約2か月ぶりに全般気象情報

気象庁から約2か月ぶりに全般気象情報が発表されました。

暴風雪と高波及び大雪に関する全般気象情報 第1号
平成20年12月25日17時20分 気象庁予報部発表
(見出し)
 日本付近はこれから冬型の気圧配置が次第に強まり、北日本から北陸地方
にかけては雪を伴った非常に強い風が吹き、海は大しけとなる見込みです。
暴風雪や高波、大雪に警戒が必要です。
(本文)
[気圧配置の予想]
 中国東北区の上空約5000メートルには氷点下44度以下の強い寒気が
あって南東に進んでいます。この寒気は、明日は北日本に流れ込んで、冬型
の気圧配置が強まる見込みです。
[防災事項]
<暴風雪、高波>
 北日本では26日未明から27日にかけて、北陸地方では25日夜遅くか
ら27日にかけて、雪を伴った非常に強い風が吹くでしょう。
 また、海上は、北日本のオホーツク海側や北日本から北陸地方にかけての
日本海側を中心に、27日にかけて大しけの状態となる見込みです。暴風雪
と高波に警戒して下さい。
 
 予想される最大風速は、北日本と北陸地方の
  陸上  17~20メートル
  海上  20~25メートル
の見込みです。
 波の高さは、
  北日本 オホーツク海側    7メートル
  北日本 日本海側及び太平洋側 6メートル
  北陸地方           6メートル
の見込みです。
<大雪>
 北日本から北陸地方にかけては、これから冬型の気圧配置が強まるため、
日本海側を中心に大雪のおそれがあります。また、強い寒気のため大気の状
態が不安定となることから、落雷や突風にも注意して下さい。
 26日18時までの24時間に予想される降雪量は、いずれも多い所で、
  北陸地方           80センチ
  東北日本海側         70センチ
  関東地方北部、甲信地方北部  60センチ
  北海道地方、東海地方(岐阜県)50センチ
の見込みです。
 大雪や、ふぶき、路面凍結による交通障害、電線や樹木への着雪などに警
戒、注意して下さい。また、積雪によりなだれが起こりやすくなりますので
、注意が必要です。
[補足事項]
 今後、地元の気象台が発表する警報や注意報、気象情報に留意して下さい
。
 なお、次の「暴風雪と高波及び大雪に関する全般気象情報」は、26日5
時頃発表する予定です。

ちなみに,約2か月前の全般気象情報のタイトルは「大雨と雷及び突風に関する全般気象情報」でした。

にほんブログ村 環境ブログ 天気・気象学へ

イブに水を差した台湾坊主

1972年12月22日の朝,台湾近海に発生した低気圧は,発達しながら北東に進み,東シナ海,紀伊半島沖を経て本州南岸を通り,そのまま東北東進を続けて大島付近に達した後,24日夜には房総沖に去っていきました。

この低気圧の影響で九州から関東の太平洋側を中心に,強風が吹き,大雨が降りました。

24日は日曜日。街中は本来なら賑わうはずですが,強い風雨のため,東京都心でもひっそりとしたイブの街になりました。

冷たい雨が横なぐりに降りしきった二十四日,クリスマス・イブの東京。銀座通りの歩行者天国は中止となり,いつもヤングであふれる新宿の“天国”は,人っ気がなく,クリスマス・ツリーが冷雨にふるえていた。

歩行者天国とイブが重なるので,ホクホクを予想していた表通りぞいの各店は大打撃だったが,それでもデパートは家族連れで大入り満員。とりわけ,おもちゃ売場はギュウギュウの人で,パパやママはだいぶ待たされ,下火のパンダに代わる抱き人形や着せかえ人形を買っていた。

(25日付毎日)

ところで,台湾近海で発生する低気圧を,かつては台湾坊主とよびました。新聞などにもたびたび登場し,台湾坊主といえば暴れん坊というイメージが定着していた用語でしたが,1975年3月に気象庁が「台湾低気圧」にいいかえるように部内に指示したことがきっかけで,マスコミなどでも使われなくなったようです。

ただ,気象庁では使わないというだけなので,民間人が使う分には別にかまわないでしょう。

そういえば,このブログの前身のようなメルマガ「能天気Express」を出していたとき,“台湾坊主”を使うたびに「台湾坊主は使用禁止になっています」とかいう内容のメールを送ってきたのがいました。無視していたらそのうち送ってこなくなりました。おそらく購読をやめたのでしょう。

にほんブログ村 環境ブログ 天気・気象学へ

イブに水を差した台湾坊主

1972年12月22日の朝,台湾近海に発生した低気圧は,発達しながら北東に進み,東シナ海,紀伊半島沖を経て本州南岸を通り,そのまま東北東進を続けて大島付近に達した後,24日夜には房総沖に去っていきました。

この低気圧の影響で九州から関東の太平洋側を中心に,強風が吹き,大雨が降りました。

24日は日曜日。街中は本来なら賑わうはずですが,強い風雨のため,東京都心でもひっそりとしたイブの街になりました。

冷たい雨が横なぐりに降りしきった二十四日,クリスマス・イブの東京。銀座通りの歩行者天国は中止となり,いつもヤングであふれる新宿の“天国”は,人っ気がなく,クリスマス・ツリーが冷雨にふるえていた。
歩行者天国とイブが重なるので,ホクホクを予想していた表通りぞいの各店は大打撃だったが,それでもデパートは家族連れで大入り満員。とりわけ,おもちゃ売場はギュウギュウの人で,パパやママはだいぶ待たされ,下火のパンダに代わる抱き人形や着せかえ人形を買っていた。
(25日付毎日)

ところで,台湾近海で発生する低気圧を,かつては台湾坊主とよびました。新聞などにもたびたび登場し,台湾坊主といえば暴れん坊というイメージが定着していた用語でしたが,1975年3月に気象庁が「台湾低気圧」にいいかえるように部内に指示したことがきっかけで,マスコミなどでも使われなくなったようです。

ただ,気象庁では使わないというだけなので,民間人が使う分には別にかまわないでしょう。

そういえば,このブログの前身のようなメルマガ「能天気Express」を出していたとき,“台湾坊主”を使うたびに「台湾坊主は使用禁止になっています」とかいう内容のメールを送ってきたのがいました。無視していたらそのうち送ってこなくなりました。おそらく購読をやめたのでしょう。

ホワイトクリスマスの大停電

1980年12月24日,仙台では,大停電が起こって街中の灯が消え,雪明かりだけという,これこそホントのホワイトクリスマスという夜を迎えました。

23日に四国沖に発生した低気圧が急速に発達しながら南岸を通過したため24日にかけて東北地方は南部を中心に暴風雨雪になり,仙台では23日に降りはじめた雨が24日未明から雪に変わり,18時に積雪25cmを記録しました。

イブの日は,この雪のため,交通機関はマヒ状態。σ(^^;)は何を血迷ったのか午前中にパスで中心街に出かけていったのですが,帰りはバスが坂を上れないという理由で途中で折り返し運転になってしまい,そこから先は雪中行軍になりました。どこからともなくあの映画のあの曲が聞こえてきたような……。

そうです,「天は我々を見放した……」

詳しくは,チャララーン,チャラララーン,チャラチャー,チャーラララーン | 能天気Express~新世界版~をご覧下さい。

さて,この日の雪はかなり湿った雪で,その湿雪が送電線に付着,そこに強風が吹きつけました。送電線はふつうの状態では強風の中でもあまり振動しません。そのように設計されているからです。ところが,雪が付着して形状が変わると話は変わり,ギャロッピング(galloping)とよばれる振動を起こすことがあります。

ギャロッピングはフラッター(flutter)とよばれる自励振動の一種で,いったん振動がはじまるとその振動によってまわりの空気の流れが振動を助長するようにはたらきます。その結果,風さえ吹いていれば振動は続き,風が強くなると急激に振動が激しくなります。この振動は風の強弱の変化(風の息)とは関係なく,定常な空気の流れの中でも起こります。十数m/sを超える風が吹くとき, 1~10秒程度の周期で振幅が10mにも達する上下方向のギャロッピングが起こることがあります。

このようにしてあちこちで送電線が切れたり鉄塔がぐにゃりと折れ曲がったりしたものですからさあたいへん。東北電力仙台営業所管内の全戸数の70%以上という大停電が起こりました。停電はヒドいところでは27日まで続きました。

σ(^^;)は雪中行軍で帰宅しただけでとくに被害らしい被害は受けていませんし(そういえば,シャーベット状の雪のかたまりが落ちてきて傘が1本ダメになりましたが),停電も翌日には回復しましたから,雪明かりだけのロマンチックな夜の記憶だけが残っています。

なお,仙台では同月14日にも30cmの積雪を観測しているのですが,こちらはまったく記憶にありません。

ところで,仙台の年末といえば「光のページェント」。ですが光のページェントがはじまったのは1986年ですから,イブの大停電当時はもちろんまだありませんでした。

光のページェントがはじまってから仙台がホワイトクリスマスを迎えたことが1度だけあります。1992年のことです。

ところが,河北新報からは雪の中の光のページェントに関する記事は見つかりませんでした。見つかった記事はといえば……。

イブの仙台 交通大混乱 寒波襲来 (25日朝刊)
脱スパイク先進地 心構えはまだまだ (25日夕刊)

スパイクタイヤが禁止されたのは1991年4月で,今ではとっくの昔に死語になっています。

ちなみに,このときの雪は南岸低気圧の通過に伴うものではなく,強い寒気の吹き出しによるものでした。

にほんブログ村 環境ブログ 天気・気象学へ

ホワイトクリスマスの大停電

1980年12月24日,仙台では,大停電が起こって街中の灯が消え,雪明かりだけという,これこそホントのホワイトクリスマスという夜を迎えました。

23日に四国沖に発生した低気圧が急速に発達しながら南岸を通過したため24日にかけて東北地方は南部を中心に暴風雨雪になり,仙台では23日に降りはじめた雨が24日未明から雪に変わり,18時に積雪25cmを記録しました。

イブの日は,この雪のため,交通機関はマヒ状態。σ(^^;)は何を血迷ったのか午前中にパスで中心街に出かけていったのですが,帰りはバスが坂を上れないという理由で途中で折り返し運転になってしまい,そこから先は雪中行軍になりました。どこからともなくあの映画のあの曲が聞こえてきたような……。

そうです,「天は我々を見放した……」

詳しくは,チャララーン,チャラララーン,チャラチャー,チャーラララーン | 能天気Express〜新世界版〜をご覧下さい。

さて,この日の雪はかなり湿った雪で,その湿雪が送電線に付着,そこに強風が吹きつけました。送電線はふつうの状態では強風の中でもあまり振動しません。そのように設計されているからです。ところが,雪が付着して形状が変わると話は変わり,ギャロッピング(galloping)とよばれる振動を起こすことがあります。

ギャロッピングはフラッター(flutter)とよばれる自励振動の一種で,いったん振動がはじまるとその振動によってまわりの空気の流れが振動を助長するようにはたらきます。その結果,風さえ吹いていれば振動は続き,風が強くなると急激に振動が激しくなります。この振動は風の強弱の変化(風の息)とは関係なく,定常な空気の流れの中でも起こります。十数m/sを超える風が吹くとき, 1〜10秒程度の周期で振幅が10mにも達する上下方向のギャロッピングが起こることがあります。

このようにしてあちこちで送電線が切れたり鉄塔がぐにゃりと折れ曲がったりしたものですからさあたいへん。東北電力仙台営業所管内の全戸数の70%以上という大停電が起こりました。停電はヒドいところでは27日まで続きました。

σ(^^;)は雪中行軍で帰宅しただけでとくに被害らしい被害は受けていませんし(そういえば,シャーベット状の雪のかたまりが落ちてきて傘が1本ダメになりましたが),停電も翌日には回復しましたから,雪明かりだけのロマンチックな夜の記憶だけが残っています。

なお,仙台では同月14日にも30cmの積雪を観測しているのですが,こちらはまったく記憶にありません。

ところで,仙台の年末といえば「光のページェント」。ですが光のページェントがはじまったのは1986年ですから,イブの大停電当時はもちろんまだありませんでした。

光のページェントがはじまってから仙台がホワイトクリスマスを迎えたことが1度だけあります。1992年のことです。

ところが,河北新報からは雪の中の光のページェントに関する記事は見つかりませんでした。見つかった記事はといえば……。

イブの仙台 交通大混乱 寒波襲来 (25日朝刊)
脱スパイク先進地 心構えはまだまだ (25日夕刊)

スパイクタイヤが禁止されたのは1991年4月で,今ではとっくの昔に死語になっています。

ちなみに,このときの雪は南岸低気圧の通過に伴うものではなく,強い寒気の吹き出しによるものでした。

箱根駅伝と雪

今年も残すところ10日あまり。

お正月のテレビ番組といえば,駅伝にサッカーにラグビーと相場は決まっています。

何を隠そうσ(^^)は箱根駅伝の古くからのファンでして,中学生のころからラジオで聞いていました。谷口浩美の6区の区間新の激走は,今でも耳に残っています。

ラジオ時代は知る人ぞ知るといった感じのイベントだった箱根駅伝も,テレビ中継がはじまってからというもの,みるみる国民的行事となってしまいました。テレビで箱根駅伝が見られるようになったのはうれしい反面,あの日テレ品質のなんともタイミングの悪い,はっきりいえばヘタクソな中継(とくにカメラ切り替えや中継車からの呼びかけのタイミングがヒドい)でイライラすることも多いです。そういうこともあるので,σ(^^)はNHKのラジオ中継を聞きながら補助的にテレビを見ています。

さて,箱根駅伝はスタートからゴールまで2日にわたり合わせて10時間以上かかるレースで,しかもコースが都心,海岸,山とバラエティに飛んでいますから,自然の影響,とくに気象条件が大きな影響を及ぼすレースです。とくに雪に見舞われた大会についていくつか調べてみました。

2003年 第79回大会

復路がスタートからゴールまで断続的に雪が舞う中でのレースになりました。

気温も上がらず,6区のスタート前が-3℃,小田原中継所では1.9℃(08:50),平塚中継所2.0℃(10:00),戸塚中継所1.1℃(10:50),鶴見中継所0.7℃(12:00)でした。

1985年 第61回大会

往路優勝の早大と2位順天堂大との差は4分22秒でした。

復路のスタート前,箱根は一面の銀世界。しかも雪が降り続いていました。この雪を味方にしたのが早大の6区の赤堀で,区間3位の好走。レース後「雪景色でかえってリラックスできた」と語っています。

一方,雪に出鼻をくじかれたのが順天堂大。6区のスピードランナー羽柴は区間賞こそ獲得したものの,下りはじめたばかりの6km付近での転倒が響き,差を21秒詰めただけでした。

早大は往路の貯金を守り抜いた形で,2位順天堂大に4分28秒の差をつけて2連覇を達成しました。

ちなみに,NHKのラジオ中継でおなじみの金哲彦さんは,この大会で5区の区間新をマークしています。

1978年 第54回大会

3日の関東地方は夜半からの雪が本降りになり,三が日としては観測史上初の大雪となりました。

この雪の影響で火薬が湿ってしまったのか,復路のスタート合図のピストルが鳴らない珍事が発生。被害者は往路優勝の順天堂大を2分57秒差で追う2位日体大の坂本。しかし,このアクシデントにも動揺せず,区間賞の走りで差を1分6秒詰め,逆転V2の足がかりを築きます。

さらなる珍事が7区で発生しました。日大の7区のランナーがスタート前点呼の08時30分になっても現われなかったのです。新幹線の遅れによるものでした。あわや棄権と思われましたが,東京から小田原中継所までタクシーを飛ばして駆けつけ,なんとかことなきを得ました。ウオーミングアップなしでスタートし,区間2位の好走を見せました。

ちなみに,この選手は日大の前監督でした。

1952年 第28回大会

現在では2,3日に定着している箱根駅伝ですが,かつては時期が違っていたこともあります。この年は6,7日に行なわれました。

6日の箱根は前夜からの雪が20cm積もり,小涌谷から先はチェーンを巻いた車でないと走行できない状態で,小田原中継所では関係各車がチェーンをさがしたり巻いたりとおおわらわの状態。ところが,1台のトラックがスリップして横向きになって道路をふさいでしまったため,伴走オートバイ,役員車をはじめ車両という車両は小涌園前ですべてストップ,そこから先は選手のみが走るという異例のレースになりました。

2004年 第80回大会(おまけ)

安東能明『強奪 箱根駅伝』では,2004年の箱根路に雪が降ることになっていましたが,降りませんでした。女子マネージャーの拉致監禁事件も起こらなかったし(笑)

~(M)2005/12/20~

にほんブログ村 環境ブログ 天気・気象学へ

箱根駅伝と雪

今年も残すところ10日あまり。

お正月のテレビ番組といえば,駅伝にサッカーにラグビーと相場は決まっています。

何を隠そうσ(^^)は箱根駅伝の古くからのファンでして,中学生のころからラジオで聞いていました。谷口浩美の6区の区間新の激走は,今でも耳に残っています。

ラジオ時代は知る人ぞ知るといった感じのイベントだった箱根駅伝も,テレビ中継がはじまってからというもの,みるみる国民的行事となってしまいました。テレビで箱根駅伝が見られるようになったのはうれしい反面,あの日テレ品質のなんともタイミングの悪い,はっきりいえばヘタクソな中継(とくにカメラ切り替えや中継車からの呼びかけのタイミングがヒドい)でイライラすることも多いです。そういうこともあるので,σ(^^)はNHKのラジオ中継を聞きながら補助的にテレビを見ています。

さて,箱根駅伝はスタートからゴールまで2日にわたり合わせて10時間以上かかるレースで,しかもコースが都心,海岸,山とバラエティに飛んでいますから,自然の影響,とくに気象条件が大きな影響を及ぼすレースです。とくに雪に見舞われた大会についていくつか調べてみました。

2003年 第79回大会

復路がスタートからゴールまで断続的に雪が舞う中でのレースになりました。

気温も上がらず,6区のスタート前が-3℃,小田原中継所では1.9℃(08:50),平塚中継所2.0℃(10:00),戸塚中継所1.1℃(10:50),鶴見中継所0.7℃(12:00)でした。

1985年 第61回大会

往路優勝の早大と2位順天堂大との差は4分22秒でした。

復路のスタート前,箱根は一面の銀世界。しかも雪が降り続いていました。この雪を味方にしたのが早大の6区の赤堀で,区間3位の好走。レース後「雪景色でかえってリラックスできた」と語っています。

一方,雪に出鼻をくじかれたのが順天堂大。6区のスピードランナー羽柴は区間賞こそ獲得したものの,下りはじめたばかりの6km付近での転倒が響き,差を21秒詰めただけでした。

早大は往路の貯金を守り抜いた形で,2位順天堂大に4分28秒の差をつけて2連覇を達成しました。

ちなみに,NHKのラジオ中継でおなじみの金哲彦さんは,この大会で5区の区間新をマークしています。

1978年 第54回大会

3日の関東地方は夜半からの雪が本降りになり,三が日としては観測史上初の大雪となりました。

この雪の影響で火薬が湿ってしまったのか,復路のスタート合図のピストルが鳴らない珍事が発生。被害者は往路優勝の順天堂大を2分57秒差で追う2位日体大の坂本。しかし,このアクシデントにも動揺せず,区間賞の走りで差を1分6秒詰め,逆転V2の足がかりを築きます。

さらなる珍事が7区で発生しました。日大の7区のランナーがスタート前点呼の08時30分になっても現われなかったのです。新幹線の遅れによるものでした。あわや棄権と思われましたが,東京から小田原中継所までタクシーを飛ばして駆けつけ,なんとかことなきを得ました。ウオーミングアップなしでスタートし,区間2位の好走を見せました。

ちなみに,この選手は日大の前監督でした。

1952年 第28回大会

現在では2,3日に定着している箱根駅伝ですが,かつては時期が違っていたこともあります。この年は6,7日に行なわれました。

6日の箱根は前夜からの雪が20cm積もり,小涌谷から先はチェーンを巻いた車でないと走行できない状態で,小田原中継所では関係各車がチェーンをさがしたり巻いたりとおおわらわの状態。ところが,1台のトラックがスリップして横向きになって道路をふさいでしまったため,伴走オートバイ,役員車をはじめ車両という車両は小涌園前ですべてストップ,そこから先は選手のみが走るという異例のレースになりました。

2004年 第80回大会(おまけ)

安東能明『強奪 箱根駅伝』では,2004年の箱根路に雪が降ることになっていましたが,降りませんでした。女子マネージャーの拉致監禁事件も起こらなかったし(笑)

〜(M)2005/12/20〜

日本競馬史上最高の名勝負

TTG伝説とよばれる叙事詩があります。ここ10数年くらいの間に競馬ファンになった人の間では文字どおり伝説になっていますが,これは1970年代後半に実際にあったドラマです。そのクライマックスが1977年12月18日,第22回有馬記念でした。

TTG伝説を語るには,テンポイントのデビューからはじめるだけでは不十分で,その祖母クモワカの桜花賞からはじめなければなりません。したがって有馬記念に至るドラマは涙を呑んで省略します。さすがに見ていませんしねえ(笑)>クモワカの桜花賞

クモワカの子でテンポイントの母ワカクモの桜花賞についてはTTG伝説のプロローグ: 能天気Express~新世界版~をご覧下さい。クモワカの桜花賞についても少し書いてあります。

さて,その有馬記念ですが,先頭を走るトウショウボーイと2番手でピッタリマークするテンポイントのスタートからゴールまで息をつかせない壮絶な一騎討ちでした。4角を回って先頭に立つテンポイント,一杯になったと見えたトウショウボーイに襲いかかるグリーングラス,内から差し返すトウショウボーイ。そしてテンポイントが先頭でゴールイン……。何度もビデオで見ているせいもありまして,昨日のことのようによみがえります。

このレースはトウショウボーイの引退レースで,現役を続けるテンポイントとしてはどうしても勝たなければならないレースでした。そしてこれで名実ともに日本最強馬となり,晴れてヨーロッパ遠征に向かうことになったのでした。

テンポイントのその後はあまりにも有名ですが,σ(^^;)的には壮行レースとなった日経新春杯に66.5kgの極量で快勝,その秋の凱旋門賞も,まだ創設されていないブリーダーズカップクラシックも快勝したことになっています。

ただ1頭現役を続けたグリーングラスは,1978年の天皇賞・春で亡きライバルに捧げる(ホントか?)勝利,そして1979年の有馬記念を制してTTG伝説の幕引きをみごとに勤めました。

その後,トウショウボーイは初年度に三冠馬ミスターシービーを出すなど種牡馬として大活躍したのは記憶に新しいところです(もう新しくもないかも(笑))。しかし,1992年に蹄葉炎を発症,悪化したため安楽死となりました。その直後にNHKで「日本競馬史上最高の名勝負」という番組が放送されました。↓

http://notenkiexpress.blog95.fc2.com/blog-entry-361.html

グリーングラスはステイヤーという血統背景から種牡馬としてそれほど期待されていたわけではないようですが,意外な健闘を見せました。代表産駒はトシグリーン(なぜかスプリンター)とトウショウファルコでしょう。

にほんブログ村 環境ブログ 天気・気象学へ

日本競馬史上最高の名勝負

TTG伝説とよばれる叙事詩があります。ここ10数年くらいの間に競馬ファンになった人の間では文字どおり伝説になっていますが,これは1970年代後半に実際にあったドラマです。そのクライマックスが1977年12月18日,第22回有馬記念でした。

TTG伝説を語るには,テンポイントのデビューからはじめるだけでは不十分で,その祖母クモワカの桜花賞からはじめなければなりません。したがって有馬記念に至るドラマは涙を呑んで省略します。さすがに見ていませんしねえ(笑)>クモワカの桜花賞

クモワカの子でテンポイントの母ワカクモの桜花賞についてはTTG伝説のプロローグ: 能天気Express〜新世界版〜をご覧下さい。クモワカの桜花賞についても少し書いてあります。

さて,その有馬記念ですが,先頭を走るトウショウボーイと2番手でピッタリマークするテンポイントのスタートからゴールまで息をつかせない壮絶な一騎討ちでした。4角を回って先頭に立つテンポイント,一杯になったと見えたトウショウボーイに襲いかかるグリーングラス,内から差し返すトウショウボーイ。そしてテンポイントが先頭でゴールイン……。何度もビデオで見ているせいもありまして,昨日のことのようによみがえります。

このレースはトウショウボーイの引退レースで,現役を続けるテンポイントとしてはどうしても勝たなければならないレースでした。そしてこれで名実ともに日本最強馬となり,晴れてヨーロッパ遠征に向かうことになったのでした。

テンポイントのその後はあまりにも有名ですが,σ(^^;)的には壮行レースとなった日経新春杯に66.5kgの極量で快勝,その秋の凱旋門賞も,まだ創設されていないブリーダーズカップクラシックも快勝したことになっています。

ただ1頭現役を続けたグリーングラスは,1978年の天皇賞・春で亡きライバルに捧げる(ホントか?)勝利,そして1979年の有馬記念を制してTTG伝説の幕引きをみごとに勤めました。

その後,トウショウボーイは初年度に三冠馬ミスターシービーを出すなど種牡馬として大活躍したのは記憶に新しいところです(もう新しくもないかも(笑))。しかし,1992年に蹄葉炎を発症,悪化したため安楽死となりました。その直後にNHKで「日本競馬史上最高の名勝負」という番組が放送されました。↓
http://notenkiexpress.blog95.fc2.com/blog-entry-361.html

グリーングラスはステイヤーという血統背景から種牡馬としてそれほど期待されていたわけではないようですが,意外な健闘を見せました。代表産駒はトシグリーン(なぜかスプリンター)とトウショウファルコでしょう。

キーストン・ブルース

赤い夕日を 背に受けて

駆けたあの日が 懐かしい

淀の川風 あのにおい

思い出すのさ キーストン

………………

(諸口あきら「キーストン・ブルース」)

1967年12月17日,阪神競馬場で第15回阪神大賞典(距離3100m,5頭立て)が行なわれました。

当日のサンスポ(大阪版)の見出しは

キーストン好調 阪神大賞典

フイニイの逆転も

予想(印)を見てみると

◎◎ キーストン
○○ フイニイ
×△ タイヨウ
△× サトヒカル
無印 スズノニシキ

左は大坪氏,右は内山氏の印です。大坪氏ってあの「クロシオ」や「マンハッタンギャル」の大坪元雄さんだと思われます。

レース中のできごとやレース後のシーンはあまりにも有名なのでとくに書きません。レースそのものよりもレース後のほうが有名な不思議なレースです。いつのころからか故障した馬はなるべく撮らないのが暗黙の了解になっているようなので,今はあり得ない映像でしょう。

有名な割に,あのシーンをリアルタイムで見た人は,実は関西圏を中心とするごく一部の人だけでした。競馬中継は当時,全国中継ではありませんでしたし,もちろんまだターフビジョンなどはありませんので,他の競馬場で見ることも不可能でした。

σ(^^;)ももちろんこのレースをリアルタイムでは見ていません。キーストンについて知ったのは,志摩直人さんの『風はその背にたてがみに』でです。確か「ソロナ家の紋章」という詩でした。

ところで,キーストンが勝った1965年のダービーの直前の5月27日,台風6号が東京湾をかすめて館山市付近に上陸しました。5月の台風上陸は1914年以来のことでした。

この台風と梅雨前線の影響で,東北地方南部から九州にかけて大雨となり,新幹線が全線不通となって雨に弱いことが暴露したほか,かなりの被害が出ました。

東京競馬場で行なわれたダービーの追い切りも強風雨の中,泥んこ馬場での追い切りとなりました。

台風警報下の“ダービー調教”なんていうのは前代未聞,今後も恐らくないだろう。二十七日の午前五時半から行なわれた東京競馬場での追い切りは,田植えのできそうな泥んこのダートコースで,全くの“責め馬?”だった。……

(1965.05.28日刊スポーツ)

レースももちろん,ビデオで見る限りものすごい不良馬場。もっとも,質のよくないモノクロフィルムのせいで実際よりも悪く見えているかもしれません。

先頭を走るキーストンの1頭だけ白いままの帽子が印象的です。前半1000m通過64.0秒の“タメ逃げ”でしたが,最後の1Fに14.3秒かかっています。ダイコーターが詰め寄ったというよりは,終いバタバタになってしまったのでしょう。

にほんブログ村 環境ブログ 天気・気象学へ