血染めの目黒競馬場2

「競馬世界」という競馬雑誌の創刊第2号(1907年12月発行)に,「目黒競馬會の混亂」と題する記事があり,次のような書き出しではじまっています。

初日はベンテンの銃殺亊件があつて,少からず看客を驚かした目黒競馬會は,二日目に,而も宮殿下の御前で,忌はしき血染沙汰を引起こしたのは甚だ遺憾な亊である

この二日目が1907年の今日12月8日です。

ここで園田実徳なる人物が登場します。目黒競馬を実質的に運営する競馬会社,東京馬匹改良株式会社の創立委員長で当時の競馬界一の実力者です。

さて,騒動の第1ラウンドは第6レース「内国産馬競走」(距離1哩4分の1)。「出立点でスターチングの信号をしない中,鐘を鳴らしたので騎手は皆鞭を加へたが途中から引返して遺直しとは馬鹿気ていた」(12月9日付東京朝日)

要するにスタートミスがあり,カンパイ。その結果,人気だったキンカザンやハクウンが敗れ,穴馬のキキョウが勝ちましたが,その馬主は岡田実徳でした。キンカザンやハクウンの馬券を買った連中は口々に「火を附けて建物を焼いて了はう」「やあい,擲つて了へ」と叫び,暴動の一歩手前。

騒動第2ラウンドは第9レース「内国産馬競走」(距離1哩2分の1)2頭立て。ハナゾノとクヰンタツのマッチレースでしたが,クヰンタツは6月の帝室御賞典を勝った名馬ハナゾノの敵ではなく,どうしてこんなレースが組まれたのか,園田実徳が恣意的にレース番組をつくっているのでは……? という不信感がありました。実際,この日の第8レースまでの内国産馬競走5レースのうち,園田実徳の持ち馬がすでに2勝を挙げていました。

こうした伏線があったため,第9レースにハナゾノが勝利した直後,檜山鐵三郎なる人物が酒気を帯びて記者席に闖入,「園田の馬は已に屡々勝てり,然るに又ハナゾノを出して勝を貪れり,こは寧ろ園田の名の為に惜しむべきに非ずや……」と演説をはじめました。記者たちが相手をしないでいると,それを見ていた群衆が檜山に同調して騒ぎ出し,場内が混乱しはじめました。そこに園田に雇われていた“馬丁”があらわれ,檜山の頭をビールびんで殴って大ケガを負わせるという流血沙汰に発展しました。

競馬会はすでにハナゾノの当たり馬券を5円の元返しで払い戻ししはじめていました。しかし群衆が「クヰンタツはもっと売れていたはずだ」と金網や木板,ガラスなどを壊しはじめたのを見て,未払い分については50銭の割り増しをつけることになりましたが,今度はすでに払い戻しを受けた人々が騒ぎ出す始末。それでも大事にはいたらなかったようで,事態はすぐに収束したようです。

ちなみに,騒動のおおもととなった園田実徳の弟が,元近衛少尉武清澄の家に養子にはいり,武彦七となります。彦七の長男芳彦の三男が武邦彦で,武邦彦の三男が武豊です。

早い話が,武豊は明治の日本競馬を恣意的に操っていた人物の一族なのです。その武豊JRAがどう遇しているかは,いわずとも明らかでしょう。

血染めの目黒競馬場

1907年12月7日,目黒競馬場がオープンしました。今の東京競馬場の前身に当たる競馬場です。

ところがオープン初日のこの日,さっそくその後のドス黒い日本競馬を暗示するような事件が起こっています。

12月8日付の東京朝日新聞にかなりショッキングな見出しがあります。もっとも,当時の東京朝日新聞は馬券競馬反対に論調が傾いており(宣言するのは翌年1月),多少割り引いて読まなければならないですが。

非道残忍
(衆人の前に傷馬を銃殺す)

第5競走「外国産馬競走」(距離4分の3哩)のゴール直後,ベンテンという馬が前脚を骨折,転倒するという事故が起こりました。今の中央競馬なら外から見えないようにして薬殺の処置がとられるのでしょうが(ただし,ハマノパレードがそうでなかったことは比較的よく知られています。地方競馬によってはハマノパレードになされた処分と同じようなことが今でも行なわれているという話を聞きます),なんと「一外人は馬場の中央衆人の面前にて四肢を縛せしめ置き眉間にピストルを当て之を銃殺したり」(同紙)

翌8日には暴動と暴力事件(こちらは比較的有名)が起こり,9日付の東京朝日新聞には「血染の競馬場 馬札売場の大騒動」という見出しがあるのですが,これについてはまた明日ということで。

東南海地震とインチキ報道

1944年12月7日13時半過ぎ,東海道沖を震源域とするマグニチュード8.0の地震が発生しました。「東南海地震」です。『理科年表』には

静岡・愛知・三重などで合わせて死・不明1223,住家全壊17599,半壊36520,流失3129.このほか,長野県諏訪盆地でも住家全壊12などの被害があった.津波が各地に襲来し,波高は熊野灘沿岸で6~8m,遠州灘沿岸で1~2m.紀伊半島東岸で30~40cm地盤が沈下した.

とあります。

当時の新聞はどう伝えたかというと,例えば翌8日付の朝日新聞には次のようにあります。

十二月七日十五時五十分発表(中央気象台)―本日午後一時三十六分ごろ遠州灘に震源を有する地震が起つて強震を感じて被害を生じたところもある

この部分は各新聞共通です。

続いて各地のようす。なお,マイクロフィルムから複写してからスキャナで取り込んだものを読んでいる関係で判読できない文字もあるので,引用ではなく要約します(「」の部分は引用。漢字は今の漢字)。

  • 浜松……「空襲の体験を得て来た一般人の待避はまづ順調であった」浜松市内外の工場では,地震によって生産力を落としては相済まない,今日8日は平常どおりの作業を行なうばかりかさらに能率を上げようと生産増強に結束して立ち上がった。疎開学童に異常はない。
  • 静岡……県はただちに対策本部を設け,「学徒等の応援を求めて逞しき復興に乗り出した」また,賀茂郡下田町では14時30分ごろに津波があり,「浸水家屋を生じた」
  • 東海……「東海地方を襲つた七日の地震は意外な強震だったが一部に倒半壊の建物と死傷者を出したのみで大した被害もなく郷土防衛に挺身する必勝魂ははからずもここに逞しい空襲と戦ふ片鱗を示し復旧に凱歌を上げた」

当局の厳しい報道管制のために実態を曲げて伝えているのは確かですが,今の視線で読めば,隠そうとしても隠しきれない被害のようすが見え隠れしている感じです。あくまで今だからわかることでしょうけれど。

ちなみに,アメリカの大新聞などはこの地震を大きく伝え,例えば,8日付ニューヨークタイムスの1面トップには”JAPANESE CENTERS DAMAGED BY QUAKE“という大きな見出しがあります。また,9日付の同紙には

Though they disclosed that great war-production centers, including Osaka, Nagoya, Hamamatsu, Shizuoka, Nagano and Shimizu were in the destruction area, they attempted to minimize damage.

とあり,完全に見透かされています。このことだけを見ても,およそ勝てそうもない戦争だったことがよくわかります。こんな戦争をおっぱじめた首脳の責任は地球より重いです。

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スペース・マウンテンの事故

※ディズニーランドが好きな人は読まないほうがよろしいかと思います。

2003年12月5日,浦安ディズニーランドスペース・マウンテンの車輪を支える車軸が折れて車輪がはずれるという事故が起こりました。安全装置が作動したためけが人はありませんでしたが,2004年2月18日まで運転は中止されました。

公的には浦安ディズニーランドでは死亡事故0ということになっているみたいですが,歴史をひもとくと,とくにスペース・マウンテンで死亡事故が何回か起こっていることがわかります。

中でも,1987年6月に元アイドル岩井小百合さんの恋人が急死した事故は有名です。ゴールに着いて小百合さんが恋人のほうを見たところ,ぐったりしていたそうです。死因は脳出血ということになっています。

とはいうものの,浦安ディズニーランドで死亡事故0というのは必ずしもウソともいえないそうで,それというのも死亡の確認は搬送先の病院でなされるからです。でも,F1のレース中に死亡したドライバーはひとりもいないといっているようなもので,かなり無理のあるへりくつでしょう。

ついでですが,浦安ディズニーランドの都市伝説のひとつに「スペース・マウンテンの位牌」というのがあります。この話によると,コースになぜか位牌が置かれているそうで,かつてスペース・マウンテンから子どもが転落して死亡したという事故があり,位牌が置かれているのは子どもが落ちたところ――なのだそうです。

位牌の真偽はわかりませんが(σ(^^;)は乗ったことがないので。しかも確かめようにも今はリニューアル中だし),このような死亡事故が起こったという事実は少なくともσ(^^;)が調べた限りはありません。

「這ってでも出てこい」

12月の第1日曜には福岡国際マラソンもあります。

1987年12月6日に行なわれた福岡国際マラソンは,中山竹通が悪コンディションの中,
35kmまで当時の2.07.12の世界最高時の通過タイム1.45.40を上回るペースで快走,後半の冷たい雨(みぞれ?)
でスタミナを奪われて記録更新はならなかったものの,2時間8分18秒で優勝しました。このタイムはシーズンの世界最高,歴代(当時)
でも10位の好タイムで,ソウル五輪への切符を事実上手中にしました。

当初,ソウル五輪の男子マラソン代表はこの福岡国際での一発選考といわれていました。ところが,
瀬古利彦
(最近では日テレの箱根駅伝中継に出てきてはピントはずれなことをいうあの人物)
が足をケガして出場できなくなった途端に,
選考は翌年3月のびわ湖毎日マラソンまでと変更される始末。このとき中山が瀬古に対し「這ってでも出てこい」といったというのは有名な話です。実際には「ボクなら這ってでも出る」といった――
という話もあります。まあ,本当は何といったかはわかりませんが,中山は怒りをこの福岡国際でぶっちぎって勝つことで示したのでした。

這ってでも出てこなかった瀬古は翌年3月13日,選考最後のびわ湖毎日マラソンに出場,
優勝はしたもののレース内容はシロウト目にも評価に値しないレベル。タイムもごく平凡なら(2時間12分41秒),
35-40kmのスプリットが17分01秒というのは,いくら向かい風だったとはいえ女子マラソン並みです。
もう瀬古の時代は終わっていたのでしょう。それでも昔の名前でソウル五輪に出ましたが,予想どおりの惨敗に終わりました。

伝説の雪の早明戦

1987年12月6日,低気圧が発達しながら鳥島付近を通過,この低気圧に向かって北東から冷たい空気がはいってきました。このため,
東京は最低気温0.9℃と冷え込み,前夜からの雨が06時から雪に変わりました。これがこのシーズンの初雪で,
戦後では1962年に次いで2番目に早い初雪です。そして,09時には積雪2cmを記録しました。東京以外の積雪は,八王子2cm,
宇都宮4cm,軽井沢25cm,日光23cm,秩父7cmなどとなっています。

この雪の影響で,奥多摩有料道路が09時から全面通行止めになったほか,東北,関越,
常磐などの自動車道路でも一時チェーン規制や速度制限が行なわれました。

東京で雪が降ればおきまりの相次ぐおむすびコロリンスッテンコロリン。東京消防庁の調べでは,この日だけで28人が重軽傷を負いました。
σ(^^;)は,大のおとながこれしきの雪で滑って転ぶのがいまだに信じられないのですが。

神宮外苑では,ほどよい感じで雪が降り,「思わぬ都心の雪景色に若者たちはちょっぴり“ロマンチック気分”」(毎日新聞)

初雪のデートといえば,サンさまだかヨンさまだかゴさまだかロクさまだか知りませんが,そんな名前のマッチョ男優
(書いてから気づいたのですが,“男優”はアレもののビデオ以外ではあまり使わないような気も(^^;))
のあのドラマの有名なシーンらしいです。あちらには“初雪のときに好きな人と一緒にいると結ばれる”というような迷信があるそうで,
あのシーンにはこの迷信が背景にあるのでしょう。最近では初雪の日にはケータイの回線がパンクする――という話も聞いたことがあります。

ついでに大晦日,チュンサンとかいう高校生が交通事故で死んだことになっていますが(ちょっと違うかも),
これは大晦日というのがポイントです。大晦日は年の境界なので時空の裂け目が現われるという古くからの民族的な信仰があり
(あの国にもあるのかどうかは知りませんが),のちの展開が暗示されているような気がします。
それにしてもあの国の高校では元旦に学校に行くことになっているのでしょうか。

なお,σ(^^;)はキムチが大っ嫌いなので,あの国のドラマは見ません。ついでにひとこと,キムチ食ったら電車に乗るな!! 臭くてかなわん。

ところで,明日は12月の第1日曜日。12月の第1日曜日といえば,ラグビー早明戦です。

今では12月の第1日曜と決まっているようですが,以前は12月の第1日曜以外に行なわれたこともあり,
例えば1957年と1973年などは12月の第2日曜に行なわれています。

1987年12月6日はなんと12月の第1日曜でした。そういうわけで国立競技場は一面の雪――。しかし,
何があろうと中止にならないタテマエのラグビー,中止にしてはなるまじと約200人が雪かきに動員され,
なんとかキックオフができる状態にこぎつけました。ビデオで見ると,それでもグラウンドのあちこちに雪が残っています。

コンディションがコンディションだけにミスも多く,好試合だったとは必ずしもいえませんが,歴史に残る名勝負だったことは確かです。
とくに最後の10分などはいまビデオで見ても力がはいります。

試合は,先制した早稲田が一時は逆転されたものの今泉の2つのペナルティーゴールで再逆転,
最後の明治の重量フォワードの猛攻を必死のディフェンスで凌ぎ,10-7で逃げ切りました。

早稲田はこのシーズン,大学選手権も制し,さらには日本選手権で東芝府中も破り,学生としては(おそらく)
最後の日本チャンピオンになりました。ちなみに,このときのNo.8が清宮・早稲田大前監督です。

なお,ラグビーが何があろうと中止にならないというのは,あくまでタテマエです。それが証拠に,
1996年2月18日には雪のために日本選手権の決勝が順延,1998年1月には同じく雪のために日本選手権の1回戦が順延になっています。
また,1989年1月にはおよそ説得力があるとは思えない理由で全国高校大会の決勝は中止,大学選手権の決勝は順延になりました。