木枯らし1号

木枯らし1号

その年の秋から冬にかけてはじめて吹く北風を木枯らし1号とよぶことがあります。

“木枯らし1号”を公式に発表しているのは東京(関東)と大阪(近畿)だけですが,基準が微妙に違います。

冬型の気圧配置のときにその年はじめて吹く風速8m/s以上の北~西北西の風

というのは共通なんですが,期間は関東では“10月半ばから11月末まで”,近畿では“おおむね二十四節気の霜降から冬至まで”となっています。今日は10月18日ですから,関東の基準では期間内ですが,近畿の基準では期間にはいっていません。ここ2,3日のうちに大阪でこのような風が吹いたとしても“フライング”となり,“木枯らし1号”にはなりません。

気象庁天気相談所によると,東京の“木枯らし1号”の最早は10月13日(1988年),2番目は10月17日(1957年),3番目は10月18日で1986年と2000年に観測されています。最晩は11月28日(1969年と1981年)です。

“木枯らし1号”の平年日は現在は発表されていません。要するに賞味期限のある現象で発現しない年もあるし,平年日に科学的な根拠がないから,ということらしいです。春一番と同様です。

ただ,科学的な根拠云々を別にして平均をとると,だいたい二十四節気の立冬前後,11月7日前後になるようです。

1号があれば当然2号,3号,……もあると考えるのがふつうの感覚でしょう1。ところが,木枯らしに関するかぎり2号,3号,……は聞いたことがありません2。かなり不自然です。“木枯らし1号”なんてそもそもからしてセンスのかけらもないネーミングですよねえ。

“木枯らし1号”がいつごろから使われたのかわかりませんが,新聞記事の見出しとしての初登場は,当方調べでは1975年11月11日付朝日新聞夕刊です。ただ,1973年11月2日付朝日新聞夕刊掲載の倉嶋厚さんのコラム「お天気衛星」のタイトルが“木枯らし1号”なので,このころにはすでにぼちぼち使われていたのでしょう。

『天気図集成』を調べると,「天気図日記」では意外に早く,1956年10月20日に登場しているように見えます。

木枯らし1号

きのうバイカル湖の東にあった高気圧が南下して本州は快晴になったが,東日本では木枯し第一号が吹いて気温が急降し関東の山々に初雪がふった.

ところが,当時「天気図日記」を掲載していた今はなき月刊誌「天文と気象」を見ると,見出しの“木枯らし1号”はありません。見出しは『天気図集成』に収録するときにつけられたもののようです。

今では死語となっている木枯らし第1号の登場はもっと早いです。

1955年10月9日付朝日新聞に次のようにあります。

……この寒さは全国的なもので,八日は九州で三,四度,北海道で五度,中部山岳地帯で五度,中国近畿地方では六,七度も平年より低かった。西高東低という冬型の気圧配置だそうで,七日晩から全国各地に吹き出した北風は冷たい季節風のはしり。つまりは〝木枯らし第一号〟だったわけで,この吹きはじめも平年より一月近く早いと中央気象台ではいっている。

同じ日の天気について,「天文と気象」の「10月の天気図」には8日の記事に次のようにあります。

北日本に低気圧が発達,大陸高気圧が押し出してきて冬の季節風型があらわれはじめた. 武蔵野にも〝木枯し〟第1号がふき初めたが,これは平年より1ヶ月も早い. 各地に初霜,初雪しきり.

ただし10月8日は現在の基準では“フライング”であるため,“木枯らし1号”とは認定されていません。この年の“木枯らし1号”の発現日は10月30日となっています。

木枯らし2号?!

「天気図日記」で木枯らし2号が使われた例が当方調べでひとつだけあります。1966年10月29日の日記:

西日本に木枯らし

きょうは関東にも木枯らし2号が吹くとみられたが,強い北風は西日本のみでおわった. Hが南下してはりだしたためだが,土星のリング消失の観測に表日本は絶好の晴夜.

これは月刊「気象」,『天気図集成』に共通です。

記録によるとこの年の“木枯らし1号”の発現日は11月15日でまだ吹いておらず,意味不明です。“1号”の誤植なのでしょうかねえ。

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  1. ヤッターマンには1号と2号しかいませんが。 
  2. あとに書くように“2号”については1回だけ何かの間違いで使われたと思われる例を見たことがあります。 

観測史上最強台風TIP (1979年)

1979年10月4日15時,トラック島の南東海上に弱い熱帯低気圧(今流にいえばただの熱帯低気圧)が発生,6日15時には台風20号に昇格しました。

台風には気象庁がつける何号という番号のほかに米軍の合同台風警報センターJTWCが名づける名前がありましたが(今はしょうもないアジア名に変わっています),前年まではすべて女性名でした。有名なところではカスリーン,アイオン,キティ,ジェーンなど。洞爺丸台風は15号よりもむしろマリーとよばれていました。しかし台風よりもはるかにおっとろしい女性団体の圧力で,男女交互に名前をつけることになり,この年の3号から男性台風が登場,20号は男性名でTIPと名づけられました。

なお,3号が男性で交互なら20号は女性になるはず……とここで気づいたあなた,スルドイです。実はおそるべき?!からくりが隠されているのです(笑)

話がズレましたが,この台風は9日の夜から急速に発達しました。最近はやりの――というよりNHKが大好きな表現では急速強化でしょうか。急速強化は最近になって起こりはじめたわけではなく,少なくとも36年も昔からあったのです。

その急速強化とやらの結果,12日12時と15時に沖ノ鳥島の南東海上で870mbという世界の最低気圧を記録,観測史上最強の台風になりました。

この気圧は米軍の観測機がドロップゾンデで観測した実測値です。当時は台風の中心気圧を実測していました。現在は気象衛星画像による台風中心付近の雲の形と動きからドボラック法とよばれる手法で風速を推定し,それから中心気圧を決めています。

台風20号TIPは19日09時40分ごろ965mbの勢力で和歌山県白浜付近に上陸,95km/hという猛スピードで本州を縦断し,23時ごろ釧路付近に再上陸しました。被害はほぼ全国に及び,死者・不明111,負傷478,住家損壊7523棟,住家浸水37450棟,耕地被害25451ha,農林水産業被害1057億円などでした。このあたりのことは台風第20号 昭和54年(1979年) 10月10日~10月20日を参照して下さい。

1966年の26号以来13年ぶりに台風の暴風域にはいった首都圏は国電(懐かしい名前)や私鉄がほぼ全面運休,電話回線もパンクし,193万戸が停電,「首都圏の台風被害は「足」と「耳」を直撃」「災害に弱い大都市の弱点をさらけ出した」(20日付毎日朝刊)。

運転再開後も首都圏の各駅はとにかくすさまじい混みようだったそうです。東大宮駅ではドアが開いたとたんに押し出された乗客が転倒して死亡する事故も起こりました。

ストと違って災害だから……とはじめは寛容だった乗客も,国鉄のいいかげんな対応に次第にブチ切れはじめたそうです。聞くところによると当時の国鉄の組織的な危機対応能力はほとんどゼロメートル地帯でしたし,それを引きずっているのがいまのJR各社なのでしょう。

この年は20号を含めて3つ台風が上陸しましたが,なぜかすべて男性台風でした。

ちなみに,その3つのうちのもうひとつの16号Owenは,9月30日に室戸岬付近に上陸したのち大阪から本州を縦断して北海道をかすめました。強風が吹き荒れた京都ではクレーンが暴走して新幹線の架線を支えている鉄柱に激突,架線が切れて新幹線は不通になりました。このため,10月1日に予定されていた新幹線15周年の記念式典は中止になりました。

なお,最強台風の参考記録として,枕崎台風が沖縄本島の南東海上を進んでいるときにアメリカの病院船リポーズが中心付近で856mbを観測したとされています。

しかしまあ,どうしてこんなすごい台風の中心付近まで紛れ込んでしまったのでしょうねえ? そしてよく生きて帰ってこられたものです。

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ルース台風と殉難動物慰霊碑

ルース台風

1951年10月9日グアム島の西海上で発生,発達しながら西北西~北西に進み,12日15時には925mb,最大風速60m/sに発達。このあたりから進路を北に変え,14日19時ごろ鹿児島・串木野付近に上陸。約80km/hで九州を縦断し,22時には国東半島付近を通って周防灘に抜け,そのご山口県防府市付近に再上陸,米子の東から山陰沖に抜けました。

Image from Gyazo

台風が衰える間もなく高速で進んだため,九州南部を中心に全国的に暴風が吹き荒れました。宮崎県の細島では日本歴代第2位の最大風速69.3m/s,愛媛県の佐田岬では同じく第3位の67.1m/sを記録しています。

また,台風の接近とともに前線活動が活発になり1,九州東部,中国,四国地方で大雨になりました。もっとも大きな被害を受けた山口県では,錦川上流で土砂崩れが多発,前年のキジア台風で流された錦帯橋がまたも被害を受けました。

詳しくは気象庁のルース台風 昭和26年(1951年) 10月10日~10月15日をご覧ください。

1951年10月16日付の西日本新聞から見出しをいくつか拾ってみます。

死者遂に287名 西日本の被害益々拡大
ダム溢水で犠牲84名 山口錦川氾濫,五村襲う
高潮38名を一呑み 枕崎
愛児は生きていた 倒壊家屋から守る死の母の母性愛

2つの台風進路予想

1951年10月14日付の朝日新聞に「海岸沿いか縦断か 台風進路に二つの予想」という見出しの興味深い記事があります。中央気象台(東京)と大阪管区気象台がルース台風の進路に関して,異なる予想を出していたというのです。記事によると,中央気象台では「本土をかすめ台風中心は南方海上を通過する公算が大きい」,大阪管区気象台では「四国から大阪湾に上陸,中部,関東を縦断する最悪“コース”をとるだろう」という予報を出していました。

このように異なる予報が発表されたのは,1949年のデラ台風や1950年のキジア台風を教訓とし,1950年の全国気象台予報課長会議で,中央気象台が各地の情報を集めて判断を下していたのでは時間的に手間取って間に合わないときは,各管区ごとに独自の判断を発表するという現地主義に切り替えられたためです。

結果からいえば,両方ともハズレ,でした。

現在は台風の予報は基本的には気象庁(本庁)の予報部ですべて行なっていますが,台風の予報を行なっているのはなにも日本だけではなく,いろいろな国で独自の予報を行なっています。比較してみると面白いかもしれません。

苦しいときの台風頼み

当時,電力はおもに水力発電で賄われていました。朝鮮戦争による特需で電力需要が増えていたことに加え,この夏は小雨だったため,慢性的な電力不足に悩まされていました。そのため,ルース台風による慈雨が期待されていました。

確かに雨は降り,しかもよせばいいのにところによっては降りすぎるくらい降りました。それで「電源地帯はフル運轉」(10月14日西日本新聞)「ふっとんだ電力危機 流量一挙40%増」(10月16日同)という状況になりましたが,それもたった数日間のことでした。

ちなみに,“台風への雨乞い期待”はその後もときどきあり,例えば1967年の秋は台風は発生するものの日本列島に近づかず,秋雨も東日本ばかりで,西日本を中心に渇水が生じていました。そんなところに34号がやってきて前線を活性化してくれたために北九州では恵みの雨になりました。しかし,ほとんど不意打ち気味に上陸して暴風雨を引き起こしたため思いのほか被害が大きく,死者・不明47人,住家損壊2959棟,浸水26842棟におよび,とんだ“度を越した恵みの雨”となりました。

また,1978年には渇水状態の東京に,台風15号が“給水台風”の期待とともに近づいてきましたが,予想進路のいちばん南に進路をとり,

給水台風として異例の期待をされていた台風15号は,つれなくも肩すかしを食わせる形で,東海上へ去っていった。(1978年9月6日付朝日夕刊)

殉難動物慰霊碑

以前,動物衛生研究所九州支所のサイトで殉難動物慰霊碑を見かけました。ルース台風で殉難した動物たちの慰霊碑ということで,碑銘には一樹の蔭と刻まれていました。しかし残念ながら今は動物衛生研究所九州支所のサイトにありません。

去年の河北新報次のような記事がありました。

動物慰霊碑を建立 宮城県獣医師会

 東日本大震災で死んだ動物を供養しようと、宮城県獣医師会は仙台市宮城野区の同会会館敷地に慰霊碑を建立し、23日、除幕式を行った。参列した約60人は震災の記憶を後世に伝えていくことを誓い、手を合わせた。
 慰霊碑は御影石でできており、高さ約90センチ、幅約1メートル80センチ、奥行き約60センチ。県獣医師会の谷津寿郎会長らが幕を取って慰霊碑を披露し、農業高校や乗馬クラブなどの関係者が慰霊の言葉を述べた。
 津波で校舎が被災し、飼育中の牛20頭が犠牲になった宮城農高の2年土谷移月さん(16)は「入学後に牛の出産に立ち会い、生命の奥深さを感じた。津波で亡くなった牛の分も愛情を込めて育てたい」と話し、慰霊碑の前に花を手向けた。
 慰霊碑そばには、被災時の写真などを展示するコーナーも設けられた。
 県獣医師会によると、宮城県では、震災で犬と猫がそれぞれ1万匹以上死んだと推定されている。牛580頭以上、豚2900匹以上など、多くの動物が犠牲になった。 (2014年09月24日水曜日)

動物慰霊碑はときどき目にすることがありますが(競馬場内外でとくに。名前は違うことが多いですけど(笑)),自然災害による動物慰霊碑は珍しいと思います。

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  1. 当時は秋雨前線ということばはまだなかった。 

10月10日は晴れの特異日ではなかった

1964年10月10日

51年前の10月10日,これが行なわれました。

今はさまようよろいと化している体育の日はもともとは10月10日で,1964年の東京五輪の開会式を記念した日だということも,もう忘れられつつあるかもしれません。

09時の地上天気図です。

「気象要覧」には次のように書かれています。

 10日から12日にかけては大きな移動性高気圧がゆっくり日本全体をおおいながら東進したため全国的に良い天気に恵まれた。特に10日のオリンピック開会式当日は,前日までぐずついていた天気も一挙に快晴に逆転し,奇跡的ともいわれるほどの最上の五輪日和になった。しかし移動性高気圧は北偏していたため日中でも気温は上がらず,平年より1.2℃も低かった。

ところで,東京五輪の開会式が10月10日に決まった理由については,10月10日が晴れの特異日(特異日については次項を参照)だからとする俗説がいまだにはびこっています。しかしきわめて簡単にいうと,単に9日の次の日だったから,あるいは11日の前の日だったからなのです。

まず,1961年6月のアテネでのIOC総会で,東京五輪の日程は大枠として10/11開会式,10/12休み,10/13競技開始と決まります。開会式の次の日に休みを入れたのは,開会式は疲れるから1日開けて欲しいという要望が一部からあったかららしいです。

そして1962年5月,日本の東京オリンピック組織委員会は具体的な競技の日程などと照らし合わせて,10/09開会式,10/10休み,10/11競技開始と決定し,IOCに提出します。

1962年6月に開かれたモスクワでのIOC総会で,10/10の休みはやっぱり要らないという話になり,10/10が開会式と最終的に決定したのです。

このような経過から見て,晴れの特異日だから10月10日になったというのはまったくのデタラメであることがわかります。

しかも,もともとは10月開催という案はありませんでした。一番最初に出された東京都の案は7月下旬~8月上旬開催というもので,それから先はすったもんだの連続,なかったのは9月案くらいで(台風を避けるため),5月案,6月案,7月案,8月案が出ては消え出ては消えていきました。いっとき,6/14からの15日間に決まりかけたこともありました。

ちなみにこの年の夏の東京は記録的な渇水で,7月21日に第3次給水制限,さらに8月6日には第4次給水制限が実施されました。一番最初の東京都の案どおりに7月下旬~8月上旬に開催されていたらどうなっていたか,説明は不要でしょう。

2020年に東京五輪がホントに開催されるとしたら,こんな時期なわけですよ。何が起こることか……。渇水はともかく,よほどの冷夏にでもならない限り熱中症騒ぎは間違いなく起こるでしょう。

なお,ひとつつけ加えておくと,実はこの日まさに開会式の選手入場が行なわれていたころ,世田谷の一部で雷雨があったという記録があります。これについては1964年10月10日の雷雨 | Notenki Express 2014をご覧ください。

10月10日は晴れの特異日か?

特異日について『気象科学事典』には次のようにあります。

暦の上の特定の日に,ある特定の気象状態が現れる割合が前後の日に比べて高い日

“前後の日に比べて高い”というのがポイントです。10月10日が晴れの特異日かどうかを調べるには10月10日を調べるだけではダメで,前後の日と比べなければなりません。

次に,x月x日が晴れか否かをどう定義するかです。ここではきわめて簡単に次の日を晴れということにしました。

  • 天気概況(昼:06時~18時)で“晴”がある日。ただし“雨”のある日はカウントしない

いろんなやりかたがあってそれによって比率は変わるでしょうが1,傾向は変わらないと思います。

データは気象庁HPからダウンロードできます。便利な世の中になりました。

この方法で10月5~15日について1967年~2014年の東京の晴天率を調べると次のようになります。

月/日 晴天率(%)
10/05 27.1%
10/06 33.3%
10/07 37.5%
10/08 37.5%
10/09 41.7%
10/10 50.0%
10/11 37.5%
10/12 43.8%
10/13 45.8%
10/14 54.2%
10/15 58.3%

50%では晴れの特異日とはいえないでしょう。

これだけではなんですので,条件を緩めて

  • 天気概況(昼:06時~18時)に“雨”のない日

ということにして“非雨率”を調べると,次のようになります。

月/日 非雨率(%)
10/05 45.8%
10/06 60.4%
10/07 58.3%
10/08 45.8%
10/09 62.5%
10/10 72.9%
10/11 56.3%
10/12 62.5%
10/13 58.3%
10/14 60.4%
10/15 72.9%

どうやら10月10日は“雨の降らない特異日”とはいえそうです。

さらに10年ごとの非雨率の推移を見ると面白いことがわかります。

期間 非雨率(%)
1970-1979 70%
1975-1984 70%
1980-1989 90%
1985-1994 80%
1990-1999 60%
1995-2004 70%
2000-2009 60%
2005-2014 60%

1980年代にピークがあり,そのピークから徐々に下がってきたようです。体育の日が10月10日の座を追われてさまようよろいとなったのは2000年で,そのころから10月10日の天気が下り坂になっていたような気がしていたのですが,もう少し早くはじまっていたんですね。

地球温暖化教の信者たちはこれも地球“温暖化”とやらの影響だというかもしれません(爆)

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  1. 東京管区気象台では“日平均雲量8.5未満”かつ“日降水量1.0㎜以上ではない”を“晴”とした日別天気出現率を公開しています。 

10月は爆弾低気圧とともにやってくる!?

本日00Z(日本時間では09時)イニシャルのGSM地上を12時間ごとに並べてみます。

10月そうそう爆弾低気圧がやってきそうです1

そういえば,今年は5年ごとにめぐってくる国勢調査の年ですが,記念すべき?!第1回国勢調査の前日に颱風が紀伊半島沖から房総半島をかすめ,神奈川県で65人死亡などの大きな被害がありました。

今年は台風ではなくて爆弾低気圧ですが,果たしてどうなりますか。

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  1. 爆弾低気圧については爆弾低気圧ともーれつア太郎 | Notenki Express 2014をご覧ください。 

リンゴ台風と箱庭 (1991年)

1991年9月27日16時過ぎ,台風19号(Mireille)が中心気圧935mb,中心付近の最大風速50m/sという“非常に強い”勢力で長崎県佐世保市の南に上陸しました。その後,加速しながら日本海を北東に進み,28日08時ごろ965mbで北海道渡島半島に再上陸,28日15時に千島近海で温帯低気圧に変わりました。

Image from Gyazo

台風が非常に強い勢力で上陸し,勢力をほぼ維持したまま日本海を速い速度で北東に進んだため,沖縄から北海道まで全国で暴風が吹き荒れました。くわしくは気象庁の前線、台風第17、18、19号 平成3年(1991年) 9月12日~9月28日などを参考にしてください。

リンゴ台風

この台風はリンゴ台風とよばれています。青森県で収穫前のリンゴの70%以上が落下するという被害があったからです。ただ,農作物に限っても被害はリンゴだけではなかったにもかかわらずリンゴ台風とよばれる理由はσ(^^;)にはわかりません。σ(^^;)的にはもっともしっくりくる通称ではあります。

台風の暴風にもめげずに落下しなかったリンゴの一部は落ちないリンゴとして受験生のお守りに珍重されていました。

当時受験屋だったし,近くの神社(谷保天満宮=通称ヤボ天)でも発売されていたので,よくおぼえています。値段はたしか悪税込みで1000円程度だったような記憶があります。あくまでお守りなのでリンゴとしては高めでした。ご利益があったかどうかは……。

一方で,落果リンゴを買おうという運動もパソコン通信などで広がっていました。

ちなみに,現在は落ちないりんご有限会社落ちないりんごの登録商標になっているようです。

『箱庭』

広島県の宮島にある厳島神社は,このリンゴ台風によって当時の新聞によると「創建以来の天災」に見舞われました。中国新聞9月28日付夕刊には次のようにあります。

同神社では二十七日午後七時半ごろ,突風のため能舞台と能楽屋の柱が折れ倒壊。屋根がそっくり砂浜に座る形になった。・・(中略)・・また,回廊中央部にある平安時代に建てられた左右門客神社,国宝の左右楽房のうち西側楽房が流失,東側楽房も大きく傾いた。回廊もあちこちで床板がめくれ上がり,通り抜けができなくなったほか,本社祓(はらい)殿などの屋根の軒先が壊れた。

神社職員らの話では,午後七時過ぎから,回廊に海水が上がり始め,ピークの午後十時半ごろには水位が回廊の上八十三センチに達し,手の施しようがなかったという。

そして台風一過の翌日,事件がはじまります。

AD1991/09/28 台風19号で大損害を受けた厳島神社の大鳥居付近に,男の変死体が流れ着く(内田康夫『箱庭』)

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[2019/09/20] 画像へのリンクを修正

9月26日付北海道新聞の予知能力!?

ときどき,やれ大地震が来るとか1,“巨大”台風がやってくるとかあおり立てる週刊誌の中吊り広告が目につきます。まあ,週刊誌の科学記事なんて芸能記事と同程度のレベルですが,最近はアベさま皆さまのNHKでもそのような番組が繰り返し繰り返し放送されます。

週刊誌のヨタ記事やNHKの煽り番組に比べると,北海道新聞には予知能力があるように見えます。

まず,1954年9月26日付の北海道新聞の記事――:

青函海底トンネル 基礎的地質調査終る 掘削可能の結論

この日,まさか津軽海峡でのちに洞爺丸台風と名づけられる台風15号マリーによって世界海難史上2番目といわれる大海難事故が起こるとは……。

ついで2003年9月26日付の北海道新聞「卓上四季」――:

……自然の猛威の前に人間が非力であることを自覚しつつ,気象監視と災害の備えを万全に。洞爺丸台風が語る教訓は今なお新しい。

この日,まさか平成15年(2003年)十勝沖地震が起こるとは……。

ちなみにこの日の朝,6時30分からの「ラジオ体操」が中止になりました。おそらく津波警報が出ていたからでしょう。

そして2004年9月26日付の同じく北海道新聞「卓上四季」――:

九月二十六日は過去に三度の大災害が起きている。一九五四年の洞爺丸台風,五八年の狩野川台風,五九年の伊勢湾台風である。いつしかこの日は「大型台風の厄日」といわれるようになったそうだ……

幸か不幸か,とくに大きな災害は起こらなかったようです。

“予知能力”のタネは……かんたんです(笑)

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  1. “地震が来る”って表現,きわめて違和感があるのですが。 

競馬史の中の伊勢湾台風

今から56年前の1959年9月26日18時ごろ,台風15号が潮岬の西に上陸しました。死者4697人,不明401人,負傷者38921人,住家全壊40838棟,半壊113052棟,床上浸水157858棟,床下浸水205753棟など明治以降では最大の台風被害を出し,のちに伊勢湾台風と命名されることになります。

Image from Gyazo

この日,京都でも強風が吹き荒れ,京都地方気象台の観測では最大風速19.1m/s,最大瞬間風速29.0m/sでした。にもかかわらず,なんと,京都競馬場では競馬が通常どおり開催されていました。

『競馬歴史新聞』にも載っていますが,風雨の中行なわれた第4競走サラブレッド系障碍競走(2300m,7頭)は大荒れに荒れました。1番人気ナルトホマレは2周目の第4コーナーで3番人気ブゼンタニカゼに内に押圧されて競走中止,このためブゼンタニカゼは1位入線しましたが失格となり,1着は繰り上がりで5番人気のタケリユウ,2着には最下位人気のアスカリユウ1がはいり,連式(6枠連勝単式)は267,350円の配当になりました。今では3連単で毎週のように出ている配当ですが,当時としては目が飛び出るような配当だったことでしょう。

このレースでは,1着から3着まで枠順にはいっています。何も考えずに枠順に買っていれば20万馬券をゲットできたわけです。

当時発売されていた3重式2はこの日は1,2,3レースではなく2,3,4レースが対象で,的中は1票,127,680円の配当になっています。

ついでに騎手を見ると,2着にはいったアスカリユウの鞍上に松本善登の懐かしい名前が。カツラノハイセイコを思い出します3。シンザンが五冠を達成した有馬記念は,さすがに歴史で学んだクチです。他にはすでに調教師を引退された北橋修二武邦彦松永善晴の名前も見えます。武邦彦も障害に乗っていたんですね。

この日,他に荒れたレースは第1競走繋駕速歩競走(連式9,380円),第9競走(連式5,740円)くらいで,大荒れの天気の割には比較的平穏におさまったようです,

ちなみに,前年の1958年,狩野川台風の上陸の当日にも中山競馬が平常どおり開催されています4。成績公報より,狩野川台風が過ぎ去ったあとの最初のレースとなった第1競走アラブ系三歳馬競走:

JRAの公式記録ではじめて台風による中止が出てくるのは,1961年の第2室戸台風のときです。

なお,中京競馬場は伊勢湾台風で大きな被害を受けています(詳細不明)。

(Mixi日記2005年09月25日09:31に少し加筆)

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  1. 『競馬歴史新聞』ではカスカリュウになっていますが誤植かなにかでしょう。 
  2. いまのWIN5(WIN3?)のような馬券。ただ,WIN5とは違い朝から競馬場に来てもらうためのような馬券で,第1~第3レースが対象になることが多かったらしい。 
  3. カツラノハイセイコが勝ったダービーについてはこれをご覧ください。 
  4. ついでにいうと,狩野川台風が上陸したのは9月26日ではなく27日。 

森山享はなぜ遭難したか (1976年)

このタイトルはもちろん『洞爺丸はなぜ沈んだか』へのオマージュです。ちょうどそんな時期ですし。ちなみに『宇高連絡船 紫雲丸はなぜ沈んだか』という本もあります。

1996-1997年に放送されたNHKの朝ドラ「ふたりっ子」で,森山史郎の父親のベテラン漁師森山享がシケに遭って帰らぬ人となったのは1976年9月25日ということになっています。なお,森山享は名前が出てくるだけで,回想シーンを含めて本人は出てきません。

森山享は

相手の指し手を読むより,海の機嫌を読むほうがずうっと易しい。

が口グセでした。このようなベテラン漁師が遭難したのですから,台風の接近とかでよほどの大シケだった……と思いきや(もっとも,そんなときは出漁を見合わせるでしょうけれど),当日の天気図を見るとどうもシケるような感じはまったくないのですが(笑)

森山享の遭難は息子の史郎が真剣師佐伯銀蔵

おととい,漁に出る前に,ぼくにこれを渡して,もし自分が帰らなかったら,あさって香住の水月館で待っている佐伯銀蔵に渡してくれって。

と伝えに来て,将棋の駒を渡そうとするところでわかるのですが,シケで遭難したとすれば当然のことながらシケがおさまるまで救助活動はできません。それを考えると,一昨日漁に出て,シケで遭難して,今日死亡が確認されているというのはあまりにも段取りがよすぎます。

もしかするとこの遭難は,享は末期ガンか何かで,史郎に保険金を残すために仕組んだ事故に見せかけた自殺だった――のかもしれません。

ちなみに,こういう感じでサスペンスドラマなどをお天気的に分析(こじつけ?)するような悪い趣味がはじまったのは(さらにはよせばいいのにロケ地めぐりをするようになったのは),実はこの森山享の遭難の原因に疑問をもったことがはじまりでした。

その中でいちばんボロクソにこき下ろしたのは2002-2003年の朝ドラ「まんてん」でした。あれは最悪でしたね。

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ホントは怖い台風中継

有名な台風中継のヤラセ動画↓

最後の1~2秒によってそれまでの苦労が水の泡,ただのヤラセだったことがバレてしまいました。

これは2005年の14号のときのものです。

人間が風の中で立っていることのできる限界は20m/s程度といわれていますが(体験済み(笑)),これはあくまで一様な空気の流れの中での話であって,実際の風にはいわゆる風の息があるために前後左右にゆさぶられることになります。これではバランスをとるのが精一杯で,とてもレポートなどできません。まあ,それでもレポーターはせいぜいマイクしか持っていないので楽でしょうが,川口探検隊的にいえば真っ先に洞窟にはいらなければならないカメラマンや照明さんはどうなんでしょうねえ……。

結局,何か物体が飛んできたりする危険なども考えると,限界は10m/sってところではないでしょうか。いずれにしても“台風中継”ができるということはレポートできる程度の風しか吹いていないということであり,裏を返せば風は吹いているけれどもさほどでもないということを身をもって知らせているわけです。

この視点からすると,民放が好きこのんで「ものすごい風です!!」とかやっている台風中継はすべてヤラセだと思って間違いないでしょう。ギョーカイではヤラセではなくヤリというらしいです。

1965年9月18日未明,台風24号の現場中継のために東京・江東区方面に出動していたラジオ関東(現・ラジオ日本)の取材車が,記者やアナウンサーら6人を乗せたまま晴海埠頭から海に転落,全員死亡するという事故が起こりました。光る海面を舗装道路と見間違えたのだろうといわれていますが,全員が死亡したため真相はわかりません。

ヤラセではない本当の台風中継がいかに危険なものかがわかります。

なお,この台風は福井県の西谷村に記録的な大雨を降らせ1,廃村のひとつの原因となりました。これについては秋雨前線と台風 | Notenki Express 2014をご覧ください。

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  1. 宮澤清治『近・現代 日本気象災害史』には奥越豪雨とあります。