公営競技と台風

1955年9月29日22時ごろ,台風22号薩摩半島に上陸しました。九州を縦断して日本海に抜け,北海道に再上陸する前後に温帯低気圧に変わりました。

この台風は,どちらかというと日本海を通過中の10月1日に発生した新潟大火で知られていますが,上陸時の中心気圧が940mbと勢力が非常に強かったため,九州から中国・四国地方にかけて暴風と高潮による被害も大きく,それに加えて竜巻が発生したこともあり,死者・不明68人,重軽傷314人など,あまり知られていない台風にしては大きな被害が出ています。

当時,柳井市南浜(ただし現在の地名。当時の地名は知らん(^^;))にあった柳井オートは,高潮による浸水を受け,さらに堤防の決壊も加わり,敷地全体が水没した上にスタンドなどの建物も全半壊しました。

翌年1月にはなんとか開催にこぎつけましたが,折からの経営不振もあり,1957年に山陽オートに移転という形で,事実上廃止されました。

競馬に限らず,競輪にしても競艇にしてもオートにしても,一定水準以上のコースを維持しなければならない上に広大な敷地を抱えているわけで,しかもすぐそばに川や海があったりすることも多く,台風などの自然災害には弱いといえるでしょう。

最近では,レース場の数も減ったせいか,台風による大きな被害は聞きませんが,2004年,台風16号による高潮で高松競輪場のバンクの内側が水没しました。しかし,10月の共同通信社杯競輪(G2)は予定どおり行なわれました。ちなみに,高松競輪と観音寺競輪で2005年1月に「台風災害復興支援競輪」を開催したことは,いつかの日記で書いたような気がします(誰も読んでないでしょうけれど(笑))。

また,2002年には台風6号によって次のようなこともありました。

競争《ママ》馬のひざ付近まで水位

 足利市五十部町の渡良瀬川河川敷にある足利競馬場では、11日午前2時過ぎから放水路の水位が上昇、競馬場東側の厩(きゅう)舎兼住宅11棟が床上浸水した。午前4時ごろには2家族が孤立、市消防がボートで救出した。けが人はなかった。
 厩舎では馬400頭が飼育され、一時は水が馬のひざ付近まで上がってきたという。馬はぬれたエサを食べないため、厩務員は乾いた地面を探して、ぬれた干し草を干し直したり、厩舎にたまった水をくみ出すなどの復旧作業に追われた。
 ある厩務員は「馬が無事だから良かったが、脚に傷があるまま水につかると、そこから菌が入るのではないかと心配だ。しばらく気を抜けない」と疲れた表情で話した。[2002年7月12日19時3分更新]毎日新聞

いまはなき,足利競馬場……。

リンゴ台風Mireilleと箱庭

1991年9月27日16時過ぎ,台風19号Mireilleが中心気圧935mb,中心付近の最大風速50m/sという“非常に強い”勢力で長崎県佐世保市の南に上陸しました。その後,加速しながら日本海を北東に進み,28日08時ごろ965mbで北海道渡島半島に再上陸,28日15時に千島近海で温帯低気圧に変わりました。

台風が非常に強い勢力で上陸し,勢力をほぼ維持したまま日本海を速い速度で北東に進んだため,沖縄から北海道まで全国で暴風が吹き荒れました。くわしくは気象庁のサイトなどを参考にしてください。

リンゴ台風

この台風は通称「リンゴ台風」とよばれます。それは,青森県で収穫前のリンゴの70%以上が落下するという被害があったからです。ただし,農作物に限っても被害はリンゴだけではなかったのにもかかわらずリンゴ台風とよばれる理由は,σ(^^;)にはわかりません。σ(^^;)的にはもっともしっくりくる通称ではあります。

台風の暴風にもめげずに落下しなかったリンゴの一部は,「落ちないリンゴ」として受験生のお守りに珍重されていました。

当時受験屋だったし,近くの神社でも発売されていたので,よくおぼえています。値段はたしか悪税込みで1000円程度と聞いたような記憶があります。あくまでお守りなのでリンゴとしては高めでした。ご利益があったかどうかは……個人情報保護法により(?),公にはできません(笑)

◆箱庭

広島県の宮島にある厳島神社は,このリンゴ台風によって当時の新聞の見出しによると「創建以来の天災」に見舞われました。中国新聞9月28日付夕刊には次のようにあります。

同神社では二十七日午後七時半ごろ,突風のため能舞台と能楽屋の柱が折れ倒壊。屋根がそっくり砂浜に座る形になった。・・(中略)・・また,回廊中央部にある平安時代に建てられた左右門客神社,国宝の左右楽房のうち西側楽房が流失,東側楽房も大きく傾いた。回廊もあちこちで床板がめくれ上がり,通り抜けができなくなったほか,本社祓(はらい)殿などの屋根の軒先が壊れた。

神社職員らの話では,午後七時過ぎから,回廊に海水が上がり始め,ピークの午後十時半ごろには水位が回廊の上八十三センチに達し,手の施しようがなかったという。

そして台風一過の翌日,次のような事件が起こります。

AD1991/09/28 台風19号で大損害を受けた厳島神社の大鳥居付近に,男の変死体が流れ着く(内田康夫『箱庭』)

台風14号列伝

今年は台風13号まで発生しましたから,次の台風は14号ということになります。

歴代の台風14号を見てみると,迷走気味の台風が目を引きます。平均的には夏場に発生することが多いということもあるのでしょう。

目についた台風を年代順に見ていきましょう。

まず1954年。9月18日の夜に伊豆半島を通過したあと19日の00時ごろ房総半島に上陸しました。洞爺丸台風(15号)の露払い的な台風でしたが,単純に最盛期の強さを比べると,14号のほうが強い台風でした。

気象庁は上陸間近な17日15時の中心位置を,いったん発表したあと距離にして100kmも訂正しました。このため,予測上陸地点も大きく変更され,各地の防災担当者をあわてさせました。

1960年の14号は,ローマ五輪の開幕を祝って(?)あらわれた「五輪台風」のトップバッターでした。しかもいったんは日本の東海上に去っていったのに,なごり惜しそうにループを描いて戻ってきました。忘れ物でもしたのでしょうか。

1962年の14号は8月26日朝,潮岬付近に上陸,三重県から福井県に抜けました。
この日の午後,毎度のことながら多摩川でのんきに釣りをしていたマヌケな連中がいました。ところが急な増水で中州に取り残され,救助隊も立ち往生。折からの17~18m/sの強風で,警視庁や自衛隊のヘリも離陸できない状態。
こうした中,果敢に救助に向かったのは立川基地所属の米軍36空軍救助中隊の大型ヘリ。のちに警視総監から感謝状が贈られました。米軍もごくまれにいいことをすることがあるものです。

1964年の14号は16号とつるんで奇妙な動き。「藤原効果」を一躍有名にしました。そのあと16号を吸収する形で再発達し,枕崎付近に上陸,九州を縦断しました。

1974年の14号は,いったん上海の南に上陸して“弱い熱帯低気圧”になった直後にUターンして沖縄付近で台風に復活,進路を北東に変えて8月26日10時ごろ浜名湖付近に上陸しました。その後,東日本を縦断して温帯低気圧に変わりました。

ちょうどこのころ,役立たずの原子力船「むつ」がよせばいいのに母港を出港しようとしていました。250隻もの漁船に包囲され離岸できない状態でしたが,台風14号によるうねりで一部の漁船が避難した隙をつき,強行出航していきました。原子力船の未来を象徴するような,見送る人もほとんどいない,わびしい出港でした。

出港してはみたものの,6メートルの波により20~25度の横ゆれ。実験班5人ばかりか女性船員3人も船酔いを起こしました。船員が船酔いしますかねえ……?

ちなみに,むつは出航して間もなくの9月1日に中性子漏れを起こすことになります。

1985年と1986年の14号も,“弱い熱帯低気圧”になったあと復活を遂げました。

このうち,1985年の14号は8月30日23時ごろ三浦半島に上陸しました。1985年8月といえば日航123便墜落事故。このころ御巣鷹の尾根(正確には高天原山の尾根)では遺体捜索と機体の検証作業が続いていました。

台風14号による風雨に備え,検証・捜索活動にあたる警察官や自衛隊員が全員下山していた群馬県・上野村日航ジャンボ機墜落事故現場は,三十一日朝から「台風一過」の快晴となり,遺体の捜索と機体などの検証活動が再開された。
 現場周辺は,三十日午後から風雨が強まり,前橋地方気象台の調べでは,上野村に近い多野郡万場町で,三十日午後三時の降り始めから三十一日午前五時までの総雨量は六一ミリだった。
 このため,現場周辺の土砂崩れや,証拠品の機体の流失が心配されたが,前日,ロープで残がいを固定したり,木材で残がいの底上げをして流失防止の作業をしており,土砂崩れや大きな落石もなく,台風による実害はまったくなかった。…… (31日付朝日夕刊)

ちなみに翌31日,台風13号が枕崎付近に上陸したあと九州を縦断,死者・不明12人の被害を出しました。

時代は下って2005年。ブッシュの忠犬ポチがバカのひとつおぼえの郵政民営化を狂行しようとして抵抗に合い衆議院を解散。総選挙の最中に14号がやってきました。

“候補者の顔”消える? 大型で非常に強い台風14号の本県接近に伴い、高知市選挙管理委員会(山岡敏明委員長)など各市町村選管は5日午前、衆院選(11日投票)のポスター掲示板の一時撤去や補強などの応急措置を取り始めた。選挙期間中の掲示板の取り外しは異例。

ポスター掲示場は、公示前に県内5858カ所に各市町村選管が設置。くぎや針金で地面などに固定した木製の支柱に掲示板を取り付けているが、台風14号の接近に備えて県選管は4日、各市町村選管に風雨に備える対策を指示した。

県内最多の601カ所に掲示場を設置している高知市選管は5日朝、九州を縦断する台風14号の進路予想を基に本県上陸という最悪の事態も想定し、取り外しを即決。すべての掲示場を点検して吹き飛ぶ危険のあるものを撤去するよう、掲示板設置業者に依頼した。

業者は午前9時から8班体制で市内に散らばり、支柱を残した状態で掲示板を撤去。業者によると、背面に壁がなく風が吹き抜ける場所にある掲示板はすべて取り外すため、「設置した掲示板の7―8割は撤去することになる」。作業が終わるのは6日午前になる見通し。(高知新聞9月5日夕刊)

このように要らぬ出費を強いられる自治体が相次ぎました。

また,この14号により,内田康夫『高千穂伝説殺人事件』で高千穂町議会議員がはねられる舞台(?)となった高千穂鉄道が,壊滅的な被害を受けました。

まぼろしの湖出現

台風が残した“湖”、奥日光に4年ぶり出現
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20070915i404.htm

 ラムサール条約登録湿地の奥日光(栃木県日光市)にある小田代原(おだしろがはら)に、台風9号の大雨の影響で“湖”が4年ぶりに出現した。

 奥日光では、台風9号により557ミリの総雨量を記録。浸透しきれない雨水が草原の低地に約3ヘクタールの楕円(だえん)にたまった。「小田代湖」とも呼ばれ、4年前の台風では約5か月間、姿を見せていた。今回は「1か月は見られそう」(県立日光自然博物館)という。[読売新聞2007/09/15]

このような湖の出現ならばいいのですが(この程度の規模の水たまりで“湖”といえるかどうかは別として),かつて埼玉平野の南部に歓迎されない湖が出現したことがあります。

1947年9月中旬,カスリーン台風がやってきました。台風そのものは最盛期を過ぎていましたが,前線を刺激して関東地方と東北地方に大雨を降らせました。

15日の夜になって水位が急激に上昇した利根川では,16日00時20分ごろ,栗橋付近の右岸堤が大音響とともに決壊,濁流が土地の傾斜に従って南に流れはじめました。そして18日には東京都との境にある桜堤(桜土手)に達し,堰きとめられる形で湛水をはじめます。こうして琵琶湖の8倍という,巨大な面積の湖が出現したのでした。

湛水をこのまま放置すれば水没地域は増える一方,しかも桜堤が決壊すれば東京の下町が水没し,被害がどのくらい増えるか想像もつきません。果たしてどういうことに……? この続きは,首都を水没から守れ!!~1947年カスリーン台風~(http://www.notenki.net/location/other2.html#id0001)をご覧ください。

ホントは怖い台風中継

有名な台風中継の動画↓

YouTube – 阿部レポーターの台風中継(台風中継後スタスタ歩く)

最後の1~2秒によってそれまでの苦労が水の泡,ただのヤラセだったことがバレてしまいました。

人間が風の中で立っていることのできる限界は20m/s程度といわれていますが(体験済み(笑)),これはあくまで一様な空気の流れの中での話であって,実際の風にはいわゆる風の息があるために前後左右にゆさぶられることになります。これではバランスをとるのが精一杯で,とてもレポートなどできません。まあ,それでもレポーターはせいぜいマイクしか持っていないので楽でしょうが,川口探検隊的にいえば,真っ先に洞窟にはいらなければならないカメラマンや照明さんはどうなんでしょうねえ……。

結局,何か物体が飛んできたりする危険なども考えると,限界は10m/sってところではないでしょうか。いずれにしても“台風中継”ができるということはレポートできる程度の風しか吹いていないということであり,裏を返せば風は吹いているけれどもさほどでもないということを身をもって知らせているわけです。

この視点からすると,民放が好きこのんで「ものすごい風です!!」とかやっている台風中継はすべてヤラセだと思って間違いないでしょう。ギョーカイではヤラセではなくヤリというらしいです。

1965年9月18日未明,台風24号の取材のために東京・江東区方面に出動していたラジオ関東(現・ラジオ日本)の取材車が,記者やアナウンサーら6人を乗せたまま晴海埠頭から海に転落,全員死亡するという事故が起こりました。光る海面を舗装道路と見間違えたのだろうといわれていますが,全員が死亡したため真相はわかりません。ヤラセではない本当の台風中継がいかに危険なものかがわかります。

ほとんど同じですが,↓もご覧ください。
台風中継のヤラセ http://notenkiexpress.blog95.fc2.com/blog-entry-53.html
ついでに,秋雨前線と台風 http://notenkiexpress.blog95.fc2.com/blog-entry-341.html

トトロバス停

大分県宇目町轟《ととろ》にその名も「ととろ」というバス停があります。昔からあったようですが,名前が「ととろ」である上に,雨の中サツキがメイを背負ってお父さんの帰りを待っていた「稲荷前」バス停に雰囲気が似ているというので,有名になりました。

その「ととろ」バス停の待合所が2004年9月7日,台風18号の強風で吹き倒されてしまいました。

 宇目町轟(ととろ)地区の「ととろの里」で、台風18号のため、「ととろ」バス停の待合所が倒壊した。町では建て替えを検討しているが、「ピカピカのバス停にしてもイメージが壊れるし…」と頭を悩ませている。

 「ととろ」バス停は大分バスの現役のバス停。「となりのトトロ」のブームで一躍、有名になり、多くの観光客が訪れるようになった。

 地区の人によると、待合所は五十年ほど前に建てられたもの。今月七日の台風18号で小屋ごと飛ばされ、ひっくり返った状態で数メートル後ろに倒れた。現在、「メイ」と「サツキ」姉妹の看板だけが雨ざらしのまま待合所の跡に立っている。

 待合所は二平方メートル余りの小屋。昔懐かしい雰囲気が売り物だけに、町企画商工課は「新しい材料を使えばすぐにでも建て替えられるのだが…。イメージに合う古材がなかなか見つからず、困っています」と話している。[大分合同新聞

ところが2004年9月17日,すなわち3年前の明日,意外と早く再建されました。

 台風18号で倒壊した宇目町轟(ととろ)地区の「ととろ」バス停待合所が十七日、新しい小屋に建て替えられた。

 大きさは以前のものとほぼ同じ。町企画商工課によると、古い雨戸を壁に使うなど、できるだけ古材を用いたが、手に入らなかった部分は新しい木材を使用。ボランティアの協力を得て、古い雰囲気が出るような色に仕上げた。以前はトタンだった屋根は杉皮ぶきに。地区の人からも「前のよりいいわあ」と好評だ。

 小屋の左右に付いていた絵も元のままだが、以前の待合所に立てられていた「トトロ」の看板は、台風で割れてしまった。「トトロがいなくなって、バス停がちょっと寂しくなっちゃったかなぁ」と町職員。[大分合同新聞

どうでもいいですが,「ととろ」バス停は写真で見る限り田舎にあるというだけで,アニメのバス停とそれほど似ている感じはしません。そもそもアニメのバス停には“待合所”はありません。もしあったら,サツキは傘を差したままメイを背負っている必要はなく,またトトロも雨の中に立っている必要がなかったわけで,トトロとの出会いも違ったものになっていたでしょう。もっとも,あのデカいトトロがバス停の中で座ってねこバスを待っているという状況は想像できませんが(笑)

ところで,サツキとメイがバス停でトトロに会ったのは,σ(^^;)は1952年6月23日と考えています。

6月23日というのは,小学校の黒板に書いてあるので議論の余地はありません。問題は1952年のほうです。実は1952年とするには矛盾もあるのです。

お母さんが入院している病室のカレンダーがたびたび映ることがあり,それによると8月1日は金曜日になっています。8月1日が金曜日になるのは1947年,1952年,1958年といったところなので,1952年とするのがもっとも妥当だと思います。1958年の可能性が消えるのは,当時のデータを見ると1958年6月23日に雨が降ったとは考えられないからです。なんという現実と空想の混同!!(爆)

ところが,となりのトトロの世界が1952年だとすると(1958年でも同じ),6月23日は月曜日になります。しかし,黒板には6月23日(水)とハッキリ書かれています(原文はタテ書き)。この矛盾はどうにも説明がつきません。

日直が間違えて書いたのだろう……ということで,スッキリはしないのですが,σ(^^;)は1952年ということにしています。

ちなみにこの日,ダイナ台風が紀伊半島に上陸しています。その影響もあって東京では39.8mmの雨が降りました(.8mmとは当時は細かい(笑))。

そしてお父さんの帰りが遅くなったいいわけ。

「電車が遅れてね,バスに間に合わなかったんだ」

もうおわかりでしょう。大雨の影響で電車が遅れたのです(ナットク(笑))

Danas再び

本日21時,台風10号Danasが発生しました。Danasはフィリピンが提案した名前で“経験すること”という意味らしいですが,詳細はわかりません。調べる気もありません。

先代のDanasは2001年の15号で,9月4日南鳥島の南海上で発生,発達しながら北上し,11日09時半ころ神奈川県鎌倉市付近に上陸,東京都から茨城県北部に進み,死者・行方8名,負傷51名,住家全半壊・一部損壊300棟,床上浸水183棟,床下浸水1202棟などの被害を出して海上に去っていきました。

保存してある当時の新聞記事の一部を引用すると――:

 台風15号は11日午前9時半ごろ、神奈川県鎌倉市付近に上陸、首都圏を直撃した後に太平洋沿岸を北上しており、12日未明には岩手県沖に達する見込み。この台風による死者は5人、行方不明は3人となった。

・・・・(中略)・・・・

 首都圏を直撃した台風15号は、豪雨や強風のツメ跡を各地に残しながら、福島県から太平洋上に抜け、東北地方の沿岸を北上している。関東を中心に死者・不明者は計8人にのぼったほか、橋が流されたり、堤防が決壊するなど被害は広範にわたり、交通機関にも大きな影響が出ている。

 11日午前11時40分ごろ、東京都杉並区荻窪2の増水した善福寺川で男性1人が流されたと119番通報があった。東京消防庁の救助隊が現場付近を捜索している。7メートルの危険水位を超え、2年ぶりに洪水警報が出された多摩川では、堤防上を走る東京都大田区の多摩堤通りが同夜まで通行止めになり、地元消防団員らが支流への水門を閉じ、約20台のポンプを使って排水作業にあたった。

 また、同区の環状8号線・羽田空港トンネル内では、同日午前、1メートル前後の冠水のため車約30台が立ち往生。ドライバーらが全員車外に脱出した。

 一方、9日夜から運転を見合わせていた長野新幹線は、雨量計が規制値を下回ったため、11日午後3時過ぎから上下線とも運転を再開したが、山形新幹線は始発から福島―山形間が運休。在来線でも中央線、青梅線両毛線の一部区間などで運転の見合わせが相次いだ。

 空の便は台風16号の影響も受けて、同日夕までに全日空が118便、日本航空65便が欠航。国際線では、仙台―ホノルルを結ぶ2便が欠航した。

 道路では、上信越自動車道、関越自動車道などの一部区間が通行止めになったほか、土砂崩れの影響で国道20号の一部区間が通行止めになったため、中央自動車道大月IC―勝沼IC間をう回する車両に対し、通行料金の無料措置がとられた。

 長野県上田市では同日午前8時45分ごろ、千曲川にかかる大石橋の橋脚の1つの土台部分が増水で数メートル流され、欄干などが折れ曲がるようにして落ちた。橋は土台部分の浸食が見つかったため、先月9日から全面通行止めとなっており、けが人はなかった。(読売新聞)[9月11日22時1分更新]

同じころ沖縄付近で“迷走”していた16号とともに,被害の割に歌舞伎町の風俗ビル火災と異国で起こった「9.11」の陰に隠れてテレビではあまり報道されなかった台風です。

今回のDanasすなわち台風10号の位置を見ると,ついこの前台風9号が来た道とほとんど同じところにあります。ただし気圧配置が違うので,今のところ9号とは別の道を生きる予想になっています。同じく先代のDanasとも違う,どうやら遠慮深い(?!)台風のようです。

“花の名前”という台風

台風9号Fitowが接近中です。

Fitowはミクロネシアが提案した名前で,“花の名前”ということです。何の花かは知りません。

先代のFitowは2001年8月31日06時にトンキン湾で発生し同日15時にはただの熱帯低気圧に変わってしまったという,寿命がたった9時間だけのそれこそ花のように儚い台風だったのですが,今回の2代目Fitowは日本に上陸する可能性が高く,もしかすると首都圏直撃というとんだアダ花になるウワサも……。

ちなみに,台風の寿命の最短記録は1974年の29号の3時間ですが,実はあるからくりによって寿命0時間の台風の記録があります。詳細は気が向いたときに(笑)

四面台風

1960年8月23日09時,日本列島は台風に包囲され,「夜聞く,漢軍四面に皆楚歌す」(史記項羽本紀)という状態でした。(天気図参照)

1960082309

さらに,23日15時にはマーカス島の南東海上で台風18号も発生し,14号から18号まで5つの台風が存在するという前代未聞の事態になりました。

饒村曜『台風物語』によると,当時台風観測を行なっていた米軍の飛行機観測隊もお手上げ,

Physically impossible due to Personnel shortage.

という通知を関係各局に出したそうです。

折しもローマ五輪開幕の直前,1964年東京五輪開催も決まっており,オリンピック気分も盛り上がりつつあるときで,5つの台風を五輪に例える新聞記事もありました。

マリアナ東方海上にあった熱帯低気圧がとうとう二十三日台風十八号になった。日本は十四号から十八号まで台風オリンピックさながら五つの台風の輪にがっちりと囲まれたかたちで,こんな現象は二十五年八月以来のこと。(8月24日付読売朝刊)

この台風は今では「五輪台風」とよばれ,マスコミが名づけたことになっていますが,毎日,朝日,読売,なぜか赤旗(気象関係の記事がよく載っていました)などの新聞を見ても“五輪”や“オリンピック”が出てくるのは上の読売の記事だけで,名づけ親についてはわかりません。

24日09時には大陸に上陸した台風15号温帯低気圧に変わったため,台風五輪は本物の五輪の開幕を待たずに早くも閉会式を迎えました。

40.9℃,まだまだ上が……

猛暑の予想が外れたはずの今年の夏,8月にはいるやいきなり猛暑となり,ついに今日,山形が74年間守り続けてきた40.8℃が破られるという事態になりました。

岐阜地方気象台,熊谷地方気象台から“号外”が出ています。↓

http://www.tokyo-jma.go.jp/home/gifu/
http://www.tokyo-jma.go.jp/home/kumagaya/

しかし,40.9℃というのはあくまで気象官署(アメダス含む)の最高気温の記録であって,気象官署以外の値を含めると,1923年8月6日に徳島県の撫養で観測された42.5℃が最高ということになっています。40.9℃なんてまだまだアマいです(笑)

さらに非公式記録まで範囲を広げると,1923年9月2日に東京で記録した46.3℃がσ(^^;)の知る限り国内の最高気温です。もっとも,非公式記録はあくまで非公式なものなので,上には上があるかも知れません。