東京メッツ優勝!!

10月10日,東京メッツと阪神タイガースのセ・リーグ優勝を賭けた直接対決で,メッツの北の狼・火浦健がそれまでいいように打たれていたタイガースの南の虎・王島大介を封じ,メッツがタイガースを破り,優勝を決めました。

ところは国分寺球場。どこの国分寺にあるんでしょうか?(笑)

ちなみに,ハンカチ王子の学校は国分寺にありますが,グラントは国分寺にはありません。

えり子と共に

今日の事件から――。

AD1949/10/05 NHK連続放送劇「えり子と共に」放送開始

とあります。この日にはじまり1952年4月3日まで放送されました。あの「君の名は」の前に放送されていたラジオドラマです。

「えり子と共に」は歴史で学んだだけで,どのようなストーリーだったのか,ほとんどわかりません。聞くところによると,「君の名は」のような波瀾万丈の物語ではなく,新しい時代を生きる女性を描いたドラマだったようです。最終回の最後の部分だけ何かの番組で聞いたことがありますが,たしか結婚するところで終わっていました。のちに映画にもなったようですが,ラジオドラマとはちょっとストーリーが違うようです。

ところで,「えり子と共に」自体はほとんど忘れ去られているドラマですが,燦然と輝く挿入歌があります。「雪の降る街を」です。

「えり子と共に」のある回のリハーサル後に,どうやら時間が余りそうだということで,急遽つくられた曲だそうです(作詞:内村直也=原作者,作曲:中田喜直)。どのような場面で流れたのかはわかりませんし(えり子さんがスキーに行くという場面ではなさそうです),誰が歌ったのかもわかりません。しかも1番の歌詞しかありませんでした。

ところが,意外に好評だったため,2番,3番をつけ足して,シャンソン歌手の高英男さんが歌い,1953年2月にNHKの「ラジオ歌謡」として放送されました。

「ラジオ歌謡」というのは“家族みんなで歌えるホームソングをつくる”という意図で1946年5月から1962年3月までNHKラジオで放送された歌です。「雪の降る街を」のほかにも「あざみの歌」「夏の思い出」「白い花の咲く頃」「さくら貝の歌」などなど名曲が目白押しです。なんでも,「お書き取りのご用意はよろしいでしょうか」のアナウンスで演奏がはじまったそうです。最近の「新ラジオ歌謡」にはもちろんこのようなアナウンスはありません。

雪の降る街を」の歌詞は,作詞者の内村直也さんがかつて訪れたことのあるいくつかの雪の降る街をイメージしてつくったもので,特定のモデルはないそうです。

メロスは何km走ったか?

“オリンピックの花”マラソンは第1回アテネ五輪のときにはじめて行なわれた競技です。
この競技が次の伝説に基づいてつくられたことは有名な話です。

B.C.490年9月12日,「マラトンの戦い」のとき,
フィリッピデスという伝令がアテネの勝利を伝えるためにマラトンからアテネまで約40kmを走り続け,「われ勝てり」といって息絶えた。



つまり約2500年前の今日のことでした。

ところが,最近になって「マラトンの戦い」は9月12日ではなく8月12日だった――
という説が出てきました。これが事実とすれば,夏の暑い中をひたすら走り続けたわけで,
フィリッピデスの死因はおそらく熱中症だったのでしょう。

このフィリッピデスの絶命話は,あくまで伝説であって史実ではないと今では考えられているようです。
ヘロドトスの逸話集『歴史』にはフィリッピデスという伝令が登場しますが,
マラトンの戦いの直前に援軍を要請するためにアテネからスパルタまでを2日間で走破したことになっています。このいい伝えに基づいてアテネ-
スパルタ間246kmを36時間以内で走破する「スパルタスロン」という競技があります。大会要項は http://www.r-wellness.com/spartathlon/

ところで,ギリシアで走る人といえば,国語の教科書でもおなじみ『走れメロス』。
そのメロスは何kmを走ったのでしょうか? 青空文庫さんから『走れメロス』をダウンロードしてみたら,
作品の書き出しに次のようにありました。

メロスは激怒した。必ず,かの邪智暴虐《じゃちぼうぎゃく》の王を除かなければならぬと決意した。メロスには政治がわからぬ。
メロスは,村の牧人である。笛を吹き,羊と遊んで暮して来た。けれども邪悪に対しては,人一倍に敏感であった。
きょう未明メロスは村を出発し,野を越え山越え,十里はなれた此《こ》のシラクスの市にやって来た。

そして「……処刑までに三日間の日限を与えて下さい。たった一人の妹に,亭主を持たせてやりたいのです。
三日のうちに,私は村で結婚式を挙げさせ,必ず,ここへ帰って来ます」
といってセリヌンティウスを身代わりにして妹の結婚式に往復するのですから,走破距離は3日間で約80kmといったところでしょうか。
フィリッピデスやスパルタスロンと比べると,全然大したことないことがわかります。

天罰下る

2003年9月3日,関東地方は激しい雷雨となり,18時半ごろ国会議事堂のシンボルである中央塔の避雷針周辺に落雷がありました。

しかし,残念ながら国会は閉会中……。

国会議事堂への落雷はこれが最初のようです。

政府機関への落雷では,「♪あゝ 一億の民は泣く」と歌われた紀元二千六百年の1940年6月20日,大手町の逓信省航空局への落雷が最も有名でしょう。この落雷によって建物が炎上,火はみるみる広がり,大蔵省などが全焼しました。

この年は奇しくも平将門の没後1000年にあたっており,雷が落ちたのは「将門公の首塚」のすぐ近くでした。もともと大蔵省はこの首塚を取り壊そうとした経緯があるので,将門公のたたり再燃と噂されました。

ちなみに,明治以降,将門公のたたりが爆発したことが少なくとももう1回あります。このときはなんと台風を召還したのですが,これについてはいずれ。

南鶴ヶ城を望めば砲煙あがる

白虎隊を知っている人ってどのくらいいるのでしょうか。福島県生まれ(会津生まれではありませんが)
の私は子どものころから不正確ながらも知っていましたけれど,全国的な知名度はどの程度なのでしょうか。その昔年末ドラマにもなりましたが,
当時若者だった白虎隊士も,いまではいいオッサンになっています(笑)

白虎隊を『大辞林』で引くと,次のように書いてあります。(ちなみに『広辞苑』に書いてあるのはかなりデタラメ)

1868年,維新政府軍の来襲を迎えた会津藩が,兵制改革の一環として一六,七歳の藩士の子弟をもって編成した少年隊。
飯盛山における隊士二〇名の自刃は,会津藩の悲劇を象徴する事件となった。

つけ加えると,20名のうち1名は命を取りとめました。また,このときの20名が白虎隊のすべてではなく,
彼らは白虎隊の中の士中二番隊(隊士数37名)に属していました。

さて,前置きが長くなりましたが,新政府軍を迎え撃つため白虎士中二番隊が出陣したのは慶応四年八月二十二日
(現在の暦で1868年10月7日)午後のことでした。戦闘は膠着状態のまま夜になり,
深夜になって白虎士中二番隊は新政府軍を挟撃しようと移動をはじめましたが,
このときに食料を調達しにいった隊長の日向内記とはぐれてしまい,その後のいきさつには不明な点があるものの,
要するに城を枕に討ち死にしようと鶴ヶ城へ帰城しようとします。

ぬかるみや冷たい水の流れる弁天洞など困難な行軍の末に城から2.8kmほどの飯盛山に辿りついたのは,
翌二十三日午後2時ごろのことでした。そこから城を眺めると,城下からは紅蓮の炎が上がり,城は黒煙に包まれているように見えました。

鶴ヶ城を望めば砲煙あがる
痛哭涙をのんで且彷徨

20人はもはやこれまでと自分で喉を突いたり互いに刺し違えたりして自刃しました。

宗社亡びぬ我が事おわる
十有九士屠腹して斃る

その中の1人が奇跡的に命を取りとめたことは前に書いたとおりです。

しかし,名城鶴ヶ城はこのときはまだびくともしていませんでした。このあと1か月もちこたえます。ただ,
城下に火の手が上がっていたのは事実で,彼らには城がこの炎に包まれているように見えたようです。

一方,ちょうどこのころ,台風が太平洋岸を北上中でした。十九日に仙台に向けて品川を出港した榎本武揚の艦隊が,
二十一日の夜半から暴風雨に遭い,大きな損害を出しています。

二十二日の会津地方は台風の少なくとも強風域にはいっていたようです。
白虎士中二番隊は空腹と過度の緊張に加え激しい風雨の中での行動を強いられることになり,
飯盛山に辿りついたときには疲労も極限に達していたことでしょう。

DQNの川流れ

前回の日記で名前だけ出てきたあの事故ですが,もう7年も前ですからカビが生えているかも知れません。
でも,次の動画を見ると思い出すかも知れません。

http://www.youtube.com/watch?v=-BaPS5p2CnY

当時のニュースネットから引用します。

   北上する熱帯低気圧の影響で、関東地方は13日夜から14日にかけて激しい雨が降り、各地に大きな被害をもたらした。
  神奈川県山北町では、玄倉(くろくら)川の川岸でキャンプ中だった子ども5人を含む18人が増水で中州に取り残された。
  14日朝から現地の消防組合などが出動したが、救出作業中に鉄砲水で全員が流された。このうち4人は自力で対岸に泳ぎ着くなどしたが、
  同日夜になっても14人が行方不明になっている。県は不明者の捜索、救助のため、自衛隊に災害派遣を要請した。神奈川県では、
  藤野町の道志川でもキャンプ中の男性2人が行方不明になっている。厚木市相模川河川敷でも3人が中州に孤立したが、
  海上自衛隊のヘリに救助された。多摩川の増水で、東京都世田谷区や川崎市幸区では一部住民に避難勧告が出された。
 
   神奈川県警松田署などによると、玄倉川でキャンプをしていたのは、横浜市金沢区のスクラップ会社「富士繁(ふじしげ)」
  の社員やその家族ら。一行は13日に21人で、玄倉発電所の上流約100メートルの川岸でテントを張ってキャンプを始めたが、
  うち3人はその後引き揚げたという。
 
   雨が激しくなった午後8時過ぎ、玄倉発電所を管理する県企業庁の見回り職員が一行に避難を勧めたが、断られたという。
  松田署も避難を呼びかけていた。
 
   14日午前8時過ぎ、発電所職員が、中州になり、孤立している18人を発見。午前9時過ぎ、
  通報を受けた足柄上消防組合の6人が現場に到着したが、増水で中州は覆われていた。川岸からロープを渡して救助を試みたが、
  11時40分ごろ、鉄砲水があり、18人が次々と川に流された。
 
   1歳の男児1人はすぐに救出され、さらに夕方になって、子ども1人を含む3人が対岸にいるのが確認された。
  残る14人の行方はわかっていない。(asahi.com)

  1999081409

ちなみに,
この事故の現地からのレポートでなんたら予報士の資格をもつと思われるレポーターが1時間に38mm程度の雨に対し力を込めて
“記録的な大雨”などといっていましたが,この程度の雨ならいつどこで降ってもおかしくありません。
どういうつもりのレポートだったか知りませんが,あのような増水は日常的に起こることを強調すべきだったでしょう。実際,
地元の人の話によると年に数回は起こっているとのことでした。

ところで,DQNの川流れには先例があります。ちょうど40年前に起こった事故です。


http://notenkiexpress.blog95.fc2.com/blog-entry-334.html

DQNな教師に引率された生徒たちの悲劇です。

雨のバカヤロー!!

↑と,17年前の今日,叫んだ女性歌手がいました。

この日,西武球場で行なわれた渡辺美里のコンサートは,開始から1時間もしないうちに雷のため中止に。このとき,渡辺美里が最後に雨のバカヤロー!!と叫んだと伝えられています。

でも,落ち着いて考えてみるとバカヤローなのは雨ではなくて雷では……?(笑)

参考までに,1989年7月26日09時の天気図と,この日の所沢アメダスの気象データを示します。(降水量,風速の単位はそれぞれmm,m/s)

Image from Gyazo


時   降水量 気温℃   風向   風速
09時     0  25.1    北北西   1
10時     0  25.8    静穏     0
11時     6  25.5    南西     2
12時     7  24.2    西南西   1
13時     0  26.2    南南西   3
14時     0  28.0    南南西   5
15時     0  26.9    南南西   4
16時     0  25.7    南南西   4
17時     0  24.6    北西     1
18時     2  24.5    南東     1
19時     1  23.3    東南東   1
20時    22  23.1    南西     1
21時     2  22.9    南西     2
22時     1  22.8    南       1
23時     0  23.1    南南西   1
24時     0  23.3    東南東   1

ちなみに,天気図にある台風11号は翌27日23時40分ごろに大隅半島に上陸しました。

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[2019/07/26] 画像へのリンクの修正など

吉野家,倒産\(^o^)/

ウソではありません。
1980年の今日,会社更生法の適用を申請し事実上倒産しています。その後どうやって再建したのかは知りません。再建などしなければよかったのに。

まあ,生ゴミのような米国産牛肉を積極的に客に食わせるつもりでいるこんな売国企業は,滅んでしかるべきでしょう。

たたりじゃあ~っ!!

●たたりじゃあ~っ!!

延長八年六月二十六日(ユリウス暦で930年7月24日)のこと,清涼殿の未申の柱の上に落ちた雷は“神火”を発し,大納言藤原清貫の着物に燃え移って焼死させ,また,柱の下に倒れた右中弁平希世も死亡しました。醍醐天皇はショックで寝ついてしまい,7日後に没しました。

これは史上もっとも有名な落雷のひとつです。よく知られているように,この災異は失意のうちにこの世を去った菅原道真のたたりと怖れられました(死んでからずいぶん経っているような気がしますけれど……)。もっとも,より正確にいえば,道真が直接手を下したわけではなく,道真=天満大自在天神の十六万八千いる眷属の中の第三の使者,火雷火気毒王の仕業ということになっています。

ちなみに,天元元年七月二十四日,あの安倍清明の館も道真のピンポイント爆撃から逃れられませんでした。この衝撃の事実?!は,巷の安倍清明本にはあまり書かれていないようです。残念ながら安倍清明による雷神に対する報復があったかどうかはわかりませんが,おそらくやられっぱなしだったのでしょう。もし報復があったのなら,その物語が伝わっているはずですから。ちなみに,『百練抄』という文献では二十三日に雷撃を受けたことになっています。

●寺院への落雷

記録が残りやすいこともあるかもしれませんが,寺院は落雷の記録の多いところです。

日本書紀』によると,天智天皇九年四月三十日(ユリウス暦で670年5月24日)に法隆寺が落雷によって全焼したことになっています。

この落雷では雷が法隆寺のどこに落ちたかは記録にありませんが,お寺にある高い塔は雷の格好の標的です。

今も古都の玄関の象徴としてそびえる高さ55mの東寺(教王護国寺)の五重塔もたびたび落雷に遭っています。『日本気象史料』にあるだけでも,886年,1055年,1270年,1337年,1389年,1436年,1439年,1563年の7回あります(見落としがあるかも)。

現存しない塔では,応永六年(1399年)に完成した高さが109mあったといわれる相国寺の七重大塔は,あまりの高さのために雷神の怒りをかったのか,落雷で(戦火もあったかもしれません)短命に終わった塔です。

応永十年六月三日(ユリウス暦1403年6月22日)に落雷によって焼失,再建中の応永二十三年一月九日(ユリウス暦1416年2月7日)にも落雷で焼失,そして文明二年十月三日(ユリウス暦1470年10月26日)にみたび落雷により焼失し,以後再建されることはありませんでした。ちなみに,最後の焼失については猿による放火という目撃談?!もあるようです。

大坂城

落雷に見舞われたお城としては大坂城が代表的でしょう。

万治三年六月十八日(グレゴリオ暦1660年7月25日),城内の武器庫に落雷して爆発が起こり,死者・行方不明100人あまり,城と町屋1500軒が損壊するという惨事が起こりました。このとき天守閣も傾きました。

5年後の寛文五年一月二日(グレゴリオ暦1665年2月16日),今度は天守閣に落雷して焼失,以後1931年まで266年間,再建されませんでした。

●大蔵省炎上,たたり再び!?

時代は下って「♪あゝ 一億の民は泣く」と歌われた紀元二千六百年の1940年6月20日,大手町の逓信省航空局に落雷して炎上,火はみるみる広がり,大蔵省などが全焼しました。(大蔵省に落ちたという文献もある)

この年は奇しくも平将門の没後1000年にあたっており,雷が落ちたのはなんと「将門公の首塚」のすぐ近くでした。もともと大蔵省はこの首塚を取り壊そうとした経緯があるので,将門公のたたり再燃と噂されました。ちなみに,平将門菅原道真の生まれ変わりという説もあるそうで,そうだとするとたたりの手段に雷を使うというのも説明はつきます。

ちなみに,2003年9月3日,国会議事堂に落雷がありましたが,残念ながら閉会中でした。