建安十三年十一月二十日,曹操率いる魏の主催者側発表80万の大軍と周瑜率いる数万の呉の軍勢が長江の赤壁(現在の湖北省)でぶつかりました。赤壁の戦いです。
赤壁の戦いといえば東南の風です。周瑜はこの東南の風のおかげで曹操の大船団を焼き討ちにすることができたとされています。十一月二十日はもちろん太陰太陽暦での日付で,ユリウス暦では208年12月15日となり(グレゴリオ暦でも同じ),季節は冬。データがないので確認はできませんが,天気図類から推察すると,この時期は赤壁付近でも西~北の風が卓越し,“東南の風”はほとんど吹かないようです。
『三國志演義』では,諸葛孔明が七星壇を築いて祈祷を行ない,3日3晩“東南の風”を吹かせたことになっています。三国志ファンにはおなじみの場面です。
一方,正史の『三国志』では,この“東南の風”がどういう状況で吹いたのか記述がありません。しかも,強風が吹いたという記述はありますが,向きまでは書いてありません1。いずれにしても,この風を利用して猛将の黄蓋が投降と称して魏の大船団に接近し,決死の活躍で火をかけることになっています。ただ,周瑜ほどの知将ならばある程度観天望気はできたはずで(少なくともブレインはいたはず),風が変わりそうだという読みがあってこの計を使ったのだと考えるのが妥当でしょう。
『演義』では,赤壁の戦いは前半のクライマックスだけあって,孔明の祈祷以外にも話を盛り上げるいろいろな脚色がなされてます。例えば,黄蓋は“投降”する前に周瑜と示し合わせて苦肉の計という芝居を打ったことになっています。また,曹操は大決戦を前にして戦勝の前祝いの宴会を開き,槊を横たえて「短歌行」を賦すことになっています。曹操ファンのσ(^^;)の好きなシーンだったりするのですが。
對酒當歌
人生幾何
譬如朝露
・・・・・・酒に対して当に歌うべし
人生 幾何ぞ
譬えば 朝露の如し
・・・・・・・
この詩の中の「月明らかに星稀に (烏鵲南に飛ぶ)」のフレーズは高校の漢文の教科書に載っていました。っていうかそれで知りました。
しかし,実はこの詩は制作年が不明だったりします。さらに,不吉だと「短歌行」にケチをつけて突き殺される劉馥という人物は,このころ孫権の10万の大軍から合肥の城を死守していました。ただしこのときはすでに病死していたようです。
- かなり前に中華書局発行の標点本で見たため,見落としの可能性もあります。 ↩