浦安ねずみ園開園(1983年)

浦安ねずみ園,またの名を浦安ディズニーランド,別名東京ディズニーランドが開園したのは1983年4月15日でした。

開園当日の(地上)天気図を見ると,関東地方は日本海西部にある低気圧からのびる温暖前線の北側にあたっており,朝から雨でした。

あいにくの雨模様にもかかわらず,開園を待ちわびた人たちが早朝から列を作って並ぶ中で,午前八時過ぎからワールドバザール内でオープンセレモニーが行われた。・・・・・・午前九時に待ち受けた三千人の入場者が一斉に目指すアトラクションへ繰り出した。
(16日付千葉日報朝刊)

入場数は11時で12000人あまりと雨で出足は鈍かったようですが,1日では3万人に達し,まずは順調な滑り出しだったということです。

今年は開園30周年で,なにかイベントをやっているようです。

あれだけの入場者がいながら30年も大きな事故がなく続いているのはかなりすごいことだと思います。
とくに一昨年の3.11のときの神対応はもはや伝説となっています。

一方で,人気スポットの宿命か,都市伝説はいろいろあります。スペース・マウンテンとかいう絶叫マシンのコース脇には位牌があるとか,子どもの何人かは誘拐されているとか……。

こういった根拠薄弱で荒唐無稽なものは別として,次の都市伝説はリアルです。もっともコワいかもしれません。そしてかなりの部分真実が含まれています。

浦安ねずみ園を訪れたカップルは別れる。

“初デートで浦安ねずみ園を訪れたカップルは別れる”というバリエーションもあります。

かなり多くのカップルがデートで訪れるでしょうから,その中の何組かが別れてもまったく不思議はありません。

それに,スタッフ経験者に聞いた話では,園内でケンカをしているカップルがけっこう目につくんだとか。時間待ちが多かったりするので,とくにつき合いはじめてからの期間が短いカップルだと,今まで見たことのない相手のイヤなところが現われたりするのかもしれません。

こんだらの日

AD1968/03/30 TVアニメ「巨人の星」放送開始

アニメ「巨人の星」といえば,大リーグボール養成ギブスでも消える大リーグボール2号でもなく,もちろんこんだらです。

というわけで,今日はこんだらの日です。

ところが,不思議なことに巨人の星のOPにはこんだらは登場しません。ウソだと思う人は自分の目で確認してください。日テレG+で放送していますし,もしかするとネットにあるかもしれません。

アニメ「巨人の星」ではちゃぶ台も風物詩ですから,今日はちゃぶ台の日でもあります。

ちなみに,EDでなじみの深い一徹の“ちゃぶ台返し”ですが,Wikipediaによると本編では2回しか登場しなかったそうです。

八百屋お七火あぶりの刑

天和三年三月二十九日(グレゴリオ暦で1683年4月25日),八百屋お七が火あぶりの刑に処せられました。

お七という少女が火付けの罪でこの日火あぶりの刑に処せられたのは事実のようですが,お七が放火した火事については天和二年一月説,天和二年十二月のいわゆる“お七火事”説,天和三年三月説などがあります。私的には天和三年三月だとするのがもっとも違和感がありません。

この火事は,天和三年三月二日(1683年3月29日)の夜, 本郷の森川宿の八百屋の娘お七が近くの商家に放火したところを通行人に発見され,すぐに消し止められたというもので,今流にいえばボヤです。しかし,当時はボヤでも放火は放火,市中引き廻しの上火あぶりと相場は決まっていました。

放火の動機は,天和二年十二月二十八日の火事(要するに「お七火事」)でお七の家も被災して正仙院というお寺に仮住まいした際,そこの “イケメン”と恋仲になったのですが,新居が完成して会えなくなり,再び火事になれば会えるという妄想が放火に駆り立てたとされています。

お七の年齢,被災した火災,仮住まいしたお寺の名前,“イケメン”の名前などには異説もあります。

これが円乗寺に現存するお七のお墓です。

2012-12-28 12.48.40

拡大すると,

知る人ぞ知る恋愛成就のパワースポットだそうです。

ちなみに,内田康夫『追分殺人事件』では,1987年3月7日にこのお墓の前で男の変死体が発見されたことになっています。 作品ではこの日雪が降っていたことになっていて,実際に東京では午後から雪になりました。降雪の深さ合計は7日が3cm, 翌8日が2cmとなっています。

若い娘どうしの抱き合い心中

1925年5月5日付の読売新聞から:

若い娘どうしの抱き合い心中
一人の襟に明大のマーク 多摩川え
《ママ》浮び上る

1925年5月4日の午前,高井戸村字久我山663先の多摩川で,女性2人の心中と思われる変死体が見つかりました。

何れも十七八歳の美人が抱き合ひ心中を遂げてゐた死後一週間を経過し・・・・

“死後一週間”もたっているのに,どうして“美人”だと……?

女湯の四人,裸でケンカ(1958年)

昔の新聞を見ていると,ときどき面白い記事を見つけることができます。

1958年2月16日付朝日新聞夕刊より――:

女湯の四人,裸でケンカ

 銭湯で入浴中の女客が足をふまれたことからケンカとなり,流し場でハダカのまま四人が入り乱れてケンカをし,三人が傷害現行犯で上野署に捕まった。
 十六日午前一時すぎ東京都台東区上野三橋町一五,三橋湯(K.Y.さん経営)の流し場で,客の同区上野町二ノ一九パチンコ屋店員K.M.さん(二三)の足を同区下谷町二ノ五飲食店「おらが春」の女給Y.A.さん(二三)がふんだ,ふまぬが事の始まり。
 Y.A.さんと一緒に来ていた同僚のY.M.さん(二三)M.T.さん(二○)の二人もY.A.さんに加勢してハダカのままK.M.さんの髪を引っぱり身体を引っかく大乱闘となった。
 驚いた他の客はみんな逃げ上がって見物,フロ屋は一一〇番へ急報したが,かけつけたパトカーのお巡りさんも相手がハダカの女とあっては手の下しようもなく,やや落ち着いたところでY.A.さんら三人を傷害の現行犯で検挙した。K.M.さんは全治三週間の負傷だった。

50年以上前の事件とはいえ,個人名はイニシャルに直しました。

毎日と読売にもほとんど同じ記事が載っています。

今日のできごと3件

今日は次のようなできごとが起こった日です。

1902/01/23 神成大尉率いる陸軍第八師団青森歩兵第五連隊210名が八甲田山の雪中行軍に出発。途中,小峠付近に達したとき(11時半ごろ),天候が急変する

1910/01/23 七里ヶ浜沖で,逗子開成中のボートが転覆。生徒12人全員死亡

1963/01/23 雪の中,上り急行「越路」が新潟駅を出発

それぞれすでに記事がありリンクを張りましたのでそちらをご覧下さい。明らかに書き直したほうがいいところもあるので,来年には書き直したいと思います。

日川高校の生徒が集団万引き

1986年,山梨県立日川高校の♂39人が学校の授業でスキー合宿に来ていた長野県北安曇郡白馬村の土産物店で集団万引きをはたらいたとして,大町署は17日までにこの生徒たちを盗みと贓物収受の疑いで補導しました。

39人のうち29人(2年生25人,3年生4人)は13日19時半から22時ごろまでの自由時間に4,5人ずつのグループに分かれ,白馬村北城の土産物店5店でスキー用品など計約200点,40万円相当を万引きし,残りの10人(2年生,3年生とも5人)は盗品と知りながら一部を受け取っていました。「長野の田舎に行けば簡単に万引きができる」と上級生から聞かされていたということです。

日川高校は11の競技でかいじ国体の強化指定校になっており,補導された生徒には国体候補選手約20人や野球部員もいました。

愛と希望と勇気の日

きょうは愛と希望と勇気の日らしいです。

由来は次のできごとです。

1959/01/14 第3次南極観測隊昭和基地に1年間放置されていたカラフト犬のタロとジロが生きていたことを確認

犬が2頭生存していることはすぐに確認できたみたいですが,あまりの変わりようにどの犬かはしばらくわからなかったようです。第一報では別の名前が報じられています。

あまりの変わりようというのはやせ細っていたということではなく,まったくの逆で,丸々と太っていたとのことです。基地に置いてきた食糧にはまったく手をつけておらず,おそらくペンギンなどを捕獲していたのでは……と想像されていますが,何を食べていたのか本当のところはいまだによくわからないそうです。

タロとジロ以外の13頭は死亡,または行方不明ということになっています。

第1次越冬隊で犬の担当だった北村泰一氏の『南極越冬隊タロジロの真実』によると,第4次越冬中に行方不明になった福島隊員の遺体を第9次越冬隊が発見した直後,基地の近くから白い犬の遺体が発見されたそうです。行方不明になった犬のうち色が白かったのはシロとリーダー犬リキだけで,北村氏はリキではないかと書いています。

リキは映画「南極物語」では最後まで残った4頭のうちの1頭で,シャチの襲撃からタロとジロを守った傷がもとで力尽きたことになっています。もとの飼い主だった姉妹の姉を荻野目慶子が演じていました。当時はまだかわいい(笑)

ちなみに,4頭のうちのもう1頭は“風連のクマ”で,一匹狼のクマは確かタロとジロを基地近くまで“送り届けた”あと,いずこともなく去っていきました。

なお,置き去りにしたことについて今も昔も批判がありますが,事態が急を要しており,連れ帰るにも薬殺するにも時間的余裕がなかったようです。

日記にしるされた恐怖の文字

1952年1月13日付朝日新聞社会面に

女学生,誘かいさる?
日記にしるされた恐怖の文字

という気になる見出しがあります。

1952年1月12日,三鷹市の会社役員宅から,長女のK塩女子学院中等科2年の智佳子さん(15=仮名)が誘拐されたらしいと警察に届け出がありました。

智佳子さんは同日父兄会があるので学校が休みだからといつわりピアノを習いに行くと午前九時ごろ,小型化粧箱をもって家を出たもので,正月七日,八日両日の日記には「きょうもあの男につけられた」と書かれ,母芙美子さん(46)がこれに気づいて注意したところ,十日の日記には「自分が云ったことを他人に話すと殺すぞ」といわれたと恐怖の文字がつづられており,日ごろ明るい智佳子さんもこゝ数日すっかりふさぎ込んでいたという。

恐怖のストーカーの特徴は「四十歳ぐらいの人相の悪い,強い大阪弁」の男とのことです。

果たしてこの事件の顛末はどうなったでしょうか。それはいずれ……。(ヒント:思いもつかない意外な結末です)

ある火災の都市伝説

AD1932/12/16 日本橋の白木屋百貨店で初の高層ビル火災。死者14人,重軽傷者130人

この火災に関して,次のような伝説があります。

このときまで日本の女性は“下着”を着ける習慣がなかったために女子従業員が高所から飛び降りることができずに焼死したものが多かったという

広く信じられているようですが,ちょっと調べてみると,Wikipediaなどにもあるとおりデタラメであることがわかります。

伝説のもとは,12月23日付東京朝日新聞に掲載されている白木屋の山田専務の談話――:

女店員が折角ツナ或はトヒを傳はつて降りて來ても,五階,四階と降りて來て,二,三階のところまでくると下には見物人が澤山雲集して上を見上げて騷いでゐる,若い女の亊とて裾の亂れてゐるのが氣になつて,片手でロープにすがりながら片手で裾をおさへたりするために,手がゆるんで墜落をしてしまつたといふやうな悲慘亊があります。

記事の見出しには「裾の亂れを氣にして むざむざ死んだ女店員」とありますが,σ(^^;)が新聞を調べた限りでは,ロープから手を離して転落死した人はひとりもいません。

注目しなければならないのは,白木屋のおエラいさんの談話だということ。おそらく,火災をタネにして洋服と下着で大々的に儲けようとする白木屋の魂胆に迎合したヨイショ記事なのでしょう。

伝説の決め手となったとされる「婦人よ,ズロースを忘るな」という見出しの12月23日付の都新聞の次の記事にしても,事実上の白木屋の広告に違いありません。

猛火に追われた女逹が咄嗟の塲合にロープ又は帶を繋ぎ合せて,降下運動を試みた瞬間,ズロースを穿いてゐぬために,下から煽られる風に裾が捲れ「アツ」といふて身づくろひする途端兩手がお留守となつて,命綱ともいふべきものを放し,慘死したことも聞きました,……

『中央区史』にはこの火災について,なぜか約5ページにわたって詳細に記述されています。「明治四十三年の水災」や「大正六年の風水災」よりも多いページ数です。伝統的な“下着説”に基づいています。

ところで,この火災とは関係ありませんが,与謝野晶子の『晶子詩篇全集』にある「女は掠奪者」という詩に白木屋が登場します。青空文庫 Aozora Bunkoにあるテキストデータを使わせていただきました)

大百貨店の売出《うりだ》しは
どの女の心をも誘惑《そそ》る、
祭よりも祝《いはひ》よりも誘惑《そそ》る。
一生涯、異性に心引かれぬ女はある、
子を生まうとしない女はある、
芝居を、音楽を、
茶を、小説を、歌を好まぬ女はある。
凡《おほよ》そ何処《どこ》にあらう、
三越《みつこし》と白木屋《しろきや》の売出《うりだ》しと聞いて、
胸を跳《をど》らさない女が、
俄《には》かに誇大妄想家とならない女が。……

与謝野晶子って,バーゲンおばさんだったんだあ……(笑)

なお,直接関係ありませんが,与謝野晶子と台風との関わりについては能天気Express〜新世界版〜  与謝野晶子と「颱風」をご覧下さい。

ついでに,白木屋では他に次のような事件が起こっています。

白木屋の屋上から 飛降り自殺を遂ぐ
廣告塔上でタオルで目隠して 失戀の關西青年か
―1929年10月27日付東京朝日―

白木屋から幼女転落
七五三の祝着を買ひに来て
―1929年11月15日付東京朝日―

破鏡の女 飛降りて“殺人”
白木屋屋上から 宝くじ売り場の上に落ち
―1954年9月14日付朝日―

〜(N)2007.12.16〜