この間の遺恨おぼえたか!! (645年)

皇極天皇四年六月十二日,飛鳥板葺宮の殿中において,中大兄皇子が蘇我入鹿に突然,

この間の遺恨おぼえたか!!

と斬りかかりました。留守居役の中臣鎌足も

殿中でござる!!

と止めにはいるふりをして中大兄に加勢して蘇我入鹿にひと太刀ふた太刀浴びせたものだから,蘇我入鹿は

話せばわかる!!

と抵抗することもできずその場で絶命しました。

これが世にいう乙巳のクーデターです。なんかちょっと(かなり?)違うような気が……。

ちなみに,『日本書紀』のこの日の条に

是日雨下潦水溢庭

とあります。時期的に梅雨末期にあたり(ユリウス暦で645年7月10日),飛鳥付近にいわゆる梅雨末期の豪雨でもあったのかもしれません。

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まぼろしのワールドカップ台風上陸 (2002年)

日本で国際的な大きなイベントが開かれたとき,決まって台風がやってきたものです。1964年の東京五輪しかり,1970年の大阪万博しかり。

2002年のW杯もそうでした。

W杯サッカー開催中の2002年6月11日12時05分,気象庁から次のような台風情報が発表されました。

平成14年 台風第4号に関する情報 第60号

 平成14年6月11日12時05分 気象庁予報部発表

(見出し)
台風第4号の中心は、11日12時前に、高知県東部(安芸市付近)に上陸
しました。

(本文)
なし。

6月11日の京都新聞のWebニュースから――:

台風4号高知に上陸 W杯に水差さないで

台風4号は十一日正午前、高知県東部の安芸市付近に上陸した。今年の台風上陸は初めて。台風は勢力を弱めながら紀伊半島方面に進んでおり、午後に熱帯低気圧に変わる見通しだが、四国から東海にかけて大雨の恐れがあり、気象庁は警戒を呼び掛けている。

・・・(中略)・・・

▽台風接近に備え避難所確保

十一日夜、カメルーン-ドイツ戦が行われる静岡県に台風4号の接近が予想されることから、同県やW杯日本組織委員会(JAWOC)などは十一日、避難所の確保など準備を始めた。

同県は、新幹線が運転停止した場合、スタジアム近くの袋井市の三つの体育館に分散して避難させることを決め、同市に協力を要請した。

JAWOC静岡県支部は、強風に備えてスタジアム周辺に設営したテントや看板を撤去。試合終了前後にJRが不通になった場合は、復旧するまでの間、観客にスタジアム内にとどまってもらうことも検討している。

JAWOCは、強風で物が飛んだり、雷が激しくなったりした場合は、試合の中断もあり得るとしている。試合は同日午後八時半から始まり、午後十時半ごろ終了する見込み。

ところが7月2日,W杯の終了を待っていたかのように(?),この台風について気象庁から次のような報道発表がありましたとさ。

台風第4号の上陸について

気象庁は、台風第4号が本年6月11日に高知県東部(安芸市付近)に上陸したと 発表しました。しかし、その後の各種気象資料による詳細な解析の結果、この台風は 上陸前にすでに勢力が熱帯低気圧に弱まっていたことが判明しましたのでお知らせ します。この結果、台風第4号は「日本本土への上陸台風」ではなくなりました。

※この記事はまぼろしのワールドカップ台風上陸 | 能天気Express Hyperを少し手直ししたものです。

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水平投射の日

今日6月6日は水平投射の日です。

ちょうど10年前の今日,自ら水平投射を実践し,高校物理の文字どおり生きた教材となった奇特な人の奇行すばらしい行ないを記念した日です。

もっとも,本人はどうも自由落下を主張していたようですが。

窪塚26メートル落下、全身打撲で面会謝絶

俳優窪塚洋介(25)が6日午後0時10分ごろ、神奈川県横須賀市のマンション9階の自宅ルーフバルコニーから転落した。約26メートル下のフェンスに激突して芝生に落ちたが、意識はあり、病院に搬送された時も「痛い」と訴えた。全身打撲と数カ所の骨折のため、面会謝絶状態という。事務所は「こいのぼりの器具を外す作業の際、不注意で転落した」と説明したが、浦賀署は飛び降り自殺を図った可能性があるとみている。

浦賀署の調べなどによると、窪塚はマンション東側向きの9階にある自宅のルーフバルコニーから転落した。高さは地上約26メートルもあったが、植栽や芝生を取り囲むマンションから約9メートル離れた高さ約1メートルの金属フェンスに当たって芝生に落ちたため、衝撃が和らいだとみられる。目撃したマンション住人が110番通報。救急車が現場に駆けつけたときは芝生にあおむけに倒れ、意識もあって「痛い」などと話すこともできたという。
(2004/06/07 日刊スポーツWebサイトより)

ちなみに,クボヅカが降った2004年6月6日は,近畿,東海,関東甲信の各地方に梅雨入りしたと見られます発表がありました。翌7日には北陸,東北南部・北部の梅雨入りしたと見られます発表があり,もともと発表のない北海道を除き日本列島はすべて梅雨入りしたと見られる状態になりました。

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6月6日にUFOが

今日はUFOがあっちいってこっちいって落っこちた日です。

6月6日に UFOが あっちいって こっちいって おっこちて
お池が2つできました
…………

mixiにはこんなコミュニティがあります → [mixi] 6月6日はUFOが…の日。 なんと今年で10周年\(^o^)/

そういえば,ドラえもんも放送が終了して7年以上になりますね……。

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台風が女性名から番号に (1953年)

中央気象台は1953年6月4日から,台風の名前を英語圏女性名から発生順位番号に変更しました。

敗戦後それまではカスリーン,アイオン,キティ,ジェーン,ルースなどの名前の台風が新聞紙上を賑わせていましたが(ただし,カタカナは統一されていたわけではないので,キャスリーン,キッティなどと表わされることもあった),これ以降,“台風××号”一色に染まることになります。

同時に,それまで“弱い熱帯低気圧”,“熱帯性低気圧”,“台風”の3段階だった熱帯低気圧のクラス分けが,“弱い熱帯低気圧”と“台風”の2段階に変更されました。

ちなみに,現在では“弱い熱帯低気圧”は“熱帯低気圧”に変更になり,たんに熱帯低気圧というとき,一般的な熱帯低気圧のことなのか,以前の“弱い熱帯低気圧”のことなのか,まぎらわしくなっています。σ(^^)などは以前の“弱い熱帯低気圧”をただの熱帯低気圧とかノーブランドの熱帯低気圧とかいっています。σ(^^)など公人でもなんでもないので,何とよぼうとσ(^^)の勝手です。

さて,番号台風の第1号となったのは1953年の2号でした。1号でなかったのは,1号は2月にすでに発生していたからです。

taifu195302

この台風は5月29日09時に“弱い熱帯低気圧”として発生,同日15時に台風になりました。名称変更前なので,このときはまだ2号ではなくJUDYでした。その後,ルソン島に上陸,先島諸島付近を通って東シナ海に進み,6月7日09時過ぎ八代湾から九州の北西部に上陸しました。1953年6月7日付読売新聞夕刊の見出しから:

「台風第二号」熊本上陸 熱低に衰弱して東進
死者十名 山陽地方被害甚大
五名が圧死 門司で崖崩れ 筑肥線不通

この台風で,死・不明53,負傷53,家屋全壊98,同半壊103,流失98,浸水27850などの被害が出ました。

ここで上の見出しの台風第二号に注目。気象庁では現在でも例えば「台風第5号に関する情報」のように“台風第××号”と必ず“第”をつけていますが,マスコミではNHKを筆頭に“第”をつけていません。でも,1953年当時はこのように少なくとも新聞では“第”をつけていたのです。次第に“第”をつけなくなり,この年の9月には台風××号が定着するようになります。理由はわかりません。

女性名は日本国内では使われなくなりましたが,米国では使われ続けていて,気象庁も海外に台風情報を発信するときはこの女性名も記載していました。

ところが,台風とは比べものにならない異次元(ヤプールか(笑))の恐ろしさを持つ女性団体の圧力で,1979年の台風3号から男女名が交互に使われるようになりました。

その後,2000年からはわけのわからないアジア名が使われるようになって現在に至っています。アジア名は提唱国のアルファベット順に並んでいて,発生順と名前のアルファベット順が一致しないこともあり,きわめて扱いにくいです。こんなシロモノ誰が考え出したんだろう?

※この記事は台風が女性名から番号に | 能天気Express Hyperとほとんど同じです。

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虎が雨

阪神タイガースとかいう名前の野球チーム関係の涙雨ではありません。プロ野球には全然興味がないからわからないんですけど,阪神って今年も最下位なんですか?

さて,虎が雨とは五月二十八日(旧暦)に降る雨です。今日降る雨ではありません。

建久四年五月二十八日,ユリウス暦で1193年6月28日のことです。源頼朝が催した富士山麓での大巻狩の深夜, 曽我十郎祐成曽我五郎時致の兄弟が月のない真っ暗な闇の中,松明を手に父の仇である工藤祐経の陣屋に討ち入りました。

寝込みを襲われた祐経はあっけなく討ち取られましたが,その後の十番切りとよばれる乱戦の中で兄十郎は朝比奈四郎に討たれ, 弟五郎は捕らえられました。そして翌日,頼朝による尋問ののち処刑されました。

十郎には虎御前という愛人がいました。五月二十八日にその虎御前が十郎の死を悲しんで流す涙が雨となって降るのが「虎が雨」 であると伝えられています。

兄弟の敵討ちの記憶と梅雨という気象現象が結び付き, そこに田植えのために雨を乞う人々の思いが重なって徐々に用いられるようになったもの
~『曽我物語の史実と虚構』

のようです。

『吾妻鏡』には仇討ちの日の天気について次のように書かれています。

小雨降る。日中以後霄《は》れ。……

まず,はじめ小雨が降っていたが,日中から晴れたとあります。そして,祐経を討ち取ったあとの「十番切り」 のときは

雷雨,鼓を撃ち,暗夜に燈を失ひ……。

とあり,激しい雷雨だったようです。

江戸時代には,兄弟の仇討ちのときに雨が降っていたことは常識になっていたらしく,次のような詠史川柳があります。

泥足で工藤が夜具をはね除ける

しかし,『吾妻鏡』や真名本『曽我物語』では「十番切り」に雷雨の記述があるので, 兄弟が工藤の陣屋に向かう途中はまだ雨は降っていなかったと思われます。そうでないと“なけなしの銭”で買ったらしい松明が消えてしまいます。

なけなしの銭で松明二本買ひ

これもまた,江戸時代の詠史川柳です。曽我兄弟は貧乏だったというのも江戸時代の常識だったようです。

今では曽我兄弟なんかよりウルトラ兄弟とか宇宙兄弟なんかのほうが有名みたいですが,六代目宝井馬琴さんの夜討曽我 紋づくし,機会があったら聞いてみて下さい。思わず引き込まれます。

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数寄屋橋での出会い (1945年)

1945年5月24日の夜,米軍による爆撃の最中の数寄屋橋で後宮春樹と氏家真知子が出会い,半年後の11月24日の夜にこの橋の上での再会を約束するというのが,映画君の名はの冒頭のシーンです。放送時間中は女湯が空になったという都市伝説のあるラジオの連続放送劇も同様なんだと思いますが,聞いたことはありません。

しかし,実際には5月24日の夜には空襲はなく,このころ東京に空襲があったのは24日未明と25日夜~26日未明でした。

このうち数寄屋橋付近に空襲があったのは25日夜~26日未明です。

奥住喜重・早乙女勝元『新版東京を爆撃せよ―米軍作戦任務報告書は語る』によると,この作戦命令は第21爆撃機集団野戦命令79号で,発令は25日02時00分(日本時間),爆撃は25日22時38分にはじまりました。

原作者が日にちを間違えたのか,そうでないとすればなんらかの理由で変えたのでしょう。

ちなみに,1991年にNHKの連続テレビ小説で「君の名は」(ヒロイン鈴木京香)が放送されたときは“5月のある日の夜”にボカされていました。

さて,半年後の11月24日,下心いっぱいの春樹は約束どおり数寄屋橋のたもとの交番の前に行きますが,真知子にスッポカされます。それもそのはず,この交番は1944年6月から1946年6月まで閉鎖されていたため行きたくても行けなかったのです。ではなくて,確か四ツ谷の家が空襲で焼けたため佐渡の親戚宅に身を寄せていたのではなかったかな。

あきらめのつかない春樹は,未練がましく1年後の1946年11月24日にその場所に行ってみると,なんとそこに真知子があらわれるというつくられたような展開。再会を約束したときに今年会えなかったら来年,来年会えなかったら再来年……と春樹がいっているので,まあ不自然ではないですが。

春樹がシメシメと思ったのつかの間,真知子から重大発表が!!

……私,明日……明日……結婚するんです。

ここから春樹の人妻追っかけ人生がはじまります。

次の写真は現在の……ではなくて(笑)5年前の数寄屋橋。

DSCF0961

それにしても,この君の名はにしても愛染かつらにしても独身男が人妻を追っかけるという話なのはどうしてなんでしょうねえ? しかも「愛染かつら」の高石かつ枝は子持ちだし……。真知子もどこかで妊娠するんですよね,確か。

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大仏の頭が落ちる

斉衡二年五月二十三日(ユリウス暦で855年7月10日),東大寺から都に,大仏の頭が落ちた,との報告がありました。

この前,五月十日,十一日に地震の記録があることもあり(六月二十一日,二十五日にも地震の記録がある。ついでに六月一日には日食の記録がある),地震によって落ちたとされることがありますが,『文徳実録』には

毘盧舍那大佛頭自落在地

とあるだけで,地震で落ちたとは書いてありません。

誰かが故意にやったのだとしても,もうとっくの昔に時効が成立していますね(笑) 奈良県警というと,2時間サスペンスでは誰だろう?

直接関係ないですが,5月23日というと,1960年5月22日のチリ沖地震(M9.5)によって発生した津波は太平洋を渡っている最中で,まだ日本には到達していません。すでに到達したハワイでは最大波高10.5mを記録しています。

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稲村ヶ崎の奇跡?! (1333年)

鎌倉」と題する唱歌があります(芳賀矢一作詞)。鎌倉の観光ガイドのような長い歌で,次の歌詞ではじまっています。

♪七里ヶ浜の いそ伝い
稲村ヶ崎 名将の
剣投ぜし 古戦場

ここに歌われている名将とは,もちろん新田義貞です。元弘三(1333)年五月,分倍河原での一時的な退却あったものの稲村ヶ崎まで順調に攻めのぼってきた新田義貞も,天然の要害,鎌倉への侵入路を捜しあぐねていました。五月二十一日の夜半過ぎ,意を決して稲村ヶ崎の浜で数万の自軍を背にしてひとり馬から降り,兜を脱いで沖合いを伏し拝み,龍神に祈りを捧げます。

……仰願ハ内海外海ノ竜神八部,臣ガ忠義ヲ鑒テ,潮ヲ万里ノ外ニ退ケ,道ヲ三軍ノ陣ニ令開給ヘ

祈りおわって,黄金づくりの太刀を海中に投じると,なんと不思議なことに,今まで潮の干いたことがない稲村ヶ崎の海が二十余町にわたって干いたではありませんか。

どうでもいいですが,TBSの世紀のワイドショー! ザ・今夜はヒストリーでこの場面を再現したときはなぜか真っ昼間に太刀を投げ入れていました。

いずれにしても,こうして生じた干潟から義貞軍は一気に鎌倉に攻め入り,鎌倉幕府の要人はもはやこれまでとほとんどが自害。ここに鎌倉幕府は滅びるのです。

以上は太平記に載っている話です。果たして潮が干いたのはほんとうなのか? 真実や如何に?

これについては諸説あり,いちばんもっともらしい(と私が以前思っていた)のは,義貞は潮の満ち干を知っていて,士気を鼓舞するためにひとり芝居を演じたという説です。

ところが,この説には致命的な欠点があります。この日は旧暦の五月二十二日ですから,稲村ヶ崎あたりの干潮は午前2時から3時ごろです。したがって潮が干いたのは事実でしょうが,これはいつでも起こっていることで,“今まで潮の干いたことがない”稲村ヶ崎が干上がったことを説明できません。それに上州育ちの義貞が潮の満ち干についてそれほど詳しかったとも思えません。

さらに潮が干いたあとは歩きにくく,海というものに慣れていない上州の軍勢がスムーズに通れたかどうか疑問です。江戸時代の詠史川柳に

義貞の勢はアサリを踏みつぶし

というのがあります。

ということで,ドラえも~ん,なんとかしてよ~とタイムマシンでも借りない限りほんとうのところはわかりませんが,私的にはこの話は作り話で,義貞軍の本軍は稲村ヶ崎を通ったのではなく,別のところを通って鎌倉に攻め込んだのだと思います。

ただ,義貞軍本隊が化粧坂路を進んでいたころ,大館宗氏率いる右翼軍の一隊が由比ヶ浜を突破しており(ただし,大館宗氏はその後の戦いで討死),このときにひょっとして潮が干いたのを利用したのが,話を面白くするためか軍記物にありがちな針小棒大癖のためか誤ってか義貞軍本隊の話として伝えられたのでは……と思えないことはありません(根拠はないです)。

ところで,鎌倉といえば,大仏です。唱歌「鎌倉」にもあります。

♪極楽寺坂 越え行けば
長谷観音の 堂近く
露座の大仏 おわします

ここに歌われているように,奈良の大仏さんと違って鎌倉の大仏さんは露座,早い話が雨ざらしです。

もちろん,つくられた当時は大仏殿のようなものがそれなりにあったようです。ところが,3回の大風(そのうちの1回は『吾妻鏡』に載っている台風と思われますが,他は確認していません)によって倒壊,追い撃ちをかけるように1495年の津波によって流され,それ以来露座となったのでした。

この津波は,1498年の明応東海地震によるものとされてきました。しかし,最近の研究では1495年の相模湾を震源とする地震に伴う津波と考えられるようになっているようです。

それにしても,大仏殿が流されたのに大仏さんはよく踏みとどまったものです。

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長篠の合戦 (天正三年)

桶狭間(山)の合戦から15年後,天正三年五月二十一日(グレゴリオ暦で1575年7月9日),織田信長が徳川家康と連合して設楽原で武田勝頼を破った戦いです。

名だたる武者から組織された武田の騎馬軍団を織田の名無しさん足軽鉄砲隊が三段撃ちという新戦法で壊滅させた戦術革命ともいえる画期的な戦い……と最近までいわれてきた戦いです。実際には,武田の“騎馬軍団”も織田鉄砲隊の“三段撃ち”もなかったし,まして“戦術革命”をもたらしたといえるような戦いではありませんでした。

ちょっと馬の歴史を調べればわかるように,当時の日本の馬はかなり小さく,平均すると120~140cm程度の体高で,現在ではポニーとよばれる大きさでした。有名なところでは,宇治川の先陣争いで名を馳せた佐々木四郎高綱の生喰《いけずき》は145cm,源義経が乗ったと伝えられる青海波《せいがいは》は142cmでかなり大柄な部類ですが,それでも160~165cm程度である現在のサラブレッドとは比べるのもかわいそうなくらいです。しかも体重は220~260kg程度で,今のサラブレッドのせいぜい半分です。さらに当時まだ蹄鉄は使われていませんでした。

このような“ポニー”が蹄鉄なしで重武装の武者を乗せたりしたら,そもそも戦場を駆け回れるかどうかわかりませんし,かりに戦場を駆け回れたとしても,すぐにバテてしまってとても“いくさ”にならなかったのは火を見るより明らかです。しかも当時は去勢の習慣がなかったため(なぜか日本だけらしい)気性の激しい馬が多く,整然と隊伍を組んで命令一下突撃などできたのか,はなはだ疑問です。

戦国時代になると,馬に乗って戦場にやってきても,馬から降りて戦うことが多くなっていました。武田軍の中に馬に乗って織田陣に切り込もうした武者はもしかしていたかもしれませんが,とても“騎馬軍団”などといえる集団ではなかったはずです。

話が馬のほうにヨレてしまいましたが(ブリンカーをしたほうがいいかな(笑)),合戦の前日は一日中雨が降っていました。戦いの舞台となった設楽原は水田地帯で,この雨のため泥沼と化して足場がたいへん悪くなっていました。合戦の当日は朝から雨が上がりましたが,足場が悪いのには変わりなく,20kgにもおよぶ甲冑を着込んで,5kgほどもある鉄砲を撃ち,撃ったらその鉄砲をかついで最後方に下がって弾を込め……なんて三段撃ちを続けざまに2~3回もやったらすぐにバテてしまいます。かりにこんなことができたとすれば,それは名無しさん足軽の寄せ集めなどではなく,サイボーグのような超人的な精鋭部隊だったでしょう。別の意味で“戦術革命”だったに違いありません。

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