春の歌

「春の歌」で有名な作曲家ヤコブ・ルートヴィヒ・フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ(Jakob Ludwig
Felix Mendelssohn Bartholdy)が生まれたのは1809年の今日です。将来「春の歌」
を作曲する運命だったことが誕生日からもわかります(笑)

「春の歌」は思わずフラフラと踊り出したくなるようなメロディーですが,ドリフターズ加藤茶が“ちょっとだけよ”よりもかなり前,
この曲をバックに踊っていたことを知る人は少ないでしょう……(^^;) (ただし,番組は「八時だよ全員集合」ではありません)

「春の歌」の前には,♪チョウチョ,チョウチョと歌ってバッタリ……というパターンもありました。

もぐらの日

明日2月2日は,北米ではGroundhog Day。あまり正しくはなさそうですが,要するに「もぐらの日」。あまり正しくないというのは,Groundhogはリスの仲間らしいからです。

いい伝えによると,この日,Groundhogがのこのこと巣穴が出てくるそうです。そのとき,晴れていて自分の影を見ることができるとまだ6週間冬が続き,くもっていて自分の影が見えないと春はすぐそこなのだそうです。

ちなみに,2月2日はもともとキリスト教の聖燭節(=キャンドルマス)です。聖燭節は,弱っていた太陽が復活しはじめ春が近づくことを祝うケルトの祭りからキリスト教に取り入れられた祝日だそうです。

2月2日は立春とほぼ2日違い。人間の考えることなんてあまり違わないようです。

冬のど真ん中,パウロ回心の日

昨日1月25日はキリスト教では「パウロ回心の日」になっています。伝道者パウロがキリスト教に改宗したのを記念する日ですが,1月25日に回心したという記録があるわけではなく,なぜこの日なのかは不明のようです。

イングランドには,この日のお天気でその年の天候や災害を占う次のような詩があります(八木谷涼子『キリスト教歳時記』より)。

聖パウロの日が明るく晴れたなら,この年,幸《さいわい》多かろう
雪や雨が降ったなら,穀物みんな不作だろう
曇や霧で暗ければ,鳥や家畜が死ぬだろう
風が空を吹くならば,国が戦《いくさ》で忙しい

また,この日は冬の真ん中とされています。

冬を短い単位でみれば,冬至または12/25のクリスマスからこの日までが冬の前半,この日から02/22の「聖ペテロの日」が冬の後半になります。冬を長い単位でみれば, 11/25の「聖カタリナの日」からこの日までが冬の前半,この日から03/25の「マリアの受胎告知日」または春分までが冬の後半になります。

これを考えると,パウロ回心の日は季節的にうまい時期に配置されていることがわかります。ドイツには「パウロの回心で大地の中で根は向き直る」ということわざもあるそうです。

パウロ回心の日については,フランスに次のようなことわざもあります。(堀田郷弘ほか『フランスことわざ歳時記』より)

聖ヴァンサンの祝日には,冬は牙をなくす。近親の聖ポール(=パウロ)に牙を譲るか,売り渡すから。

聖ヴァンサンとは聖ウィンケンティウスのことで(ちなみに,「焼き肉焼いても家焼くな!」はバンサンカン(笑))――といっても聖ウィンケンティウスなんてσ(^^;)も聞いたことがなかったのですが,聞くところによると,ぶどう栽培業者の守護聖人とされています。その聖ウィンケンティウスの日は01/22。その日に寒さがやわらいだとしても,パウロ回心の日にはまた寒さがぶり返すから油断するなと,このことわざはいっているようです。

雪の降る街を

雪の降る街をという古典的な名曲があります。

この歌は,もともとはNHKの連続放送劇「えり子と共に」の挿入歌としてラジオのスピーカーから流れた曲でした。「えり子と共に」については以前このブログにも書いたことがありますが,1949年10月5日から1952年4月3日まで放送された連続ラジオドラマです。ちなみに,あと番組として1952年4月10日から放送されたのが,女湯が空になったという伝説をもつ,忘却とは忘れ去ることなりのあの「君の名は」です。

「えり子と共に」がどのようなストーリーだったのか,ほとんどわかりません。最終回の最後の部分だけ何かの番組で聞いたことがありますが,えり子さんが結婚するところで終わっていました。「これからどういう生活になるのか,わかりません」というようなセリフがありました。

さて,「雪の降る街を」ですが,1952年1月,「えり子と共に」のリハーサル後にどうやら時間が余りそうだということで,急遽つくられた曲だそうです。どのような場面で流れたのかはわかりませんし,誰が歌ったのかもわかりません。

そういうわけで,はじめは1番の歌詞しかありませんでした。

ところが,急造の曲にしては意外に好評だったため,2番,3番をつけ足して,シャンソン歌手の高英男さんが歌い,1953年2月にNHKの「ラジオ歌謡」として放送されました。

雪の降る街を」の歌詞は,「えり子と共に」の原作者でもある作詞者の内村直也さんがかつて訪れたことのあるいくつかの雪の降る街をイメージしてつくったもので,特定のモデルはないそうです。

作曲者の中田喜直さんは山形県鶴岡市の出身で,鶴岡市は「雪の降る街を」の“発祥の地”といわれることがありますが,発祥の地というのはハチ公が秋田犬だというようなもので(発祥の地はあくまでNHKのスタジオ(笑)),せいぜい“発想の地”でしょう。実際,鶴岡市のホームページでは“発想の地”となっています。

高英男さんはサハリン生まれ,11歳までサハリンに住んでいたそうで,雪のサハリンのイメージを重ねて歌ったと,いつだったかラジオで話していました。

寒四郎と寒九

去年の冬を例に挙げるまでもなく,なかなか当たらないのが長期予報です。統計の取りかたによりますが的中率は30%台といわれています。

一方で,とくに夏季の天候をできるだけ早い時期に知りたいという需要は昔からありました。その結果として編み出されたのが昔流の“長期予報”です。しかし根拠があるわけではないので,一種の占いです。「寒四郎」と「寒九」も,ある特定の日の天気をもとにした昔流の“長期予報”です。

寒の入り(=小寒)から数えて4日目は「寒四郎」とよばれます。麦作の厄日とされており,この日の天候によって収穫が影響されるといわれていました。この日が晴れだと豊作だが,雨や雪だと凶作になるということのようです。ただ,いろんなバリエーションがあり,「彼岸(ひがん)太郎,八専(はつせん)次郎,土用(どよう)三郎,寒(かん)四郎」と十把(四把?)ひとからげでよばれることが多いようです。

「彼岸」はこの中ではいちばん有名で,春分・秋分を中日とする7日間(ただしここでは春のほう)です。

「八専」は暦の本によると,“日の干支で壬子から癸亥までの12日間のうち,五行の同気が重なる日”で,60日ごとにあらわれますが,ここでは時期から考えて3月ごろのことで,今年は03/19から03/30のうち,03/20,03/23,03/25,03/29を除く8日です。

「土用」はもちろんここでは夏の土用ではなくいわゆる冬土用で,今年は01/17から02/03までです。

以上から,この“長期予報”を今年にあてはめると,01/09,01/19,03/21,03/18の天気で今年の豊作,凶作が決まるということです。

ただ,「彼岸太郎,八専次郎,土用三郎,寒四郎」はその年の作柄の“長期予報”ではなく,それぞれ彼岸,八専,(冬)土用,寒の間の天気を占うとする地方もあり,そうなると“長期予報”というよりは“週間予報”に近い感じです。

また,寒の入りから9日目は「寒九」とよぱれます。この日は寒四郎とは逆で,この日の雨は「寒九の雨」とよばれ,豊作の兆しとされていました。

ところで,「北風小僧の寒太郎」でおなじみの“寒太郎”は,寒四郎や寒九と同じようなものだとすれば寒の入りから数えて1日目,要するに数えるまでもなく小寒のことですが,この日の天気から占う“長期予報”はとくにないようです。

ただ,作詞者に意図があったかどうかはともかく,この歌は寒太郎=小寒から暦の上の寒がはじまるということを擬人的によく表わしている歌だと思います。「みんなのうた」では堺正章さんが歌っていましたが,田中星司さんの歌のほうがσ(^^;)は好きでした。

ホワイトクリスマスの大停電

σ(^^;)がちょうど仙台に住んでいた1980年,大停電が起こって街中の灯が消え,雪明かりだけという,
これぞホントのホワイトクリスマス──を体験したことがあります。

23日に四国沖に発生した低気圧が急速に発達しながら南岸を通過したため,24日にかけて東北地方は南部を中心に暴風雨雪になりました。
仙台では23日に降りはじめた雨が24日未明から雪に変わり,18時に積雪25cmを記録しました。

イブの日は,この雪のため,交通機関はマヒ状態。σ(^^;)は何を血迷ったのか午前中にパスで中心街に出かけていったのですが,
帰りはバスが坂を上れないという理由で途中で折り返し運転になってしまい,そこから先は雪中行軍になりました。
どこからともなくあの映画の芥川也寸志作曲のあの曲が聞こえてきたような……。そうです,「八木山死の彷徨」(笑)
「天は我々を見放したか……」

さて,この日の雪はかなり湿った雪で,その湿雪が送電線に付着,そこに強風が吹きつけました。
送電線はふつうの状態では強風の中でもあまり振動しません。そのように設計されているからです。ところが,
雪が付着して形状が変わると話は変わり,ギャロッピング(galloping)とよばれる振動を起こすことがあります。

ギャロッピングはフラッター(flutter)とよばれる自励振動の一種で,
いったん振動がはじまるとその振動によってまわりの空気の流れが振動を助長するようにはたらきます。その結果,
風さえ吹いていれば振動は続き,風が強くなると急激に振動が激しくなります。この振動は風の強弱の変化(風の息)とは関係なく,
定常な空気の流れの中でも起こります。十数m/sを超える風が吹いたとき,
1~10秒程度の周期で振幅が10mにも達する上下方向のギャロッピングが起こることがあります。

このようにしてあちこちで送電線が切れたり鉄塔がぐにゃりと折れ曲がったりしたものですからさあたいへん。
東北電力仙台営業所管内の全戸数の70%以上という大停電が起こりました。ヒドいところでは27日まで続き,河北新報には

  27日:
    電力は何をしている
    宮城福島 停電三晩目,住民に怒り

  28日:
   “大停電”やっと復旧
    仙台 4日ぶり暗やみ解放

などの見出しが見えます。

σ(^^;)は雪中行軍で帰宅しただけでとくに被害らしい被害は受けていませんし(そういえば,
シャーベット状の雪のかたまりが落ちてきて傘が1本ダメになりましたが),停電も翌日には回復しましたから,
雪明かりだけのロマンチックな夜の記憶だけが残っています。

ちなみに,仙台では同月14日にも30cmの積雪を観測しているのですが,こちらはまったく記憶にありません。

ところで,仙台の年末といえば「光のページェント」。ですが光のページェントがはじまったのは1986年ですから,
イブの大停電当時はもちろんまだありませんでした。

光のページェントがはじまってから仙台がホワイトクリスマスを迎えたことが 1度だけあります。1992年のことです。

ところが,河北新報からは雪の中の光のページェントに関する記事は見つかりませんでした。見つかった記事(見出し)はといえば……。

  イブの仙台 交通大混乱 寒波襲来 (25日朝刊)
  脱スパイク先進地 心構えはまだまだ (25日夕刊)

スパイクタイヤの使用が禁止されたのは1991年4月でした。

なお,このときの雪は低気圧の通過に伴うものではなく,強い寒気の吹き出しによるものでした。

「這ってでも出てこい」

12月の第1日曜には福岡国際マラソンもあります。

1987年12月6日に行なわれた福岡国際マラソンは,中山竹通が悪コンディションの中,
35kmまで当時の2.07.12の世界最高時の通過タイム1.45.40を上回るペースで快走,後半の冷たい雨(みぞれ?)
でスタミナを奪われて記録更新はならなかったものの,2時間8分18秒で優勝しました。このタイムはシーズンの世界最高,歴代(当時)
でも10位の好タイムで,ソウル五輪への切符を事実上手中にしました。

当初,ソウル五輪の男子マラソン代表はこの福岡国際での一発選考といわれていました。ところが,
瀬古利彦
(最近では日テレの箱根駅伝中継に出てきてはピントはずれなことをいうあの人物)
が足をケガして出場できなくなった途端に,
選考は翌年3月のびわ湖毎日マラソンまでと変更される始末。このとき中山が瀬古に対し「這ってでも出てこい」といったというのは有名な話です。実際には「ボクなら這ってでも出る」といった――
という話もあります。まあ,本当は何といったかはわかりませんが,中山は怒りをこの福岡国際でぶっちぎって勝つことで示したのでした。

這ってでも出てこなかった瀬古は翌年3月13日,選考最後のびわ湖毎日マラソンに出場,
優勝はしたもののレース内容はシロウト目にも評価に値しないレベル。タイムもごく平凡なら(2時間12分41秒),
35-40kmのスプリットが17分01秒というのは,いくら向かい風だったとはいえ女子マラソン並みです。
もう瀬古の時代は終わっていたのでしょう。それでも昔の名前でソウル五輪に出ましたが,予想どおりの惨敗に終わりました。

伝説の雪の早明戦

1987年12月6日,低気圧が発達しながら鳥島付近を通過,この低気圧に向かって北東から冷たい空気がはいってきました。このため,
東京は最低気温0.9℃と冷え込み,前夜からの雨が06時から雪に変わりました。これがこのシーズンの初雪で,
戦後では1962年に次いで2番目に早い初雪です。そして,09時には積雪2cmを記録しました。東京以外の積雪は,八王子2cm,
宇都宮4cm,軽井沢25cm,日光23cm,秩父7cmなどとなっています。

この雪の影響で,奥多摩有料道路が09時から全面通行止めになったほか,東北,関越,
常磐などの自動車道路でも一時チェーン規制や速度制限が行なわれました。

東京で雪が降ればおきまりの相次ぐおむすびコロリンスッテンコロリン。東京消防庁の調べでは,この日だけで28人が重軽傷を負いました。
σ(^^;)は,大のおとながこれしきの雪で滑って転ぶのがいまだに信じられないのですが。

神宮外苑では,ほどよい感じで雪が降り,「思わぬ都心の雪景色に若者たちはちょっぴり“ロマンチック気分”」(毎日新聞)

初雪のデートといえば,サンさまだかヨンさまだかゴさまだかロクさまだか知りませんが,そんな名前のマッチョ男優
(書いてから気づいたのですが,“男優”はアレもののビデオ以外ではあまり使わないような気も(^^;))
のあのドラマの有名なシーンらしいです。あちらには“初雪のときに好きな人と一緒にいると結ばれる”というような迷信があるそうで,
あのシーンにはこの迷信が背景にあるのでしょう。最近では初雪の日にはケータイの回線がパンクする――という話も聞いたことがあります。

ついでに大晦日,チュンサンとかいう高校生が交通事故で死んだことになっていますが(ちょっと違うかも),
これは大晦日というのがポイントです。大晦日は年の境界なので時空の裂け目が現われるという古くからの民族的な信仰があり
(あの国にもあるのかどうかは知りませんが),のちの展開が暗示されているような気がします。
それにしてもあの国の高校では元旦に学校に行くことになっているのでしょうか。

なお,σ(^^;)はキムチが大っ嫌いなので,あの国のドラマは見ません。ついでにひとこと,キムチ食ったら電車に乗るな!! 臭くてかなわん。

ところで,明日は12月の第1日曜日。12月の第1日曜日といえば,ラグビー早明戦です。

今では12月の第1日曜と決まっているようですが,以前は12月の第1日曜以外に行なわれたこともあり,
例えば1957年と1973年などは12月の第2日曜に行なわれています。

1987年12月6日はなんと12月の第1日曜でした。そういうわけで国立競技場は一面の雪――。しかし,
何があろうと中止にならないタテマエのラグビー,中止にしてはなるまじと約200人が雪かきに動員され,
なんとかキックオフができる状態にこぎつけました。ビデオで見ると,それでもグラウンドのあちこちに雪が残っています。

コンディションがコンディションだけにミスも多く,好試合だったとは必ずしもいえませんが,歴史に残る名勝負だったことは確かです。
とくに最後の10分などはいまビデオで見ても力がはいります。

試合は,先制した早稲田が一時は逆転されたものの今泉の2つのペナルティーゴールで再逆転,
最後の明治の重量フォワードの猛攻を必死のディフェンスで凌ぎ,10-7で逃げ切りました。

早稲田はこのシーズン,大学選手権も制し,さらには日本選手権で東芝府中も破り,学生としては(おそらく)
最後の日本チャンピオンになりました。ちなみに,このときのNo.8が清宮・早稲田大前監督です。

なお,ラグビーが何があろうと中止にならないというのは,あくまでタテマエです。それが証拠に,
1996年2月18日には雪のために日本選手権の決勝が順延,1998年1月には同じく雪のために日本選手権の1回戦が順延になっています。
また,1989年1月にはおよそ説得力があるとは思えない理由で全国高校大会の決勝は中止,大学選手権の決勝は順延になりました。

津軽にはホントに“七つの雪”が降るのか?

新沼謙治さんが歌った「津軽恋女」(古い歌ですが)の中に

♪津軽には七つの 雪が降るとか
こな雪 つぶ雪 わた雪 ざらめ雪
みず雪 かた雪 春待つ氷雪

という歌詞があります。

この“七つの雪”の出典が太宰治『津軽』であることはよく知られています。その『津軽』では,巻頭に「津軽の雪」としてこの“七つの雪”が並べて書いてあり(ただし順序は“こな雪,つぶ雪,わた雪,みづ雪,かた雪,ざらめ雪,こほり雪”),最後に「東奥年鑑より」とあります。

その『東奥年鑑』(1941年)を見てみると,「積雪ノ種類ノ名稱」として次のように説明されています(ほぼ原文のまま。ちなみに,国会図書館ではこの書物は破損防止のために複写禁止なので,手で書き写しました(笑))。

こなゆき 濕氣の少い輕い雪で息を吹きかけると粒子が容易に飛散する
つぶゆき 粒状の雪(霰を含む)の積つたもの
わたゆき 根雪初頭及び最盛期の表層に最も普通に見られる綿状の積雪で餘り硬くないもの
みづゆき 水分の多い雪が積つたもの又は日射暖氣の爲積雪が水分を多く含む樣になつたもの
かたゆき 積雪が種々の原因の下に硬くなつたもので根雪最盛期以降下層に普通に見られるもの
ざらめゆき 雪粒子が再結晶を繰返し粒子が肉眼で認められる程度になつたもの
こほりゆき みづゆき,ざらめゆきが氷結して硬くなり氷に近い状態になつたもの

つまり“七つの雪”は降ってくる雪ではないのです。確かに,「かたゆき」なんて,降ってきたらちょっと恐そうな名前です。

『東奥年鑑』をよく見ると,続いて「降雪ノ種類ノ名稱」として次の4つが挙げられています。

こなゆき,つぶゆき,わたゆき,みづゆき

おわかりでしょう。ほんとうは津軽には四つの雪しか降らないのです(笑)

舊弊なれどお月見の眞似事に……

今日は旧暦で九月十三日です。
旧暦で九月十三日の夜は十三夜とよばれ,豆や栗を供えて月を祭る習慣がありました。「豆名月」
「栗名月」ともよばれます。

早い話が収穫祭のひとつだったようです。
中秋の名月である八月十五日の月見をしてこの日の月見をしないことを片月見といって忌む風習もありました。

また,仲秋の名月や十三夜には,他人の畑の作物を無断で取ってもよいという,今から考えるとわけのわからない風習も各地にあったそうです。

中秋の名月の月見は中国伝来の行事ですが,十三夜の月祭りは日本固有の風習のようです。

5000円札のお姉さん樋口一葉の小説,その名も『十三夜』に「今宵は舊暦の十三夜,
舊弊なれどお月見の眞似事に團子をこしらへてお月樣にお備へ申せし……」とあるので,明治のはじめにはすでに“旧弊”
となっていた地方があるようです。

ところで,どうして満月でなくて「十三」夜なのでしょうか。とくに陰陽五行といったような崇高(?)な理論に基づいているわけではなく,
どうもよくわからないようです。八月十五日が仲秋の名月,九月十三日が十三夜, 十月十日が十日夜《とおかんや》と,
秋が深まるにしたがって昇ってくるのが時間的に早い月を対象としているので,気温が下がるから……
というのが最も説得力があるように思えます。