明日(1月18日)は「火災調査官紅蓮次郎」を放送すべきである

明日のテレビ朝日,21時からの番組は土曜ワイド劇場ではなく,松本清張二夜連続ドラマスペシャル「三億円事件テレビ朝日開局55周年記念となっています。

よせばいいのに土曜ワイド劇場をつぶして放送するドラマスペシャルはつまらないと相場が決まっていますし,清張モノの2時間サスペンスはつまらないとこれまた相場が決まっています。マイナスの数と違って,“つまらない”を2つかけてもいっそうつまらなくなるだけです。

それにどうして今どき3億円事件?

♪あ~めに轟くオートバイ~
昭和の義賊 怪盗ルパン~

実際の事件をもとにしたサスペンスドラマが面白かったためしはありません。

そういうわけではやばやと来週の土曜ワイド劇場に思いをはせるわけですが……おおっ,待ってました,火災調査官・紅蓮次郎14です。前作が放送されたのが2012年1月10日ですから,約2年ぶりの放送です。

好きなシリーズだし放送されるのはうれしいのですが,この時期に放送するのなら,清張モノなんて後回しにして明日放送して欲しかったです。というのも明日は1月18日,あの明暦の大火が起こった日だからです。

ここで,明暦の大火とは――。

明暦三年一月十八日(グレゴリオ暦では1657年3月2日)午後1時ごろ,本妙寺付近から出火した炎は折りからの北西風に煽られて南東方向の湯島,神田方面に燃え広がり,湯島天神神田明神を焼き,駿河台の大名屋敷を焼き尽くし,浅草から隅田川を越えて牛島新田(現在の墨田区)まで達し,翌十九日午前2時ごろにどうにか鎮火しましたが,午前11時ごろ新鷹匠町(現在の文京区小石川)から再び出火,東南東~南に燃え広がり,正午ごろ江戸城天守閣が炎上,さらに増上寺付近まで焼いて,翌二十日の朝やっと鎮火しました。江戸市中の6割が焼失,死者は10万人以上といわれています。

ちなみに,両国にある回向院は,この火災の焼死者を葬ったのがはじまりとされ,

「有縁・無縁に関わらず、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くもの」として現在までも守られてきた当院の理念です。
開創 | 回向院 | 歴史の中で庶民と共に歩んできたお寺より

今ではペット供養でも有名です。犬の供養塔や

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ネコの供養塔や,

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小鳥の供養塔などもあります。その他,猫の恩返しの碑や鼠小僧の碑があったり,かわいいネコちゃんがいたりするのですが,話がそれたので明暦の大火に戻します。

出火原因については次のような伝説もあります。

麻布の質屋の娘・梅乃はお参りに行った本郷丸山の本妙寺でイケメン野郎に一目惚れ,そのイケメン野郎が着ていたのと同じ模様の振袖をつくらせて“夫婦遊び”をしたりしていましたが,ついに恋い焦がれて死んでしまいました。両親は本妙寺で葬儀を行ない,納棺の際その振袖を棺にかけてやりました。

お寺では慣習に従いその振袖を古着屋に売りました。ところが翌年の同じ日,その振袖がかけられた棺がお寺に運ばれてきました。お寺では慣習に従いその振袖を古着屋に売りました。ところがまたまた翌年の同じ日,その振袖がかけられた棺がお寺に運ばれてきました。

お寺でもいくらなんでも気味が悪くなったのか,明暦三年正月十八日,娘たちの親を施主として施餓鬼を行ないました。そして供養のために振袖に火をつけたところ,一陣の怪風とともに火のついた振袖が舞い上がり,火はみるみるうちに燃え広がったという……。

このため,明暦の大火は振袖火事ともよばれます。

この話は江戸時代の怖い話を扱った本などにのっていたりして,事実と思っている人もいるようですが,お寺でイケメンに一目惚れするあたりが八百屋お七の話とそっくりで,お七の話を真似してつくられたのだろう……というのが定説になっています。

写真は本妙寺があった付近のいまです。

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出火元は実は本妙寺ではなく,となりの老中・阿部忠秋の下屋敷だったという話もあり,さらには浪人放火説,果ては老中・松平伊豆守黒幕説もあります。私的には阿部忠秋下屋敷出火説がしっくりしていたのですが,調べてみると阿部忠秋の下屋敷はとなりにはなかったようで,

20140117_101504

最近は松平伊豆守黒幕説に傾いています。

上の地図はiOSアプリ今昔散歩より。少なくとも明暦の大火のあとの地図なので,どの程度参考になるかはわかりません。

早い話が,要するに,とどのつまりが,出火元についてはいまだに不明になっているのです。そこで,そうです!! 火災調査官・紅蓮次郎の登場です!! 1月18日にはピッタリではないでしょうか。

現在から明暦の時代に行くにはタイムマシンが必要です。それはドラえもんに借りましょう(もちろん今のドラえもんモドキではなく,大山のぶ代さんのほう)。犯人を逮捕するのは警察ですから,特命捜査課にも参加してもらいましょう。神代課長をはじめ故人も多いですが。故人でOKなら安浦刑事にも参加してほしいです。現在の特命である杉下警部と歴代の“相棒”が加わるのもいいかもしれません。「相棒」は見ていないのでどうでもいいですが,もともとは土曜ワイド劇場のシリーズでしたしね。

土曜ワイド劇場と同じくテレビ朝日で放送された必殺シリーズでは,仕事人が元禄に現われて吉良上野介を討ったり,アメリカに渡ってインディアン・スー族を助けて第7騎兵隊を全滅させたり,果ては子孫が現在に現われたりしたくらいですから,紅蓮次郎や特命課が明暦の時代に現われても別に不思議はないでしょう。

とまあ,ゴチャゴチャとただの妄想を書いてきました。しかも面白かったためしはないと上で断言している実際の事件をもとにしたサスペンスドラマ(なのか?!)だし(笑)

公式ページに載っている来週放送のあらすじ,もちろん残念ながら(?!)全然違います。

北海道の大学に行っていた俊介が別人になって帰ってくるようです。でも,円ちゃんはどうなんでしょう? 第9作で北海道の大学に行ったと説明のあった俊介と違って消息不明になっているので心配です。(Wikipediaには京都の大学に行ったとありますが,そんな説明ありましたっけ?)

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君の名は,数寄屋橋での出会い

1945年5月24日の夜,米軍による爆撃の最中の数寄屋橋で後宮春樹と氏家真知子が出会い,半年後の11月24日の夜にこの橋の上での再会を約束するというのが,映画君の名はの冒頭のシーンです。ラジオの連続放送劇も同様なんだと思いますが,聞いたことはありません。

しかし,実際には5月24日の夜には空襲はなく,このころ東京に空襲があったのは24日未明と25日夜~26日未明でした。

このうち数寄屋橋付近に空襲があったのは25日夜~26日未明です。

奥住喜重・早乙女勝元『新版東京を爆撃せよ―米軍作戦任務報告書は語る』によると,この作戦命令は第21爆撃機集団野戦命令79号で,発令は25日02時00分(日本時間),爆撃は25日22時38分にはじまりました。

原作者が日にちを間違えたのか,そうでないとすればなんらかの理由で変えたのでしょう。

ちなみに,1991年にNHKの連続テレビ小説で「君の名は」(ヒロイン鈴木京香)が放送されたときは“5月のある日の夜”にボカされていました。

さて,半年後の11月24日,下心いっぱいの春樹は約束どおり数寄屋橋のたもとの交番の前に行きますが,真知子にスッポカされます。それもそのはず,この交番は1944年6月から1946年6月まで閉鎖されていたため行きたくても行けなかったのです。ではなくて,確か実家(佐渡だっけ?)に帰っていたんではなかったのかな。

あきらめのつかない春樹は,未練がましくその1年後の1946年11月24日にその場所に行ってみると,なんとそこに真知子があらわれるという出来過ぎのような展開。春樹がシメシメと思ったのもつかの間,真知子から重大発表が!!

……私,明日……明日……結婚するんです。

ここから春樹の人妻追っかけ人生がはじまります。

どうでもいいですが,この君の名はにしても愛染かつらにしても独身男が人妻を追っかけるという話なのはどうしてなんでしょうねえ? しかも「愛染かつら」の高石かつ枝は子持ちだし……。

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長篠の合戦[再]

桶狭間の合戦から15年後,天正三年五月二十一日(グレゴリオ暦で1575年7月9日),徳川家康と連合して設楽原で武田勝頼を破った戦いです。

名だたる武者から組織された武田の騎馬軍団を織田の名無しさん足軽鉄砲隊が三段撃ちという新戦法で壊滅させた戦術革命ともいえる画期的な戦い……と最近までいわれてきた戦いです。実際には,武田の“騎馬軍団”も織田鉄砲隊の“三段撃ち”もなかったし,まして“戦術革命”をもたらしたといえるような戦いではありませんでした。

ちょっと馬の歴史を調べればわかるように,当時の日本の馬はかなり小さく,平均すると120~140cm程度の体高で,現在ではポニーとよばれる大きさでした。有名なところでは,宇治川の先陣争いで名を馳せた佐々木四郎高綱の生喰《いけずき》は145cm,源義経が乗ったと伝えられる青海波《せいがいは》は142cmでかなり大柄な部類ですが,それでも160~165cm程度である現在のサラブレッドとは比べるのもかわいそうなくらいです。しかも体重は220~260kg程度で,今のサラブレッドのせいぜい半分です。さらに,当時まだ蹄鉄は使われていませんでした。

このような“ポニー”が蹄鉄なしで重武装の武者を乗せたりしたら,そもそも戦場を駆け回れるかどうかわかりませんし,かりに戦場を駆け回れたとしても,すぐにバテてしまってとても“いくさ”にならなかったのは,火を見るより明らかです。しかも当時は去勢の習慣がなかったため(なぜか日本だけらしい),気性の激しい馬が多く,整然と隊伍を組んで命令一下突撃などできたのか,はなはだ疑問です。

戦国時代になると,馬に乗って戦場にやってきても,馬から降りて戦うことが多くなっていました。武田軍の中に馬に乗って織田陣に切り込もうした武者はもしかしていたかもしれませんが,とても“騎馬軍団”などといえる集団ではなかったはずです。

話が馬のほうにヨレてしまいましたが(ブリンカーをしたほうがいいかな(笑)),合戦の前日は一日中雨が降っていました。戦いの舞台となった設楽原は水田地帯で,この雨のため泥沼と化して足場がたいへん悪くなっていました。合戦の当日は朝から雨が上がりましたが,足場が悪いのには変わりなく,20kgにもおよぶ甲冑を着込んで,5kgほどもある鉄砲を撃ち,撃ったらその鉄砲をかついで最後方に下がって弾を込め……なんて三段撃ちを続けざまに2~3回もやったらすぐにバテてしまいます。かりにこんなことができたとすれば,それは名無しさん足軽の寄せ集めなどではなく,サイボーグのような超人的な精鋭部隊だったでしょう。別の意味で“戦術革命”だったに違いありません。

稲村ヶ崎の奇跡[再]

「鎌倉」と題する唱歌があります(芳賀矢一作詞)。鎌倉の観光ガイドのような長い歌で,次の歌詞ではじまっています。

七里ヶ浜の いそ伝い
稲村ヶ崎 名将の
剣投ぜし 古戦場

ここに歌われている名将とは,もちろん新田義貞です。元弘三(1333)年五月,分倍河原での一時的な退却あったものの稲村ヶ崎まで順調にで攻めのぼってきた新田義貞も,天然の要害,鎌倉への侵入路を捜しあぐねていました。五月二十一日の夜半過ぎ,意を決して稲村ヶ崎の浜で数万の自軍を背にしてひとり馬から降り,兜を脱いで沖合いを伏し拝み,龍神に祈りを捧げます。

……仰願ハ内海外海ノ竜神八部,臣ガ忠義ヲ鑒テ,潮ヲ万里ノ外ニ退ケ,道ヲ三軍ノ陣ニ令開給ヘ

祈りおわって,黄金づくりの太刀を海中に投じると,なんと不思議なことに,今まで潮の干いたことがない稲村ヶ崎の海が二十余町にわたって干いたではありませんか。

TBSの世紀のワイドショー! ザ・今夜はヒストリーでこの場面を再現したときはなぜか真っ昼間に太刀を投げ入れていました。

話がそれましたが,こうして生じた干潟から義貞軍は一気に鎌倉に攻め入り,鎌倉幕府の要人はもはやこれまでとほとんどが自害。ここに鎌倉幕府は滅びるのです。

以上は太平記に載っている話ですが,どこまでが事実なのでしょうか? 果たして潮が干いたのはほんとうなんでしょうか?

これについては諸説あり,いちばんもっともらしい(と私が以前思っていた)のは,義貞は潮の満ち干を知っていて,士気を鼓舞するためにひとり芝居を演じたという説です。

ところが,この説には致命的な欠点があります。この日は旧暦の五月二十二日ですから,稲村ヶ崎あたりの干潮は午前2時から3時ごろです。したがって潮が干いたのは事実でしょうが,これはいつでも起こっていることで,“今まで潮の干いたことがない”稲村ヶ崎が干上がったことを説明できません。それに上州育ちの義貞が潮の満ち干についてそれほど詳しかったとも思えません。

さらに,潮が干いたあとは歩きにくく,海というものに慣れていない上州の軍勢がスムーズに通れたかどうか疑問です。江戸時代の詠史川柳に

義貞の勢はアサリを踏みつぶし

というのがあります。

ということで,ドラえも~ん,なんとかしてよ~とタイムマシンでも借りない限りほんとうのところはわかりませんが,私的にはこの話は作り話で,義貞軍の本軍は稲村ヶ崎を通ったのではなく,別のところを通って鎌倉に攻め込んだのだと思います。

ただ,義貞軍本隊が化粧坂路を進んでいたころ,大館宗氏率いる右翼軍の一隊が由比ヶ浜を突破しており(ただし,大館宗氏はその後の戦いで討死),このときにひょっとして潮が干いたのを利用したのが,話を面白くするためか軍記物にありがちな針小棒大癖のためか誤ってか義貞軍本隊の話として伝えられたのでは……と思えないことはありません(根拠はないです)。

ところで,鎌倉といえば,大仏です。唱歌「鎌倉」にもあります。

♪極楽寺坂 越え行けば
長谷観音の 堂近く
露座の大仏 おわします

ここに歌われているように,奈良の大仏さんと違って鎌倉の大仏さんは露座,早い話が雨ざらしです。

もちろん,つくられた当時は大仏殿のようなものがそれなりにあったようです。ところが,3回の大風(そのうちの1回は『吾妻鏡』に載っている台風と思われますが,他は確認していません)によって倒壊,追い撃ちをかけるように1495年の津波によって流され,それ以来露座となったのでした。

この津波は,1498年の明応東海地震によるものとされてきました。しかし,最近の研究では1495年の相模湾を震源とする地震に伴う津波と考えられるようになっています。

それにしても,大仏殿が流されたのに大仏さんはよく踏みとどまったものです。

桶狭間の合戦[再]

永禄三年五月十九日(現行のグレゴリオ暦に換算すると1560年6月22日)正午過ぎ,織田信長は

敵は疲れとるぎゃ~! この一戦に勝てば末代までの功名だぎゃ~!! 一心に励めだぎゃ~!!!

ニコチャン大王弁を話したかどうかは知りませんが,桶狭間山に陣取る今川軍の本陣を目指し進軍を開始します。その数およそ2000ですが選りすぐりの精鋭部隊。一方,桶狭間山の今川義元の本隊は,その数不明(笑) 諸説あるようですが,全軍の数もホントのところ15000から20000くらいだったそうですから,本隊には5000くらいがいたものと思われます。しかし戦闘員がどのくらいいたかは不明です。

すると突然,一天にわかにかき曇り,突風とともに猛烈な雨が降り出しました。突風によって沓掛峠のふた抱えもあるくすのきが音をたてて倒れました。信長軍では

これぞ熱田明神のお力だぎゃ~!!

とささやき合ったそうです。

この突風はダウンバーストガストフロントだったのかもしれません。ダウンバーストについて,『気象科学事典』による説明を見ておきましょう。

ダウンバーストは,積雲や積乱雲から生じる,冷やされて重くなった強い下降気流のこと。地面に到達後激しく発散し,突風となって周囲に吹き出していく。突風の風速は,10m/s 程度のものから強いものでは 75m/s に達する。 吹き出しの水平的な広がりは,数 km 以下と小さく,寿命は10分程度と短いことが多い。

どっちにしろ,気象庁の機動調査班が現地調査を行なっても,物証が残ってないため今となっては確認できないでしょう。

突風が文字どおりの追い風になったかどうかはわかりませんが,熱田明神云々からもわかるように,精神的な追い風にはなったことでしょう。今川軍にも何らかの影響を与えたかもしれません。

信長は自軍の行動を今川軍に隠すつもりはなかったようですし,天候の急変を利用しようとする意図もなかったようですが,突然の強雨と突風によって今川軍に気づかれにくくなったことは確かです。

信長軍は雨が止むのをみはからって,今川軍本陣に攻めかかりました。今川軍は大混乱におちいり,混乱の中で偶然にも今川義元が討ち取られたことは広く知られているところです。

雷雨の中の日本ダービー(1967年)

1967年5月14日は朝から絶好の“ダービー日和”でした。ところが,発走時刻の10分ほど前,一天にわかにかき曇り,電光が走り,雷鳴とともに激しい雨が降り出しました。日射で空気が暖められたところに寒冷前線が南下してきたことによるもので,いわゆる“熱界雷” です。

“波乱”を予告するかのように,スタート13分前に大粒の雨が降った。しっかりと馬券を手に立ち見席でかたずをのんでいたファンは“天候のいたずら”にハンカチや新聞紙を頭にスタンドへ逃げる。スタンドは一瞬“静”から“動”にかわった。ところが場所を“確保”するためにカサをさして動かないファンもポツポツ。
雨が強くなってくると,だんだんと小さくなり懸命に雨をふせいでいた。すさまじい執念!
(5月15日付サンケイスポーツ)

ダービーは雷雨の中でのスタートとなりました。最初の1ハロンこそ13.0秒でしたが,2ハロン目はなんと10.0秒。ただ, 当時のハロンタイムは数字どおりには信用しないほうがいいようです。アラジンが先頭でバックストレッチにはいりますが,そこから先, 馬の識別ができません。私の場合は質の悪いビデオ画面で見ているせいもありますが,フジテレビで実況していた鳥居アナも激しい雨のためにほとんど視界が利かなかったそうです。

リユウズキはちょっとわかりませんが……

人気馬のポジションを正確に伝えていた鳥居アナにしては珍しい実況だと思います。

激しい雨をついて馬群が向こう正面から3コーナーへと進んだところでマイクがかなり大きな雷鳴を拾っています。

4コーナーを回って先頭に立ったアサデンコウに,ヤマニンカツプが外から, シバフジが内から並びかけて激しい叩き合いが300mほど続きましたが,アサデンコウが凌ぎきりました。

アサデンコウはレース中に左前肢第一指骨を骨折しており,しばらくして馬運車で運ばれていった――ともいわれていますが, 次の日の新聞に口取り写真が載っています。これはどういうわけなんでしょう?

なお,このときの雷雨によって千葉県と福島県で5人死亡,重傷6人,また埼玉,栃木,群馬などでは雹の被害がありました。5月15日付読売新聞より:

熱界雷大あばれ
四人感電死,降ヒョウ被害
十四日午後“五月の雷”が関東・東北をあばれまわり,千葉,福島両県で計四人が落雷のために死んだ。初夏の日ざしで気温が上がったところへ,北から冷たい空気がもぐりこんで起こした熱界雷というあばれん坊。

今の新聞とは表現がかなり違います。

その後(それ以前も?),ダービーが雷雨の中で行なわれたことはありません。

ついでに,この日の天気図を載せておきます(日本時間21時)。

  • 地上天気図

  • 500mb天気図

  • 850mb天気図

観測史上もっとも早い台風の上陸(1956年)

1956年4月25日,台風3号Thelmaが九州に上陸してすぐに消滅しました。

25日付朝日新聞夕刊より:

台風三号 消える

台風三号は二十五日朝九州の南沖まできて消えた。中央気象台の観測では朝六時,台風の名残りとみられる小さい低気圧が宮崎県沖にあるが,陸地では風もなく所によってにわか雨が降っただけ。しかしこのように四月中に台風が日本に近づいたのは,大正六年以来三十九年ぶりという珍しい記録を作った。
なお台風とは別に二十五日朝,朝鮮海峡の低気圧が裏日本ぞいに東進しはじめたので,天気は西日本からくずれ,低気圧に吹き込む南風で蒸し暑くなった。
このため,二十五日午前十一時半「東京地方は今夜から二十六日にかけて南寄りの風が強くなる」との強風注意報が出た。

「気象要覧」(1956年4月)より:

台風第3号は・・・(中略)・・・その後ルソン島に接近するにつれて次第に衰え,ルソン島中部を通過して南支那海に出た22日朝には中心示度は990mb前後に衰弱した。台風は同日の午後から翌朝にかけて北東に転向し,そのころ中心示度は一時深まつたが,石垣島宮古島の間にあつた24日9時ごろは中心示度は996mbと再び衰えた。25日早朝,台風は大隅半島南部を通過し,同日9時過ぎに宮崎市の南東海上で消滅した。

今の気象庁用語からすれば,上陸というより通過といったほうがいいかもしれません。

気象庁のベストトラックデータは次のようになっています。

56042400 002 9 248 1249  996
56042406 002 9 258 1260  997
56042412 002 9 272 1270  997
56042418 002 9 300 1285  997
56042500 002 2 315 1315  998

ついでに気象庁のサイトにある台風経路図も載せておきます。

このように気象庁では台風のままで大隅半島に“上陸”したように解析しており,これが観測史上つまり1951年以降ではもっとも早い台風の上陸ということになっています。

ところで,JTWCによるこの台風のベストトラックデータは次のようになっています。

WP, 03, 1956042400,   , BEST,   0, 248N, 1248E,  70
WP, 03, 1956042406,   , BEST,   0, 260N, 1261E,  60
WP, 03, 1956042412,   , BEST,   0, 275N, 1278E,  60
WP, 03, 1956042418,   , BEST,   0, 289N, 1290E,  45
WP, 03, 1956042500,   , BEST,   0, 306N, 1304E,  30

非情にも(?!)大隅半島の突端,佐多岬のわずか手前,北緯30.6度, 東経130.4度で中心付近の最大風速が30ノットに,つまりただの熱帯低気圧に衰えています。

東の風 雨(1932年)

「東の風 雨」といっても,1941年12月8日の朝に本来なら放送されるはずだった暗号放送ではありません(この件については文末を参照ください)。1932年4月24日,第1回東京優駿大競走(今の日本ダービー)の日の東京地方の天気予報です。正確には「東よりの風 雨」でした。

レース当日は前日からの雨が降り続いていました。いわゆる北高型の気圧配置になっていて,ぐずついた天気が続いていたようです。中央気象台で前日23日に0.7mm,当日24日に19.4mmの降水が観測されています。

馬場状態は不良(今とは基準が違うようですが),残されている記録映画からもなんとなくドロドロの馬場の雰囲気が伝わってきます。翌日の東京日日新聞によると,

生憎の雨で最悪のコンジションであつたため好記録を得られなかつたのは遺憾であつたが十九頭もの優駿が一團となつてもみ合つた壯觀は全く本邦においてはじめてみるものであつた

多少(かなり?)ヨイショ感のただよう記事ですが(笑)

東京優駿(大)競走はその後もしばらくはなぜか天気に恵まれず(馬場の水はけも悪かったと思われる),良馬場ではじめて行なわれたのは牝馬のヒサトモが勝った第6回でした。

目黒競馬場の跡地はいまでは住宅地になっており,むかしの面影はほとんどなく,一部に当時のコース跡と思われる道路があるほかはバス停「元競馬場前」と記念碑,トウルヌソルの銅像がその歴史をとどめているくらいです。

目黒競馬場の探訪記(?)はこちらをどうぞ。近いうちにまた行きたいと思います。

“東の風 雨”について

よく知られているように,実際に放送されたのは「西の風 晴れ」でしたが,これは対英関係が危険になったときの暗号で,対米関係危険化の暗号は本来は「東の風 雨」でした。

空馬1着

1912年4月21日,好天に恵まれた目黒競馬場。呼び物は第8競走「内国産馬優勝競走」(距離1マイル半)。前年5月の帝室御賞典(目黒)をレコード勝ちし秋の優勝内国産馬連合競走も圧勝したラングトンと,1週前の帝室御賞典をレコードで勝ったコイワヰの一騎討ちに注目が集まりました。

スタート直後はラングトンが逃げ,コイワヰは4番手。1マイル付近では両馬の併走になりましたが,ゴールが近づくにつれてコイワヰがラングトンをぐんぐん引き離し,ゴールインしたときには8馬身もの差がついていました。タイムはそれまでの記録を約3秒上回る2分45秒23/100のレコードでした。

ところでこの日,観衆が沸いたレースがもうひとつありました。第7競走「濠洲産抽籤新馬優勝競走」(距離1マイル1/8)。22日付時事新報より:

・・・第七回目には中途木村氏の持馬キンデンの騎手川崎落馬したるに馬は一切お構ひなく落ちたのは騎手の勝手と計り他の五頭と優劣を競ひ素より空馬の見事なる快足力を出して第一着となりたる滑稽は曾つて前例のなき事とて馬見取内は拍手喝采歡聲暫くは鳴りも止まざりき

いわゆる空馬1着の最も古い例だと思います。

空馬1着といえば,1985年の札幌日経賞のギャロップダイナは同じ年の秋天とともに今でも語り草になっています。

2008年エリザベス女王杯のポルトフィーノは大外を回っての“圧勝”劇でしたが,鞍上のジャマ者がいなくなったからのびのびと走れたのかもしれません。それが証拠に次走の阪神牝馬Sでは……(以下略

最近では去年の全日本2歳優駿が記憶に新しいところです。

上の記事などを見ると,空馬1着で盛り上がるのは今にはじまったことではなく,明治の昔からそうだったことがわかります。

ちなみに,空馬1着の第1号(?)となったキンデンの馬主は木村政次郎,通称「ドロ政」という人物で,ググってみるとかなりのトンデモ人物だったようです。

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この時期に福島競馬が降雪のため中止(2010年)

JRAお知らせ【緊急】本日の福島競馬開催は中止となりました(リンク切れ)より一部引用:

本日(17日)の福島競馬は、降雪の影響により、安全な競馬の施行に支障があると判断されるため、開催を中止いたします。 なお、代替競馬は、4月19日(月)に出馬投票をやり直さずに、開催いたします。

この日の福島(地方気象台)の最深積雪は6cm。福島の4月の平均雪日数は1.7日なので,4月の雪はとくに珍しくありませんが,中旬以降の積雪となると話は別で,1969年4月17日の7cmが最深です。
ちなみに,この日は東京で最晩積雪を記録しています。

福島競馬の雪による中止は史上初,4月になってからのJRAの雪による中止も史上初でした。

JRAが発足する前に遡ると,1908年4月11日の目黒競馬が雪で中止になったことがあります。

4月中旬の福島競馬の雪による中止にはそこそこ驚きましたが,まさか翌年,東京電力がばらまいた放射性物質によってまるまる中止になるとはねぇ……。