稲村ヶ崎の奇跡

鎌倉」と題する唱歌があります(芳賀矢一作詞)。鎌倉の観光ガイドのような長い歌で,次の歌詞ではじまっています。

七里ヶ浜の いそ伝い
稲村ヶ崎 名将の
剣投ぜし 古戦場

ここに歌われている名将とは,もちろん新田義貞です。元弘三(1333)年五月,稲村ヶ崎まで怒濤の勢いで攻めのぼってきた新田義貞も,天然の要害,鎌倉への侵入路を捜しあぐねていました。五月二十一日の夜半過ぎ,意を決して稲村ヶ崎の浜で数万の自軍を背にしてひとり馬から降り,兜を脱いで沖合いを伏し拝み,龍神に祈りを捧げます。

……仰願ハ内海外海ノ竜神八部,臣ガ忠義ヲ鑒テ,潮ヲ万里ノ外ニ退ケ,道ヲ三軍ノ陣ニ令開給ヘ

祈りおわって,黄金づくりの太刀(いつどこで準備したんでしょう?)を海中に投じると,なんと不思議なことに,今まで潮の干いたことがない稲村ヶ崎の海が二十余町にわたって干いたではありませんか。こうして生じた干潟から義貞軍は一気に鎌倉に攻め入り,鎌倉幕府の要人はもはやこれまでとほとんどが自害。ここに鎌倉幕府は滅びるのです。

以上は『太平記』に載っている話ですが,どこまでが事実なのでしょうか? 果たして潮が干いたのはほんとうなんでしょうか?

これについては諸説あり,いちばんもっともらしい(とσ(^^;)が以前思っていた)のは,義貞は潮の満ち干を知っていて,士気を鼓舞するためにひとり芝居を演じたという説です。

ところが,この説には致命的な欠点があります。この日は旧暦の五月二十二日ですから,稲村ヶ崎あたりの干潮は午前2時から3時ごろです。したがって潮が干いたのは事実でしょうが,これはいつでも起こっていることで,“今まで潮の干いたことがない”稲村ヶ崎が干上がったことを説明できません。それに上州育ちの義貞が潮の満ち干についてそれほど詳しかったとも思えません。

さらに,潮が干いたあとは歩きにくく,海というものに慣れていない上州の軍勢がスムーズに通れたかどうか疑問です。江戸時代の詠史川柳に

義貞の勢はアサリを踏みつぶし

というのがあります。

ということで,ドラえも~ん,なんとかしてよ~とタイムマシンでも借りない限りほんとうのところはわかりませんが,σ(^^;)的にはこの話は作り話で,義貞軍の本軍は稲村ヶ崎を通ったのではなく,別のところを通って鎌倉に攻め込んだのだと思います。

ただ,義貞軍本隊が化粧坂路を進んでいたころ,大館宗氏率いる右翼軍の一隊が由比ヶ浜を突破しており(ただし,大館宗氏はその後の戦いで討死),このときにひょっとして潮が干いたのを利用したのが,話を面白くするためか軍記物にありがちな針小棒大癖のためか誤ってか義貞軍本隊の話として伝えられたのでは……と思えないことはありません(根拠はないです)。

ところで,鎌倉といえば,大仏です。唱歌「鎌倉」にもあります。

♪極楽寺坂 越え行けば
長谷観音の 堂近く
露座の大仏 おわします

ここに歌われているように,奈良の大仏さんと違って鎌倉の大仏さんは露座,早い話が雨ざらしです。

もちろん,つくられた当時は大仏殿のようなものがそれなりにあったようです。ところが,3回の大風(そのうちの1回は『吾妻鏡』に載っている台風と思われますが,他は確認していません)によって倒壊,追い撃ちをかけるように1498年の津波によって流され,それ以来露座となったのでした。

ちなみに,ここでいう津波は正真正銘の(?)津波です。以前は“津波”と“高潮”は区別されていませんでした。例えば,東京・江東区の洲崎神社に「津波警告の碑」(波除碑)がありますが,この津波は高潮のことです。はっきりと区別されるようになったのは1934年の「室戸台風」のころからです。

さて,その1498年の津波ですが,『理科年表』によると,マグニチュード8.2~8.4程度の今でいう「東海地震」に伴って生じたもので(明応東海地震とよばれています),「紀伊から房総の海岸を襲い,伊勢大湊で家屋流失1千戸,溺死5千,伊勢・志摩で溺死1万,静岡県志太郡で流死2万6千など」という凄まじい被害を引き起こしています。

大仏殿の流失はその津波による被害のひとつです。それにしても,大仏殿が流されたのに大仏さんはよく踏みとどまったものです。

ちなみに,この明応東海地震による津波で,日蓮の生家跡に建てられた誕生寺が流されて海に沈みました。しばらくして別の場所に再建されましたが,1703年の「元禄地震」(ひとつ前の関東地震といわれます)による津波で,またもや流されました。というわけで,現在,天津小湊町(鴨川市に合併したみたいです。σ(^^;)が去年の1月に行ったときはまだ天津小湊町だった)にある誕生寺は3代目という話です。「日蓮の生まれ給いしこの御堂」は海の中です(内田康夫『日蓮伝説殺人事件』参照)。

長篠の合戦

桶狭間の合戦から15年後,天正三年五月二十一日(グレゴリオ暦で1575年7月9日),徳川家康と連合して設楽原で武田勝頼を破った戦いです。

名だたる武者から組織された武田の騎馬軍団を織田の名無しさん足軽鉄砲隊が三段撃ちという新戦法で壊滅させた“戦術革命”ともいえる画期的な戦い……と最近までいわれてきた戦いです。実際には,武田の「騎馬軍団」も織田鉄砲隊の「三段撃ち」もなかったし,まして“戦術革命”をもたらしたといえるような戦いではありませんでした。

ちょっと馬の歴史を調べればわかるように,当時の日本の馬はかなり小さく,平均すると120~140cm程度の体高で,現在では“ポニー”とよばれる大きさでした。有名なところでは,宇治川の先陣争いで名を馳せた佐々木四郎高綱の生喰《いけずき》は145cm,源義経が乗ったと伝えられる青海波《せいがいは》は142cmでかなり大柄な部類ですが,それでも160~165cm程度である現在のサラブレッドとは比べるのもかわいそうなくらいです。しかも体重は220~260kg程度で,今のサラブレッドのせいぜい半分です。さらに,当時まだ蹄鉄は使われていませんでした。

このような“ポニー”が蹄鉄なしで重武装の武者を乗せたりしたら,そもそも戦場を駆け回れるかどうかわかりませんし,かりに戦場を駆け回れたとしても,すぐにバテてしまってとても“いくさ”にならなかったのは,火を見るより明らかです。しかも当時は去勢の習慣がなかったため(なぜか日本だけらしい),気性の激しい馬が多く,整然と隊伍を組んで命令一下突撃などできたのか,はなはだ疑問です。

戦国時代になると,馬に乗って戦場にやってきても,馬から降りて戦うことが多くなっていました。武田軍の中に馬に乗って織田陣に切り込もうした武者はいたかもしれませんが,とても「騎馬軍団」などといえる集団ではなかったはずです。

話が馬のほうにヨレてしまいましたが(ブリンカーをしたほうがいいかな(笑)),合戦の前日は一日中雨が降っていました。戦いの舞台となった設楽原は水田地帯で,この雨のため泥沼と化して足場がたいへん悪くなっていました。合戦の当日は朝から雨が上がりましたが,足場が悪いのには変わりなく,20kgにもおよぶ甲冑を着込んで,5kgほどもある鉄砲を撃ち,撃ったらその鉄砲をかついで最後方に下がって弾を込め……なんて三段撃ちを続けざまに2~3回もやったらすぐにバテてしまいます。かりにこんなことができたとすれば,それは名無しさん足軽の寄せ集めなどではなく,サイボーグのような超人的な精鋭部隊だったでしょう。別の意味で“戦術革命”だったに違いありません。