沙弥善福。俗名水取貞江。於丹波國船井郡。濫僧册餘人。殺勸學院使日奉全吉。支解其體。行火燒民屋二家。并燒殺一女。下刑部省令覆案。並當斬刑。石見國人若枝部豊見。鬪駆殺人。當絞刑。勅。宜減死一等並處遠流。

もちろん『三代実録』なんてσ(^^;)の愛読書でも何でもなく,この凶悪事件は長山泰孝『世相の古代史』で見つけたものです。同書によると,次のような事件です。

沙弥の教豊と善福の二人は,丹波国船井郡で悪僧四〇人あまりを率いて,勧学院の使の日奉全吉を殺して死体をばらばらにした。そのうえ民家に放火して二戸を焼き,女性一人を焼き殺した。刑部省の判決によると,二人の罪は死罪にあたるが,罪一等を減じて遠流にするということである。

ここで勧学院というのは藤原氏が子弟の教育のために設けた機関で,このような事件の背景には荘園をめぐる争いがあったようです。また,罪一等が減じられているのは,818年以降,死刑の執行を避けるようになったためということです(すべて同書より)。

ちなみに,死刑の執行を避けるようになったのは,今の死刑廃止論者がバカのひとつおぼえのように唱える“人道”上や“人権”上の理由などではなく,怨霊を恐れてのことでしょう。

その他のおもな事件――

AD0773/10/19 呪詛の罪で皇后を廃された井上内親王不破内親王をも呪詛したということで,子の他戸王とともに大和国宇智(今の奈良県五条市付近)の邸宅に幽閉される (宝亀4)

井上内親王の呪詛事件」は奈良時代の重要な事件ですね。ただし教科書には載っていません(たぶん)。幽閉後,宝亀六年(775)に子の他戸王とともに死亡していますが,明らかに暗殺か自害を迫られてのものでしょう。その後天変地異や飢饉が続けざまに起こり,井上内親王のたたりと恐れられますが,いずれ別の機会に。

AD1979/10/19 台風20号,白浜付近に上陸。猛スピードで本州縦断

この台風については→観測史上最強台風 TIP

AD1997/10/19 イスラエルとヨルダン川西岸でひょうを伴った暴風雨。11人以上死亡

AD1997/10/19 第2回秋華賞,1番人気のオークスメジロドーベルが直線伸びて2.00.1のタイムで優勝。2着は桜花賞キョウエイマーチ

AD2003/10/19 第8回秋華賞(G1),スティルインラブ幸英明騎乗)が1分59秒1で勝ち,1986年のメジロラモーヌ以来17年ぶりの牝馬三冠を達成

木枯らし1号

その年の秋から冬にかけてはじめて吹く木枯らしを「木枯らし1号」とよぶことがあります。

「木枯らし1号」を公式に発表しているのは東京(関東)と大阪(近畿)だけですが,基準が微妙に違います。“冬型の気圧配置のときにその年はじめて吹く(瞬間)風速8m/s以上の北~西北西の風”というのは共通なんですが,期間は関東では“10月半ばから11月末まで”,近畿では“おおむね二十四節気の霜降から冬至まで”となっています。

「木枯らし1号」の平年日は現在は発表されていません。要するに,平年日に科学的な根拠がないから,ということらしいです。

ただ,科学的な根拠云々を別にして平均をとると,だいたい二十四節気の立冬前後,11月7日ごろになるようです(私が計算したわけではありません)。これは偶然というよりは,そのようになるように規準を定めたからでしょう。

1号があれば当然2号,3号,……もあると考えるのがふつうの感覚です(ヤッターマンには1号と2号しかいませんが)。ところが,木枯らしに関するかぎり,2号,3号,……は聞いたことがありません。かなり不自然です。「木枯らし1号」なんて,そもそもからしてセンスのかけらもないネーミングですし。

「木枯らし1号」がいつごろから使われたのかわかりませんが,新聞記事の見出しとしての初登場は,σ(^^;)が調べた範囲では1975年11月11日付朝日新聞夕刊です。ただ,1973年11月2日付朝日新聞夕刊掲載の倉嶋厚さんのコラム「お天気衛星」のタイトルが「木枯らし1号」なので,このころにはすでにぼちぼち使われていたのでしょう。

今はなき月刊誌「気象」に掲載されていた「天気図日記」では意外に早く,1957年10月17日に登場しているように見えますが,「天気図集成」に収録する際に編集でつけ加えられたものかも知れません(未確認)。前年の1956年11月16日には「木枯らしNo.1」ということばも見えます。

「天気図日記」で「木枯らし2号」が使われた例がひとつだけあります。1966年10月29日に「きょうは関東にも木枯らし2号が吹くとみられたが云々」とあります。ただ,まだ木枯らし1号も吹いていない時期だけに(この年の発現日は11月15日),意味不明です。

東京の木枯らし1号の最早日は10月13日(1988年),2番目は10月17日(1957年),3番目は今日10月18日で,1986年と2000年に観測されています。(気象庁天気相談所調べ)

 全国的に西高東低の冬型の気圧配置になった18日、気象庁は「東京地方で木枯らし1号が吹いた」と発表した。昨年(11月16日)より29日早い。東京・大手町では午前10時40分に、最大瞬間風速18・4メートルの北西の風を記録。冷たい季節風が吹いているという。

 「木枯らし1号」は、冬型の気圧配置で10月半ばから11月末までの間に吹く、最大風速8メートル以上の西北西―北の風をいう。これまでに最も早く吹いたのは1988年の10月13日、逆に遅かったのは69年と81年の11月28日だった。

 同庁によると、18日夕方からは気温が下がり、19日朝にかけての最低気温は14度を予想。この秋一番の寒い朝になりそうだという。 [毎日新聞 2000年10月18日]