文永の役と“台風”

対馬壱岐を蹂躙した元軍が博多に上陸したのは文永11年10月20日のことでした(先遣部隊は前日に上陸していたらしい)。この日は現行のグレゴリオ暦では1274年11月26日になります(ユリウス暦では11月19日)。そして次の日の朝,元軍は博多湾からいなくなるわけですが,これについて弘安の役同様に“台風”によるものといわれてきました。しかし,そうではなかったと考えるほうが自然です。

まず,この時期にお誂え向きに台風がやってくる可能性ははなはだ低いです。確かに11月30日に上陸した1990年の台風28号のようなケースもありますが,これはきわめてまれな例です。というわけで“台風”といわれるのは実は“温帯低気圧”なのでしょうが,以下,温帯低気圧である可能性を含めて“台風”と書くことにします。

“台風”が来たと記載した信頼できる日本側の記録は,実はないそうです。“台風”説の根拠とされる『勘仲記』には

或人云去比凶賊船数万艘浮海上而俄逆風吹来

とあるだけですし,『八幡大菩薩愚童訓・筑紫本』には

夜明ケレハ廿一日之朝海之面ヲ見ニ蒙古之舟共皆馳テ帰ケリ是ヲ見テコハ如何ニ此方ハコナタヘ彼方ハカナタヘ後合ニ落ル事コハ何事ゾ今日ハ九国ニ充満シテ人胤モ無ク滅ビナント終夜歎合シニ如何ニシテ角ク帰ラン是者只事ナラヌ消息泣笑シテ色メキテ人心付キニケリ

とあるだけで,“台風”の影響についてはひとことも触れていません。

大船団が“台風”によって沈んだのならば大量に漂流物が残るはずですが,そのような記述もありません。

一方の『高麗史』には13500人あまりが還らなかったという記述がありますが,前後から考えて,兵を撤退した後に暴風雨に遭い,多くの損害を出したと見るのが自然です。

元軍の事情はどうあれ(意図的か,支えられなくなってか),自ら撤退したというのが真相で,“台風”(実体は急速に発達する温帯低気圧。いわゆる“爆弾低気圧”)に遭ったのはその帰路のことでしょう。

というわけで今では“神風説”はほとんど影を潜めているようです。エリック・ドウルシュミート『ウェザー・ファクター―気象は歴史をどう変えたか』でほとんど無批判に“神風説”が採用されているのは,筆者の調査不足か偏見によるものでしょう。

ところで,5年前,NHKの大河ドラマで「北条時宗」が放映されていました。かなりメメしくてオープニングもダサくて,合戦シーンもショボくて,視聴率が↓↓だったのも納得です。ただ,文永の役での元軍の“消滅”は なるほど!! でした。