八百屋お七の墓が呼ぶ(お七火事)

天和二年十二月二十八日(グレゴリオ暦では1683年1月25日,以下同様),駒込大円寺から出た火は,
折りからの北西の季節風に煽られて本郷,神田,伝馬町,日本橋に燃え広がり,3500人以上の死者を出しました。これが江戸十大火のひとつ
お七火事」です。

お七八百屋お七)は実在の人物で,
放火の咎で天和三年三月二十九日(1683年4月25日)に火炙りの刑に処せられたのも事実のようですが,
お七が放火した火事については天和二年一月説,天和三年三月説などがあり,特定できる確固たる根拠はありません。ただ,皮肉なことに
「お七火事」がお七が放火した火事ではないことは確かなようです。σ(^^;)的には,
お七の放火は天和三年三月だとするのがもっとも違和感がありません。

この火事は,天和三年三月二日(1683年3月29日)の夜,
本郷の森川宿の八百屋の娘お七が近くの商家に放火したところを通行人に発見され,すぐに消し止められたというもので,今流にいえばボヤです。
しかし,当時はボヤでも放火は放火,市中引き廻しの上火炙りと相場は決まっていました。

放火の動機は,天和二年十二月二十八日の火事(要するに「お七火事」)でお七の家も被災して正仙院というお寺に仮住まいした際,そこの
“イケメン”と恋仲になったのですが,新居が完成して会えなくなり,再び火事になれば会えるという妄想が放火に駆り立てたとされています。
なお,この動機についても諸説ありますが,お七の年齢,被災した火災,仮住まいしたお寺の名前,“イケメン”の名前などに違いはあるものの,
大筋では似たりよったりです。

お七のお墓は,文京区白山の円乗寺に現在も存在します(写真参照)。お参りすると,
恋の成就に霊験があるとか,ないとか。

   2006-12-28_303218325_1

ちなみに,内田康夫『追分殺人事件』では,1987年3月7日にこのお墓の前で男が殺されることになっています。
作品ではこの日雪が降っていたことになっていて,実際に東京では午後から雪になりました。降雪の深さ合計は7日が3cm,
翌8日が2cmとなっています。

津波ア・ラ・カルト

スマトラ島沖のインド洋で発生した地震による津波から2年たちました。

というわけで,一昨年メルマガに書いた「津波ア・ラ・カルト」をほとんどそのままお届けします(笑)

●津波とは

津波は波長の非常に長い波です。変動した海底の範囲の大きさにもよりますが,数10km~数100km程度です。したがって,
波といっても風によって起こるふつうの波(風浪やうねり)とはかなり性質が異なり,潮汐によって起こる波や高潮に近い性質をもっています。
日本では数十年くらい前まで,高潮と津波はとくに区別されていませんでした。

●津波の速さ

津波の波長は海の深さに比べて非常に長いため,浅水波とよばれる波の性質をもちます。
浅水波の特徴は波の速さが深さのみによって決まることで(波長によらない),海の深さをh(m)とすると,次の式で計算できます。

  c = (9.8 * h)^(1/2)

例えば,h~3000(m)(海の平均的な深さ)を代入すると,c~170(m/s)≒620(km/h)となり,
ものすごいスピードであることがわかります。

1960年の「チリ地震津波」は,地震発生から約23時間後に地球の裏側の日本の沿岸に到達し,
死者不明者142人など大きな被害をもたらしました。はるか彼方からやってきた津波が非常に強力だった原因としては,
地震の規模がきわめて大きかったこと(観測史上最大のモーメントマグニチュード9.5),日本は震源からほぼ地球の反対側にあるため,
いったん広がった津波が収束する位置にあったこと,ハワイ諸島が日本に波を集めるレンズの役割を果たしたこと……などがあげられます。

●津波は岸に近づくと高くなる

海のど真ん中で津波に遭遇したとしても,ほとんど影響はありません。
数10km~数100kmの範囲でせいぜい数メートルくらいしか海面が変化していないのですから,おそらく誰も気づかないでしょう。

ところが津波が岸に近づくと,水深が浅くなるため,スピードが遅くなります。そのため,分散していたエネルギーが集中することになり,
波高が高くなるとともに強力な破壊力をもつことになります。波の前面が切り立って段状になることもよく見られます。

去年のスマトラ沖地震でも,ドイツ人観光客が撮影したビデオに段状になった津波の前面が写っていました。ちなみにこの人,
“tsunami”ということばを知っていましたが,どこで知ったのか興味があります。というのも,
ヨーロッパでは津波による被害が最近ではほとんどなく,大きな被害は1755年の「リスボン地震」にまで遡るからです。なお,
地震津波ではありませんが,
サントリーニ火山のカルデラ生成に伴って発生した津波によるミノア文明の崩壊がアトランティス大陸伝説のもとになった……
という説があります。

津波の高さは,V字形に開いた湾の奥のほうほど高くなる傾向があります。これは左右から波が集まってくると考えれば理解しやすいでしょう。
また,津波の周期と湾の固有の周期が近いと,共振が起こって津波が異常に高くなることがあります。

●津波の高さと遡上高

新聞やテレビなどの報道に見られる“津波の高さ”は,波の高さなのか“遡上高”なのかわからないことがあります。というより,
遡上高を津波の高さといっているケースが多いように思われます。遡上高は陸上の何メートルの高さまで津波が到達したかということで,
一般に波の高さの2~4倍あるいはそれ以上になります。

1771年の「八重山地震津波」では,石垣島を襲った津波の最高遡上高が85mに達したという記録があります。
この記録はギネスブックに載っているという話ですが(σ(^^;)は確認していません),実際にはそんなに高くはなかったようです。
それでも40mくらいはあったようです。

なお,地震津波以外では,1958年にアラスカ南部のリツヤ湾で地震による岩石崩壊によって高さ520mの津波が発生したことがあります。

●津波は引いてから押し寄せる?

津波はいったん引いてから押し寄せる……とよくいわれますが,引いてから押し寄せることもいきなり押し寄せることもあります。

●歴史上の津波

国内の文献でもっとも古い津波の記録は,684年の「白鳳南海地震」(「南海地震」の最古の記録とされています)
のときに土佐国を襲った津波です。『日本書紀』には被害として「調運ぶ船,多に放れ失せぬ」とあるだけですが,
多くの人命が失われたことは想像に難くありません。朝廷としては“租庸調”にのみ関心があったのでしょう。

1498年の「明応東海地震」(何回か前の「東海地震」)に伴う津波では,淡水湖だった浜名湖が海とつながり,
鎌倉の大仏の大仏殿が流されました。大仏さんはさすが修行を積んでいる?!とみえて(といっても座っているだけのような気がしますが(笑))
,踏みとどまったらしいです。

また,同じく「明応東海地震」による津波で,日蓮の生家跡に建てられた誕生寺が流されて海に沈みました。
しばらくして別の場所に再建されましたが,1703年の「元禄地震」(ひとつ前の関東地震といわれます)による津波で,
またもや流されました。というわけで,現在,天津小湊町にある誕生寺は3代目という話です。「日蓮の生まれ給いしこの御堂」は海の中です
(内田康夫『日蓮伝説殺人事件』参照)。

●最後に

津波ということであれば,明治(1896年)と昭和(1933年)の三陸地震津波や北海道南西沖地震(1993年),“秋田沖地震”
(1983年)などに触れるのがふつうでしょうが,古い話好きのσ(^^;)的には新しすぎるので,取り上げませんでした。

古い話ということでいえば,1341年に十三湊を滅ぼしたとされる津波については,興味はあるものの,
信憑性が疑わしいのであえて取り上げませんでした。

ホワイトクリスマスの大停電

σ(^^;)がちょうど仙台に住んでいた1980年,大停電が起こって街中の灯が消え,雪明かりだけという,
これぞホントのホワイトクリスマス──を体験したことがあります。

23日に四国沖に発生した低気圧が急速に発達しながら南岸を通過したため,24日にかけて東北地方は南部を中心に暴風雨雪になりました。
仙台では23日に降りはじめた雨が24日未明から雪に変わり,18時に積雪25cmを記録しました。

イブの日は,この雪のため,交通機関はマヒ状態。σ(^^;)は何を血迷ったのか午前中にパスで中心街に出かけていったのですが,
帰りはバスが坂を上れないという理由で途中で折り返し運転になってしまい,そこから先は雪中行軍になりました。
どこからともなくあの映画の芥川也寸志作曲のあの曲が聞こえてきたような……。そうです,「八木山死の彷徨」(笑)
「天は我々を見放したか……」

さて,この日の雪はかなり湿った雪で,その湿雪が送電線に付着,そこに強風が吹きつけました。
送電線はふつうの状態では強風の中でもあまり振動しません。そのように設計されているからです。ところが,
雪が付着して形状が変わると話は変わり,ギャロッピング(galloping)とよばれる振動を起こすことがあります。

ギャロッピングはフラッター(flutter)とよばれる自励振動の一種で,
いったん振動がはじまるとその振動によってまわりの空気の流れが振動を助長するようにはたらきます。その結果,
風さえ吹いていれば振動は続き,風が強くなると急激に振動が激しくなります。この振動は風の強弱の変化(風の息)とは関係なく,
定常な空気の流れの中でも起こります。十数m/sを超える風が吹いたとき,
1~10秒程度の周期で振幅が10mにも達する上下方向のギャロッピングが起こることがあります。

このようにしてあちこちで送電線が切れたり鉄塔がぐにゃりと折れ曲がったりしたものですからさあたいへん。
東北電力仙台営業所管内の全戸数の70%以上という大停電が起こりました。ヒドいところでは27日まで続き,河北新報には

  27日:
    電力は何をしている
    宮城福島 停電三晩目,住民に怒り

  28日:
   “大停電”やっと復旧
    仙台 4日ぶり暗やみ解放

などの見出しが見えます。

σ(^^;)は雪中行軍で帰宅しただけでとくに被害らしい被害は受けていませんし(そういえば,
シャーベット状の雪のかたまりが落ちてきて傘が1本ダメになりましたが),停電も翌日には回復しましたから,
雪明かりだけのロマンチックな夜の記憶だけが残っています。

ちなみに,仙台では同月14日にも30cmの積雪を観測しているのですが,こちらはまったく記憶にありません。

ところで,仙台の年末といえば「光のページェント」。ですが光のページェントがはじまったのは1986年ですから,
イブの大停電当時はもちろんまだありませんでした。

光のページェントがはじまってから仙台がホワイトクリスマスを迎えたことが 1度だけあります。1992年のことです。

ところが,河北新報からは雪の中の光のページェントに関する記事は見つかりませんでした。見つかった記事(見出し)はといえば……。

  イブの仙台 交通大混乱 寒波襲来 (25日朝刊)
  脱スパイク先進地 心構えはまだまだ (25日夕刊)

スパイクタイヤの使用が禁止されたのは1991年4月でした。

なお,このときの雪は低気圧の通過に伴うものではなく,強い寒気の吹き出しによるものでした。

赤穂浪士の討ち入り

まず,クイズから。

襲撃・暗殺などが雪の降る中で行なわれた事件を次のア~エからすべて選び,記号で答えなさい。

ア 蘇我入鹿の暗殺
イ 赤穂浪士の討ち入り
ウ 桜田門外の変
エ 二・二六事件

解説しよう(今は亡き富山敬さんの声で(笑))。ドロンボーのメカは……って違うって(笑) かなり古いし。

まずアですが,事実とすれば事件が起こったのは皇極四年六月十二日,ユリウス暦では645年7月10日ですので,まあ,
ふつうに考えれば雪は降っていなかったでしょう。『日本書紀』にはこの日大雨が降ったという記述があります。

イは本題なので後まわしにして,ウの大老井伊直弼暗殺は雪の降る中で行なわれました。雪が降っていたため,
お供の者が雪水がしみるのを防ぐために刀に柄袋をつけていて,刀をなかなか抜くことができなかったことが,
白昼堂々と大老が討ち取られた原因のひとつとされています。

エの二・二六事件は,2月23日に積もった雪は残っていましたが,この日雪が降りはじめたのは襲撃があらかた終わってから後のことです。
前夜からの大雪の中,反乱軍が兵営を出発して首相官邸などを次々と襲撃した……というのは,誰がいいはじめたのか知りませんが,ウソです。

というわけで,正解はウということになります。正解者の中から抽選で……賞品は何もありませんのであしからず(笑)

やっと本題。

赤穂浪士が吉良邸に討ち入ったのは,元禄十五年十二月十五日の寅の上刻とされています。
今の暦では1703年1月31日の午前4時ごろになりますから,1年でもっとも寒い時期のしかももっとも寒い時間帯ということになります。

このときは晴れていて,したがってもちろん雪は降っておらず,赤穂浪士の47人は小望月の月明かりの中,
本所松坂町の吉良邸に向かったのでした。前日に降った雪がざらめ状に凍って,歩きやすかったとのことです。

積もっていた雪の影響も少しはあったようで,討ち入りの初っぱな,門を乗り越えるときに,
原惣右衛門と神埼与五郎が屋根の上に残っていた雪ですべって転落し,足をねんざしたそうです。
ドラマなんかではこの場面は再現されませんね(笑) でも,原惣右衛門ってご老体では……?

討ち入りは夜が白みはじめる前には終わったようです。ドラマなどでは,捕らえれて引き出された吉良上野介大石内蔵助
「吉良殿でございまするか」などと人定尋問するのが定番になっていますが,
実際には内蔵助の前に引き出されたときはすでに息がなかったようです。

1703年1月31日の東京の天文データは次のようになっています。

-------------------
天文薄明開始 05:16
市民薄明開始 06:17
日の出    06:42
正中     11:55
日の入    17:08
月の入    05:18
-------------------

討ち入りは夜が白みはじめる前には終わったということは,このデータを見るかぎり,
やはり討ち入りは長くても2時間程度だったようです。

2週続けて雪の日曜日

1987年12月,あの雪の日曜日から1週間後の13日の朝,目がさめたら,窓の外でカサカサという先週も聞いたような変な音が。
まさかと思って窓を開けて外を見たら,なんと雪でした。ここから先の記憶がないところをみると,
たぶんまた寝たんだと思います(笑)

前週と同じように南岸の低気圧に北東から冷たい空気が流れ込み,東京都心で雨から雪に変わったのは09時30分ごろ,
そして18時までに3cm積もりました。

例によって例のごとく,おきまりのすってんころりんねんころりんで滑って転ぶ人がまたまた続出,前週を上回る32人がケガをしました。また,
翌14日の朝は冷え込んで路面が凍結したため,関東各地でスリップによる交通死亡事故が相次ぎました。

中山競馬は3レース以降が中止になり,2週続けて日曜日の開催が中止になりました。12月としてははじめてです。

延期されていたミホシンザンの引退式は雪の中で行なわれましたが,芝コースが閉鎖されていたためにダートコースで最後の走りを見せました。

当時,12月の第2日曜に国立競技場で行なわれていたトヨタカップは,もちろん降りしきる雪のためにコンディションは最悪。
勝ったFCポルトのイビッチ監督が「何千試合もしてきたが,こんな悪条件ははじめて」と語っています。これは雪のためばかりでなく,前週の
“雪の早明戦”によって芝がかなり剥がされた影響もあったでしょう。

試合は延長の末,FCポルトCAペニャロールを2-1で破りました。

悪条件が重なった不運もありますが,もともと評判の悪かった日本のグランドの評価がこの日のトヨタカップによって最悪になったのは確かです。
国立競技場の芝が見違えるようになったのは1991年からだったと思います。