44歳の女子高生事件

2001年06月25日の夕方,東京都世田谷区桜丘4丁目の路上でセーラー服にルーズソックス姿の“16歳の高校1年生”が男に髪を切られる事件が発生しました。

ところが翌26日になって,この“16歳の高校1年生”は実は44歳のババアであることが判明したのです。

ヘタな都市伝説よりよほど怖い事件です。

楽しい?!高波見物

2004年6月21日の9時半ごろ,台風6号室戸市付近に上陸,徳島市付近を通過し,13時過ぎに明石市付近に再上陸。死亡2人,行方不明3人,重軽傷19+99人などの被害を出して去っていきました(消防庁まとめ)。

死亡・不明の詳細は次のようになっています。

  • 6月18日……13時10分頃,東京都神津島村鴎穴の食道岩礁において,釣りに来ていた73歳男性が行方不明
  • 6月19日……19時30分頃,静岡県静岡市内の海岸において,21歳と20歳の男性2名が友人とバーベキューをしていたところ,高波にさらわれ行方不明(6月20日4時35分 20歳男性の遺体発見(同時刻,身元確認),5時50分 21歳男性の遺体発見(同時刻,身元確認))
  • 6月20日……13時30分頃,和歌山県美浜町の煙樹ヶ浜において,19歳男性が友人と打ち際で遊んでいたところ,高波にさらわれ行方不明
  • 6月21日……13時30分頃,和歌山県和歌山市加太の大波止赤灯台付近において,26歳男性が友人と波を見物していたところ,高波にさらわれ行方不明

6月18日の件は不明ですが(最後になっていきなり出てきた不明者なので),あとの3件は似たり寄ったりです。要するに,波を見物に行ってその波にさらわれたという,事故というより自爆です。

●加太海岸での自爆

6月21日に加太海岸で3人組が波にさらわれたときのようすは,ビデオカメラでバッチリ捉えられていました。テレビのナレーションにもありましたが,あの3人組は防波堤で度胸試しのようなことをしていたようです。3人組の「なぁんだ,たいしたことねえじゃねえか」「こんな波,チョロいチョロい」というような声が聞こえてきそうな波が何発か去ったあと,それまでの波とは比べものにならない高波が押し寄せ,アッという間に3人組をのみ込みました。

近くの漁船のそれこそ命がけの救助によって2人は救助されましたが,1人はそのまま外洋に流されたようです。

まあ,あえていわせてもらえばあんなヤツらを助ける必要はないと思いますが,漁師さんにとっては,自分たちの海があんなヤツらに穢されてたまるか,という思いがあったのかもしれません。

●一発大波

海の波は,いろいろな高さの波が混じっています。人間の目に感じる波の高さは,全部の波を高いほうから並べたとき,高いほうから3分の1の平均くらい,といわれています。したがって,人間が感じるよりも高い波が必ず混じっているわけです。

そして,100波に1波はこの1.5倍,1000波に1波はこの2倍の高さになることが統計的に導かれます。これは“一発大波”とよばれます。おおざっぱに,波の周期をかりに6秒とすると,だいたい10分に1波,100分に1波は平均的な波の高さのそれぞれ1.5倍,2倍の波があらわれることになります。

なお,これはあくまで統計上の話なので,一発大波がいつあらわれるかは実際には予測ができません。

●水の流れの怖さ

海岸では一発大波だけが怖いわけではなく,もともと水の流れは想像以上に怖いものです。底がしっかりしている流路でも,3m/s 程度の流れがあれば,30cm ほどの深さで歩行は困難になります(体験済み(笑))。3m/s といえばかなりの急流ですが,2m/s 程度の流れでも深さが 50cm もあればやはり歩行が困難になります。砂浜では砂自体が動きますから,なおさらです。ちなみに,子どもの場合は 1m/s 程度の流れがあれば深さ 30cm 程度でも歩行が困難になります。川や海では一瞬たりとも大人が目を離してはいけないということです。

6月20日の事故は,静岡大学モダンダンス部御一行様(総勢60人)がよせばいいのに静岡市高松の海岸でバーベキュー大会(一種の合コン?)を開き,部長の忠告を無視して波打ち際に遊びに行った数人のうちの1人が,尻もちをついた拍子に胸の高さまで水につかって波に引き込まれ,それを助けようとしたもう1人も波にのまれた……という事故のようです。水の怖さをなめてかかった,起こるべくして起こった事故でしょう。

ちなみに,海岸には離岸流(リップカレント)とよばれるハマるとたとえ北島康介イアン・ソープでも逃げられないかなり恐ろしい流れがありますが,長くなるので,またの機会といたします。

ところで,静岡大学モダンダンス部御一行様は,もちろんちゃんとバーベキューのあとかたづけをして帰ったんでしょうねえ……。

●小学生じゃあるまいに

6月20日の事故を受けて,静岡大の天岸祥光学長は次のようなコメントを発表しています。

今後は部活動の顧問教員などを通じ,危険な状況があれば,それに近づかないよう学生に注意を促したい。

なんか小学生を相手にしているみたいです。

海に行くときは,フジツボの恐怖のような作り話を怖がるよりも,海はもともと怖いところだということをしっかりと肝に銘じてほしいです。などとエラそうなことを書いているσ(^^;)はといえば,別の意味で海は怖いことをよく承知しているので,海には近づかないようにしています(笑)

ちなみに,この台風によって近江八幡市にあるラブホテルの屋根が飛び東海道新幹線の架線を切断,7時間にわたって運休するという珍事も発生しています。

検索すると,このラブホテル,今も営業しているようです。


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稲村ヶ崎の奇跡

鎌倉」と題する唱歌があります(芳賀矢一作詞)。鎌倉の観光ガイドのような長い歌で,次の歌詞ではじまっています。

七里ヶ浜の いそ伝い
稲村ヶ崎 名将の
剣投ぜし 古戦場

ここに歌われている名将とは,もちろん新田義貞です。元弘三(1333)年五月,稲村ヶ崎まで怒濤の勢いで攻めのぼってきた新田義貞も,天然の要害,鎌倉への侵入路を捜しあぐねていました。五月二十一日の夜半過ぎ,意を決して稲村ヶ崎の浜で数万の自軍を背にしてひとり馬から降り,兜を脱いで沖合いを伏し拝み,龍神に祈りを捧げます。

……仰願ハ内海外海ノ竜神八部,臣ガ忠義ヲ鑒テ,潮ヲ万里ノ外ニ退ケ,道ヲ三軍ノ陣ニ令開給ヘ

祈りおわって,黄金づくりの太刀(いつどこで準備したんでしょう?)を海中に投じると,なんと不思議なことに,今まで潮の干いたことがない稲村ヶ崎の海が二十余町にわたって干いたではありませんか。こうして生じた干潟から義貞軍は一気に鎌倉に攻め入り,鎌倉幕府の要人はもはやこれまでとほとんどが自害。ここに鎌倉幕府は滅びるのです。

以上は『太平記』に載っている話ですが,どこまでが事実なのでしょうか? 果たして潮が干いたのはほんとうなんでしょうか?

これについては諸説あり,いちばんもっともらしい(とσ(^^;)が以前思っていた)のは,義貞は潮の満ち干を知っていて,士気を鼓舞するためにひとり芝居を演じたという説です。

ところが,この説には致命的な欠点があります。この日は旧暦の五月二十二日ですから,稲村ヶ崎あたりの干潮は午前2時から3時ごろです。したがって潮が干いたのは事実でしょうが,これはいつでも起こっていることで,“今まで潮の干いたことがない”稲村ヶ崎が干上がったことを説明できません。それに上州育ちの義貞が潮の満ち干についてそれほど詳しかったとも思えません。

さらに,潮が干いたあとは歩きにくく,海というものに慣れていない上州の軍勢がスムーズに通れたかどうか疑問です。江戸時代の詠史川柳に

義貞の勢はアサリを踏みつぶし

というのがあります。

ということで,ドラえも~ん,なんとかしてよ~とタイムマシンでも借りない限りほんとうのところはわかりませんが,σ(^^;)的にはこの話は作り話で,義貞軍の本軍は稲村ヶ崎を通ったのではなく,別のところを通って鎌倉に攻め込んだのだと思います。

ただ,義貞軍本隊が化粧坂路を進んでいたころ,大館宗氏率いる右翼軍の一隊が由比ヶ浜を突破しており(ただし,大館宗氏はその後の戦いで討死),このときにひょっとして潮が干いたのを利用したのが,話を面白くするためか軍記物にありがちな針小棒大癖のためか誤ってか義貞軍本隊の話として伝えられたのでは……と思えないことはありません(根拠はないです)。

ところで,鎌倉といえば,大仏です。唱歌「鎌倉」にもあります。

♪極楽寺坂 越え行けば
長谷観音の 堂近く
露座の大仏 おわします

ここに歌われているように,奈良の大仏さんと違って鎌倉の大仏さんは露座,早い話が雨ざらしです。

もちろん,つくられた当時は大仏殿のようなものがそれなりにあったようです。ところが,3回の大風(そのうちの1回は『吾妻鏡』に載っている台風と思われますが,他は確認していません)によって倒壊,追い撃ちをかけるように1498年の津波によって流され,それ以来露座となったのでした。

ちなみに,ここでいう津波は正真正銘の(?)津波です。以前は“津波”と“高潮”は区別されていませんでした。例えば,東京・江東区の洲崎神社に「津波警告の碑」(波除碑)がありますが,この津波は高潮のことです。はっきりと区別されるようになったのは1934年の「室戸台風」のころからです。

さて,その1498年の津波ですが,『理科年表』によると,マグニチュード8.2~8.4程度の今でいう「東海地震」に伴って生じたもので(明応東海地震とよばれています),「紀伊から房総の海岸を襲い,伊勢大湊で家屋流失1千戸,溺死5千,伊勢・志摩で溺死1万,静岡県志太郡で流死2万6千など」という凄まじい被害を引き起こしています。

大仏殿の流失はその津波による被害のひとつです。それにしても,大仏殿が流されたのに大仏さんはよく踏みとどまったものです。

ちなみに,この明応東海地震による津波で,日蓮の生家跡に建てられた誕生寺が流されて海に沈みました。しばらくして別の場所に再建されましたが,1703年の「元禄地震」(ひとつ前の関東地震といわれます)による津波で,またもや流されました。というわけで,現在,天津小湊町(鴨川市に合併したみたいです。σ(^^;)が去年の1月に行ったときはまだ天津小湊町だった)にある誕生寺は3代目という話です。「日蓮の生まれ給いしこの御堂」は海の中です(内田康夫『日蓮伝説殺人事件』参照)。

長篠の合戦

桶狭間の合戦から15年後,天正三年五月二十一日(グレゴリオ暦で1575年7月9日),徳川家康と連合して設楽原で武田勝頼を破った戦いです。

名だたる武者から組織された武田の騎馬軍団を織田の名無しさん足軽鉄砲隊が三段撃ちという新戦法で壊滅させた“戦術革命”ともいえる画期的な戦い……と最近までいわれてきた戦いです。実際には,武田の「騎馬軍団」も織田鉄砲隊の「三段撃ち」もなかったし,まして“戦術革命”をもたらしたといえるような戦いではありませんでした。

ちょっと馬の歴史を調べればわかるように,当時の日本の馬はかなり小さく,平均すると120~140cm程度の体高で,現在では“ポニー”とよばれる大きさでした。有名なところでは,宇治川の先陣争いで名を馳せた佐々木四郎高綱の生喰《いけずき》は145cm,源義経が乗ったと伝えられる青海波《せいがいは》は142cmでかなり大柄な部類ですが,それでも160~165cm程度である現在のサラブレッドとは比べるのもかわいそうなくらいです。しかも体重は220~260kg程度で,今のサラブレッドのせいぜい半分です。さらに,当時まだ蹄鉄は使われていませんでした。

このような“ポニー”が蹄鉄なしで重武装の武者を乗せたりしたら,そもそも戦場を駆け回れるかどうかわかりませんし,かりに戦場を駆け回れたとしても,すぐにバテてしまってとても“いくさ”にならなかったのは,火を見るより明らかです。しかも当時は去勢の習慣がなかったため(なぜか日本だけらしい),気性の激しい馬が多く,整然と隊伍を組んで命令一下突撃などできたのか,はなはだ疑問です。

戦国時代になると,馬に乗って戦場にやってきても,馬から降りて戦うことが多くなっていました。武田軍の中に馬に乗って織田陣に切り込もうした武者はいたかもしれませんが,とても「騎馬軍団」などといえる集団ではなかったはずです。

話が馬のほうにヨレてしまいましたが(ブリンカーをしたほうがいいかな(笑)),合戦の前日は一日中雨が降っていました。戦いの舞台となった設楽原は水田地帯で,この雨のため泥沼と化して足場がたいへん悪くなっていました。合戦の当日は朝から雨が上がりましたが,足場が悪いのには変わりなく,20kgにもおよぶ甲冑を着込んで,5kgほどもある鉄砲を撃ち,撃ったらその鉄砲をかついで最後方に下がって弾を込め……なんて三段撃ちを続けざまに2~3回もやったらすぐにバテてしまいます。かりにこんなことができたとすれば,それは名無しさん足軽の寄せ集めなどではなく,サイボーグのような超人的な精鋭部隊だったでしょう。別の意味で“戦術革命”だったに違いありません。

桶狭間の合戦

永禄三年五月十九日(現行のグレゴリオ暦に換算すると1560年6月22日)正午過ぎ,織田信長は「敵は疲れとるぎゃ~! この一戦に勝てば末代までの功名だぎゃ~!! 一心に励めだぎゃ~!!!」とニコチャン大王弁を話したかどうかは知りませんが,桶狭間山に陣取る今川軍の本陣を目指し進軍を開始します。その数およそ 2000ですが選りすぐりの精鋭部隊。一方,桶狭間山の今川義元の本隊は,その数不明(笑) 諸説あるようですが,全軍の数もホントのところ15000から20000くらいだったそうですから,本隊には5000くらいがいたものと思われます。しかし戦闘員がどのくらいいたかは不明です。

すると突然,一天にわかにかき曇り,突風とともに猛烈な雨が降り出しました。突風によって沓掛峠のふた抱えもあるくすのきが音をたてて倒れました。信長軍では,これぞ熱田明神のお力だぎゃ~!! とささやき合ったそうです。

この突風はダウンバーストかもしれません。ダウンバーストについて,『気象科学事典』による説明を見ておきましょう。

ダウンバーストは,積雲や積乱雲から生じる,冷やされて重くなった強い下降気流のこと。地面に到達後激しく発散し,突風となって周囲に吹き出していく。突風の風速は,10m/s 程度のものから強いものでは 75m/s に達する。 吹き出しの水平的な広がりは,数 km 以下と小さく,寿命は10分程度と短いことが多い。

突風が文字どおりの追い風になったかどうかはわかりませんが,熱田明神云々からもわかるように,精神的な追い風にはなったことでしょう。今川軍にも何らかの影響を与えたかもしれません。

信長は自軍の行動を今川軍に隠すつもりはなかったようですし,天候の急変を利用しようとする意図もなかったようですが,突然の強雨と突風によって今川軍に気づかれにくくなったことは確かです。

信長軍は雨が止むのをみはからって,今川軍本陣に攻めかかりました。今川軍は大混乱におちいり,混乱の中で偶然にも今川義元が討ち取られたことは広く知られているところです。

濃霧の紫雲丸衝突事故

51年前の今日,国鉄宇高連絡船「第八紫雲丸」が貨物船「第三宇高丸」と衝突,168人が犠牲となる事故が起こりました。

瀬戸内海は平均的に見ればそれほど霧の発生しやすいところではありませんが,5月から梅雨の時期にかけては温かく湿った空気と冷たい空気とが混ざり合ってできる混合霧が発生しやすくなります。

1955年5月11日,濃霧の中,紫雲丸が乗客781人と乗組員63人を乗せて高松港鉄道第一岸壁を出港したのは6時40分でした。そして16分後の6時56分に第三宇高丸と衝突,わずか5分後に横転・沈没しました。

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事故の原因は紫雲丸の船長がやってはいけない左転をやったためとされていますが,σ(^^;)は疎いので,これ以上は触れません。このあたりのことについては萩原幹生『紫雲丸はなぜ沈んだか』(成山堂書店)が詳しいです。

犠牲者168人のうちの100人は修学旅行の生徒でした(そのうち81人が女生徒)。ほとんどは衝突後に自分の荷物を取りに船室に戻って犠牲になったようです。

当時はまだ物質的に貧しかった時代,子どもを修学旅行に行かせることは多くの家庭にとって大きな経済的負担でした。子どもたちはそのことをよく理解しており,この日のために揃えてもらったバッグや水筒,家族のために自分で買ったおみやげがきっとかけがえのないものに思えたのでしょう。修学旅行生の中でも女の子の犠牲が多かったのは,体力的な問題,水泳教育の問題のほかにも,こんなところにも原因があったものと思います。

衝突から沈没までわずか5分間だったにもかかわらず多くの人が救出されたのは,第三宇高丸の乗組員の救助活動によるところが大きかったようです。

ところで,当時の天気図を見ると,国際情勢から,中国の気象データがすべて空白になっています。西のほうの正確な気象情況がわからないというのはいってみれば見えないところから石が飛んでくるようなもので,このような条件下で天気図を解析して予報を組み立てなければならなかった当時の予報官の苦労が偲ばれます。

17年前のサンマリノGP

今日,イタリアのイモラ・サーキットでF1サンマリノGPの決勝レースが行なわれますが,17年前の日付も同じ1989年4月23日のサンマリノGPで衝撃的な事故が起こりました。

決勝4周目の高速コーナータンブレロでゲルハルト・ベルガーのフェラーリがコースアウト,約270km/hで壁に激突して炎上しました。

しかし幸いなことに,その十数秒後にはレスキュー隊が現場に到着,素早い救出活動で,ベルガーは奇跡的に軽いやけどですみました。

σ(^^;)はパソコン通信(時代を感じるこのことば(笑))で結果を知ってからテレビを見ていましたが,それでも車が一気に燃え上がったのには目を疑ったものです。実況の大川アナと解説の今宮さんは声がふるえています。

それにしてもこのときの実況が古タチでなくてよかった。

ところで,このレースはベルガーの炎上のために2ヒート制になったことで大きな火種を残すことになります。

2回目のスタートについてプロストがセナを協定違反だと批判,それまでは表面的には友好関係を保っていたふたりの不仲が決定的になりました。

国分寺ザリン事件

1995年4月20日,「国分寺ザリン事件」が起こりました。地下鉄サリン事件のちょうど1か月後です。

こんな事件誰も知らないと思いますので,当時の朝日新聞より――

二十日夜,東京都国分寺市のJR中央線国分寺駅で不審物騒ぎがあり,列車二本の運転が打ち切られるなどして乗客約六千人に影響が出た。
午後十時半ごろ,東京発豊田行き下り普通列車(十両編成)の最後尾車両に不審物があるのを乗客がみつけ,車掌が警視庁小金井署に届けた。同署の調べでは,座席下に白い紙袋が置いてあり,「これはザリンです」と書かれていた。中にはビニールにくるんだ酒のビンが入っていた。同署はビンの中身について調べているが,においもしないことから悪質ないたずらとみている。
また,三十分後に同駅についた東京発立川行き下り普通列車(十両編成)の4号車内でも,不審な紙包みが見つかった。同署で調べたところ,ピーナッツとイチゴをわら半紙に包んだものだった。

ちなみに,σ(^^;)はあとに出てくるほうの事件のとなりの車両に乗っていました(笑) まわりは大騒ぎでしたが,σ(^^;)はどうせいたずらだと思って,車両から追い出されるまでずうっと瞑想にふけっていました。

青の洞門とたつまき博士

青の洞門」は大分県の山国川,耶馬溪にあるトンネルです。

今から約250年前,ここは「鎖渡し」と呼ばれる難所で,深い谷底に転落して命を落とす人馬が跡を絶ちませんでした。たまたま諸国遍歴の旅の途中,ここを通りかかった僧,禅海が一念発起してトンネルを掘って安全な道をつくることを決意,苦節30年,宝暦十三年四月十日にやっと完成させたと伝えられています。

菊池寛の『恩讐の彼方に』のモデルにもなっています。こちらの了海,俗名市九郎[*1]は不義密通の果てに主人を殺害,その上追いはぎに強盗とどうしようもない悪人ですが,禅海上人は悪人ではなかったようです。

禅海上人にしても了海にしても,真の協力者もなく,たったひとりで(了海には中川実之助という“協力者”が現われますが)信念を貫いて青の洞門を完成させた……と考えられることが多いようです。

さて,昭和のはじめのころのことです。青の洞門を福岡の中学校の修学旅行御一行様が訪れました。引率の教師は禅海上人の聞くも涙語るも涙の見てきたようなお話を聞かせ,忍耐の大切さを切々と説いたことでしょう。するとそのとき,ひとりの生徒が次のようなことをいいました。

「ぼくならはじめの15年間はトンネルを掘らずにトンネルを掘るための機械を開発し,次の15年でその機械を使ってトンネルを掘ります。そうすればトンネルはでき,機械は残り,一石二鳥です」

いうまでもなく,教師は激怒らしいです。

この生意気そうな?!生徒は,現在では気象関係者なら知らない者はないという人物……1998年に亡くなった藤田哲也博士でした [*2]。ちなみに,この人を知らない気象関係者はモグリです(笑)

藤田博士は日本では気象関係者を除くと一般にはあまり知られていませんが,竜巻やダウンバーストといった現象の世界的な権威でした。1971年に博士が考案した竜巻の強さを表わす尺度「藤田のスケール」あるいは「Fスケール」は,今でも使われています。

藤田博士の業績などについては次のサイトがあるので,興味があるかたは見てみてください。

たつまき博士の研究室 http://www.fujita-scale.com/

どうでもいいですが,σ(^^;)は“たつまき博士”から「少年ジエット」に出てきたハリケーン博士を連想してしまいますが(^^;)

禅海上人についていえば,青の洞門の開通後は通行料を徴収して財をなし(てお寺に寄付し)たらしいですし,トンネルを最後までひとりで掘ったのではなく,村人も途中からかなり協力的になったようです。年齢もあって体力的に劣る禅海上人は,トンネルを掘る職人を雇うために托鉢にまわることが多かったという話もあります。

[1] こいつの姓は何なんでしょう?
[
2] このエピソードは倉嶋厚『季節つれづれ事典』を参考にしました。

花魂を驚かして柳楊を壓す 交通機關を奪て勤人を泣す

この『南総里見八犬伝』あるいは『水滸伝』風のタイトルは,1908年4月10日付の東京日日新聞に使われていた見出しです。

一昨八日夜十時頃より満都花なる今日この頃奇しくも降り出せる妖雪《ゆき》は終夜《よもすが》ら花魂を驚かして降りしきり明けて昨朝となるも尚降り歇《や》まず春の泡雪と思ひしは違ひて世は白妙の目の行く限り白皚々たるのみか量《かさ》さへ尺と積もりて寒中にも都には容易《たやす》く見られぬ大雪,されば其が爲めの被害も少なからず……

そして,

各所の櫻花は枝もたわゝの雪に壓せられて紅褪せ白散じて見るも無殘の姿痛々しく……

とあり,桜の被害もかなり大きかったようです。

東京の積雪は20cmで,今でも4月の最深積雪となっています。

この日の雪は晩雪という点では過去数十年なかった大雪だったらしく,東京日日新聞でも東京朝日新聞でも桜田門外の変を引き合いに出しています。当時はまだ江戸末期の動乱の記憶が残っていたんですね。