練習中に被災した羽生結弦選手

今さらな感じもしますが,ソチ冬季五輪フィギュアスケート男子シングルで羽生結弦選手がみごと優勝しました。

金メダルの羽生「復興に役立ちたい」 NHKニュースより,一部引用:

羽生選手は会見で、報道陣から試合後にあまり笑顔を見せない理由を問われて、「金メダルの実感が沸かないこともありますが、震災からの復興のために自分に何ができたのか分からない。複雑な気持ちです」と答えました。

そして、震災の当時を振り返って、「スケートができなくて、本当にスケートをやめようと思いました。生活するのが精いっぱいというなかで、大勢の人に支えられてスケートを続けることができました。金メダルを取れたのは、被災した人たちや支えてくれた人たちの思いを背負ってやってきたからです」と語りました。

そのうえで今後について、羽生選手は「将来、プロになったとき、震災からの復興のために何かできればと思っています。金メダリストになれたからこそ復興のためにできることがあるはずです。これがスタートになると思います」と真剣な表情で話していました。

羽生選手は3.11のとき練習中に地震に遭ったという話をどこかで聞いたか読んだかしたようなおぼえがあったのですが,Evernoteにクリップしてありました。
2012年11月21日付河北新報より:

フィギュアスケートのグランプリ(GP)シリーズ第6戦のNHK杯は23日、宮城県利府町セキスイハイムスーパーアリーナで開幕する。東日本大震災の復興支援を掲げる大会に、仙台市で生まれ育った男子の羽生結弦(宮城・東北高3年)は特別な思いで臨む。 今春からカナダに強化拠点を移した羽生は17日に帰国し、被災者のため「何か少しでも力になればという思いはある。自分自身の演技をして好結果を残すことが大事」と神妙な面持ちで語った。

仙台市内のリンクで練習中に被災し、避難所暮らしも経験した。練習拠点を失い、全国各地のアイスショーを約60公演も回りながら滑り込んだ。被災地への思いが心身を突き動かし、初出場だった3月の世界選手権で銅メダルに輝いた。

それにしても,最近の若い選手のインタビューはきちんとしてますねえ……。

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箱根駅伝と雪

今年も残すところ10日あまり。

お正月のテレビ番組といえば,駅伝にサッカーにラグビーと相場は決まっています。

何を隠そうσ(^^)は箱根駅伝の古くからのファンでして,中学生のころからラジオで聞いていました。谷口浩美の6区の区間新の激走は,今でも耳に残っています。

ラジオ時代は知る人ぞ知るといった感じのイベントだった箱根駅伝も,テレビ中継がはじまってからというもの,みるみる国民的行事となってしまいました。テレビで箱根駅伝が見られるようになったのはうれしい反面,あの日テレ品質のなんともタイミングの悪い,はっきりいえばヘタクソな中継(とくにカメラ切り替えや中継車からの呼びかけのタイミングがヒドい)でイライラすることも多いです。そういうこともあるので,σ(^^)はNHKのラジオ中継を聞きながら補助的にテレビを見ています。

さて,箱根駅伝はスタートからゴールまで2日にわたり合わせて10時間以上かかるレースで,しかもコースが都心,海岸,山とバラエティに飛んでいますから,自然の影響,とくに気象条件が大きな影響を及ぼすレースです。とくに雪に見舞われた大会についていくつか調べてみました。

2003年 第79回大会

復路がスタートからゴールまで断続的に雪が舞う中でのレースになりました。

気温も上がらず,6区のスタート前が-3℃,小田原中継所では1.9℃(08:50),平塚中継所2.0℃(10:00),戸塚中継所1.1℃(10:50),鶴見中継所0.7℃(12:00)でした。

1985年 第61回大会

往路優勝の早大と2位順天堂大との差は4分22秒でした。

復路のスタート前,箱根は一面の銀世界。しかも雪が降り続いていました。この雪を味方にしたのが早大の6区の赤堀で,区間3位の好走。レース後「雪景色でかえってリラックスできた」と語っています。

一方,雪に出鼻をくじかれたのが順天堂大。6区のスピードランナー羽柴は区間賞こそ獲得したものの,下りはじめたばかりの6km付近での転倒が響き,差を21秒詰めただけでした。

早大は往路の貯金を守り抜いた形で,2位順天堂大に4分28秒の差をつけて2連覇を達成しました。

ちなみに,NHKのラジオ中継でおなじみの金哲彦さんは,この大会で5区の区間新をマークしています。

1978年 第54回大会

3日の関東地方は夜半からの雪が本降りになり,三が日としては観測史上初の大雪となりました。

この雪の影響で火薬が湿ってしまったのか,復路のスタート合図のピストルが鳴らない珍事が発生。被害者は往路優勝の順天堂大を2分57秒差で追う2位日体大の坂本。しかし,このアクシデントにも動揺せず,区間賞の走りで差を1分6秒詰め,逆転V2の足がかりを築きます。

さらなる珍事が7区で発生しました。日大の7区のランナーがスタート前点呼の08時30分になっても現われなかったのです。新幹線の遅れによるものでした。あわや棄権と思われましたが,東京から小田原中継所までタクシーを飛ばして駆けつけ,なんとかことなきを得ました。ウオーミングアップなしでスタートし,区間2位の好走を見せました。

ちなみに,この選手は日大の前監督でした。

1952年 第28回大会

現在では2,3日に定着している箱根駅伝ですが,かつては時期が違っていたこともあります。この年は6,7日に行なわれました。

6日の箱根は前夜からの雪が20cm積もり,小涌谷から先はチェーンを巻いた車でないと走行できない状態で,小田原中継所では関係各車がチェーンをさがしたり巻いたりとおおわらわの状態。ところが,1台のトラックがスリップして横向きになって道路をふさいでしまったため,伴走オートバイ,役員車をはじめ車両という車両は小涌園前ですべてストップ,そこから先は選手のみが走るという異例のレースになりました。

2004年 第80回大会(おまけ)

安東能明『強奪 箱根駅伝』では,2004年の箱根路に雪が降ることになっていましたが,降りませんでした。女子マネージャーの拉致監禁事件も起こらなかったし(笑)

~(M)2005/12/20~

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箱根駅伝と雪

今年も残すところ10日あまり。

お正月のテレビ番組といえば,駅伝にサッカーにラグビーと相場は決まっています。

何を隠そうσ(^^)は箱根駅伝の古くからのファンでして,中学生のころからラジオで聞いていました。谷口浩美の6区の区間新の激走は,今でも耳に残っています。

ラジオ時代は知る人ぞ知るといった感じのイベントだった箱根駅伝も,テレビ中継がはじまってからというもの,みるみる国民的行事となってしまいました。テレビで箱根駅伝が見られるようになったのはうれしい反面,あの日テレ品質のなんともタイミングの悪い,はっきりいえばヘタクソな中継(とくにカメラ切り替えや中継車からの呼びかけのタイミングがヒドい)でイライラすることも多いです。そういうこともあるので,σ(^^)はNHKのラジオ中継を聞きながら補助的にテレビを見ています。

さて,箱根駅伝はスタートからゴールまで2日にわたり合わせて10時間以上かかるレースで,しかもコースが都心,海岸,山とバラエティに飛んでいますから,自然の影響,とくに気象条件が大きな影響を及ぼすレースです。とくに雪に見舞われた大会についていくつか調べてみました。

2003年 第79回大会

復路がスタートからゴールまで断続的に雪が舞う中でのレースになりました。

気温も上がらず,6区のスタート前が-3℃,小田原中継所では1.9℃(08:50),平塚中継所2.0℃(10:00),戸塚中継所1.1℃(10:50),鶴見中継所0.7℃(12:00)でした。

1985年 第61回大会

往路優勝の早大と2位順天堂大との差は4分22秒でした。

復路のスタート前,箱根は一面の銀世界。しかも雪が降り続いていました。この雪を味方にしたのが早大の6区の赤堀で,区間3位の好走。レース後「雪景色でかえってリラックスできた」と語っています。

一方,雪に出鼻をくじかれたのが順天堂大。6区のスピードランナー羽柴は区間賞こそ獲得したものの,下りはじめたばかりの6km付近での転倒が響き,差を21秒詰めただけでした。

早大は往路の貯金を守り抜いた形で,2位順天堂大に4分28秒の差をつけて2連覇を達成しました。

ちなみに,NHKのラジオ中継でおなじみの金哲彦さんは,この大会で5区の区間新をマークしています。

1978年 第54回大会

3日の関東地方は夜半からの雪が本降りになり,三が日としては観測史上初の大雪となりました。

この雪の影響で火薬が湿ってしまったのか,復路のスタート合図のピストルが鳴らない珍事が発生。被害者は往路優勝の順天堂大を2分57秒差で追う2位日体大の坂本。しかし,このアクシデントにも動揺せず,区間賞の走りで差を1分6秒詰め,逆転V2の足がかりを築きます。

さらなる珍事が7区で発生しました。日大の7区のランナーがスタート前点呼の08時30分になっても現われなかったのです。新幹線の遅れによるものでした。あわや棄権と思われましたが,東京から小田原中継所までタクシーを飛ばして駆けつけ,なんとかことなきを得ました。ウオーミングアップなしでスタートし,区間2位の好走を見せました。

ちなみに,この選手は日大の前監督でした。

1952年 第28回大会

現在では2,3日に定着している箱根駅伝ですが,かつては時期が違っていたこともあります。この年は6,7日に行なわれました。

6日の箱根は前夜からの雪が20cm積もり,小涌谷から先はチェーンを巻いた車でないと走行できない状態で,小田原中継所では関係各車がチェーンをさがしたり巻いたりとおおわらわの状態。ところが,1台のトラックがスリップして横向きになって道路をふさいでしまったため,伴走オートバイ,役員車をはじめ車両という車両は小涌園前ですべてストップ,そこから先は選手のみが走るという異例のレースになりました。

2004年 第80回大会(おまけ)

安東能明『強奪 箱根駅伝』では,2004年の箱根路に雪が降ることになっていましたが,降りませんでした。女子マネージャーの拉致監禁事件も起こらなかったし(笑)

〜(M)2005/12/20〜

「這ってでも出てこい」

12月の第1日曜には福岡国際マラソンもあります。

1987年12月6日に行なわれた福岡国際マラソンは,中山竹通が悪コンディションの中,35kmまで当時の2.07.12の世界最高時の通過タイム1.45.40を上回るペースで快走,後半の冷たい雨(みぞれ?)でスタミナを奪われて記録更新はならなかったものの,2時間8分15秒で優勝しました。このタイムはシーズンの世界最高,歴代(当時)でも10位の好タイムで,ソウル五輪への切符を事実上手中にしました。

当初,ソウル五輪の男子マラソン代表はこの福岡国際での一発選考といわれていました。ところが, 瀬古利彦 (最近では日テレの箱根駅伝中継やその他のマラソン中継に出てきてはピントはずれなことをいってヒンシュクを買っているあの人物。“ビッコ”発言もありました)が足をケガして出場できなくなった途端に,選考は翌年3月のびわ湖毎日マラソンまでと変更される始末。このとき中山が瀬古に対し「這ってでも出てこい」といったというのは有名な話です。実際には「ボクなら這ってでも出る」といった―― という話もあります。まあ,本当は何といったかはわかりませんが,中山は怒りをこの福岡国際でぶっちぎって勝つことで示したのでした。

這ってでも出てこなかった瀬古は翌年3月13日,選考最後のびわ湖毎日マラソンに出場,優勝はしたもののレース内容はシロウト目にも評価に値しないレベル。タイムもごく平凡なら(2時間12分41秒), 35-40kmのスプリットが17分01秒というのは,いくら向かい風だったとはいえ女子マラソン並みです。もう瀬古の時代は終わっていたのでしょう。それでも昔の名前でソウル五輪に出ましたが,予想どおりの惨敗に終わりました。

〜能天気Express 2006/12/02〜

伝説の雪の早明戦

1987年12月6日,低気圧が発達しながら鳥島付近を通過,この低気圧に向かって北東から冷たい空気がはいってきました。このため,東京は最低気温0.9℃と冷え込み,前夜からの雨が06時から雪に変わりました。

これがこのシーズンの初雪で,戦後では1962年に次いで2番目に早い初雪です(当時)。そして,09時には積雪2cmを記録しました。東京以外の積雪は,八王子2cm,宇都宮4cm,軽井沢25cm,日光23cm,秩父7cmなどとなっています。

この雪の影響で,奥多摩有料道路が09時から全面通行止めになったほか,東北,関越,常磐などの自動車道路でも一時チェーン規制や速度制限が行なわれました。

東京で雪が降ればおきまりの相次ぐおむすびコロリンスッテンコロリン。東京消防庁の調べでは,この日だけで28人が重軽傷を負いました。σ(^^;)は,大のおとながこれしきの雪で滑って転ぶのがいまだに信じられないのですが。

神宮外苑では,ほどよい感じで雪が降り,「思わぬ都心の雪景色に若者たちはちょっぴり“ロマンチック気分”」(毎日新聞)

初雪のデートといえば,サンさまだかヨンさまだかゴさまだかロクさまだか知りませんが,そんな名前のマッチョ男優(書いてから気づいたのですが,“男優”はアレもののビデオ以外ではあまり使わないような気も(^^;))のあのドラマの有名なシーンらしいです。あちらには“初雪のときに好きな人と一緒にいると結ばれる”というような迷信があるそうで,あのシーンにはこの迷信が背景にあるのでしょう。最近では初雪の日にはケータイの回線がパンクする――という話も聞いたことがあります。

ついでに大晦日,チュンサンとかいう高校生が交通事故で死んだことになっていますが(ちょっと違うかも),これは大晦日というのがポイントです。大晦日は年の境界なので時空の裂け目が現われるという古くからの民族的な信仰があり(あの国にもあるのかどうかは知りませんが),のちの展開が暗示されているような気がします。それにしてもあの国の高校では元旦に学校に行くことになっているのでしょうか。

なお,σ(^^;)はキムチが大っ嫌いなので,あの国のキムチの悪臭漂うドラマは見ません。ついでにひとこと,キムチ食ったら電車に乗るな!!あんな臭いものが人の食いもんとは思えんが。

ところで,明日は12月の第1日曜日。12月の第1日曜日といえば,ラグビー早明戦です。

今では12月の第1日曜と決まっているようですが,以前は12月の第1日曜以外に行なわれたこともあり,例えば1957年と1973年などは12月の第2日曜に行なわれています。

1987年12月6日は12月の第1日曜でした。国立競技場は一面の雪――。しかし,何があろうと中止にならないタテマエのラグビー,中止にしてはなるまじと約200人が雪かきに動員され,なんとかキックオフができる状態にこぎつけました。ビデオで見ると,それでもグラウンドのあちこちに雪が残っています。

コンディションがコンディションだけにミスも多く,好試合だったとは必ずしもいえませんが,歴史に残る名勝負だったことは確かです。とくに最後の10分などはいまビデオで見ても力がはいります。

試合は,先制した早稲田が一時は逆転されたものの今泉の2つのペナルティーゴールで再逆転,最後の明治の重量フォワードの猛攻を必死のディフェンスで凌ぎ,10-7で逃げ切りました。

早稲田はこのシーズン,大学選手権も制し,さらには日本選手権で東芝府中も破り,学生としては(おそらく)最後の日本チャンピオンになりました。ちなみに,このときのNo.8が清宮・早稲田大前監督です。

なお,ラグビーが何があろうと中止にならないというのは,あくまでタテマエです。それが証拠に,1996年2月18日には雪のために日本選手権の決勝が順延,1998年1月には同じく雪のために日本選手権の1回戦が順延になっています。また,1989年1月にはおよそ説得力があるとは思えない理由で全国高校大会の決勝は中止,大学選手権の決勝は順延になりました。

〜能天気Express 2006/12/02〜

オリンピックにプロレスを

オリンピックの種目にぜひプロレスを加えて欲しいです(爆)

盛り上がりますよぉ。

まあ,国別対抗というのにかなり無理がありますが。

でも,キムチ人が凶器を持って乱入とか,似合いすぎる……(笑)
あとキムチ人に買収されたレフェリーがキムチ人に味方するなんてのも,ありえる展開。というより,必然的に起こるでしょう。

五輪で見たいシーン

北京五輪は今日が事実上の開幕ですね。

最も見たいというわけではありませんが,柔道の谷亮子とかいうのが惨敗するシーンがぜひ見たいです。どういういいわけをするかを含めて。

こういう人,けっこう多いんでは?(笑)

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シムソンズが準優勝!!

2005年11月27日,結成して2~3か月(ひょっとして1~2か月かも)しかたっていないはずのシムソンズが第18回北海道女子カーリング選手権大会で準優勝しました。

決勝は3連覇を狙う北見エンジェルスを相手に,前半は大きくリードを許したものの第6エンドで3点をゲット(最後はダブルテイクアウトだったかな?),続く第7エンドでも2点スチール(のはずだけど,なぜかこのエンドも後攻だったような気が……)して同点に追いつき,第8エンドは相手に1点を取らせ第9エンドをブランクにして最終エンドでラストストーンをキープするという前日はじめて1点を取ったチームとは思えない高等戦術を見せ,最後の一投に逆転をかけましたが,レイズヒットがわずかに外れ,6-8で惜しくも敗れました。

とはいっても,映画「シムソンズ」の中での話です。実際のシムソンズは2002年12月に解散しています。シムソンズのメンバーだった小野寺さんと林さんがチーム青森を率いて去年のトリノ五輪に出場し旋風を巻き起こしたことは記憶に新しいところです。

そういえば,この決勝戦を解説していたかたは今年の9月になくなりました。

ついでに,映画のシムソンズのメンバーは全員女優さんですが,北見エンジェルズのメンバーはほとんど(全員? スキップだけ女優さん?)が常呂町のエキストラで,その中に現・チーム青森のメンバーがひとりいます。

ジョホールバルの歓喜と落雷

AD1997/11/16 W杯フランス大会アジア地区第3代表決定戦(マレーシア,ジョホールバル),日本が延長後半13分,中田のシュートのこぼれ球を野人岡野が蹴りこんで,Vゴールで3-2でイランを破り,W杯初出場を決める=「ジョホールバルの歓喜

σ(^^;)はこの試合を大阪のホテルでたこ焼きを食べながら見ていました。大阪のたこ焼きが美味いとは限らないことがよくわかりました(笑)

7年後の2004年9月21日,同じジョホールバルのスリグラムスタジアムで,U-19日本代表が危機一髪!!という落雷事故に見舞われました。

 U-19日本代表が危機一髪! アジアユース選手権マレーシア大会(24日開幕)に向けた練習で、グラウンドに突然の落雷。練習を打ち切り、宿泊ホテルに緊急撤収した。

 雷鳴がとどろく中でセットプレー練習を続けていた、その時だった。一瞬の閃光(せんこう)と同時に体に電流が走る。約30メートル離れた照明灯への落雷。選手はぼう然と立ち尽くした。スタッフが慌てて近くにある小屋に避難させ、大熊監督が「ホテルに戻るぞ! 着替えも(クール)ダウンもしなくていい」と約40分間で練習中止を宣言した。(日刊スポーツ2004/09/22)

このスタジアムでは1992年に落雷死亡事故が起こっており,ジョホールバルの歓喜の舞台となったラルキン・スタジアムでも歓喜と同じ1997年に落雷死亡事故が起こっているとのことです。