濃霧の紫雲丸衝突事故

51年前の今日,国鉄宇高連絡船「第八紫雲丸」が貨物船「第三宇高丸」と衝突,168人が犠牲となる事故が起こりました。

瀬戸内海は平均的に見ればそれほど霧の発生しやすいところではありませんが,5月から梅雨の時期にかけては温かく湿った空気と冷たい空気とが混ざり合ってできる混合霧が発生しやすくなります。

1955年5月11日,濃霧の中,紫雲丸が乗客781人と乗組員63人を乗せて高松港鉄道第一岸壁を出港したのは6時40分でした。そして16分後の6時56分に第三宇高丸と衝突,わずか5分後に横転・沈没しました。

3403616

事故の原因は紫雲丸の船長がやってはいけない左転をやったためとされていますが,σ(^^;)は疎いので,これ以上は触れません。このあたりのことについては萩原幹生『紫雲丸はなぜ沈んだか』(成山堂書店)が詳しいです。

犠牲者168人のうちの100人は修学旅行の生徒でした(そのうち81人が女生徒)。ほとんどは衝突後に自分の荷物を取りに船室に戻って犠牲になったようです。

当時はまだ物質的に貧しかった時代,子どもを修学旅行に行かせることは多くの家庭にとって大きな経済的負担でした。子どもたちはそのことをよく理解しており,この日のために揃えてもらったバッグや水筒,家族のために自分で買ったおみやげがきっとかけがえのないものに思えたのでしょう。修学旅行生の中でも女の子の犠牲が多かったのは,体力的な問題,水泳教育の問題のほかにも,こんなところにも原因があったものと思います。

衝突から沈没までわずか5分間だったにもかかわらず多くの人が救出されたのは,第三宇高丸の乗組員の救助活動によるところが大きかったようです。

ところで,当時の天気図を見ると,国際情勢から,中国の気象データがすべて空白になっています。西のほうの正確な気象情況がわからないというのはいってみれば見えないところから石が飛んでくるようなもので,このような条件下で天気図を解析して予報を組み立てなければならなかった当時の予報官の苦労が偲ばれます。