たたりじゃあ~っ!!
延長八年六月二十六日(ユリウス暦で930年7月24日)のこと,清涼殿の未申の柱の上に落ちた雷は“神火”を発し,大納言藤原清貫の着物に燃え移って焼死させ,また柱の下に倒れた右中弁平希世も死亡しました。醍醐天皇はショックで寝ついてしまい,7日後に没しました。
これは史上もっとも有名な落雷のひとつです。よく知られているように,この災異は失意のうちにこの世を去った菅原道真のたたりと怖れられました(死んでからずいぶん経っているような気がしますけれど……)。もっとも,より正確にいえば道真が直接手を下したわけではなく,道真=天満大自在天神の十六万八千いる眷属の中の第三の使者,火雷火気毒王の仕業ということになっています。
ちなみに,天元元年七月二十四日,あの安倍晴明の館も道真のピンポイント爆撃から逃れられませんでした。この衝撃の事実?!は,巷の安倍晴明本には書かれていないようです。残念ながら安倍晴明による雷神に対する報復があったかどうかはわかりませんが,おそらくやられっぱなしだったのでしょう。もし報復があったのなら,その物語が伝わっているはずですから。ちなみに,『百練抄』という文献では二十三日に雷撃を受けたことになっています。
寺院への落雷
記録が残りやすいこともあるかもしれませんが,寺院は落雷の記録の多いところです。
『日本書紀』によると,天智天皇九年四月三十日(ユリウス暦で670年5月24日)に法隆寺が落雷によって全焼したことになっています。
この落雷では雷が法隆寺のどこに落ちたかは記録にありませんが,お寺にある高い塔は雷の格好の標的です。
今も古都の玄関の象徴としてそびえる高さ55mの東寺(教王護国寺)の五重塔もたびたび落雷に遭っています。『日本の気象史料』にあるだけでも,886年,1055年,1270年,1337年,1389年,1436年,1439年,1563年の7回あります(見落としがあるかも)。
現存しない塔では,応永六年(1399年)に完成した高さが109mあったといわれる相国寺の七重大塔は,あまりの高さのために雷神の怒りをかったのか,落雷で(戦火もあったかもしれません)短命に終わった塔です。
応永十年六月三日(ユリウス暦1403年6月22日)に落雷によって焼失,再建中の応永二十三年一月九日(ユリウス暦1416年2月7日)にも落雷で焼失,そして文明二年十月三日(ユリウス暦1470年10月26日)にみたび落雷により焼失し,以後再建されることはありませんでした。ちなみに,最後の焼失については猿による放火という目撃談?!もあるようです。
大坂城
落雷に見舞われたお城としては大坂城が代表的でしょう。
万治三年六月十八日(グレゴリオ暦1660年7月25日),城内の武器庫に落雷して爆発が起こり,死者・行方不明100人あまり,城と町屋1500軒が損壊するという惨事が起こりました。このとき天守閣も傾きました。
5年後の寛文五年一月二日(グレゴリオ暦1665年2月16日),今度は天守閣に落雷して焼失,以後1931年まで266年間,再建されませんでした。
大蔵省炎上,たたり再び!?
時代は下って「♪あゝ 一億の民は泣く」と歌われた紀元二千六百年の1940年6月20日,大手町の逓信省航空局に落雷して炎上,火はみるみる広がり,大蔵省などが全焼しました。
この年は奇しくも平将門の没後1000年にあたっており,雷が落ちたのはなんと将門公の首塚のすぐ近くでした。もともと大蔵省はこの首塚を取り壊そうとした経緯があるので,将門公のたたり再燃と噂されました。ちなみに,平将門は菅原道真の生まれ変わりという説もあるそうで,そうだとするとたたりの手段に雷を使うというのも説明はつきます。
詳しくは,大蔵省炎上(1940年) | Notenki Express 2014をご覧ください。
ちなみに,2003年9月3日,国会議事堂に落雷がありましたが,残念ながら閉会中でした。
《おもな参考文献》
[1]中央気象台と海洋気象台, 日本の気象史料. 原書房, 1976.
※この記事は,たたりじゃあ~っ!! | Notenki Express 2014を少しだけ書きなおしたものです。