旅立ちの日に

明日から3月。3月といえば卒業式シーズンですか。

卒業式といえば,最近の卒業式ソングの定番はこれだそうですね。

もともとは1991年に埼玉県秩父市立影森中学校の教員によって作られたローカル曲でしたが,今では全国区の合唱曲になっています。

影森中学校には歌碑が建っています。

ちなみにこの写真は2010年に撮ったもので,当時は自由にはいれました。今は知りません。ぜひ実物を見たいという人は気をつけて下さい。

また,秩父ミューズパーク旅立ちの丘があるそうで,秩父ミューズパーク – 旅立ちの丘によると,

このモニュメントは、展望デッキとなっていて、メロディーが流れる通路を進み、先端のステージでは、誕生の舞台となった影森中学校の生徒によるコーラス (H17年12月:音楽堂にて録音)が流れます。 また、モニュメントの手すりは五線譜をイメージ、ここに夢や希望のことばを書き込んだ「土鈴」「絵馬風の木札」を音符のように吊すことができます。

とのことです。秩父にはときどき行きますが,ここには行ったことがないです。

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26年前の今日(1989年)

1989年2月24日,東京地方は冷たい雨で明け,ところどころで雪が混じる寒さになりました。大手町の最低気温は2.3℃。武蔵陵墓地のある八王子では,明け方から08時まであられ,その後雨に変わり,正午の気温は3.3℃でした。

この日,都心は道路も繁華街もガラガラ。夕方になってぼちぼち混みはじめましたが,いつもの金曜日ほどではありませんでした。

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以上,20年前の今日(1989年) | Notenki Express 2014を少し書き換えただけの手抜き記事でした。

昨日,地震雲を見たという話

相次ぐ東北沖震源の地震 引き続き注意を NHKニュースより一部引用:

17日の午前と午後、東北の太平洋側の沖合を震源とする地震が相次ぎ、午前の地震では、岩手県の沿岸で最大で20センチの津波を観測したほか、午後の地震では、青森県で震度5強の強い揺れを観測しました。
いずれも、4年前の巨大地震の余震とみられ、気象庁は引き続き注意を呼びかけています。

気象庁によりますと、17日午前8時6分ごろ、三陸沖を震源とする地震があり、岩手県、青森県、宮城県、それに秋田県の各地で震度4の揺れを観測したほか、北海道から東海にかけての広い範囲で震度3から1の揺れを観測しました。
この地震で気象庁は一時、津波注意報を発表し、岩手県の久慈港では高さ20センチの津波を観測しました。
気象庁によりますと、震源地は三陸沖で、震源の深さは10キロ、地震の規模を示すマグニチュードは6.9と推定されています。
また午後1時46分ごろには、岩手県沖を震源とする地震があり、青森県階上町で震度5強の揺れを観測したほか、岩手県普代村で震度5弱の揺れを観測しました。
また震度4の揺れを、青森県八戸市、岩手県の盛岡市、宮古市、久慈市、二戸市、八幡平市、滝沢市などで観測したほか、北海道と東北、関東、それに新潟県の各地で震度3から1の揺れを観測しました。
この地震による津波はありませんでした。
気象庁の観測によりますと、震源地は岩手県沖で、震源の深さは50キロ、地震の規模を示すマグニチュードは5.7と推定されています。

それに,これが今日の地震の予兆だとしたら,どうしてこんなあさっての方向にあらわれるんでしょうね?(笑)

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謎の“春一番名付けの日”

例えば春一番 – Wikipediaに次のようにあります。

なお、「春一番」という語の新聞での初出は、1963年(昭和38年)2月15日の朝日新聞朝刊での「春の突風」という記事であるとされ、このため2月15日は「春一番名付けの日」とされている。

というわけで,今日は春一番名付けの日なのだそうです。

しかし,もうすぐ春一番? | Notenki Express 2014で書いたように,“春一番”は1962年2月11日にすでに新聞に登場しています。こんなことは新聞をちょっと検索すればわかることです。

もうすぐ春一番?では朝日新聞の記事を紹介したので,ここでは読売新聞の記事を紹介しておきます。

気象庁の話では発達した低気圧が日本海を東に進み,いわゆる“春一番”ということしはじめての南風が吹きこんだのが原因。

“春一番名付けの日”については誰が名づけたのかわかりません。Wikipediaにはいちおう出典が載っているっぽいですが,現在ではリンク切れです。いずれにしてもある程度広まっているということは根拠不明のネタをネットから拾うだけの人間が多いということでしょうねえ。

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今日の土曜ワイド劇場は法医学教室の事件ファイル40

今日の土曜ワイド劇場は法医学教室の事件ファイル40回記念作と銘打っています。土曜ワイド劇場で40回に達したシリーズはこれと西村京太郎トラベルミステリー(十津川警部シリーズ)だけです。サブタイトルは“娘に捧げる犯罪!?疑惑の母は警察学校教官!!女医が暴くタイヤ痕とスケッチブックの秘密”。

「法医学教室の事件ファイル」はもともと木九に放送されていました。土曜ワイド劇場に引っ越してきたのは1994年7月9日ですが,そのときのシリーズタイトルは新・法医学教室の事件ファイルで,第5作から“新”がとれて今のシリーズ名になっています。

今回は40回記念作などと謳って23時21分までの放送になっていますが,このシリーズはもともと無駄に長いことが多く,今回もただ長いだけと予想します。

毎回,早紀先生がひとりで突っ走って犯人ともみ合いになるところで時間を調整しているような感じです。どうせ二宮警部が助けに来るとわかっている上に,犯人と逮捕術のシロウトである大学准教授との“格闘”に時間稼ぎ以上の意味があるとは思えず,退屈なだけです。

木九時代から見ている立場からすると,あえて40回記念作と銘打つならば,かつてのレギュラー,例えば早紀先生の妹やノリちゃんが出てくるとか,殉職した水村刑事の関係者が出てくるとか(またはせめて水村刑事の話が出てくるとか)だとうれしいんですけどねえ。

「法医学教室の事件ファイル 40回記念作」のあらすじ

テレビ朝日|土曜ワイド劇場より:

 二宮早紀(名取裕子)は港南医大・法医学教室の准教授で、神奈川県警から監察医を委託されている。夫の一馬(宅麻伸)は横浜東署の警部で、2人の間には新米新聞記者として奮闘中の息子・愛介(佐野和真)がいる。また、一馬には七海(由紀さおり)という叔母がいて、時々二宮家内を引っ掻き回すので、早紀にとってはありがたい相手ではない。

 ある夜、山下公園を通りかかった早紀と一馬はひったくりの現場に遭遇する。被害者は日本画家の寺沢瑠璃(小沢真珠)で、老舗呉服メーカー社長・宮永誠(原田龍二)とデザイン画の受け渡しをしていたところだったという。犯人は瑠璃の左手を切りつけ、バッグを奪い去っていった。
 すぐに瑠璃のマネージャー・中川知子(遊井亮子)が駆けつけたが、知子は物陰で事態を見つめるひとりの女を見つけ、「私の後をつけてきたの?」と強く反発する。その女性の顔を見て、一馬の部下・谷村刑事(田中幸太朗)はビックリする。警察学校時代の恩師・西脇則子(高橋ひとみ)だったのだ。則子は「個人的にある事件を調べている」とだけ話し、その場を去った…。

 翌朝、早紀は大学構内で、則子が附属病院の精神科医・山口玲子(舟木幸)に詰め寄っているところに出くわす。則子は、玲子の患者が受けた催眠療法の詳細を教えてほしいと訴えていたようだったが、携帯電話に緊急のメールが入ったらしく、あわてて帰って行った。
 ところがその日の午後、変死体発見の知らせを受けて現場に急行した早紀は、驚愕する。なんと則子が、第一発見者だったのだ――! 殺されていたのは高校美術教師・野々村郁恵(建みさと)で、則子は郁恵の部屋を訪ねた直後、ドアの陰に隠れていた何者かにクロロフォルムをかがされて気を失い、目覚めたときは仰向けになった郁恵の死体の上に、あたかも自分が胸倉をつかんで押し倒したような格好で覆いかぶさった状態だったと証言する。
 則子は一馬たちの事情聴取に対し、5カ月前、娘の美里(川上ジュリア)が溺死した事件を調べていたことを打ち明ける。美里は瑠璃に弟子入りしており、師匠である瑠璃や友人の郁恵、マネージャーの知子たちと川に行った際、風に飛ばされた郁恵の帽子を拾うために川に入って溺れたとされていたが、彼女の死に責任を感じ、港南医大の心療内科に通いはじめた郁恵から、先日ある真実を明かされたのだという。
 郁恵は、臨床心理士・飯島伸一(長谷川朝晴)の催眠療法によって失われていた記憶がよみがえったと話し、美里は何者かによって頭を抑えられ、溺死させられたと告白したのだ。だが、郁恵はその犯人が誰だったのかまでは思い出すことができず、則子は瑠璃や知子らに話を聞いてまわっていたらしい。

 しかし、現場近くの郵便ポストの中から血のついた手袋が入った則子宛ての封筒が見つかり、さらには事件前夜、則子と郁恵が激しく言い争っていた目撃証言など、則子の犯行を疑う事実が次々と判明。谷村は深いショックを受ける…。
 ところが、早紀が郁恵の遺体を解剖した結果、おかしなことが発覚する。郁恵は青銅の置き物に後頭部を打ちつけた格好で発見され、確かに死因は鈍器による脳挫傷であることは断定できたのだが、なぜか両膝下の後十字靭帯が断裂していたのだ。郁恵は仰向けで発見されたが、実はうつ伏せで倒れ、その際に後十字靭帯が切れたのではないか…!? 早紀は、郁恵を殺した犯人が則子に罪をきせようとして現場を偽装したと考えはじめるが、その後また新たに関係者が殺害される事件が起き、則子への疑いはますます深くなっていき…!?

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東京の2月の大雪 (part 2)

東京の2月の大雪 (1~3位) | Notenki Express 2014に引き続き,東京での2月の大雪によるドタバタです。ただし今回はランク順ではなく年代順に見ていきます。

去年の8日,14日を真っ先に取り上げるのがふつうなのでしょうが,最近のことには興味がないのでここでは取り上げません。

1951年2月15日

この日,東京で歴代4位となる積雪33cmを記録しました。

朝日新聞によると,状況は次のとおりです。

中央気象台十五日午前二時発表=八丈島付近にある九七六ミリバールの強い低気圧はますます発達しながら毎時五十キロの速さで北東に進んでいる。このため東京地方は風速二十五メートルを越(ママ)える暴風雪となり,瞬間風速は三十メートルを越(ママ)えるところもあり,積雪量は三十センチを越(ママ)え,各所に深い雪だまりを作っている。

ここまで中心気圧の低い低気圧が関東南岸を通過することはあまりなく,中央気象台でも「東京地方では前代未聞」として注意を呼びかけていました。

この暴風雪のため,東海道線はストップ,4年ぶりに都電にラッセル車が出動しましたが,一部ラッセル車もきかない箇所もありました。

時間は前後しますが,19時ごろ,上野公園のスロープにスキーヤーが数人現われ,「汽車節約のゲレンデ」とシャレこんでいたものの間もなく猛吹雪で退散したそうで(朝日新聞より),見かけによらず根性なしの連中でした(笑)

また,時間帯はよくわかりませんが,銀座でもスキーが楽しめたそうです。

暴風雪は15日朝には過ぎ去り,春の日が射して気温は7.1℃まで上がり,雪の街は一転して泥の街と化しました。丸の内,浅草などの映画館は午後からの営業となりましたが,出勤してもろくに仕事のないサラリーマンや休講の学生などでけっこう賑わったそうです。また,この日デパートでいちばん売れたのはスコップだったとか。

1967年2月10~12日

10日未明から降りはじめた雪は,南岸に前線が停滞したこともあり,12日まで降り続きました。降雪の深さは10日2cm,11日16cm,12日6cm,最深積雪は10日1cm,11日17cm,12日21cmとなっています。

また,北高型の気圧配置のために北から冷たい空気が下層に流れ込んできて気温が上がらず,11,12日の最高気温はそれぞれ0.0℃,-0.2℃で,これは1956年以降,東京の低い最高気温の2位と1位の記録です(気象庁天気相談所調べ)。また,2日連続で最高気温が0℃以下というのはもちろん新記録で,これ以降もありません。

この雪のため,羽田空港は一時全面閉鎖,“空港雪原”の上を除雪車が雪煙を上げながら走り回っていました。例によって東海道新幹線は遅れが相次ぎ,国電も運休が続出しました。

熱海では,交通止めで立往生したドライバーが通常1泊2000円程度の中級旅館に泣く泣く6000~8000円も払って宿泊する姿も見られました。

12日の東京競馬は中止となり,これは中央競馬会発足以来初の雪による東京競馬の中止となりました。ちなみに,東京競馬以外では中京競馬が1965年12月に雪のために中止になっています。

明けて13日は朝から久々の青空が広がりましたが,最低気温は-4.0℃まで下がり,国電各線は冷え込みと積雪のためにポイント故障やドア故障が相次ぎ,連休明けの通勤の足が大混乱しました。

1994年2月12日

最深積雪は1969年以来となる23cm。去年2週連続で最深積雪27cmを記録するまでは最近ではいちばんの大雪でした。例によって交通は大混乱,佳境にはいっていた大学入試も大きな影響を受けましたが,3連休の最中であったため,雪の量の割には混乱は少なかったようです。

ちなみに,σ(^^;)は食料調達のほかはずうっと家にいて,パラボラアンテナに積もった雪をはらった後,リレハンメル冬季五輪の関連番組をほとんど一日中見ていました。だから,この日の雪は単独ではほとんど印象がなく,リレハンメル五輪とつながって記憶されています。

1996年2月17~18日

17日から雪が降りはじめ,18日には最深積雪が14cmになりました。横浜では22cmを記録しています。

この雪のため15000人が参加する予定だった青梅マラソンは30回目にして初の中止になりました。

また,どんなことがあっても試合を行なうというタテマエだけは立派なラグビーの,しかも国内最高峰である日本選手権の決勝が順延になるという珍事が発生,「ラグビー本日スノーサイド」とお寒いオヤジギャグのネタになりました。ラグビーの日本選手権はこの2年後にも1回戦がやはり雪のために順延になっていますから,どんなコンディションでも試合をやるとは二度と口にできないでしょう(笑) 実際いってないようですし。

前日の17日には,北海道・豊浜トンネルの崩落によって押しつぶされたバスに閉じ込められた乗客の救出作業が行なわれ,また,ニューギニア近海で発生したマグニチュード8.0の地震に伴う津波警報が発表されました。それに加えての大雪で,テレビから目の離せない2日間でした。

なお,17日に雪の降る東京競馬場で行なわれホクトベガが快勝したフェブラリーSについては雪のフェブラリーS(1996年) | Notenki Express 2014をご覧ください。

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以上,東京の2月の雪 (part 2) | Notenki Express 2014を少し書き換えただけの手抜き記事でした。

東京の2月の大雪 (1~3位)

去年,東京で2月8日と14日に最深積雪27cmを記録したことは記憶に新しいところです。

平年値で見ると,東京で雪が降ることがもっとも多い月は2月で,3.7日となっています。また,2月には最深積雪が10cm以上の日数が0.4日あります。ということは平均すると2~3年に1日は10cm以上積もる日があるということです。そして10年に1日は20cm以上積もります。

さらに東京の月最深積雪の1位から4位までは2月に記録されています。

ということで,東京の月最深積雪の歴代1位から3位までを見てみましょう。

東京の最深積雪1883年2月8日

東京でもっとも雪が積もったのは1883年2月8日のことです。このときの積雪は46cmと記録されています。

1883年2月9日付の東京日日新聞によると,7日の02時ごろからみぞれが降り出し,05時ごろから雪になりましたが,そのころはまだ「降るより先に早く解たれば」ほとんど積もりませんでした。ところが,夕方から冷たい北風が吹き出し,「泥道の氷の上に降積りて夜半許には一尺の上に満たるが此頃より風が益ゝ荒く雪が彌ゝ降頻りて……」という状況になりました。そして翌日は一面の銀世界。

戸外に出れば扠も降積みにけり。軒下の雪除ある所にても三尺に近く満たれば況て往来の風の吹溜る所(?)にては五尺より六尺にも及びたらんか

ちなみに,大坂(当時)でも「実に二十年以来の大雪」だったようで,12日付の東京日日新聞によると,7日午後6時から降りはじめ,8日午前6時には「大坂市中の積雪一尺一寸余」積もったようです。

“尺”とか“寸”とかいった単位に時代を感じます(笑)

ちなみに,翌日の9日には白木屋の来客が0人という椿事が発生しました。白木屋,来客0人(1883年) | Notenki Express 2014をご覧ください。

1945年2月22日

東京の歴代2位の積雪は,1945年2月22日に記録した38cmとなっています。しかし敗戦が決定的になっていた時期のせいか,気象管制がなされていたせいか,裏表の2面しかない紙面のせいか,新聞には記事が一切ありません。翌23日付の朝日新聞の第1面には

神風特攻隊第二御楯隊二空母を撃沈す
空地呼應硫黄島の敵に痛撃

などの空しいというか痛々しい文字が見えます。

ちなみに,この月の25日から26日にかけてもかなりの降雪があったようですが(最深積雪等はそのうち調べますm(_ _)m),この日米軍によるはじめての東京への大規模空襲がありました。

1936年2月

東京の歴代3位は,1936年2月23日に記録した36cmとなっています。

実は同じ月の4日に31.5cmの積雪があり,「四十九年来の暴風雪」「悽愴,雷電を加へて狂乱」「全市の動脈停止す」「白魔の蹂躙・帝都を闇に化す」などと新聞に書かれていました。

この大雪がいい教訓になったのか,新聞で見るかぎり,23日のほうが積雪が多かったにもかかわらず,混乱は少なかったようです。新聞には「徹夜で護るレール」「東鐵は熱湯戦術」「市電でも終夜運轉」などの見出しがあります。

4日のときにはホテル替わりにされてしまった各劇場も,いい教訓――というより懲りたのか,さっさと閉場時間を切り上げてしまったようです。

なお,この23日の雪は気温が上がらなかったために26日まで残り,二・二六事件で反乱軍が踏みしめた雪になっています。一部の歴史書にある「25日の夜半から東京は30年ぶりという大雪が降りはじめた……」などという記述はデタラメです。東京では24日から26日の朝まで降雪は観測されていません。

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湾岸道路を走る馬 (1987年)

1987年2月2日の昼すぎ,船橋競馬場から6歳牝馬のモーガンセイコーが逃げ出しました。

真しぐらに通称湾岸道路に入り,ギョッとするドライバーをしり目に得意のコーナリングで交差点を右折。市道を全力疾走したあと2キロ先の国道14号わきで足が止まり,約15分間の「場外レース」は幕を閉じた。(3日付朝日)

翌1988年に川崎競馬場から逃げ出してソープ街を爆走したイナズマライデン(稲妻走り,雷電光る | Notenki Express 2014)や,1996年に大井競馬場を逃げ出して首都高を暴走したスーパーオトメ(高速道路を走る馬 | Notenki Express 2014)ほど話題になりませんでした。

なお,モーガンセイコーは父ハイセイコー,母カズノロータス,母父ヴエンチア,母系はアステリヤに遡るという血統で,1983年から1987年まで南関東で77戦して8勝,2着8回,3着8回という成績でした。

以上,湾岸道路を走る馬 | Notenki Express 2014に若干加筆しただけの手抜き記事でした。

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