哀歌流れる湖(琵琶湖哀歌)

滋賀県高島町に「四高桜」と名づけられた桜があります。この桜はもともとは1941年に琵琶湖の萩ノ浜沖で遭難した(旧制)四高のボート部員を悼んで植えられたものだそうです(などと書いているσ(^^;)は見たことがありません……あしからず)。詳しくは四高桜の歴史などをご覧ください。

この事故が起こったのは1941年4月6日のことでした。

当時,琵琶湖から流れる瀬田川はボート練習のメッカでした(今は知りません)。第四高等学校(今の金沢大学)のボート部員たちも,春休みには瀬田川を合宿の地に選んでいました。そして北岸まで往復の琵琶湖縦漕を行なって合宿の総仕上げとしていました。

この年も3月23日から合宿にはいっていました。3月23日から4月3日までは通常の練習に励み,4日が縦漕第1日目で石山から湖北の今津まで行き(♪瀬田の唐橋 漕ぎぬけて 夕陽の湖に 出で行きし……),5日を丸一日休養にあて, 6日に今津を出発して石山に帰ってくる予定でした。今津を出発したのが午前7時45分,そして約2時間後の9時50分ごろ,萩ノ浜沖で遭難したようです。

  新聞

この事故の気象的な原因は,「比良八荒」とよばれる地形的な強風によるものとされています。

平安時代のころから,旧暦の二月二十四日に琵琶湖西岸の比良山中で比叡山延暦寺の僧が法華経八巻を修する「比良八講」とよばれる修行が行なわれていました(現在は3月26日に形を変えて行なわれているそうです)。このころ強い北西風が吹くことがあり,「比良八荒」とよばれました。一方で,「比良八荒の荒れじまい」という諺もあり,このころが北西風(冬の風)の吹きおわりだともいわれています。

この比良八荒が吹くとき,比良山脈と野坂山地の間から琵琶湖に向かって強烈なジェット流となって吹き下りることがあります。四高のボートの11人はこのジェット流に遭遇したか,このジェット流が吹きつけて三角波が立つ湖面に翻弄されたかして,波間に飲み込まれたのでしょう。

  3027723

それから間もなく,この事故を悼んで「琵琶湖哀歌」がつくられました。東海林太郎と小笠原美都子の歌でレコードにもなりました。 2,3回聞いたことがありますが,「琵琶湖周航の歌」と「七里ヶ浜の哀歌」を足して2で割ったような古典的なメロディーです。次でMIDIが聞けます。

http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/biwakoaika.html

ところで,内田康夫センセの作品に『琵琶湖周航殺人歌』があります。『隅田川殺人事件』『紫の女殺人事件』などと並んでσ(^^;)の好きな作品のひとつだったりするのですが,それはともかくとして,はるか昔の四高ボート転覆事故がこの作品の中で起こる事件のそもそもの発端になっています。σ(^^;)がこの事故についてはじめて知ったのはこの作品によってでした。ついでながら,「琵琶湖哀歌」を知ったのもこの作品で,はじめて聞いたのも「火曜サスペンス劇場」で1990年7月3日に放送された「琵琶湖周航殺人歌~初夏の近江路に男たちへの鎮魂歌が流れる~」の中でした。好きなドラマのひとつですが,ヒロインのはずの森史絵さんが登場しなかったのはきわめて残念でした。このドラマはいわゆる“水谷光彦” シリーズの最後の作品です。

ほかのボート転覆事故としては,「七里ヶ浜の哀歌」で知られる逗子開成中のボート転覆事故が有名です。 1910年1月23日に七里ヶ浜沖で起こった事故で,12人全員が死亡しました。また,1934年12月28日に松島湾で(旧制)二高のボートが転覆して10人全員が死亡する事故が起こりましたが,『暴風・台風びっくり小事典』以外では見たことがありません。このあたり,時代背景もあるのでしょう。

咲いた花なら散るのは覚悟

桜の歌といえば,やはり「同期の桜」でしょう(^^;) 父が予科練だったということもあるかもしれませんが(ただし,父から戦争中の話を直接聞いたことはほとんどありません。話したくなかったのか,話そうとしても私が聞く耳を持たなかったのか,今となってはわかりませんが),好き嫌いはともかくとして,いちばんインパクトの強い歌です。

この歌は,1943年ごろ,戦況の悪化とともに歌われはじめたようですが,原形は西条八十が雑誌「少女倶楽部」の1938年2月号に発表した短編小説「二輪の櫻」の冒頭にある同名の詩です。翌1939年に大村能章によって曲が作られ,「二輪の櫻」(または戦友の唄)としてレコードが発売されました。

「二輪の櫻」は「同期の桜」とメロディーは同じですが,歌い出しが「♪君と僕とは二輪の桜……」で「♪貴様と俺とは……」ではありません。これ以外の歌詞もかなり違っており,1番だけ違いを挙げると,

s/貴様と俺/君と僕/g;
s/同期の桜/二輪の桜/g;
s/兵学校の庭/部隊の枝/g;

のような感じです。また,「咲いた花なら……」が2番,「血肉分けたる……」が1番と,入れ替わっています。

実際に曲を聞いても軍歌という感じはなく,「同期の桜」のもつ独特の末期的な悲壮感もありません。もちろんクライマックス部分の「仰いだ夕焼け 南の空に 未だ還らぬ 一番機」はありません。

去年,ついでもあったので,図書館で「少女倶楽部」1938年2月号を調べてみました。もともとプチブルのお嬢さま向けの雑誌だったようですが,かなり戦時色が強くなっており,この号には皇軍萬歳銃後の護號という副題がついています。意外なことに381ページもあります(σ(^^;)は薄い雑誌だと思っていました)。値段は3銭5厘。

特別口絵には「銃後の少女を讃ふ」というサトウハチローの詩が載っています。「支那亊變感動美談集」という特集記事もあります。

「二輪の櫻」はこの号のメインアイテムといった感じです。冒頭に件の詩が載っています。(下図参照。ただし,現物は2色刷)

3010705

レコード版「二輪の櫻」とはかなり違います。レコード版は3番までしかありませんが,4番まであります(著作権上の問題があるかも……というより面倒なので(^^;)引用はしません。「二輪の櫻」でググればヒットするかもしれません)。しかも3番が……ヲイヲイって感じで,この時代にもやおい的世界に興味を持ついわゆる“腐女子”がいたのか……なんてツッコみたくなります。そういう意図で書かれたのかどうかは知りませんが。

やおいではありませんが,「支那亊變感動美談集」にある「前線勇士へ「光」」という話など今の感覚ではかなりアブナイ話で,笑ってしまいます。

さて,小説のほうの「二輪の櫻」ですが,海軍陸戦隊で中国に出征している兄と,母親とふたりで家を守っている妹の話です。兄は名誉の戦死,妹はその兄が生前上海の共同租界で知り合った少女(妹よりは少し年上という設定。明らかに恋仲だったと思われます)と劇的に出会い,ともに篤志看護婦として出帆していく ――という内容です。

詩の内容とはほとんど関係がなく,こういう軍歌があるという前提で話が展開しています。むしろ「二輪の櫻」とはこのふたりの少女なのではないかと思われます。

ちなみに,他の話を見ても,兄と妹の話が多いです。時代からいって恋人の話にはできないからしかたがないのでしょうけれど,あまりにも多すぎって感じです。

児島高徳

戦前は――といってももちろんイラク戦争や湾岸戦争前ではなくて第二次世界大戦前ですが,超有名だったらしい人物です。「♪船坂山や 杉坂と/御あと慕いて 院の庄……」ではじまる唱歌「児島高徳」もあります。ただし,『太平記』にしか登場せず,実在した人物かどうかは不明です。

時は元弘二年三月なかば,児島高徳とその一党は隠岐に流される後醍醐先帝を奪還する機会を虎視眈々と窺いますが,情報が間違っていたり,警備が固かったりしたため奪還をあきらめ,せめて奪還の意志だけでも先帝に伝えようと思い,宿泊している建物の庭にある大きな桜の木の幹に10字の詩を刻みました。

天莫空勾践  天,勾践を空しうする莫れ
時非無范蠡  時(に)范蠡無きにしも非ず

元弘二年三月なかばは今の暦では1332年4月上旬~中旬にあたります。『太平記』にとくに記述がないところをみると,桜の花はまだ咲いてはいなかったのでしょう。また,江戸時代の詠史川柳に

三郎は毛虫を筆で払ひ退け

というようなのがありますが,まだ毛虫はついていなかったと思われます。

ついでに,『太平記』には「御警固の武士共、朝に是を見付て……」とあるので,高徳は夜のうちに10字の詩を幹に刻んだものと思われます(まあ,いくらなんでも真っ昼間にはやらんでしょう)。真っ暗な中でよく刻めたものです。とくに“蠡”なんてかなり難しかったに違いありません。

権現堂桜堤巡礼母娘殺人事件

埼玉県幸手市にかつての利根川治水の要衝のひとつ権現堂堤があり,その役割を終えた今では,桜の名所となって権現堂桜堤とよばれています。“桜のトンネル”ということばにウソ偽りはなく,また桜と菜の花のコントラストもすばらしいです。

2941639

この桜のトンネルの中ほどに巡礼供養塔があります。

2941640

享和二年(1802)六月,今流にいえば梅雨末期の大雨によって権現堂堤が二〇〇間(約 360m)にわたって決壊しました。ちょうどこのとき,名主の水塚で巡礼の母娘が雨宿りをしていましたが,村人たちはこの母娘を人身御供にして龍神さまの怒りを静めてもらおうと,名主の制止を振り切って堤防まで引きずり出し,激流に突き落としてしまいました。村人たちは「母と娘がみずから進んで身を投じた」ということで口裏を合わせました。

名主はその後,この堤防で死体となって発見されました。狂死したとのウワサもありましたが,真相は不明です。

名主は死ぬ前にこの母娘を哀れんで堤防沿いに桜の苗木を植えました。これが今の桜堤の原形になっているという話もあります。

現在の権現堂桜堤の桜のようすは,埼玉県立幸手高校のホームページに毎日紹介されています。

(※写真はいずれも2005年の撮影です)

桜の下つながりで

願わくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ

とは西行の有名な歌ですが,ここで取り上げるのはもちろん,西行はほぼこの歌のとおりに死んだというメジャーな話ではありません。

内田康夫センセの作品のプロローグで台風が描かれることがあります。たとえば,『平家伝説殺人事件』では「伊勢湾台風」(1959年)が,『箱庭』では「リンゴ台風」(1991年)が描かれています。『華の下にて』のプロローグにも台風が描かれており,しかも「台風17号」と書かれているのですが,しかし何年の17号なのかはわかりません。そこで推理してみました。

御母衣ダム建設の監視小屋でのできごとなので,時期は1959~1960年と思われますが,1959年の17号は石垣島の東海上あたりでふつうの熱帯低気圧に変わっていますし,1960年の17号は台湾に上陸しました。ちょっと時期はズレますが,1958年の17号は9月25日18時に和歌山県に上陸し,死者・不明45人などの被害を出しています。しかし,「死者の数は四百人を超えた」とあるので,これも違うようです。17号は実は15号の間違いで1959年の台風15号,すなわち「伊勢湾台風」だと考えるのがもっとも無難のような気がしますが……。

なお,御母衣ダムといえば建設によって水没する村から移植された荘川桜が有名で,この作品のバックグラウンドのひとつになっています。