殉難動物慰霊碑

動物衛生研究所九州支所に殉難動物慰霊碑があります。1951年のルース台風で殉難した動物たちの慰霊碑だそうです。碑銘には一樹の蔭と刻まれています。http://niah.naro.affrc.go.jp/sat/tanken/monument.htm

動物慰霊碑はときどき目にすることがありますが(競馬場内外でとくに。名前は違うことが多いですけど(笑)),自然災害による動物慰霊碑は珍しいと思います。

ルース台風

1951年10月9日グアム島の西海上で発生,発達しながら西北西~北西に進み,12日15時には925mb,最大風速60m/sに発達。12日15時に北緯20度線を超えるあたりから進路を北に変え,14日19時ごろ鹿児島・串木野付近に上陸。約80km/hで九州を縦断し,22時には国東半島付近を通って周防灘に抜け,そのご山口県防府市付近に再上陸,米子の東から山陰沖に抜けました。

台風が衰える間もなく高速で進んだため,九州南部を中心に全国的に暴風が吹き荒れました。宮崎県の細島では日本歴代第2位の最大風速69.3m/s,愛媛県佐田岬では同じく第3位の67.1m/sを記録しています。

また,台風の接近とともに前線(ちなみに,当時は秋雨前線ということばはまだなかった)活動が活発になり,九州東部,中国,四国地方で大雨になりました。もっとも大きな被害を受けた山口県では,錦川上流で土砂崩れが多発,前年のキジア台風で流された錦帯橋がまたも被害を受けました。

1951年10月16日付の西日本新聞から見出しをいくつか拾ってみます。

死者遂に287名 西日本の被害益々拡大
ダム溢水で犠牲84名 山口錦川氾濫,五村襲う
高潮38名を一呑み 枕崎
愛児は生きていた 倒壊家屋から守る死の母の母性愛

●2つの台風進路予想

1951年10月14日付の朝日新聞に「海岸沿いか縦断か 台風進路に二つの予想」という見出しの興味深い記事があります。中央気象台(東京)と大阪管区気象台がルース台風の進路に関して,異なる予想を出していたというのです。記事によると,中央気象台では「本土をかすめ台風中心は南方海上を通過する公算が大きい」,大阪管区気象台では「四国から大阪湾に上陸,中部,関東を縦断する最悪“コース”をとるだろう」という予報を出していました。

このように異なる予報が発表されたのは,1949年のデラ台風や1950年のキジア台風を教訓とし,1950年の全国気象台予報課長会議で,中央気象台が各地の情報を集めて判断を下していたのでは時間的に手間取って間に合わないときは,各管区ごとに独自の判断を発表するという現地主義に切り替えられたためです。

結果からいえば,両方ともハズレ,でした。

現在は台風の予報は基本的には気象庁(本庁)の予報部ですべて行なっていますが,台風の予報を行なっているのはなにも日本だけではなく,いろいろな国で独自の予報を行なっています。それぞれのWebサイトで見ることができる場合もあります。比較してみると面白いかもしれません。

●苦しいときの台風頼み

当時,電力はおもに水力発電で賄われていました。朝鮮戦争による特需で電力需要が増えていたことに加え,この夏は小雨だったため,慢性的な電力不足に悩まされていました。そのため,ルース台風による慈雨が期待されていました。

確かに雨は降り,しかもよせばいいのにところによっては降りすぎるくらい降りました。それで「電源地帯はフル運轉」(10月14日西日本新聞)「ふっとんだ電力危機 流量一挙40%増」(10月16日同)という状況になりましたが,それもたった数日間のことでした。

ちなみに,“台風への雨乞い期待”はその後もときどきあり,例えば1967年の秋は,台風は発生するものの日本列島に近づかず,秋雨も東日本ばかりで,西日本を中心に渇水が生じていました。そんなところに34号がやってきて前線を活性化してくれたために北九州では恵みの雨になりました。しかし,ほとんど不意打ち気味に上陸して暴風雨を引き起こしたため思いのほか被害が大きく,死者・不明47人,住家損壊2959棟,浸水26842棟におよび,とんだ“度を越した恵みの雨”となりました。

また,1978年には渇水状態の東京に,台風15号が“給水台風”の期待とともに近づいてきましたが,予想進路のいちばん南に進路をとり,

給水台風として異例の期待をされていた台風15号は,つれなくも肩すかしを食わせる形で,東海上へ去っていった。(1978年9月6日付朝日夕刊)