日川高校の生徒が集団万引き

1986年,山梨県立日川高校の♂39人が学校の授業でスキー合宿に来ていた長野県北安曇郡白馬村の土産物店で集団万引きをはたらいたとして,大町署は17日までにこの生徒たちを盗みと贓物収受の疑いで補導しました。

39人のうち29人(2年生25人,3年生4人)は13日19時半から22時ごろまでの自由時間に4,5人ずつのグループに分かれ,白馬村北城の土産物店5店でスキー用品など計約200点,40万円相当を万引きし,残りの10人(2年生,3年生とも5人)は盗品と知りながら一部を受け取っていました。「長野の田舎に行けば簡単に万引きができる」と上級生から聞かされていたということです。

日川高校は11の競技でかいじ国体の強化指定校になっており,補導された生徒には国体候補選手約20人や野球部員もいました。

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台風13号外伝~電光石火作戦~

前の日記に書いたように台風13号Sinlakuの動きが気になるところですが,台風13号といえばウラン怪獣ガボラです。

1966年9月11日,要するに42年前の明日,「ウルトラマン」第9話「電光石火作戦」が放送されました。その冒頭は次のようなナレーション。ナレーターはまだ石坂浩二さんです。

台風13号は本日午後3時14分,伊豆半島に上陸北上中。中心付近の気圧は913mb,最大風速45m/s,暴風圏は半径50km。

上陸時刻が分刻みだったり,中心気圧の割には最大風速が弱かったり,“暴風圏”(今流でいえば暴風域のことでしょう)にいたっては信じられないくらい狭かったりしますが,あくまでドラマ上の台風ですからツッコまないことにします。

それよりも,このお話,今に通じる教訓を含んでいます。“非常に強い”台風がやってくるというのにバカ少年団がキャンプを続行して孤立,この連中の存在がウラン怪獣ガボラ退治のジャマになります。DQNの無謀な行為はいつの時代も迷惑をまき散らします。こんなやつらほっときゃいいのに……。

それにしてもホシノというガキ,何回見てもウザいなあ……。


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与謝野晶子と「颱風」

与謝野晶子に「颱風」と題する随筆があります。

八月十三日。
昨夜は夜通し蒸暑くて寝苦しかつた。夕刊の新聞に台風が東京をも襲ふ筈だと書いてあつたが、夜の十時頃から果してそれらしい風が吹き出した。併し雨はまだ小降であつた。蚊遣線香が無くなつたので十一時で筆を止めて蚊帳の中に入つたが、寝苦しいままに何時しかうとうととすると、アウギュストが啼いたので目が覚めた、もう夜明である。白んだ戸の隙間から吹き込む風で蚊帳が凄《すさま》じい程煽《あふ》られて居る。

ではじまります青空文庫より。新字旧仮名になっています)

すぐにわき上がる疑問――これはいったいいつの台風なのか。もちろん調べてあります。

ヒントは次の部分にあります。

今日の新聞にある電報では独逸の大軍が仏蘭西と白耳義の国境へ集中され、カイゼル自身が国境戦の声援に出馬したやうである。リエイジュの一敗位に懲りる様な独逸ではないから、英仏の連合軍を相手に激しい大会戦が行はれるであらう。

これは第一次世界大戦のいわゆる「リエージュの攻城戦」のことで,このことから1914年であることがわかります。

リエージュの攻城戦というのは,ものの本によると,第一次世界大戦の初っ端,中立国ベルギーが侵入してきたドイツ軍をリエージュ要塞で迎え撃った戦いで,当時の新聞に

勇ましきリエジユ魂
婦女老幼悉く剱を拔いて
祖國の爲めに獨軍と鬪ふ

などとあります(8月13日付東京朝日)。はじめはドイツ軍を撃退しましたが,炸裂する42センチ砲の威力の前に徐々に形勢が不利になり,8月16日ついに陥落しました。

ちなみに,リエージュといえば,リエージュ風ワッフルがあります。丸い形とサクッとした食感が特徴だそうです。

さて,このときの台風について「気象要覧」には

此颱風ハ十日小笠原列島ノ南方海上ニ顯ハレ北北西ノ進路ヲ採リテ進行シ十一日ノ午後父島ノ西方ヲ通過シ十三日ノ朝駿河灣ニ殺到シ遂ニ沼津付近ヨリ上陸シテ北東ニ轉向シ熊谷前橋間ヲ經テ十四日ノ朝金華山ノ東方洋上ニ出テ十五日根室冲ニ去ル

とあります。台風が上陸し関東地方を通過しているちょうどそのころに「颱風」が書かれたことになります。

長津呂で08時に最低気圧720.4mmHg(≒960.5hPa)を観測したように,上陸時,この台風はおそらく今流にいえば“強い”台風でした。八丈島では05時に最大瞬間風速58.8m/sを観測しています。

東京都心では13日の朝から“暴風雨”が吹き荒れました。14日付の東京日日新聞には「十三日早暁から満都に荒れ廻つた暴風雨は日一杯其兇暴を肆《ほしいまま》にした……」とあります。この暴風により,銀座の柳が枝折れを起こし,各地で板塀,垣根,煙突の倒壊が相次ぎました。

ほかには,六郷橋が増水と上流からの流木によって流失,茅ヶ崎の沖合では22人乗りの漁船が転覆し,12人が行方不明になりました。

また,この台風との関係は不明ですが,富山県の神通川流域を中心に大きな水害が発生し,死者156,不明84,家屋流失250,全壊59,半壊56などの被害が出ています。

ところで,この随筆に「台風(原文おそらく“颱風”=引用者注)と云ふ新語が面白い」と書かれており,このころまだ颱風ということばが新しかったことがわかります。実際,“颱風”が使われはじめたのは明治も終わりの1908年で,広まりはじめたのは大正にはいってからです。詳しいことはそのうち書くかもしれません。

与謝野晶子には「颱風」という題の詩もあり,この年の9月22日付の読売新聞に載っています。これも青空文庫で読めます。

ついでに,与謝野晶子が実は“バーゲンおばさん”だった件については能天気Express~新世界版~  ある火災の都市伝説をご覧ください。

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アッとおどろく……

明日のビックリから――:

AD1985/06/09 札幌競馬場のメインレース「札幌日経賞」のスタート直後につまずいて騎手を振り落としたギャロップダイナが,4コーナーで逃げるリキサンパワーをとらえ,直線で後続を突きはなすという完ペキなレースで“1着”でゴール

カラ馬1着事件としてけっこう話題になりましたが,実は10月27日に起こる大ビックリの序曲に過ぎませんでした。

AD1230/06/09 鎌倉,御所御車宿の東母屋に落雷,1人死亡。また,武蔵国ではみぞれが,美濃国では雪が降る (寛喜2)

落雷くらいならただのビックリですみますが,みぞれや雪が降ったとあっては……。

この天変について詳しくは能天気Express~新世界版~  鎌倉の寒い夏(うらやましい(笑))をご覧下さい。

星落秋風五丈原

AD0234/08/23 諸葛亮五丈原で陣没。54歳

土井晩翠に「星落秋風五丈原」と題する詩があります。

祁山悲秋の風更けて
陣雲暗し五丈原
零露の文は繁くして
草枯れ馬は肥ゆれども
蜀軍の旗光無く
鼓角の音も今しづか

丞相病あつかりき
……

ではじまる400行にも及ぶ長い詩ですが,その昔,三国志フリークだったころ,全部暗記していました(爆)

一方で,「昭和維新の歌」という歌があります。以前は右翼が街宣車で流していましたが,最近はほとんど聞かなくなりました。平成になったこともあるでしょうが(ヘイセイイシンじゃプロレスだし(笑)→平成維震軍),歌詞が難しくてチンプンカンプンだからでしょう。平成のゆとり教育の最大の犠牲者は彼らかも知れません(笑)

ググればいくらでもヒットするので歌詞全部を引用することはしませんが,確かに難しい歌詞です。いきなり汨羅とか巫山とか,中国の故事がぽんぽん出てきます。日本ではなくてなぜか中国です。作詞・作曲の三上卓って中国のシンパだったのでしょうか(爆)

実はこの歌,「星落秋風五丈原」からのパクリで成り立っているといっても過言ではありません。3番,7番,9番が顕著ですが,他にもあるかも知れません。

まず3番。パクリ率40パーセント。後半の

治乱興亡夢に似て
世は一局の碁なりけり

治亂興亡おもほへば
世は一局の棊《き》なりけり

のパクリ。

7番はパクリ率46パーセント。前半の

見よ九天の雲は垂れ
四海の水は雄叫《おたけ》びて

見よ九天の雲は垂れ
四海の水は皆立(ち)て

のパクリです。

このくらいならまだいいほうで,9番に至ってはパクリ率99パーセントです(笑)

功名何ぞ夢の跡
消えざるものはただ誠
人生意気に感じては
成否を誰かあげつらふ

前半が

功名いづれ夢のあと
消えざるものはたゞ誠

のパクリ,後半も

人生意気に感じては
成否をたれかあげつらふ

のパクリです。

よくもまあ恥ずかしげもなくこれだけパクったものです。昔は許されたんですかねえ……。

雨天決行荒天中止

最近は屋外イベントの開催要項に雨天決行だけでなく,

雨天決行 荒天中止

と書いてあることも多くなりました(昔からあったのかも知れませんが)

ただ,何をもって荒天とするのかは今イチ不明確です。一般的には強い風は荒天に含まれるでしょうが,
いったい何m/s以上が荒天になるのかわかりませんし,雷はどうなのか,風も雷もなくものすごい雨だけ降っているのは荒天に含まれるのか,
果たして槍や米軍機やテポドンや中国原産の光化学スモッグが降ってきたら中止になるのかどうか,よくわかりません。まあ,
そのあたりは主催者が勝手に決めるのでしょう。

ところで,“雨天決行”なのに“雨”で中止になった有名なイベントに,
1987年6月20日のマドンナの後楽園公演があります(当時は東京ドームではなく,
まだ後楽園球場でした)
。どうでもいいですけど,マドンナって歌手だったんですね。
つい最近までグロ系のモデルだと思っていました(笑)

そもそも梅雨の最中のこんな時期に屋外公演を企画するのもどうかと思いますが,梅雨の時期ということでとりあえず“雨天決行”
の看板を掲げていたのでしょう。

ところが,このときは季節はずれの南岸低気圧のせいで,雨ばかりでなく,風も強まりました。

翌日の毎日新聞の記事より――:

風雨に負けたマドンナ台風
東京公演初日中止
ファン千人騒ぐ

……午後五時の開場時刻に,球場につめかけたファンは約二万人。しかし,強い風雨で楽器の調整が出来ないまま,
風で特設ステージのテントがふくらみ危険な状況になったため,開演二十分前の六時四十分になって中止を決定。
全席売り切れで東京公演はこの日を含めて三日間だけ。静岡や愛知県から来たファンも多く「雨天決行というから来たのに」
と泣きべそをかく女性もいた。

ただ,強風といっても大手町で最大風速9.4m/s,最大瞬間風速16.0m/s程度ですから,
かりに花火大会だったとしたら中止はしょうがないとしても,一般的にいってコンサートが中止になるほどの風とは思えません。
はじめからやる気がなかったか,スタッフの準備不足でしょう。

雨天決行だったかどうかわかりませんが,雷で中止になったイベントとしては西武球場での渡辺美里のコンサートが有名ですね。↓

雨のバカヤロー!! | Notenki Express 2014

最近では,

2000/08/09 千葉マリンスタジアムでのB’zのライブが雷雨のため2曲だか5曲だかを残して打ち切りに
「埋め合わせは必ずするから……」

なんてことがありました。“埋め合わせ”なるものがちゃんと行なわれた……という話は聞きません(笑)

この間の遺恨おぼえたか!!

皇極天皇四年六月十二日,飛鳥板葺宮の殿中において,中大兄皇子が突然,蘇我入鹿に「この間の遺恨おぼえたか!!」と斬りつけました。留守居役の中臣鎌足
殿中でござる
と止めにはいるふりをして中大兄に加勢して蘇我入鹿にひと太刀ふた太刀浴びせたものだから,
蘇我入鹿は抵抗することもできずその場で絶命しました。

これが世にいう乙巳のクーデターです。なんかちょっと(かなり?)
違うような気がしますが……(笑)

ちなみに,この日「是日雨下潦水溢庭」と『日本書紀』にあります。時期的に梅雨末期にあたり(ユリウス暦で645年7月10日),
飛鳥付近に集中豪雨でもあったのかもしれません。

明暦の大火

麻布の質屋の娘・梅乃はお参りに行った本郷丸山の本妙寺でイケメン野郎に一目惚れ,そのイケメン野郎が着ていたのと同じ模様の振袖をつくらせて“夫婦遊び”をしたりしていましたが,ついに恋い焦がれて死んでしまいました。両親は本妙寺で葬儀を行ない,納棺の際その振袖を棺にかけてやりました。

お寺では慣習に従いその振袖を古着屋に売りましたが,翌年の同じ日,その振袖がかけられた棺がお寺に運ばれてきました。お寺では慣習に従いその振袖を古着屋に売りましたが,またまた翌年の同じ日,その振袖がかけられた棺がお寺に運ばれてきました。

お寺でもいくらなんでも気味が悪くなったのか,明暦三年正月十八日(1657年3月2日),娘たちの親を施主として施餓鬼を行ないました。そして供養のために振袖に火をつけたところ,一陣の怪風とともに火のついた振袖が舞い上がりました。火はみるみるうちに燃え広がり,江戸市中の6割を焼失し,10万人以上の犠牲者を出すという大火災になりました。

↑というのが「明暦の大火」,あるいは「振袖火事」に関するいい伝えで,江戸時代の怖い話を扱った本などにときどきのっています(文献によって多少異なっていたりします)。ただ,記録によるとこの日は朝から北西の風が吹き荒れており,こんな日に法要とはいえ振袖に火をつけるかという疑問があり,また,お寺で一目惚れするというのは八百屋お七の話に似通っており,おそらくお七の話を真似てつくられたのだろう……というのが定説になっています。そういえば,必殺シリーズのひとつ「必殺仕事人・激突」に「八百屋お七の振袖」というのがありました(1991年10月29日放送)。

いい伝えはともかくして,この冬シーズンの江戸では,十一月以来一滴の雨も降らない乾燥状態が続いていて,各地の井戸も涸れていました。そんな中,正月十八日の午後1時ごろ本妙寺から出火,折りからの北西風に煽られて南東方向の湯島,神田方面に燃え広がり,湯島天神神田明神を焼き,駿河台の大名屋敷を焼き尽くし,浅草から隅田川を越えて牛島新田(現在の墨田区)まで達し,翌十九日午前2時ごろにどうにか鎮火しました。ところがホッとした矢先のその十九日の午前11時ごろ,新鷹匠町(現在の文京区小石川)から再び出火,風向きが前日と変わったのか今度は東南東~南に燃え広がり,正午ごろ江戸城の天守閣が炎上,さらに増上寺付近まで焼いて,翌二十日の朝やっと鎮火しました。火はおさまりましたがこの夜から大雪となり(南岸低気圧によるものか),凍死者が続出しました。

出火元については実は本妙寺ではなく,となりの老中・阿部忠秋の下屋敷だったという話もあり,さらには浪人放火説,果ては老中・松平伊豆守黒幕説もあり,謎に包まれています。σ(^^;)的には阿部忠秋下屋敷出火説がしっくりします。

とはいうものの,かりに新しい証拠が見つかったとしても,もうとっくの昔に時効になっていますから,再捜査が行なわれることはないでしょう。

この時代の江戸に火災調査官紅蓮次郎がいれば,ちゃんと解決していたかもしれません。

火災現場は一期一会だ。はいつくばって灰の中から掘り起こせ。真実は必ず灰の中にある。

って土曜ワイド劇場の見過ぎですね……(^^;)

写真は,本妙寺跡付近(と思われます)。ちなみに,本妙寺はいまは巣鴨に移転しています。

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