1978年5月9日,東京メッツ-阪神タイガースの北陸シリーズ第3戦(新潟第1球場),5年目にして1軍入りした富樫平八郎がふるさとの地でプロ入り初完封勝利。その勝利を見守りながら父が息を引き取る
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柿食えば雷落ちる法隆寺
『日本書紀』によると,天智天皇の九年夏四月三十日,法隆寺が落雷によって全焼したことになっています[1]。
もともと寺院や神社は落雷の多い施設のようです。記録として残りやすいということもあるでしょうし,
たしかにふつうの民家より屋根が高いですし,しかも先がとんがっているところがあります。五重塔やらなんとかの塔はいわずもがなです。
寺院や神社のまわりに高い木を植えることが多いのは,幽玄な雰囲気をつくりあげるということもあるのでしょうが,
ひょっとして多少なりとも建造物への落雷を防ぐ意味もあったのでは……などと思ったりもしています。もし,その1本にでも雷が落ちたならば,
それは“御神木”として名物のひとつにもなり得るわけですし……。
さて,高くてとんがっている部分に落雷が多そうなのは感覚的にわかりますが,落雷のしくみから次のように説明されます。
雷雲は上層が+,下層が-に帯電しています(発達した雷雲は-の層の下に+の部分があらわれて“3極構造”になりますが,
ここでの話には関係がないので触れません)。雷雲が上空にかかると,多くの場合,この下層の-
電気に引きつけられる形で地表面に+電気が集まってきます。このとき,電場は導体面の表面に対し直交するため,
とがった部分付近の電場は平らな部分付近にくらべていちじるしく強くなり[2],絶縁が破れやすくなります。そして絶縁が破れたとき,
先端から放電がはじまります。この放電はリーダとよばれます。とくに夜の場合はこの放電が青くぼんやりと見えることがあり,
この光をヨーロッパでは「セント・エルモの火(St. Elmo’s Fire)」とよんでいます。「セント・エルモ」
は地中海の航海者の守護聖人エラスムスのなまりだそうです。
リーダは絶縁の弱いところをさがしながら上空に上がっていきますが,雷雲の-電気の中心域に達すると,-
電気の中心域からリーダを逆に流れる放電が起き,巨大な電流が流れます。これが落雷です。
このようにとんがった部分からはリーダが発しやすくなるため,落雷の危険が大きいのです。
以上述べたのは落雷というよりは“昇雷”ですが,多くの落雷では(落雷の90%程度),リーダは雷雲から地表に向かって伸びてきます。
このときも高くとんがった部分の周辺ではリーダが引き寄せられやすいため,落雷が起こりやすくなります。
いずれにしても,高くとんがった部分は落雷に対して危険だということです。
ところで,最初に書いた法隆寺の火災ですが,この『日本書紀』の記事に基づいて全焼のあと再建されたという説と,
おもに建築史的な観点から再建を否定する説との論争がありました。1939年に火災に遭ったとみられる古い若草伽藍が見つかったことにより,
いちおう再建説が定説となってきました。
ところが2001年,奈良国立文化財研究所が法隆寺の五重塔の心柱を年輪年代法で測定し,伐採されたのは594年という結果を発表しました。
火災のあとの再建だとするとこの木材は80年以上もほったらかしにされていたということになり,
再建論争が再び盛り上がりそうな気配もあります。
最後に,落雷を避ける方法としていろいろな俗説がありますが,間違っているものもあるので注意しましょう。
一度落雷のあった木は安全である。
などというのは論外ですが,次の“避雷法”は信じている人も多いのではないでしょうか。
身につけている金属製のものを即刻取り外す。
これは避雷法としてはほとんど意味がありません。雷の“標的”は金属物ではなく,人間そのものです。
金属物には落雷を受けたときにもっとも危険な体内電流を減らすという効果があるという話もあります。
[1] 原文は「夏四月癸卯朔壬申,夜半之後,災法隆寺。一屋無餘。大雨雷震」で,素直に読むと,
焼けたあと大雨が降り雷が鳴ったとなるんですが……。
[2] これは静電気に関する「ガウスの法則」によって説明されます。いちおう,元物理屋でして……(^^ゞ
おもな参考文献: 北川信一郎, 雷と雷雲の科学, 2001年, 森北出版
ソクラテス,没
紀元前399年の今日4月27日,ギリシアの哲学者ソクラテスが毒を飲んで死亡しています。もちろん太ったソクラテスがダイエット薬と間違って毒を飲んでしまったわけではなく,刑死です。
ちなみに,ソクラテスはデブだったという話についてはやせたソクラテスより太った豚をどうぞ。
高校の教室に女子高生の首つり死体!!
雨の中,NHK がモータースポーツをはじめて生中継
20年くらい前までNHKはモータースポーツをスポーツと認めていなかったそうで,ニュースでも無視(ただし,1977年富士スピードウェイで開かれた日本GPでの観客死亡事故は伝えたようです),当然生中継などすることはありえませんでした。大昔はプロレスを生中継したこともあるのに……。
ところが,時代の流れか,中島悟がロータスに加入したころが風向きが変わり,1987年シーズンの開幕前に子ども向け情報番組(「600こちら情報部」だと思ったら違ったようだ)でF1特集が企画され,中島悟が電話出演したりしました。
そして1989年4月8日,NHKが鈴鹿サーキットから世界スポーツプロトタイプ選手権(WSPC)第1戦の予選を中継することになりました。しかし――。
当初は13時からの公式予選2回目を生中継する予定だったようですが,日本の南海上を通過中の低気圧に伴う大雨のため,予選2回目は翌日,決勝の朝に延期になり,マシンの走行の生中継も事実上,翌日に延期になりました。
というわけで,初の生中継が行なわれたのは4月9日です。決勝レースではザウバー・メルセデスがワンツーを決め,この後しばらくメタリックシルバーのマシンがWSPCを席巻することになります。WSPCのシリーズからは外れましたが,この年のルマン24時間もワンツーフィニッシュでした。ちなみに,まだユノディエールがシケインで分断されず,テルトルルージュからミュルサンヌまで6kmの直線だった時代です。
ついでですが,この年からしばらくの間(数年前までやっていたような気が……),NHKはBS1で鈴鹿8耐を毎年生中継することになります。そういえば,この年の中継には本田美奈子さんがスポットゲスト出演したんですよねえ……。
オールそろえてさらばぞと しぶきに消えし若人よ
滋賀県高島町に「四高桜」と名づけられた桜があります。この桜はもともとは1941年に琵琶湖の萩ノ浜沖で遭難した(旧制)四高のボート部員を悼んで植えられたものだそうです(などと書いているσ(^^;)は見たことがありません……あしからず)。詳しくは四高桜の歴史 http://www.eonet.ne.jp/~takashima-kan/html/sikou_sakura.htm などをご覧ください。
この事故が起こったのは1941年4月6日のことでした。
当時,琵琶湖から流れる瀬田川はボートのメッカでした。全国大会も行なわれていました(今は知りません)。第四高等学校(今の金沢大学)のボート部員たちも,春休みには瀬田川を合宿の地に選んでいました。そして北岸まで往復の琵琶湖縦漕を行なって合宿の総仕上げとしていました。
この年も3月23日から合宿にはいっていました。3月23日から4月3日までは通常の練習に励み,4日が縦漕第1日目で石山から湖北の今津まで行き(♪瀬田の唐橋 漕ぎぬけて 夕陽の湖に 出で行きし……),5日を丸一日休養にあて, 6日に今津を出発して石山に帰ってくる予定でした。今津を出発したのが午前7時45分,そして約2時間後の9時50分ごろ,萩ノ浜沖で遭難したようです。
この事故の気象的な原因は,「比良八荒」とよばれる地形的な強風によるものとされています。
平安時代のころから,旧暦の二月二十四日に琵琶湖西岸の比良山中で比叡山延暦寺の僧が法華経八巻を修する「比良八講」とよばれる修行が行なわれていました(現在は3月26日に形を変えて行なわれているそうです)。このころ強い北西風が吹くことがあり,「比良八荒」とよばれました。一方で,「比良八荒の荒れじまい」という諺もあり,このころが北西風(冬の風)の吹きおわりだともいわれています。
この比良八荒が吹くとき,比良山脈と野坂山地の間から琵琶湖に向かって強烈なジェット流となって吹き下りることがあります。四高のボートの11人はこのジェット流に遭遇したか,このジェット流が吹きつけて三角波が立つ湖面に翻弄されたかして,波間に飲み込まれたのでしょう。

それから間もなく,この事故を悼んで「琵琶湖哀歌」がつくられました。東海林太郎と小笠原美都子の歌でレコードにもなりました。 2,3回聞いたことがありますが,「琵琶湖周航の歌」と「七里ヶ浜の哀歌」を足して2で割ったような古典的なメロディーです。いくつかMIDIデータを掲載しているサイトもあるので検索してみてください。
ところで,内田康夫センセの作品に『琵琶湖周航殺人歌』があります。『隅田川殺人事件』『紫の女殺人事件』などと並んでσ(^^;)の好きな作品のひとつだったりするのですが,それはともかくとして,はるか昔の四高ボート転覆事故がこの作品の中で起こる事件のそもそもの発端になっています。σ(^^;)がこの事故についてはじめて知ったのはこの作品によってでした。ついでながら,「琵琶湖哀歌」を知ったのもこの作品で,はじめて聞いたのも「火曜サスペンス劇場」で1990年7月3日に放送された「琵琶湖周航殺人歌~初夏の近江路に男たちへの鎮魂歌が流れる~」の中でした。好きなドラマのひとつですが,ヒロインのはずの森史絵さんが登場しなかったのはきわめて残念でした。このドラマはいわゆる“水谷光彦” シリーズの最後の作品です。
ほかのボート転覆事故としては,「七里ヶ浜の哀歌」で知られる逗子開成中のボート転覆事故がとくに有名です。1910年1月23日に七里ヶ浜沖で起こった事故で,12人全員が死亡しました。このブログにも記事があります → 七里ヶ浜DQNボート沈没事件
また,1934年12月28日に松島湾で(旧制)二高のボートが転覆して10人全員が死亡する事故が起こりましたが,『暴風・台風びっくり小事典』以外では見たことがありません。このあたり,時代背景もあるのでしょう。
寒くて眠~いサマータイム
夏時間(サマータイム)は日本では現在はもちろん採用されていませんが,敗戦後の一時期,導入されたことがあります。
1948年5月2日に“サンマータイム”という名称でスタートしました。銀座の大時計が正午過ぎまで古い時刻で鐘を鳴らしていたくらいで,
とくにトラブルはなかったようです。
夏時間2年目は1か月繰り上げて1949年4月3日からスタートしました。58年前の今日です。ところが,この日は全国的に冷え込み,
4日付の朝日新聞には
冬オーバーで花見の宴
こたつで迎えた“夏時刻”
北海道では雪まで降った
という見出しが見えます。また,同日付の毎日新聞には
三日の第一日曜はサマータイムであけた。上るはずの水銀柱が低気圧のいたずらでぐーんと下り,富士山に雪が降る,
帯広は零下九度平年より六,七度低い九州はお日様が出たのが朝七時,東京は平年より二度三分低い三度六分,
咲きそめた上野の桜もつぼみを閉じるという冬姿の夏時間初日だった。
と書かれています。
こんなこともあり,夏時間は不評で,1951年を最後に廃止されました。導入してはならんといういい教訓でしょう(笑)
ウォーターライド転落事故
AD1990/04/02 花の万博会場内でウォーターライドが高架水路から約7m下に転落。23人重軽傷
この事故のことはよく知りませんが,内田康夫センセの『御堂筋殺人事件』はこの事故をヒントにしたところがあるそうです。
このような博覧会会場内の交通施設の事故としては,他には横浜博覧会YES’89のゴンドラ「スカイウェイ」が強風であおられて宙づりになり,乗客39人が1~1.5時間閉じこめられたことがあります(1989年4月16日)。
絶叫マシンの事故は挙げればきりがないですが,最近では2004年3月27日,岡山・倉敷市の遊園地「鷲羽山ハイランド」で,「チューピーコースター」が強い向かい風を受けて上り坂を越えられずに逆走,高さ約7mの軌道上で停止するという事故が起こっています。また,ナガシマスパーランドの「スチールドラゴン2000」で2003年8月23日,走行中のコースターの車輪88個のうち半分に相当する44個が落下,乗客1名とコースター下のプールサイドにいた客1名が重傷となる事故も起こっています。
浦安ディズニーランドでも2003年12月5日,「スペース・マウンテン」の車輪を支える車軸が折れて車輪がはずれるという事故が起こっています。
ちなみに,このスペース・マウンテンでは,事故といえるかどうかわかりませんが,乗客が死亡したことが少なくとも3回あります。そのうちの1つはかなり有名です↓。
http://blog.notenki.net/2006/12/post_e52f.html

ついでですが,写真のラクーアの「サンダードルフィン」では,できたばかりの2003年4月16日,招待客を乗せてスタート地点に上る途中,地上高50~60mのところで突然停止するというトラブルがありました。実はこのとき下で見ていました(笑) 残念ながら当時カメラつきケータイは持っていなかったので(というよりケータイ自体持っていなかったのでしたが),そのときの写真はありません。
今日は「こんだらの日」
やせたソクラテスより太った豚
AD1964/03/28 東大の大河内一男学長,卒業式で「太った豚になるより,やせたソクラテスになれ」と訓辞
広くいわれていますが,実際にはこのようなことはひとこともしゃべらなかったそうです。一種の都市伝説でしょう。
ちなみに,ホンモノのソクラテスはデブだったという話があり,ヨースタイン・ゴルデル『ソフィーの世界』には「チビで,デブで,目つきが陰険で,鼻は上を向いていた」というふうに書かれています。
それにしても豚に対して失礼ないいぐさですね。太った豚は役に立ちますが,やせたソクラテスはへりくつをこねるだけで害にこそなれ何の役にも立ちません(笑)