自粛ブームの天皇賞 (1988年)

アイルトン・セナがはじめてワールドチャンピオンに輝いた日1,快晴に恵まれた東京競馬場では,当時の現役最強馬タマモクロスと新鋭オグリキャップとのはじめての対決となる第98回天皇賞(秋)が行なわれました。

時あたかも自粛ブームの真っ最中。各地で色々なイベントが中止の憂き目を見ました。そんな中,天皇賞は名前が直接的すぎることもあって広告キャンペーンは一切行なわれませんでした。にもかかわらず折からの競馬ブームが追い風となって2頭の対戦はファンの注目を集め,東京競馬場には12万人の観客がつめかけ,馬券の売り上げもそれまでの秋天レコードを更新しました。

レースはタマモクロスの快勝でした。

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1988年10月30日(日) 6回東京8日  天候: 晴   馬場状態: 良
10R  第98回天皇賞(秋)
4歳以上・オープン・G1(定量) (牡・牝)  芝 2000m   13頭立
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着枠 馬  馬名               性齢 騎手     斤量 タイム  3F  人体重     廐舎
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1 6  9  タマモクロス    牡 5 南井克巳  58  1.58.8 ----  2 452 (栗)小原伊佐
2 1  1  オグリキャップ   牡 4 河内洋   56  1.59.0 ----  1 492 (栗)瀬戸口勉
3 8 12  レジェンドテイオー 牡 6 郷原洋行  58  1.59.5 ----  9 524 (美)田村駿仁
4 4  5  ダイナアクトレス  牝 6 岡部幸雄  56  1.59.6 ----  3 480 (美)矢野進 
5 3  3  ランニングフリー  牡 6 菅原泰夫  58  1.59.8 ----  7 452 (美)本郷一彦
6 3  4  ボールドノースマン 牡 5 柴田政人  58  2.00.0 ----  4 470 (美)稗田研二
7 7 10  シリウスシンボリ  牡 7 加藤和宏  58  2.00.3 ----  5 518 (美)二本柳俊
8 7 11  カイラスアモン   牡 5 安田富男  58  2.00.3 ----  8 488 (美)松山吉三
9 5  8  マティリアル    牡 5 東信二   58  2.00.9 ----  6 490 (美)田中和夫
10 8 13  トウショウサミット 牡 7 柏崎正次  58  2.01.4 ---- 11 494 (美)奥平真治
11 5  7  ガルダン      牡 8 大塚栄三  58  2.01.4 ---- 13 468 (美)藤沢和雄
12 4  6  カシマキング    牡 9 的場均   58  2.01.4 ---- 10 456 (美)飯塚好次
13 2  2  パリスベンベ    牡 7 中舘英二  58  2.01.4 ---- 12 466 (栗)加藤敬二
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LAP :12.6-11.2-11.9-11.7-12.0-12.3-11.9-12.0-11.7-11.5
通過:35.7-47.4-59.4-71.7  上り:71.4-59.4-47.1-35.2  平均:1F:11.88 / 3F:35.64
単勝 9 \260    複勝 9 \130 / 1 \110 / 12 \370
枠連   1-6 \240 (1) 

ちなみに,σ(^^;)は埼玉県の本庄まで出かけていたこともあって,このレースは見ていません。しかもオグリキャップってなぜか印象が薄いんです。

ついでですが,当時の自粛ブームの犠牲となったテレビ番組に「ザ・スクールコップ」があります。3話構成のはずの「セーラー服幽霊」が「前編」だけで終了になってしまいましたとさ。

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雨のF1日本GP (1988年)

F1が日本の一般ピープルに注目されはじめ,モータースポーツがNHKでまともに取り上げられるようになったのは,中嶋悟がロータス・ホンダのNo.2ドライバーとなり,フジテレビで全戦中継するようになった1987年からでしょう。

もう28年も前なんですねえ(^^;)

そのF1人気をさらに盛り上げたのがアイルトン・セナでした。

アイルトン・セナは1987年はロータスのアクティブサスペンションが不調だったこともあってそれほどでもなかったのですが,1988年にホンダエンジンとともにマクラーレンに移ってから本領を発揮しました。

この年はマクラーレン・ホンダ旋風が吹き荒れ,イタリアGPを除いて同じマクラーレンのセナとアラン・プロストのうちどちらかが勝つという圧倒的な強さでした。

こうして迎えた1988年10月30日日本GP決勝。ポールシッターのセナがスタート直後にエンジンをストールさせるという波乱の幕開け。

プロストがスタートできないセナを横目で見ながら追い越していきます。しかし下り坂に助けられ,エンジン再始動,1コーナーを14位で回り,オープニングラップを8位で通過します。その後も驚異的な追い上げを見せ, 2周目で6位,5周目で3位まで順位を上げ,20周目には2位を走行していたレイトンハウス・マーチのカペリのリタイアがあって2位まで上がり,トップを走るプロストの背後にひたひたと迫ります。

そして27周目の最終コーナーの立ち上がりでプロストが周回遅れにひっかかってじゅうぶんに加速できないのに乗じて,セナはプロストのスリップストリームにはいり,第1コーナーでプロストのインに飛び込み,ついに先頭に躍り出ました。このときのフジテレビの空撮映像は大川アナ(当時)の実況ともあいまって絶品でした。

レース序盤から時折降っていたしぐれ模様の雨が後半にやや強くなりました。ただ,降水量としては大したことはなかったようで,最後まで全車スリックタイヤのままでしたし,レース短縮もありませんでした。

セナは滑りやすくなった路面も無難にこなしてそのままチェッカーを受け,ついにワールドチャンピオンの座に就いたのでした。

メーン・スタンド後方にかかった虹が,新チャンピオンを祝福しているように見えた。(スポニチ 1988/10/31付)

この日は日本の東海上を進んだ低気圧が千島列島付近で964mbと猛発達,東~北日本を中心に強い冬型の気圧配置になりました。

長野や松本では平年より20日も早く初雪が降って最早記録を更新したほか,各地で初雪を観測,野沢温泉では20cmの積雪があり,初滑りが楽しめました。また,43日も早く榛名山の初冠雪が観測されています。

この日,私は埼玉県の本庄市に出かけていまして,山々が雪化粧していたのをよくおぼえています。日本GPの結果が早く知りたくて,脱兎のごとく家に帰ってNIFTY-serve(当時)の時事通信ニュースを見ました。パソコン通信は当時のニューメディア(死語か)でした。 今ならあわてて帰らなくてもケータイで結果を知るどころか,ワンセグでレースを見ることだって可能です。

セナはこの年を含めて3回ワールドチャンピオンになりますが,1994年5月1日,サンマリノGPでのレース中の事故で天に召されました。若いF1ファンにとっては伝説の人なのでしょうね。

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くろーばー号船長の海難審判

1903年10月29日,暴風雪の津軽海峡で,青森から函館に向かっていた日本郵船の貨客船東海丸(1121トン)の側舷にロシアの貨物船プログレス号が衝突,東海丸は沈没し,乗客・乗組員104人のうち47人が死亡しました。

暴風雪の中で船が沈没したにもかかわらず半数を超える57人が助かったというのは奇跡といえるかもしれません。ひとえに東海丸の久田佐助船長の行動によるものといわれています。

1903年10月31日付東京朝日より:

●東海丸船長の最期 三十日青森特派員発

船長久田佐助氏は衝突するや即時全力を注ぎて人命の救助に熱心し居たり船客は大抵甲板に出でたるが船長はボート四艘に船客を分載して避難せしめたり其内一艘丈露船に漕着けたり露船よりもボートを發し浮つ沈みつある人々を救ひ上げたり最後に露船のボートは船長を迎へんが爲め東海丸に近づきしも船長は之に移乘するを肯んぜず自身をブリツヂに縛り着け綱を引て汽笛を鳴らしつゝ從容として船と共に沈沒し海底に葬られたり其處置の見事なる露國の船員始め何れも涙を流して感嘆せり

のちに教科書にも載りました。「小學國語讀本巻十」(1938年)より:

 すると、まことに突然、右手のすぐそこに、此方をさして突進して來る船があつた。それは、室蘭で石炭を積んで、ウラヂボストツクへ廻航するロシアの汽船であつた。
 東海丸の船長久田佐助は、眼前に迫る此の危急をさけるのに全力を盡くしたが、しかしもうおそかつた。忽ち一大音響と共に、ロシア汽船の船首は、東海丸の船腹を破つてしまつた。海水は、ようしやなく浸入する。東海丸の船體は、極度に傾いた。
 すは一大亊。久田船長は、早速乘組員に命じて部署につかせた。五隻のボートは下された。彼は、わめき叫ぶ船客をなだめつゝ、片端からボートに分乘せしめた。此の間にも、東海丸は刻々と沈んで行つた。
  船客も船員も、すべてボートに乘つた。船長は幾度が確めるやうに、
「みんな乘つたか。」
「乘りました。」
「一人も殘つてゐないな。」
「殘つてをりません。」
殘つたのは、たヾ船長一人であつた。
「船長、早くボートへ乘つて下さい。」
だが、返亊はなかつた。一體何をしてゐるのだらう。
船員の一人は、たまらなくなつて、はせつけた。
「船長、早くボートへ。」
 しかし、船長は、船橋の欄干に身を寄せて動かうとしなかつた。見れば彼の體は、旗のひもで、しつかと欄干に結び附けられてゐる。沈み行船と運命を共にしようとする覺悟なのだ。
「船長、私も一しよにお供いたします。」
それは、全く船員の感激の叫びであつた。
 船長は嚴かに答へた。
「船と運命を共にするのは船長の義務だ。お前は速く逃げろ。一人でも多く助つてくれるのが、私に對するお前たちの務ではないか。」
悲痛な、しかも威嚴のある聲に、船員は思はずはつとした。彼は、すごすごとして最後のボートに身をゆだねた。
 東海丸からは、引切なしに汽笛が高鳴つて、暗い海の上を壓した。聞く人々は全く斷腸の思であつた。やがて、其の音は聞こえなくなつた。東海丸は沈沒したのである。最後の瞬間まで、非常汽笛を鳴らし續けた久田船長もろ共に。

船と運命をともにした船長としては,1970年2月9日に沈没したかりふおるにあ丸の住村博船長も有名です。

 沈没の約20分前、来援したニュージーランド国籍の冷凍貨物船オーテアロア号の救命艇がかりふおるにあ丸に接舷し、乗組員22人を乗せて同号に収容した が、船長は退船を拒否し、船橋に残留して行方不明となり、救命艇が落下した際などに海中に転落した6人のうち2人がえくあどる丸に救助され、その他4人が 行方不明となり、負傷者8人を含む24人が救助された。
 本件は、ぼりばあ丸に続く大型鉱石船の遭難事件で、大型船は沈まないとの認識を再び改めさせることとなり、しかも船舶の最高責任者である船長が、船と運命を共にしたことから国民は大変なショックを受けた。
(日本の重大海難(機船かりふおるにあ丸遭難事件)_海難審判所ホームページより)

当時は船員法第12条に次のような条文がありました。

船長は、船舶に急迫した危険があるとき、人命、船舶および積荷の救助に必要な手段をつくし、かつ、旅客、海員、その他船内にあるものを去らせた後でなければ、自己の指揮する船舶を去ってはならない。

一般にこれは船長の最後退船義務を定めたものと考えられていました。ところが,かりふおるにあ丸の事件などによってこの規定が船長の殉職をあおっているのではないかという批判が高まったこと,また船の最高責任者である船長が殉職してしまうと原因究明が難しくなることなどにより,現在ではこの規定は廃止され,第12条は次のようになっています。

船長は、自己の指揮する船舶に急迫した危険があるときは、人命の救助並びに船舶及び積荷の救助に必要な手段を尽くさなければならない。

ところで,映画「LIMIT OF LOVE 海猿」ではくろーばー号の船長は船内に影も形もないんですが,真っ先にトンズラしたのでしょうか?

メイキングビデオやノベライズ版ではチラッと出てくるのですが,危機回避や乗客の避難誘導の指揮を執った形跡はなく,おそらく海難審判で厳しい裁決が下ったことでしょう。

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屋島丸台風と嫁威し肉付の面 (1933年)

1933年10月20日04時ごろ,台風が中心気圧725mmHg以下の勢力で鹿児島県枕崎の東に上陸,07時に宮崎の西方,08時に愛媛県を通過,12時には瀬戸内海を横断し神戸と岡山の間に達しました。その後,14時ごろ若狭湾付近,16時ごろ金沢付近を通過して,18時には能登半島と佐渡の間に抜けました。

Image from Gyazo

かなり粗い経路図なので,上の文章で脳内補正してください。

20日07時50分,定刻よりやや遅れて高松を出港して神戸に向かった大阪商船別府航路の旅客船屋島丸(946トン)がこの台風に遭遇,13時05分に須磨沖で沈没,旅客41人及び船員26人計67人が死亡し,旅客2人が行方不明になりました。

海難審判所のサイトには次のようにあります。

 定期旅客船屋島丸 (946総トン) が昭和8年10月20日和田岬沖合で台風のため沈没して旅客41名及び船員26名計67名が死亡し、 旅客2名が行方不明となった。
 本船は、 大正4年英国で建造された鋼鉄船で船体は細長く、 英国の砲艦として使用されていたが、 上海で購入のうえ改造された船舶であった。
 本件は、 海員審判に付され、 昭和9年2月10日大阪地方海員審判所で裁決があった。
 なお、 本件は、 業務上過失船舶覆没並びに業務上過失致死被告事件として、 大審院まで争われた事件であった。

1933年10月25日付讀賣新聞によると,この沈没で,名工春日の作になる嫁威し肉付の面《よめおどしにくづきのめん》も海の藻屑と消えました。

「嫁威し肉付の面」には次のような伝説があるそうです。あそびーのマガジン(2008年)特集1|あそびーのフクイより(=リンク切れ)より:

信心深い十楽(じゅうらく)村の「お清」は夫に先立たれ、毎夜毎夜、吉崎御坊に弔(とむら)いのため通っていました。
村人の評判も良く、それを苦々しく思っていた姑の「おもと」は、お清を懲らしめようと家に伝わる鬼の面を被り、お清を夜道で待ち伏せします。しかし、お清は動じることなく、「南無阿弥陀仏」を唱えながら立ち去っていきました。慌てて家に帰った姑は面を取ろうとしますが、面は顔に張り付いてどうしても取れません。
家に帰ったお清は驚き、姑に念仏を唱えるよう勧めます。おもとが「南無阿弥陀仏」を唱えると面が落ち、その後は「おもと」も熱心な門徒になりました。

ところが,屋島丸とともに海に沈んだはずの嫁威し肉付の面が,なぜか今もあるみたいです。どちらかがマガイモノなのか,もともと複数あったのか,新聞が間違っていたのか,どうなのでしょう?

ついでですが,ある英国人女性を救助した功績により,のちに2人の日本人が英国皇帝ジョージ5世から銀牌を贈られたそうです。

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※この記事は屋島丸台風と嫁威し肉付の面 | 能天気Express Hyperに若干加筆したものです。

観測史上最強台風TIP (1979年)

1979年10月4日15時,トラック島の南東海上に弱い熱帯低気圧(今流にいえばただの熱帯低気圧)が発生,6日15時には台風20号に昇格しました。

台風には気象庁がつける何号という番号のほかに米軍の合同台風警報センターJTWCが名づける名前がありましたが(今はしょうもないアジア名に変わっています),前年まではすべて女性名でした。有名なところではカスリーン,アイオン,キティ,ジェーンなど。洞爺丸台風は15号よりもむしろマリーとよばれていました。しかし台風よりもはるかにおっとろしい女性団体の圧力で,男女交互に名前をつけることになり,この年の3号から男性台風が登場,20号は男性名でTIPと名づけられました。

なお,3号が男性で交互なら20号は女性になるはず……とここで気づいたあなた,スルドイです。実はおそるべき?!からくりが隠されているのです(笑)

話がズレましたが,この台風は9日の夜から急速に発達しました。最近はやりの――というよりNHKが大好きな表現では急速強化でしょうか。急速強化は最近になって起こりはじめたわけではなく,少なくとも36年も昔からあったのです。

その急速強化とやらの結果,12日12時と15時に沖ノ鳥島の南東海上で870mbという世界の最低気圧を記録,観測史上最強の台風になりました。

この気圧は米軍の観測機がドロップゾンデで観測した実測値です。当時は台風の中心気圧を実測していました。現在は気象衛星画像による台風中心付近の雲の形と動きからドボラック法とよばれる手法で風速を推定し,それから中心気圧を決めています。

台風20号TIPは19日09時40分ごろ965mbの勢力で和歌山県白浜付近に上陸,95km/hという猛スピードで本州を縦断し,23時ごろ釧路付近に再上陸しました。被害はほぼ全国に及び,死者・不明111,負傷478,住家損壊7523棟,住家浸水37450棟,耕地被害25451ha,農林水産業被害1057億円などでした。このあたりのことは台風第20号 昭和54年(1979年) 10月10日~10月20日を参照して下さい。

1966年の26号以来13年ぶりに台風の暴風域にはいった首都圏は国電(懐かしい名前)や私鉄がほぼ全面運休,電話回線もパンクし,193万戸が停電,「首都圏の台風被害は「足」と「耳」を直撃」「災害に弱い大都市の弱点をさらけ出した」(20日付毎日朝刊)。

運転再開後も首都圏の各駅はとにかくすさまじい混みようだったそうです。東大宮駅ではドアが開いたとたんに押し出された乗客が転倒して死亡する事故も起こりました。

ストと違って災害だから……とはじめは寛容だった乗客も,国鉄のいいかげんな対応に次第にブチ切れはじめたそうです。聞くところによると当時の国鉄の組織的な危機対応能力はほとんどゼロメートル地帯でしたし,それを引きずっているのがいまのJR各社なのでしょう。

この年は20号を含めて3つ台風が上陸しましたが,なぜかすべて男性台風でした。

ちなみに,その3つのうちのもうひとつの16号Owenは,9月30日に室戸岬付近に上陸したのち大阪から本州を縦断して北海道をかすめました。強風が吹き荒れた京都ではクレーンが暴走して新幹線の架線を支えている鉄柱に激突,架線が切れて新幹線は不通になりました。このため,10月1日に予定されていた新幹線15周年の記念式典は中止になりました。

なお,最強台風の参考記録として,枕崎台風が沖縄本島の南東海上を進んでいるときにアメリカの病院船リポーズが中心付近で856mbを観測したとされています。

しかしまあ,どうしてこんなすごい台風の中心付近まで紛れ込んでしまったのでしょうねえ? そしてよく生きて帰ってこられたものです。

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ルース台風と殉難動物慰霊碑

ルース台風

1951年10月9日グアム島の西海上で発生,発達しながら西北西~北西に進み,12日15時には925mb,最大風速60m/sに発達。このあたりから進路を北に変え,14日19時ごろ鹿児島・串木野付近に上陸。約80km/hで九州を縦断し,22時には国東半島付近を通って周防灘に抜け,そのご山口県防府市付近に再上陸,米子の東から山陰沖に抜けました。

Image from Gyazo

台風が衰える間もなく高速で進んだため,九州南部を中心に全国的に暴風が吹き荒れました。宮崎県の細島では日本歴代第2位の最大風速69.3m/s,愛媛県の佐田岬では同じく第3位の67.1m/sを記録しています。

また,台風の接近とともに前線活動が活発になり1,九州東部,中国,四国地方で大雨になりました。もっとも大きな被害を受けた山口県では,錦川上流で土砂崩れが多発,前年のキジア台風で流された錦帯橋がまたも被害を受けました。

詳しくは気象庁のルース台風 昭和26年(1951年) 10月10日~10月15日をご覧ください。

1951年10月16日付の西日本新聞から見出しをいくつか拾ってみます。

死者遂に287名 西日本の被害益々拡大
ダム溢水で犠牲84名 山口錦川氾濫,五村襲う
高潮38名を一呑み 枕崎
愛児は生きていた 倒壊家屋から守る死の母の母性愛

2つの台風進路予想

1951年10月14日付の朝日新聞に「海岸沿いか縦断か 台風進路に二つの予想」という見出しの興味深い記事があります。中央気象台(東京)と大阪管区気象台がルース台風の進路に関して,異なる予想を出していたというのです。記事によると,中央気象台では「本土をかすめ台風中心は南方海上を通過する公算が大きい」,大阪管区気象台では「四国から大阪湾に上陸,中部,関東を縦断する最悪“コース”をとるだろう」という予報を出していました。

このように異なる予報が発表されたのは,1949年のデラ台風や1950年のキジア台風を教訓とし,1950年の全国気象台予報課長会議で,中央気象台が各地の情報を集めて判断を下していたのでは時間的に手間取って間に合わないときは,各管区ごとに独自の判断を発表するという現地主義に切り替えられたためです。

結果からいえば,両方ともハズレ,でした。

現在は台風の予報は基本的には気象庁(本庁)の予報部ですべて行なっていますが,台風の予報を行なっているのはなにも日本だけではなく,いろいろな国で独自の予報を行なっています。比較してみると面白いかもしれません。

苦しいときの台風頼み

当時,電力はおもに水力発電で賄われていました。朝鮮戦争による特需で電力需要が増えていたことに加え,この夏は小雨だったため,慢性的な電力不足に悩まされていました。そのため,ルース台風による慈雨が期待されていました。

確かに雨は降り,しかもよせばいいのにところによっては降りすぎるくらい降りました。それで「電源地帯はフル運轉」(10月14日西日本新聞)「ふっとんだ電力危機 流量一挙40%増」(10月16日同)という状況になりましたが,それもたった数日間のことでした。

ちなみに,“台風への雨乞い期待”はその後もときどきあり,例えば1967年の秋は台風は発生するものの日本列島に近づかず,秋雨も東日本ばかりで,西日本を中心に渇水が生じていました。そんなところに34号がやってきて前線を活性化してくれたために北九州では恵みの雨になりました。しかし,ほとんど不意打ち気味に上陸して暴風雨を引き起こしたため思いのほか被害が大きく,死者・不明47人,住家損壊2959棟,浸水26842棟におよび,とんだ“度を越した恵みの雨”となりました。

また,1978年には渇水状態の東京に,台風15号が“給水台風”の期待とともに近づいてきましたが,予想進路のいちばん南に進路をとり,

給水台風として異例の期待をされていた台風15号は,つれなくも肩すかしを食わせる形で,東海上へ去っていった。(1978年9月6日付朝日夕刊)

殉難動物慰霊碑

以前,動物衛生研究所九州支所のサイトで殉難動物慰霊碑を見かけました。ルース台風で殉難した動物たちの慰霊碑ということで,碑銘には一樹の蔭と刻まれていました。しかし残念ながら今は動物衛生研究所九州支所のサイトにありません。

去年の河北新報に次のような記事がありました。

動物慰霊碑を建立 宮城県獣医師会

 東日本大震災で死んだ動物を供養しようと、宮城県獣医師会は仙台市宮城野区の同会会館敷地に慰霊碑を建立し、23日、除幕式を行った。参列した約60人は震災の記憶を後世に伝えていくことを誓い、手を合わせた。
 慰霊碑は御影石でできており、高さ約90センチ、幅約1メートル80センチ、奥行き約60センチ。県獣医師会の谷津寿郎会長らが幕を取って慰霊碑を披露し、農業高校や乗馬クラブなどの関係者が慰霊の言葉を述べた。
 津波で校舎が被災し、飼育中の牛20頭が犠牲になった宮城農高の2年土谷移月さん(16)は「入学後に牛の出産に立ち会い、生命の奥深さを感じた。津波で亡くなった牛の分も愛情を込めて育てたい」と話し、慰霊碑の前に花を手向けた。
 慰霊碑そばには、被災時の写真などを展示するコーナーも設けられた。
 県獣医師会によると、宮城県では、震災で犬と猫がそれぞれ1万匹以上死んだと推定されている。牛580頭以上、豚2900匹以上など、多くの動物が犠牲になった。 (2014年09月24日水曜日)

動物慰霊碑はときどき目にすることがありますが(競馬場内外でとくに。名前は違うことが多いですけど(笑)),自然災害による動物慰霊碑は珍しいと思います。

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  1. 当時は秋雨前線ということばはまだなかった。 ↩

10月10日は晴れの特異日ではなかった

1964年10月10日

51年前の10月10日,これが行なわれました。

今はさまようよろいと化している体育の日はもともとは10月10日で,1964年の東京五輪の開会式を記念した日だということも,もう忘れられつつあるかもしれません。

09時の地上天気図です。

「気象要覧」には次のように書かれています。

 10日から12日にかけては大きな移動性高気圧がゆっくり日本全体をおおいながら東進したため全国的に良い天気に恵まれた。特に10日のオリンピック開会式当日は,前日までぐずついていた天気も一挙に快晴に逆転し,奇跡的ともいわれるほどの最上の五輪日和になった。しかし移動性高気圧は北偏していたため日中でも気温は上がらず,平年より1.2℃も低かった。

ところで,東京五輪の開会式が10月10日に決まった理由については,10月10日が晴れの特異日(特異日については次項を参照)だからとする俗説がいまだにはびこっています。しかしきわめて簡単にいうと,単に9日の次の日だったから,あるいは11日の前の日だったからなのです。

まず,1961年6月のアテネでのIOC総会で,東京五輪の日程は大枠として10/11開会式,10/12休み,10/13競技開始と決まります。開会式の次の日に休みを入れたのは,開会式は疲れるから1日開けて欲しいという要望が一部からあったかららしいです。

そして1962年5月,日本の東京オリンピック組織委員会は具体的な競技の日程などと照らし合わせて,10/09開会式,10/10休み,10/11競技開始と決定し,IOCに提出します。

1962年6月に開かれたモスクワでのIOC総会で,10/10の休みはやっぱり要らないという話になり,10/10が開会式と最終的に決定したのです。

このような経過から見て,晴れの特異日だから10月10日になったというのはまったくのデタラメであることがわかります。

しかも,もともとは10月開催という案はありませんでした。一番最初に出された東京都の案は7月下旬~8月上旬開催というもので,それから先はすったもんだの連続,なかったのは9月案くらいで(台風を避けるため),5月案,6月案,7月案,8月案が出ては消え出ては消えていきました。いっとき,6/14からの15日間に決まりかけたこともありました。

ちなみにこの年の夏の東京は記録的な渇水で,7月21日に第3次給水制限,さらに8月6日には第4次給水制限が実施されました。一番最初の東京都の案どおりに7月下旬~8月上旬に開催されていたらどうなっていたか,説明は不要でしょう。

2020年に東京五輪がホントに開催されるとしたら,こんな時期なわけですよ。何が起こることか……。渇水はともかく,よほどの冷夏にでもならない限り熱中症騒ぎは間違いなく起こるでしょう。

なお,ひとつつけ加えておくと,実はこの日まさに開会式の選手入場が行なわれていたころ,世田谷の一部で雷雨があったという記録があります。これについては1964年10月10日の雷雨 | Notenki Express 2014をご覧ください。

10月10日は晴れの特異日か?

特異日について『気象科学事典』には次のようにあります。

暦の上の特定の日に,ある特定の気象状態が現れる割合が前後の日に比べて高い日

“前後の日に比べて高い”というのがポイントです。10月10日が晴れの特異日かどうかを調べるには10月10日を調べるだけではダメで,前後の日と比べなければなりません。

次に,x月x日が晴れか否かをどう定義するかです。ここではきわめて簡単に次の日を晴れということにしました。

  • 天気概況(昼:06時~18時)で“晴”がある日。ただし“雨”のある日はカウントしない

いろんなやりかたがあってそれによって比率は変わるでしょうが1,傾向は変わらないと思います。

データは気象庁HPからダウンロードできます。便利な世の中になりました。

この方法で10月5~15日について1967年~2014年の東京の晴天率を調べると次のようになります。

月/日 晴天率(%)
10/05 27.1%
10/06 33.3%
10/07 37.5%
10/08 37.5%
10/09 41.7%
10/10 50.0%
10/11 37.5%
10/12 43.8%
10/13 45.8%
10/14 54.2%
10/15 58.3%

50%では晴れの特異日とはいえないでしょう。

これだけではなんですので,条件を緩めて

  • 天気概況(昼:06時~18時)に“雨”のない日

ということにして“非雨率”を調べると,次のようになります。

月/日 非雨率(%)
10/05 45.8%
10/06 60.4%
10/07 58.3%
10/08 45.8%
10/09 62.5%
10/10 72.9%
10/11 56.3%
10/12 62.5%
10/13 58.3%
10/14 60.4%
10/15 72.9%

どうやら10月10日は“雨の降らない特異日”とはいえそうです。

さらに10年ごとの非雨率の推移を見ると面白いことがわかります。

期間 非雨率(%)
1970-1979 70%
1975-1984 70%
1980-1989 90%
1985-1994 80%
1990-1999 60%
1995-2004 70%
2000-2009 60%
2005-2014 60%

1980年代にピークがあり,そのピークから徐々に下がってきたようです。体育の日が10月10日の座を追われてさまようよろいとなったのは2000年で,そのころから10月10日の天気が下り坂になっていたような気がしていたのですが,もう少し早くはじまっていたんですね。

地球温暖化教の信者たちはこれも地球“温暖化”とやらの影響だというかもしれません(爆)

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  1. 東京管区気象台では“日平均雲量8.5未満”かつ“日降水量1.0㎜以上ではない”を“晴”とした日別天気出現率を公開しています。 ↩

招き猫の日と豪徳寺とひこにゃん

今日は招き猫の日だそうです。

一般社団法人 日本記念日協会のサイトには

招き猫は福を招くといわれているところから、9と29を「来る福」(くるふく)と読む語呂合わせで、招き猫の愛好家の団体である日本招猫倶楽部が制定。日本ならではの縁起物として知られる招き猫は右手を上げていると金運を招き、左手を上げていると客を招くなどといわれ、広く庶民に愛されてきた。招き猫の魅力をアピールし、多くの人に福を招いてもらうのが目的。

とあります。招き猫といえば井伊直孝公と豪徳寺,そしてひこにゃんがピンと来る私としては拍子抜けするような由来です。

ひこにゃんと井伊直孝公と豪徳寺,とりもったのは雷でした。

ひこにゃん プロフィール | ひこにゃん公式サイト – 彦根市には次のようにあります。

彦根藩二代藩主である井伊直孝公をお寺の門前で手招きして雷雨から救ったと伝えられる”招き猫”と、井伊軍団のシンボルとも言える赤備え(戦国時代の軍団編成の一種で、あらゆる武具を朱塗りにした部隊編成のこと)の兜(かぶと)を合体させて生まれたキャラクター。

“雷雨から救った”だけではよくわかりません。σ(^^;)的にいちばん納得できるのは次の伝説です。

「この寺(豪徳寺=σ(^^;)注)はもと弘徳院といい、吉良上野介の祖先の一族である吉良氏の菩提寺だったが、戦国時代には寺運が傾いていた。世田谷城主だったパトロンの吉良氏が没落したからである。江戸時代に入ったばかりのことである。この破れ寺の和尚は一匹のネコを飼っており、タマと名づけて可愛がっていた。和尚は日ごろタマを相手に、『お前を可愛がってやっているのに、この貧乏寺ひとつなんとかできないのか』と愚痴をこぼしていたらしい。(中略)ある夏の日、三代藩主井伊直孝が家来をつれて世田谷村へ遠乗りにやってきた。ちょうど弘徳院の門前にさしかかったころ、黒雲が空を覆ったかと思うと、はげしい夕立となった。直孝主従が雨宿りをしていると、山門に出てきた一匹のネコが、しきりに手招きしているように見えた。これにつられて直孝ら一行が寺に入ったとたん、大木に落雷して直孝はあやうく一命を救われることになった」
 このことがきっかけで弘徳院は井伊家の菩提寺となり、豪徳寺と名を改めて栄える。
「そのきっかけをつくったタマは観音様の化身だとしてたいせつにされ、招福観音堂にまつられて現代にいたっている」
http://homepage1.nifty.com/manekinekoclub/kenkyu/keizu/keizu_engi.html=リンク切れ

たんに猫に招かれて寺にはいっていったら雷雨になったのでいい雨宿りができたというレベルではなく(それだけだったらひとこと「世話になった」で終わりかも),まさに猫によって間一髪で命が救われたわけですから感謝感激雨あられだったことでしょう。

でも殿さま,雷雨のときに大木の下で雨宿りをするなんてもってのほかです!!

この伝説を使って,ひこにゃんが登場する雷の防ぎかた講座なんて動画やパンフレット,できないのかなあ。まあ,今までやってないということは版権かなんかの問題でできないんでしょうね。

それにしても,ネコを相手に「お前を可愛がってやっているのに、この貧乏寺ひとつなんとかできないのか」とグチをこぼすなんて,修行の足りない坊さんだなあ……(笑)

お散歩

この伝説の舞台の豪徳寺。場所はここ↓

その昔『Let’s豪徳寺』というマンガがありましたね。

以下,豪徳寺をざっと紹介。あんまりいい写真はないです。なお,撮ったのは2009年です。

山門

招き猫

グッズ販売も確かここ。私はミニチュアの招き猫を買いました。

みかん!?

みかんにも何か由来があるんでしょうか?

井伊家墓所

※この記事は[mixi] 最近有名なひこにゃんをもとにしたものです。

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リンゴ台風と箱庭 (1991年)

1991年9月27日16時過ぎ,台風19号(Mireille)が中心気圧935mb,中心付近の最大風速50m/sという“非常に強い”勢力で長崎県佐世保市の南に上陸しました。その後,加速しながら日本海を北東に進み,28日08時ごろ965mbで北海道渡島半島に再上陸,28日15時に千島近海で温帯低気圧に変わりました。

Image from Gyazo

台風が非常に強い勢力で上陸し,勢力をほぼ維持したまま日本海を速い速度で北東に進んだため,沖縄から北海道まで全国で暴風が吹き荒れました。くわしくは気象庁の前線、台風第17、18、19号 平成3年(1991年) 9月12日~9月28日などを参考にしてください。

リンゴ台風

この台風はリンゴ台風とよばれています。青森県で収穫前のリンゴの70%以上が落下するという被害があったからです。ただ,農作物に限っても被害はリンゴだけではなかったにもかかわらずリンゴ台風とよばれる理由はσ(^^;)にはわかりません。σ(^^;)的にはもっともしっくりくる通称ではあります。

台風の暴風にもめげずに落下しなかったリンゴの一部は落ちないリンゴとして受験生のお守りに珍重されていました。

当時受験屋だったし,近くの神社(谷保天満宮=通称ヤボ天)でも発売されていたので,よくおぼえています。値段はたしか悪税込みで1000円程度だったような記憶があります。あくまでお守りなのでリンゴとしては高めでした。ご利益があったかどうかは……。

一方で,落果リンゴを買おうという運動もパソコン通信などで広がっていました。

ちなみに,現在は落ちないりんごは有限会社落ちないりんごの登録商標になっているようです。

『箱庭』

広島県の宮島にある厳島神社は,このリンゴ台風によって当時の新聞によると「創建以来の天災」に見舞われました。中国新聞9月28日付夕刊には次のようにあります。

同神社では二十七日午後七時半ごろ,突風のため能舞台と能楽屋の柱が折れ倒壊。屋根がそっくり砂浜に座る形になった。・・(中略)・・また,回廊中央部にある平安時代に建てられた左右門客神社,国宝の左右楽房のうち西側楽房が流失,東側楽房も大きく傾いた。回廊もあちこちで床板がめくれ上がり,通り抜けができなくなったほか,本社祓(はらい)殿などの屋根の軒先が壊れた。

神社職員らの話では,午後七時過ぎから,回廊に海水が上がり始め,ピークの午後十時半ごろには水位が回廊の上八十三センチに達し,手の施しようがなかったという。

そして台風一過の翌日,事件がはじまります。

AD1991/09/28 台風19号で大損害を受けた厳島神社の大鳥居付近に,男の変死体が流れ着く(内田康夫『箱庭』)

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[2019/09/20] 画像へのリンクを修正

御嶽特別

一昨年まで中京競馬場で御嶽特別というレースが行なわれていました。

2013年度第3回中京競馬特別レース名解説(JRA)によると,

御嶽は、長野県と岐阜県の県境にある標高 3,067m の活火山。飛騨山脈南部にあたる。火口跡は残っていたが、昭和54年に有史以来初めて噴火した。中央火口丘の剣ヶ峰に御嶽神社があり、古代から信仰登山の対象とされている。

何年にはじまったかはわかりませんが,2013年まで行なわれていました。

日付 レース名 馬名 騎手 斤量   距離 馬場状態 走破タイム
130630 御嶽特別1000 サトノプリンシパル 武豊 54 ダ 1800 良 1506
120714 御嶽特H1000 ナムラビクター 和田竜二 54 ダ 1800 良 1518
090607 御嶽特別1000 アイノレグルス 中舘英二 57 ダ 1700 良 1449
080531 御嶽特別1000 アクセルファイヤー 武豊 55 ダ 1700 稍 1440
070526 御嶽特H1000 キーンゲイル 四位洋文 56 ダ 1700 重 1449
060527 御嶽特別1000 セトノシェーバー 安藤勝己 57 ダ 1700 良 1456
050528 御嶽特H1000 スズジャパン 四位洋文 57.5 ダ 1700 良 1461
040529 御嶽特H1000 マルブツトップ 赤木高太 56 ダ 1700 良 1450
030531 御嶽特H1000 ロードプリヴェイル 武豊 58 ダ 1700 重 1429
020602 御嶽特H1000 ダイタクギンガ 吉田稔 57 ダ 1700 良 1456
010519 御嶽特H900 シャンハイブルース 小林徹弥 57.5 ダ 1700 良 1457
000520 御嶽特H900 セフティージャパン 上村洋行 54 ダ 1700 稍 1469
990417 御嶽特別900 スナークレイアース 河内洋 56 ダ 1700 良 1464
980411 御嶽特H900 ジョーヤマト 須貝尚介 55 ダ 1700 良 1459
970316 御嶽特別500 アイリッシュライン 嶋田高宏 56 芝 1200 稍 1117
960317 御嶽特別500 セントパレー 幸英明 56 芝 1200 稍 1110
950319 御嶽特別500 スリーエフ 大崎昭一 54 芝 1200 良 1104
940911 御嶽特別900 ルシールシーダー 田原成貴 55 芝 1200 良 1088
920620 御嶽特別900 オースミプリンス 武豊 57 芝 2000 良 2015
910629 御嶽特H900 ヤクモサクセス 丸山勝秀 56 芝 2000 良 2011
900623 御嶽特別900 キュリアシティー 村本善之 56 芝 2000 良 1598
890625 御嶽特別900 ダイユウサク 熊沢重文 57 芝 2000 重 2016
880626 御嶽特別900 ジョーグレゴリオ 山田和広 56 芝 2000 重 2020
870628 御嶽特別900 タイアポロ 河内洋 57 芝 2000 良 2018
860622 御嶽特H900 ターゴットターネル 原田雄二 53 芝 2000 良 2043

去年行なわれなかったのは噴火があったからではなく,もともと予定がなかったようです。なぜ予定がなかったのかはわかりません。上の表を見ても1993年,2010~2011年には行なわれていませんが,その理由もわかりません。

まあ,今後しばらくは行なわれないであろうことは容易に想像できます。

ちなみに,笠松競馬場では御岳特別というレースが行なわれていました。

なお,上のリンク先にある東京競馬場でかつて行なわれていた御岳特別の御岳は《みたけ》と読みます。青梅市にある山で,去年噴火した御嶽山とは関係ありません1。

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  1. 山岳信仰とか文化史的な関係はあるかもしれませんが,私にはわかりません。 ↩