血染めの目黒競馬場

1907年12月7日,目黒競馬場がオープンしました。今の東京競馬場の前身に当たる競馬場です。

ところがオープン初日のこの日,さっそくその後のドス黒い日本競馬を暗示するような事件が起こっています。

12月8日付の東京朝日新聞にかなりショッキングな見出しがあります。もっとも,当時の東京朝日新聞は馬券競馬反対に論調が傾いており(宣言するのは翌年1月),多少割り引いて読まなければならないですが。

非道残忍
(衆人の前に傷馬を銃殺す)

第5競走「外国産馬競走」(距離4分の3哩)のゴール直後,ベンテンという馬が前脚を骨折,転倒するという事故が起こりました。今の中央競馬なら外から見えないようにして薬殺の処置がとられるのでしょうが(ただし,ハマノパレードがそうでなかったことは比較的よく知られています。地方競馬によってはハマノパレードになされた処分と同じようなことが今でも行なわれているという話を聞きます),なんと「一外人は馬場の中央衆人の面前にて四肢を縛せしめ置き眉間にピストルを当て之を銃殺したり」(同紙)

翌8日には暴動と暴力事件(こちらは比較的有名)が起こり,9日付の東京朝日新聞には「血染の競馬場 馬札売場の大騒動」という見出しがあるのですが,これについてはまた明日ということで。

東南海地震とインチキ報道

1944年12月7日13時半過ぎ,東海道沖を震源域とするマグニチュード8.0の地震が発生しました。「東南海地震」です。『理科年表』には

静岡・愛知・三重などで合わせて死・不明1223,住家全壊17599,半壊36520,流失3129.このほか,長野県諏訪盆地でも住家全壊12などの被害があった.津波が各地に襲来し,波高は熊野灘沿岸で6~8m,遠州灘沿岸で1~2m.紀伊半島東岸で30~40cm地盤が沈下した.

とあります。

当時の新聞はどう伝えたかというと,例えば翌8日付の朝日新聞には次のようにあります。

十二月七日十五時五十分発表(中央気象台)―本日午後一時三十六分ごろ遠州灘に震源を有する地震が起つて強震を感じて被害を生じたところもある

この部分は各新聞共通です。

続いて各地のようす。なお,マイクロフィルムから複写してからスキャナで取り込んだものを読んでいる関係で判読できない文字もあるので,引用ではなく要約します(「」の部分は引用。漢字は今の漢字)。

  • 浜松……「空襲の体験を得て来た一般人の待避はまづ順調であった」浜松市内外の工場では,地震によって生産力を落としては相済まない,今日8日は平常どおりの作業を行なうばかりかさらに能率を上げようと生産増強に結束して立ち上がった。疎開学童に異常はない。
  • 静岡……県はただちに対策本部を設け,「学徒等の応援を求めて逞しき復興に乗り出した」また,賀茂郡下田町では14時30分ごろに津波があり,「浸水家屋を生じた」
  • 東海……「東海地方を襲つた七日の地震は意外な強震だったが一部に倒半壊の建物と死傷者を出したのみで大した被害もなく郷土防衛に挺身する必勝魂ははからずもここに逞しい空襲と戦ふ片鱗を示し復旧に凱歌を上げた」

当局の厳しい報道管制のために実態を曲げて伝えているのは確かですが,今の視線で読めば,隠そうとしても隠しきれない被害のようすが見え隠れしている感じです。あくまで今だからわかることでしょうけれど。

ちなみに,アメリカの大新聞などはこの地震を大きく伝え,例えば,8日付ニューヨークタイムスの1面トップには”JAPANESE CENTERS DAMAGED BY QUAKE“という大きな見出しがあります。また,9日付の同紙には

Though they disclosed that great war-production centers, including Osaka, Nagoya, Hamamatsu, Shizuoka, Nagano and Shimizu were in the destruction area, they attempted to minimize damage.

とあり,完全に見透かされています。このことだけを見ても,およそ勝てそうもない戦争だったことがよくわかります。こんな戦争をおっぱじめた首脳の責任は地球より重いです。

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