爆弾低気圧ともーれつア太郎

爆弾低気圧というのは簡単にいえば“1時間に1hPa以上中心気圧が下がる低気圧”ですが,通常は緯度による効果を考えて

緯度をφ度とするとき,中心気圧が24時間に 24×sinφ/sin60°hPa 以上下がる低気圧を爆弾低気圧とよぶ。

とすることが多いです。1978年ごろから使われはじめたbombの訳語です。

国内で爆弾低気圧が使われはじめたのは,今はなき「気象」の1990年5月号に掲載された小倉義光先生の「冬の海上の「爆弾」低気圧」という解説文が最初だとしている人が多いようですが(例えば,爆弾低気圧 – チーム森田の“天気で斬る!” – Yahoo!ブログ http://blogs.yahoo.co.jp/wth_map/61953564.html),その7年も前,1983年12月23日付朝日新聞に掲載された倉嶋厚氏のエッセイ「お天気衛星」のタイトルが「爆弾低気圧」でした。

というわけで,ブラック企業として有名ななんたらニューズがつけたわけではありません。(第1回ブラック企業大賞特別賞を受賞\(^o^)/)

ところで,去年の1月から爆弾低気圧の使用をやめ,猛烈低気圧という妙なことばを使うようになった新聞があります(爆弾低気圧は“禁止語”ですか。 : COME ON ギモン:社会 : Biz活 : ジョブサーチ : YOMIURI ONLINE(読売新聞) http://www.yomiuri.co.jp/job/biz/qanational/20130219-OYT8T00672.htm)。

猛烈はとくに新しいことばではなく,気象庁用語ですでに使われています。

  • 猛烈な台風……中心付近の最大風速が54m/s(105kt)以上の台風

  • 猛烈な雨……80mm/h以上の雨

  • 猛烈な風……風速がおよそ30m/s以上,または最大瞬間風速が50m/s以上の風

いってみれば最高ランクへの賛辞(?)みたいなものです。

ところが,私は猛烈ということばを聞くと

こらえて生きるも 男なら
売られた喧嘩を 買うのも男~♪

という歌を思い出すんですよねえ。そうです,もーれつア太郎

他には一世を風靡したモーレツ社員なんて,いまではバカの代名詞です。

そういうわけで猛烈=モーレツということばにはギャグ的な印象がぬぐいきれません。猛烈な台風,猛烈な雨,猛烈な風,それに加えて猛烈低気圧……,なんかなあという感じがします。

ついでに,Y新聞が爆弾低気圧を使わないとダダをこねたのは,もしかすると初出が朝日新聞だったからじゃないんですかねぇ……。

以上,爆弾低気圧ともーれつア太郎 – NotenkiExpress 2013(2013/04/05)を少し書き換えただけの手抜き記事でした。

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立会川不連続線について

立会川不連続線(たちあいがわふれんぞくせん)……都心で北寄りの風,大井競馬場で南寄りの風が吹いているとき,風向の境界(シアーライン)を立会川不連続線という。大井競馬場の風は必ずしもわからないため,羽田のアメダスで代用することもある。

「羽田のアメダスで代用することもある」というより,100%羽田のアメダスで語っています。

例えば,今日の11時:

今日の11時の関東

それほど明瞭ではないですが,赤で示したのが立会川不連続線です。

立会川に沿ってシアーラインがあるわけではなく,立会川駅で降りたときにこっちは南風が強いなあという経験に基づいたもので,都心から京浜急行で大井競馬場に何度か行ったことがある人なら経験したことがあるかもしれません。

個人的にはかなり重要な不連続線なのですが,長くなるので割愛します。

ちなみに,立会川不連続線というのは私が勝手にそうよんでいるだけです。

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来歴不明の冬将軍

昨日あたりから冬将軍ということばをよく耳にします。10年前~数年くらい前にあまり使われなくなったような記憶がありますが,ここ2,3年で再び耳にする,あるいは目にするようになったような気がします。あくまで気がするだけです。
もし実際にそうだとすると,もしかしてNHKの天気コーナーの影響かもしれません。
今では次のようなTwitterアカウントも登場しています。

そんなわけで今では超有名人になってしまった冬将軍。そのことばの由来ですが,次のようにナポレオンを撃退したロシアの厳冬に由来するとされています。
冬将軍はなぜ”将軍”? - トクする日本語 - NHK アナウンスルームより一部引用:

この季節になると気象情報で聞きはじめるのが、寒さを擬人化した「冬将軍」ということば。これについて「どうして”将軍”なのか」というお便りをいただきました。これはフランス皇帝ナポレオンに由来しています。1812年にナポレオンは、ロシア遠征で厳しい寒さのため敗退をよぎなくされました。その際、イギリスの新聞が「ナポレオンがgeneral frost(=厳寒将軍)に負けた」と報じたと言われています。これが、日本で「冬将軍」と訳されたのです。ナポレオンに打ち勝つぐらいですから、「大名」や「殿様」よりは「将軍」がしっくりくるかもしれません。

日本語版のWikipediaにもこの説が載っていたりします。

しかし,原典となったといわれる新聞についてなんという新聞の何月何日付の第何面の記事か,ネットで調べてもよくわかりません。それに英語版のWikipediaにはgeneral frostの項目がありませんし,私が調べた範囲では次の記載があるだけで,イギリスの新聞が云々という話は載っていません。

Napoleon’s Grande Armée of 610,000 men invaded Russia, heading towards Moscow, in the beginning of summer on 23 June 1812. The Russian army retreated before the French and again burnt their crops and villages, denying the enemy their use. Napoleon’s army was ultimately reduced to 100,000. His army suffered further, even more disastrous losses on the retreat from Moscow started in October.
Russian Winter – Wikipedia, the free encyclopedia

どういうことなんでしょうね?

これについては継続調査中です――といいたいところですが,あんまり興味はありません。

話変わって,それでは冬将軍はいつごろ日本に上陸したんでしょう?

これについてもネットではよくわかりません。

以前国会図書館に行ったついでに新聞を調べた範囲では,初出は意外と新しく,1941年9月16日付の朝日新聞。

冬季作戰の對策(上)/獨逸/計算濟みの「冬將軍」
ナポレオンの轍は踏まず 獨ソ会戰

読売にもほぼ同じ時期に使用例があるので,軍部の発表に“冬将軍”が使われていたのかもしれません。

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観測史上最強台風TIP

1979年10月4日15時,トラック島の南東海上に弱い熱帯低気圧(今流にいえばただの熱帯低気圧)が発生,6日15時には台風20号に昇格しました。

台風には気象庁がつける何号という番号のほかに米軍の合同台風警報センターJTWCが名づける名前がありましたが(今はしょうもないアジア名に変わっています),前年まではすべて女性名でした。有名なところではカスリーン,アイオン,キティ,ジェーンなど。洞爺丸台風は15号よりもむしろマリーとよばれていました。しかし台風よりもはるかにおっとろしい女性団体の圧力で,男女交互に名前をつけることになり,この年の3号から男性台風が登場,20号は男性名でTIPと名づけられました。

なお,3号が男性で交互なら20号は女性になるはず……とここで気づいたあなた,スルドイです。実はおそるべき?!からくりが隠されているのです(笑)

話がズレましたが,この台風は,9日の夜から急速に発達しました。最近はやりの――というよりNHKが大好きな表現では急速強化でしょうか。急速強化は最近になって起こりはじめたわけではなく,少なくとも35年も昔からあったのです。

その急速強化の結果,12日12時と15時に沖ノ鳥島の南東海上で870mbという世界の最低気圧を記録,観測史上最強の台風になりました。

この気圧は米軍の観測機がドロップゾンデで観測した実測値です。当時は台風の中心気圧を実測していました。現在は気象衛星画像による台風中心付近の雲の形と動きからドボラック法とよばれる手法で風速を推定し,それから中心気圧を決めています。

さて,台風20号TIPは19日09時40分ごろ965mbの勢力で和歌山県白浜付近に上陸,95km/hという猛スピードで本州を縦断し,23時ごろ釧路付近に再上陸しました。被害はほぼ全国に及び,死者・不明111,負傷478,住家損壊7523棟,住家浸水37450棟,耕地被害25451ha,農林水産業被害1057億円などでした。

1966年の26号以来13年ぶりに台風の暴風域にはいった首都圏は国電(懐かしい名前)や私鉄がほぼ全面運休,電話回線もパンクし,193万戸が停電,「首都圏の台風被害は「足」と「耳」を直撃」「災害に弱い大都市の弱点をさらけ出した」(20日付毎日朝刊)。

大小を問わず,このときの首都圏の駅という駅の混みようはとにかくすさまじかったそうです。ストと違って災害だから……とはじめは寛容だった乗客も,国鉄のいいかげんな対応に次第にブチ切れはじめたそうです。まあ,聞くところによると当時の国鉄の組織的な危機対応能力はほとんどゼロメートル地帯でしたし,それを引きずっているのがいまのJR各社なのでしょう。

この年は20号を含めて3つ台風が上陸しましたが,なぜかすべて男性台風でした。

ついでにいうと,その3つのうちのひとつの16号Owenは,9月30日に室戸岬付近に上陸したのち大阪から本州を縦断して北海道をかすめました。強風が吹き荒れた京都ではクレーンが暴走して新幹線の架線を支えている鉄柱に激突,架線が切れて新幹線は不通になりました。このため,10月1日に予定されていた新幹線15周年の記念式典は中止になりました。

なお,参考記録として,枕崎台風が沖縄本島の南東海上を進んでいるときにアメリカの病院船リポーズが中心付近で856mbを観測したとされています。しかしまあ,どうしてこんなすごい台風の中心付近まで紛れ込んでしまったのでしょうねえ? そしてよく生きて帰ってこられたものです。

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明治三十五年の暴風雨と足尾銅山鉱毒事件

明治三十五年九月の暴風雨

1902年9月下旬,“台風”が日本列島に近づいていました。

「気象要覧」から引用します。なお,諸般の事情により原文中の旧漢字の一部が今の漢字になっている場合があります。

二十一日馬尼刺氣象臺ヨリ呂宋ノ東方ニ低氣壓發生スル旨通報シ來リシカ……然ルニ二十四日ニ至リ琉球以南ニ於テハ風向北東乃至東トナリ風力稍加ハリ一般ニ雨天トナリテ呂宋低氣壓ノ漸次接近スヘキ前兆ヲ示セリ仍テ二十五日午前七時五十分九州南部以西ニ警報ヲ發セリ

このように,はじめは呂宋(=ルソン島)方面から北上してくる台風が警戒されていました。ちなみに, 当時はまだ颱風=台風ということばは登場していませんし,(熱帯)颶風も使われていません。

ところが,本州東部で著しい気圧の減少が観測され,

葢シ夲州東部ニ斯ノ如キ變化ヲ及ホセシハ呂宋ヨリ北上シタル低氣壓ノ所爲ニ非スシテ當時房總ノ遙カ南方ナル海上ニ現ハレタル別個深厚ナル低氣壓ノ影響ナルニ似タリ

どうやらもうひとつ,小笠原方面が北上してくる台風もあるようでした。

呂宋方面から北上してくる台風は動きが遅かったのに対し,

房總ノ南海ヨリ襲來セシモノハ其深度ノ大ナリシト且其進行甚タ迅速ナリシ

というように,東側の台風は“鉄砲玉”でした。これは呂宋方面から北上してくる台風との間にはたらく藤原効果によるものと思われます。藤原効果の代表的な例としては1966年の24号と26号があります。

東側の台風は28日08時ごろ安房南端布良付近を通過,このときの最低気圧は「七百十七粍一」 (≒956.1hPa)で,中心が通過する前は「晴雨計」(≒気圧計)が1 時間に「十二粍七」(≒17hPa)低下,通過後は1時間に 「十六粍」(≒21hPa)上昇しました。台風はその後横須賀の西を通過し,進路を北北東に変え,東京北部,足尾付近を経て,11時30分に新潟から日本海に抜けました。この間,東京は08時55分から約10分間,眼の中にはいったようです。

中心が本州を通過したときの速さは「毎時約二十五里」で,“1里≒4km”だとすると, 100km/hというのちの洞爺丸台風なみのとんでもない速さだったことになります。

銚子では09時30分までの10分間の平均風速として「毎秒六十四米」を観測していますが, これは64m/sではなく,44.9m/sのようです。現在でも歴代2位の風速です。また, 筑波山頂の09時20分までの20分間の平均風速は「毎秒百三米」でしたが,同じ比で換算すると72m/sとなります。

この台風による茨城県の住家の全壊・流出は20164で,他の災害と比べて1ケタ以上違います。また,小田原や国府津の沿岸では高潮(新聞には“海嘯”とあります)による大きな被害がありました。2011年12月31日付の神奈川新聞によると,現在の小田原市だけで死者・行方不明60人,負傷者343人,全半壊470戸,流失552戸などの被害があったようです。さらに各地で強風によるとみられる列車の転覆が起こっています。

一方の西側の台風はというと,

二十六日琉球ノ南東遙カノ冲ヲ經過シ二十八日午後三時潮岬ノ東方ヨリ陸上シ五時大王崎ノ西方ヲ經テ同時三十分津ノ西方附近ヲ通過セリ

というわけで,東側の台風が上陸したのと同じ日にやはり上陸しています。

1日に複数の台風が上陸したのは1951年以降では1966年の24号と26号だけですが,それ以前ではこの明治三十五年の暴風雨を含めて三組あります(当社調べ)。

足尾台風と足尾銅山鉱毒事件

東側の台風の中心がすぐ近くを通過した足尾では315mmの雨が降り,周辺に土砂崩れなどを引き起こしました。そのためこの台風は足尾台風ともよばれます。

当時鉱毒を渡良瀬川にタレ流し続けていた足尾銅山にも被害があったようですが,この台風が足尾銅山鉱毒事件の展開に与えた影響については,σ(^^;)の調査不足もあってよくわかりません。ちなみに,田中正造前代議士による明治天皇への直訴(未遂)事件は, 前年1901年12月10日のことです。

ただ,政府による鉱毒問題の治水問題へのすり替えはすでにはじまっており,その手段として,決壊した堤防を放置して住民を追い出しそこを遊水池化する計画も実行に移されていました。 最初に計画された利島村と川辺村の遊水池化は失敗しましたが,のちに谷中村が徹底的な破壊のあと,足尾銅山がタレ流した鉱毒とともに渡良瀬川の川底に沈むことになります。

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キワ本?! 竜巻のふしぎ

という本を書店で見かけたので立ち読みしたら,たまたまめくった次のところで凍りついた。

日本では東日本大震災による福島での原発事故を教訓に,安全性を確保するための厳しい竜巻対策が実施されています。

ホントかい?

具体的には何よ?

どっかからこう書けっていわれた?

しかもほとんど同じ文が2箇所にあるんだけど。

もしかして大切なことだから二度書いた?

ご苦労なことだね。

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リンゴ台風と箱庭

1991年9月27日16時過ぎ,台風19号(Mireille)が中心気圧935mb,中心付近の最大風速50m/sという“非常に強い”勢力で長崎県佐世保市の南に上陸しました。その後,加速しながら日本海を北東に進み,28日08時ごろ965mbで北海道渡島半島に再上陸,28日15時に千島近海で温帯低気圧に変わりました。

台風が非常に強い勢力で上陸し,勢力をほぼ維持したまま日本海を速い速度で北東に進んだため,沖縄から北海道まで全国で暴風が吹き荒れました。くわしくは気象庁の前線、台風第17、18、19号 平成3年(1991年) 9月12日~9月28日などを参考にしてください。

リンゴ台風

この台風はリンゴ台風とよばれています。青森県で収穫前のリンゴの70%以上が落下するという被害があったからです。ただ,農作物に限っても被害はリンゴだけではなかったのにもかかわらずリンゴ台風とよばれる理由はσ(^^;)にはわかりません。σ(^^;)的にはもっともしっくりくる通称ではあります。

台風の暴風にもめげずに落下しなかったリンゴの一部は落ちないリンゴとして受験生のお守りに珍重されていました。

当時受験屋だったし,近くの神社(谷保天満宮=通称ヤボ天)でも発売されていたので,よくおぼえています。値段はたしか悪税込みで1000円程度とだったような記憶があります。あくまでお守りなのでリンゴとしては高めでした。ご利益があったかどうかは……。

ちなみに,現在は落ちないりんご有限会社落ちないりんごの登録商標になっているようです。

箱庭

広島県の宮島にある厳島神社は,このリンゴ台風によって当時の新聞の見出しによると「創建以来の天災」に見舞われました。中国新聞9月28日付夕刊には次のようにあります。

同神社では二十七日午後七時半ごろ,突風のため能舞台と能楽屋の柱が折れ倒壊。屋根がそっくり砂浜に座る形になった。・・(中略)・・また,回廊中央部にある平安時代に建てられた左右門客神社,国宝の左右楽房のうち西側楽房が流失,東側楽房も大きく傾いた。回廊もあちこちで床板がめくれ上がり,通り抜けができなくなったほか,本社祓(はらい)殿などの屋根の軒先が壊れた。

神社職員らの話では,午後七時過ぎから,回廊に海水が上がり始め,ピークの午後十時半ごろには水位が回廊の上八十三センチに達し,手の施しようがなかったという。

そして台風一過の翌日,事件がはじまります。

AD1991/09/28 台風19号で大損害を受けた厳島神社の大鳥居付近に,男の変死体が流れ着く(内田康夫『箱庭』)

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台風と颱風

9月26日は台風の日といってもいいでしょう。伊勢湾台風狩野川台風洞爺丸台風がこの日,1日違いを含めれば,1991年のリンゴ台風19号,1953年の田舎まわり台風13号,1921年の颱風(新田次郎『迷走台風』のモデルだそうですがもちろん読んだことはないです)もそうだし,ちょっと調べればあと2つ3つは出てくると思います。なお,細かいことをいえば洞爺丸台風,狩野川台風の上陸は実はそれぞれ25日,27日です。

さて,かつては颱風が使われていたが,敗戦後台風が使われるようになったと一般にいわれています。実際,新聞ではおおよそ1947年以降は颱風は見られず,台風に置き換わっています。

ところが戦前の一時期,一部の新聞がすでに“台風”を使用していました。具体的には東京朝日新聞で1926~1930年ごろ“台風”が使われていました。

たとえば,1926年9月18日付朝刊には

市民を脅した台風過ぐ
東京はうまく免れ けふは天氣回復

とあります。

というわけで,“戦後「颱風」から「台風」の表記となった”というのは必ずしも正しくありません。

ちなみに,東京朝日新聞ではそれ以前はたい風を使用していました。例えば,1925年7月26日付朝刊には

行方不明者數十名 鹿兒島縣のたい風被害

とあります。それ以前は他紙と同じく“颱風”でした。

なお,“颱風”が使われるようになったのは,1908年に発行された岡田武松『気象学講話』が最初だといわれています。「気象要覧」では1911年8月から使われています。新聞ではσ(^^;)が見た範囲では1912年8月が最も古いです。

“颱風”の前は基本的には颶風が使われていたようです。

ついでですが,“台風”(実際には旧字である“臺風”)はそれ以前にも使われたことがあります。1903年に発行された『臺風雜記』という本のタイトルになっています。ただし,熱帯低気圧に関する本ではなく,台湾の風習などを紹介した本です。序文が後藤新平で,肩書きは民政局長になっています。

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サツキとメイ,トトロに会う

1952年6月23日,雨の中,サツキとメイがバス停でトトロに会いました。

6月23日というのは小学校の黒板に書いてありますが,問題は1952年のほうです。実は1952年とするにはかなり矛盾もあるのです。

お母さんが入院している病室のカレンダーがたびたび映ることがあり,それによると8月1日が金曜日になっています。また,同じことですが,7月1日が火曜日になっています。8月1日が金曜日になるのは 1947年,1952年,1958年といったところなので(今年も8月1日が金曜日です),1952年とするのがもっとも妥当だと思います。1958年の可能性が消えるのは,当時のデータを見ると1958年6月23日に雨が降ったとは考えられないからです。

ところが,となりのトトロの世界が1952年だとすると,6月23日は月曜日になります。しかし,黒板には

6月23日(水)

とハッキリ書かれています(原文はタテ書き)。この矛盾は説明がつきません。
日直が間違えて書いたのだろう……ということで(カレンダーはウソつかない(笑)),スッキリはしないのですが,σ(^^;)は1952年ということにしています。1952年説を唱えているのはおそらくσ(^^;)ひとりでしょう。1958年と考えている人が多いようです。

ちなみに,他の解決策がないことはありません。7月23日の間違いとすることです。かなり無理がありますが。このあたりは7月11日に予定されている放送を見てから考えることにしましょう。

ところでこの日(6月23日),ダイナ台風が紀伊半島に上陸しています。その影響もあって東京では39.8mmの雨が降りました。

そしてお父さんの帰りが遅くなったいいわけ。

電車が遅れてね,バスに間に合わなかったんだ。

もうおわかりでしょう。大雨の影響で電車が遅れたのです(ナットク(笑))

さらに,ダイナ台風は東京の真上を通過していきましたが,その実体はトトロが乗ったねこバスだったのかも知れません(笑)

※この記事はサツキとメイ,トトロに会う | 能天気Express Hyperを一部書き直したものです。

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ラブホテルの屋根 新幹線を止める (2004年)

2004年6月21日09時半ごろ,台風6号Dianmuが強い勢力のまま高知県室戸市付近に上陸しました。その後,

21日13時過ぎに兵庫県明石市付近に再上陸し,21日午後には京都府舞鶴市付近を通って日本海へ進み,能登半島の沿岸,佐渡沖を通って22日3時に津軽海峡の西で温帯低気圧に変わった。
(気象庁「平成16年台風第6号による6月18日から22日にかけての大雨と暴風」)

この台風は,加太海岸防波堤でのバカ3人組の“度胸試し”や静岡市高松の海岸での静岡大学モダンダンス部御一行様の“バーベキューパーティー”に加えて(これらの椿事については楽しい?!高波見物 (2004年) | Notenki Express 2014をご覧ください),やはり次の“事件”を抜きには語れません。

二十一日午後一時十分ごろ,近江八幡市西生来町で,ホテルの屋根が台風6号の強風に吹き飛ばされ,すぐ前の国道8号を越えて,約三十メートル離れた東海道新幹線の架線上に落下,電線四本を切断した。当時,新幹線は岐阜羽島-京都間で運行を見合わせていたため,惨事にはならなかった。

JR東海がクレーン車で屋根の撤去作業を続け,午後八時十分,約七時間ぶりに運転を再開したが,列車は運休が相次ぎダイヤは混乱した。

滋賀県警などによると,屋根は幅十メートル,長さ約四十メートルのトタン板製。ホテルは今年四月に改装オープンしたばかりで,トタン屋根は今年一月,雨漏り防止と断熱目的で従来の屋根を補強するため設置したという。

屋根は,高さ約二十メートルの位置にあり,強風にあおられ約四十メートルまで舞い上がった。架線に落下した際,トタン板の中央部分が折れ曲がって「く」の字型になり,架線全体をまたいだ状態になった。

ホテルの店長(五四)は「こんなことになるなんて,信じられない」と肩を落としていた。
(22日付京都新聞朝刊)

屋根が飛んだときに客がいたかどうかはわかりません。

このホテル,名前をかえて今も営業しているようです,はい。

※この記事は風が吹き荒れ 屋根が飛ぶ(2004年) | 能天気Express Hyperほとんどそのままです。

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