太宰治の『乞食学生』に次のようにあります。
万助橋《まんすけばし》を過ぎ,もう,ここは井の頭公園の裏である。私は,なおも流れに沿うて,一心不乱に歩きつづける。この辺で,むかし松本訓導という優しい先生が,教え子を救おうとして,かえって自分が溺死《できし》なされた。川幅は,こんなに狭いが,ひどく深く,流れの力も強いという話である。この土地の人は、この川を、人喰い川と呼んで、恐怖している。
松本虎雄訓導が「教え子を救おうとして」玉川上水で殉職したのは1919年11月20日のことです。
21日付の東京朝日より:
昨日午前十一時頃麹町永田小學校の全校生徒五百名は府下井の頭方面へ遠足に向ひたるが一行中の三年生永田俊雄《ながたとしを》(十一)が誤つて附近の淨水に陷りたれば受持教師なる訓導松本虎雄(三二)は即座に後より飛込み救ひ上げんとせしに却て自分が流れ行方不明となりたるが俊雄は幸ひに岸に取縋り辛うじて助かりしも虎雄氏は水深一丈餘の塲所なれば搜索に大困難を爲し未だ判明せず橋本麹町區長等は自動車を驅つて現塲に急行して引續き搜査中なり
あんなところで溺れるなんて今では想像できませんが,上に引用した『乞食学生』にもあるようにかつてはかなり流れが速くしかも渦を巻いていたようで,さらに新聞によるとこの年の夏以降だけで5人の死者が出ていたとのことです1。
今であれば,間違いなく管理者(校長など)の責任が問われますね。当時はそんな概念はおそらくなかったことでしょう。
この事故は小野さつき訓導にも大きく影響を与えたようです。3年後に起こった小野さつき訓導の殉職については七夕の白石川の惨事 | Notenki Express 2014をご覧下さい。
- ホントかどうかは知りません。 ↩