1952年6月23日,サツキとメイがバス停でトトロに会いました。
ちなみにこの日,ダイナ台風の影響で39.8mmの降水量が観測されています(大手町)。
6月23日というのは小学校の黒板に書いてあるのでいちおう議論の余地はないですが,1952年とするには実は矛盾もあり,
断定はできません。
1952年6月23日,サツキとメイがバス停でトトロに会いました。
ちなみにこの日,ダイナ台風の影響で39.8mmの降水量が観測されています(大手町)。
6月23日というのは小学校の黒板に書いてあるのでいちおう議論の余地はないですが,1952年とするには実は矛盾もあり,
断定はできません。
鎌倉幕府の公式記録書『吾妻鏡』によると,寛喜二年六月九日(ユリウス暦で1230年7月20日,今の暦では1230年7月27日),
鎌倉は雷雨でした。そして午後6時半ごろ,将軍御所の御車宿の東の母屋に落雷,柱や破風などを壊し,後藤判官の下部がこの雷撃を受け,
間もなく死亡しました。当時にしてみれば雷は恐怖の的。翌日,さっそく七座の鬼気祭を行ないました。
ところが,この日の異常さはまだ鎌倉には伝わってはいませんでした。2日後の十一日,武蔵国から報告が届きます。
去る九日辰の刻,当国金子郷雪交りの雨降る。また同時に雷,雹降る((九日辰の刻
(午前7時~9時ごろ),金子郷でみぞれが降りました。同時に雷が鳴り,雹も降りました)
真夏なのにみぞれが降ったとの報告です。なお,“雹”とあるのはあられのことだと思います。 当時はもちろん今の気象観測にある,
5mm 以上がひょう,それ未満があられ……という区別があるはずはありません。
さらに十六日,美濃国からの飛脚がもっと驚くべき報告をもたらします。
去る九日辰の刻,当国蒔田庄に白雪降る(九日辰の刻,蒔田庄(岐阜県養老郡上石津町)
に雪が降りました!!)
武蔵国でみぞれが降ったのと同じころ,美濃国の蒔田庄では雪が降ったという報告です。 これに驚いた執権北条泰時は,
徳政令を出します。
この年の六月は雨がよく降り,それだけならぱ「豊年の瑞」(吾妻鏡より)なのですが,異常な「涼気」(同)で,凶作が心配されました。
八月八日には「申の刻甚雨大風,夜半に及び休止す。草木の葉枯れ,偏に冬気の如し。稼穀損亡す」とあり,
これはどう見ても早々と寒波の到来です。あまりに早すぎて,木枯らし1号の最早記録にもなりません。
この年は大凶作となり,世にいう「寛喜の大飢饉」はこうしてはじまったのでした。
まあ,ここまで涼しくなくてもいいですが,暑い夏はいやですねえ。くたばれ,
ラニーニャ!!(笑)
1978年5月30日,高島平団地で,小学5年の宮脇敏夫がテストで0点を取ったのを苦にして飛び降り自殺しました(島田荘司『展望塔の殺人』)。
このあと,同じような自殺が続くことになります。
それにしても,公立小学校や中学校あたりでのテストでは,わざと0点を取ろうとでもしない限り,0点なんてそう簡単には取れないと思いますけどねえ……(笑)
阪神タイガースとかいう名前の野球チーム関係の涙雨ではありません。プロ野球には全然興味がないからわからないんですけど,
阪神って今年も最下位なんですか?
さて,「虎が雨」とは五月二十八日(旧暦)に降る雨です。今日降る雨ではありませんので注意してください。
建久四年五月二十八日,ユリウス暦で1193年6月28日のことです。源頼朝が催した富士山麓での大巻狩の深夜,
曽我十郎祐成と曽我五郎時致の兄弟が月のない真っ暗な闇の中,松明を手に父の仇である工藤祐経の陣屋に討ち入りました。
寝込みを襲われた祐経はあっけなく討ち取られましたが,その後の「十番切り」とよばれる乱戦の中で,兄十郎は朝比奈四郎に討たれ,
弟五郎は捕らえられました。そして翌日,頼朝による尋問ののち処刑されました。
十郎には虎御前という愛人がいました。五月二十八日にその虎御前が十郎の死を悲しんで流す涙が雨となって降るのが「虎が雨」
であると伝えられています。「兄弟の敵討ちの記憶と梅雨という気象現象が結び付き,
そこに田植えのために雨を乞う人々の思いが重なって徐々に用いられるようになったもの」(『曽我物語の史実と虚構』)のようです。
『吾妻鏡』には仇討ちの日の天気について次のように書かれています。
小雨降る。日中以後霄(は)れ。……
まず,はじめ小雨が降っていたが,日中から晴れたとあります。そして,祐経を討ち取ったあとの「十番切り」
のときは
雷雨,鼓を撃ち,暗夜に燈を失ひ……。
とあり,激しい雷雨だったようです。
ただ,午前中は小雨で深夜に雷雨というのは,あり得ないことではないといえしっくり来ません。この年は空梅雨だったらしいですから,
小雨は考えにくく,深夜の雷雨のほうが天気としてはありそうです。空梅雨でも一時的に太平洋高気圧が後退して上空に寒気がはいってくれば,
大気が不安定になるからです。
江戸時代には,兄弟の仇討ちのときに雨が降っていたことは常識になっていたらしく,次のような詠史川柳があります。
泥足で工藤が夜具をはね除ける
しかし,『吾妻鏡』や真名本『曽我物語』では「十番切り」に雷雨の記述があるので,
兄弟が工藤の陣屋に向かう途中はまだ雨は降っていなかったと思われます。そうでないとなけなしの金で買ったらしい松明が消えてしまいます(
「なけなしの銭で松明二本買ひ」という詠史川柳もある)。
1945年5月24日,後宮春樹と氏家真知子が数寄屋橋の上で出会い,半年後の24日の夜にこの橋の上での再会を約束しました。メロドラマ『君の名は』のはじまりです。