「這ってでも出てこい」

12月の第1日曜には福岡国際マラソンもあります。

1987年12月6日に行なわれた福岡国際マラソンは,中山竹通が悪コンディションの中,
35kmまで当時の2.07.12の世界最高時の通過タイム1.45.40を上回るペースで快走,後半の冷たい雨(みぞれ?)
でスタミナを奪われて記録更新はならなかったものの,2時間8分18秒で優勝しました。このタイムはシーズンの世界最高,歴代(当時)
でも10位の好タイムで,ソウル五輪への切符を事実上手中にしました。

当初,ソウル五輪の男子マラソン代表はこの福岡国際での一発選考といわれていました。ところが,
瀬古利彦
(最近では日テレの箱根駅伝中継に出てきてはピントはずれなことをいうあの人物)
が足をケガして出場できなくなった途端に,
選考は翌年3月のびわ湖毎日マラソンまでと変更される始末。このとき中山が瀬古に対し「這ってでも出てこい」といったというのは有名な話です。実際には「ボクなら這ってでも出る」といった――
という話もあります。まあ,本当は何といったかはわかりませんが,中山は怒りをこの福岡国際でぶっちぎって勝つことで示したのでした。

這ってでも出てこなかった瀬古は翌年3月13日,選考最後のびわ湖毎日マラソンに出場,
優勝はしたもののレース内容はシロウト目にも評価に値しないレベル。タイムもごく平凡なら(2時間12分41秒),
35-40kmのスプリットが17分01秒というのは,いくら向かい風だったとはいえ女子マラソン並みです。
もう瀬古の時代は終わっていたのでしょう。それでも昔の名前でソウル五輪に出ましたが,予想どおりの惨敗に終わりました。

伝説の雪の早明戦

1987年12月6日,低気圧が発達しながら鳥島付近を通過,この低気圧に向かって北東から冷たい空気がはいってきました。このため,
東京は最低気温0.9℃と冷え込み,前夜からの雨が06時から雪に変わりました。これがこのシーズンの初雪で,
戦後では1962年に次いで2番目に早い初雪です。そして,09時には積雪2cmを記録しました。東京以外の積雪は,八王子2cm,
宇都宮4cm,軽井沢25cm,日光23cm,秩父7cmなどとなっています。

この雪の影響で,奥多摩有料道路が09時から全面通行止めになったほか,東北,関越,
常磐などの自動車道路でも一時チェーン規制や速度制限が行なわれました。

東京で雪が降ればおきまりの相次ぐおむすびコロリンスッテンコロリン。東京消防庁の調べでは,この日だけで28人が重軽傷を負いました。
σ(^^;)は,大のおとながこれしきの雪で滑って転ぶのがいまだに信じられないのですが。

神宮外苑では,ほどよい感じで雪が降り,「思わぬ都心の雪景色に若者たちはちょっぴり“ロマンチック気分”」(毎日新聞)

初雪のデートといえば,サンさまだかヨンさまだかゴさまだかロクさまだか知りませんが,そんな名前のマッチョ男優
(書いてから気づいたのですが,“男優”はアレもののビデオ以外ではあまり使わないような気も(^^;))
のあのドラマの有名なシーンらしいです。あちらには“初雪のときに好きな人と一緒にいると結ばれる”というような迷信があるそうで,
あのシーンにはこの迷信が背景にあるのでしょう。最近では初雪の日にはケータイの回線がパンクする――という話も聞いたことがあります。

ついでに大晦日,チュンサンとかいう高校生が交通事故で死んだことになっていますが(ちょっと違うかも),
これは大晦日というのがポイントです。大晦日は年の境界なので時空の裂け目が現われるという古くからの民族的な信仰があり
(あの国にもあるのかどうかは知りませんが),のちの展開が暗示されているような気がします。
それにしてもあの国の高校では元旦に学校に行くことになっているのでしょうか。

なお,σ(^^;)はキムチが大っ嫌いなので,あの国のドラマは見ません。ついでにひとこと,キムチ食ったら電車に乗るな!! 臭くてかなわん。

ところで,明日は12月の第1日曜日。12月の第1日曜日といえば,ラグビー早明戦です。

今では12月の第1日曜と決まっているようですが,以前は12月の第1日曜以外に行なわれたこともあり,
例えば1957年と1973年などは12月の第2日曜に行なわれています。

1987年12月6日はなんと12月の第1日曜でした。そういうわけで国立競技場は一面の雪――。しかし,
何があろうと中止にならないタテマエのラグビー,中止にしてはなるまじと約200人が雪かきに動員され,
なんとかキックオフができる状態にこぎつけました。ビデオで見ると,それでもグラウンドのあちこちに雪が残っています。

コンディションがコンディションだけにミスも多く,好試合だったとは必ずしもいえませんが,歴史に残る名勝負だったことは確かです。
とくに最後の10分などはいまビデオで見ても力がはいります。

試合は,先制した早稲田が一時は逆転されたものの今泉の2つのペナルティーゴールで再逆転,
最後の明治の重量フォワードの猛攻を必死のディフェンスで凌ぎ,10-7で逃げ切りました。

早稲田はこのシーズン,大学選手権も制し,さらには日本選手権で東芝府中も破り,学生としては(おそらく)
最後の日本チャンピオンになりました。ちなみに,このときのNo.8が清宮・早稲田大前監督です。

なお,ラグビーが何があろうと中止にならないというのは,あくまでタテマエです。それが証拠に,
1996年2月18日には雪のために日本選手権の決勝が順延,1998年1月には同じく雪のために日本選手権の1回戦が順延になっています。
また,1989年1月にはおよそ説得力があるとは思えない理由で全国高校大会の決勝は中止,大学選手権の決勝は順延になりました。