今日は旧暦の九月十三日,ということは今宵は十三夜です。
樋口一葉の『十三夜』に
今宵は舊暦の十三夜、舊弊なれどお月見の眞似事に團子をこしらへてお月樣にお備へ申せし、これはお前も好物なれば少々なりとも亥之助に持たせて上やうと思ふたれど、亥之助も何か極りを惡るがつて其樣な物はお止なされと言ふし、十五夜にあげなんだから片月見に成つても惡るし、喰べさせたいと思ひながら思ふばかりで上る事が出來なんだに、今夜來て呉れるとは夢の樣な、・・・
とあるように,明治の中ごろには少なくとも東京ではすでに“舊弊”となっていたようです。
ところで,伊藤左千夫の『野菊の墓』は次の書き出しではじまっています。
後《のち》の月という時分が来ると、どうも思わずには居られない。幼い訣《わけ》とは思うが何分にも忘れることが出来ない。もはや十年|余《よ》も過去った昔のことであるから、細かい事実は多くは覚えて居ないけれど、心持だけは今なお昨日の如く、その時の事を考えてると、全く当時の心持に立ち返って、涙が留めどなく湧くのである。悲しくもあり楽しくもありというような状態で、忘れようと思うこともないではないが、寧《むし》ろ繰返し繰返し考えては、夢幻的の興味を貪《むさぼ》って居る事が多い。そんな訣から一寸《ちょっと》物に書いて置こうかという気になったのである。
冒頭の“後の月”というのは十三夜のことです。
『野菊の墓』は読んだことはありません。しかし日下圭介『『野菊の墓』殺人事件』は読んだことがあります。σ(^^)的にツボにはまった作品でした。
※引用には青空文庫 Aozora Bunkoを利用させていただきました。