長州,奥羽越列藩同盟に敗れる

去年(2015年)の今日,次のような発表がありました。

梅雨の時期に関する東北地方気象情報 第3号
平成27年7月26日11時00分 仙台管区気象台発表

(見出し)
東北南部は梅雨明けしたと見られます。

次々と梅雨明けしたと見られます発表がある中,この時点ではまだ九州北部の発表がなく,ついには東北南部にも敗れることになりました。

ちなみにタイトルですが,長州=山口県はなぜか九州北部に含まれるので,こういうタイトルに成増の次は下赤塚。

なお,長州が奥羽越列藩同盟に敗れたのはこれが史上はじめてではありません。

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バレンタインデーと春一番

東京(というか,関東甲信地方)でバレンタインデーに春一番が吹いたことは,過去に1965年,2004年,2007年の3回あります。(気象庁天気相談所の資料による)

1965年

まず1965年から。

1965年2月14日の朝日新聞夕刊に「ポカポカと“春一番”」とあります。しかし,記事の中に“バレンタインデー”ということばはひとことも登場していません。

“バレンタイン”が新聞の見出しに初登場したのは,検索しやすい朝日新聞で見てみると,1963年2月15日の次の記事です。

「恵まれない子どもたちのために愛の募金を」――と十四日中央区銀座四丁目の三愛ドリームセンター前などに「愛の募金箱」が置かれ,町をいく人の足を止めた。

 この日はカトリックの聖人バレンタインの日で,一般に“愛の日”とされるのがならわし。その愛を気の毒な子どもたちへも,と同店の店員さんがタスキをかけて立ち,小さなスミレの造花を道行く人に配りながら募金を呼びかけた。当方スター藤山陽子さんらも応援にかけつけたが,募金に応じたのはやはり若い人たちが圧倒的に多かったという。

このように,当時はまだ「バレンタインの日」でした。“バレンタインデー”の初登場は,1973年まで下ります。

ちなみに,1965年のバレンタインの日,南からの暖かい風によって山中湖の氷上スケート場で氷にヒビがはいり,幅1km,長さ2kmの氷が200人を乗せたまま沖に流れ出るというハプニングが起こりました。

2004年

お次は2004年。

バレンタインデーもすっかり定着していたはずですが,バレンタインデーと春一番を絡めた記事は比較的少なく,σ(^^;)が集めた限りでは次の神奈川新聞くらい。

 関東では十四日、昨年より十八日早く春一番を観測。横浜では瞬間最大風速二十四・三メートルの強い南西風が吹いた。

 午後二時半に最高気温十五・四度を記録(横浜地方気象台調べ)、平年より五度高い陽気となった。山下公園では、風にコートをはためかせ散策する人でにぎわった。夕方になっても、多くの人がベンチに座り、眼前の豪華客船のまばゆいライトアップを楽しんでいた。
 同日はバレンタインデーとあって、薄暮に浮かぶ客船を前に彼女からチョコを贈られていた会社員男性(29)は「春ももうすぐですね」と話していた。

せっかく育んだ愛が風によって吹き飛ばされてしまわないように,くれぐれもお気をつけください。

もっとも,今回乗り切ったとしても,5月13日にはもっとこわいメイストームデーが待ちかまえています(笑) メイストームデーについて詳しくはメイストーム・デーとメイストーム | Notenki Express 2014をご覧ください。

2007年

2007年2月14日のasahi.comより:

 バレンタインデーの14日、関東地方で「春一番」が吹いた。気象庁天気相談所によると、昨年の3月6日よりも20日早かった。

 同相談所によると、日本海にある低気圧が発達しながら東北東に進み、関東地方では南部を中心に南よりの風が強まり、気温が高くなった。

 午後6時半までに、東京で秒速18.2メートル、千葉で同30.2メートル、横浜で同27.3メートルの最大瞬間風速をそれぞれ記録した。

 大阪管区気象台も14日、近畿地方に春一番が吹いたと発表した。昨年は観測せず、一昨年より9日早かった。

 和歌山市や潮岬などで最大瞬間風速が20メートルを超えた。南よりの風の影響で、大阪市の気温は午前11時までに17度を超え、4月上旬並みの暖かさになった。

ちなみにこのシーズン,東京ではバレンタインデーまでに初雪が観測されていませんでした。2007年2月13日の毎日新聞より:

低気圧:初雪ないまま「春一番」吹き荒れる?

 日本海で急速に発達する低気圧の影響で、14日は関東甲信・北陸から九州地方にかけて「春一番」が吹き荒れそうだ。観測統計上、東京で初雪の前に春一番が吹いたことはなく、記録的な暖冬を象徴する天候になりそう。15日にかけては全国的に暴風や高波が見込まれ、気象庁は厳重な警戒を呼びかけている。

 14日夕までに予想される最大風速は、海上20~28メートル、陸上15~22メートルで、突風を伴う見込み。海上は猛烈なしけが予想される。さらに広範囲で雨や雪となり、太平洋側では雷を伴う激しい雨となる所もありそう。土砂災害や河川の増水、なだれの恐れもある。

このシーズンの東京の初雪は,なんと3月16日でした。

※この記事はバレンタインデーの春一番 | Notenki Express 2014に若干書き加えただけの手抜き記事です。
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冬将軍に経歴詐称疑惑?!

明日から冬将軍がやってくるとかいって,お天気キャスターたちが冬将軍,冬将軍と連呼しています。

冬将軍って以前はそれほど使用頻度の高いことばではなかったと思いますが,ここ2,3年でやたら耳にする,あるいは目にするようになったような気がします。あくまで気がするだけです。

もし実際にそうだとすると,NHKの天気コーナーの影響かもしれません。今では次のようなTwitterアカウントも登場しています。

そんな冬将軍,由来はいったい何なんでしょう?

一般には次のようにナポレオンを撃退したロシアの厳冬に由来するとされています。冬将軍はなぜ”将軍”? - トクする日本語 - NHK アナウンスルームより一部引用:

この季節になると気象情報で聞きはじめるのが、寒さを擬人化した「冬将軍」ということば。これについて「どうして”将軍”なのか」というお便りをいただきました。これはフランス皇帝ナポレオンに由来しています。1812年にナポレオンは、ロシア遠征で厳しい寒さのため敗退をよぎなくされました。その際、イギリスの新聞が「ナポレオンがgeneral frost(=厳寒将軍)に負けた」と報じたと言われています。これが、日本で「冬将軍」と訳されたのです。ナポレオンに打ち勝つぐらいですから、「大名」や「殿様」よりは「将軍」がしっくりくるかもしれません。

日本語版のWikipediaにもこの説が載っていたりします。

ところが,原典となったといわれる新聞についてなんという新聞の何月何日付の第何面の記事か,調べてもよくわかりません。それに英語版のWikipediaにはgeneral frostの項目がありませんし,私が調べた範囲では次の記載があるだけで,イギリスの新聞が云々という話は載っていません。

Napoleon’s Grande Armée of 610,000 men invaded Russia, heading towards Moscow, in the beginning of summer on 23 June 1812. The Russian army retreated before the French and again burnt their crops and villages, denying the enemy their use. Napoleon’s army was ultimately reduced to 100,000. His army suffered further, even more disastrous losses on the retreat from Moscow started in October.
Russian Winter – Wikipedia, the free encyclopedia

どういうことなんでしょうね?

これについては継続調査中です――といいたいところですが(数年前から(笑)),あんまり興味はないので数年前のままです。

話変わって,それでは冬将軍はいつごろ日本で使われるようになったんでしょう? これについての説明は見たことがありません。

以前国会図書館に行ったついでに新聞を調べた範囲では,初出は意外と新しく,1941年9月16日付の朝日新聞。

冬季作戰の對策(上)/獨逸/計算濟みの「冬將軍」
ナポレオンの轍は踏まず 獨ソ会戰

讀賣新聞にもほぼ同じ時期に使用例があるので,軍部の発表に“冬将軍”が使われていたのかもしれません。

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今年のイブの天気は?

昨日12ZイニシャルのGSMによるイブの21時の地上,850hPa,500hPa予想:

本日00Zイニシャルの週間アンサンブル予報(クラスター平均)によるイブの21時の地上,850hPa,500hPa予想:

なんというか,これといった印象がないですね。リア充にとってもぼっちにとってもとくに変わり映えのしない天気なのではないでしょうか。

まあ,まだ先の話なのでどうなるかはわかりません。

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2週続けて雪の日曜日 (1987年)

1987年12月,あの雪の日曜日から1週間後の13日の朝,目がさめたら窓の外でカサカサという先週も聞いたような変な音が。 まさかと思って窓を開けて外を見たら,なんと雪でした。ここから先の記憶がないところをみると,たぶんまた寝たんだと思います。いわゆる二度寝というやつ。

前週と同じように南岸の低気圧に北東から冷たい空気が流れ込み,東京都心で雨から雪に変わったのは09時30分ごろ,そして18時までに3cm積もりました。

例によって例のごとく,おきまりのすってんころりんねんころりんで滑って転ぶ人がまたまた続出,前週を上回る32人がケガをしました。また,翌14日の朝は冷え込んで路面が凍結したため,関東各地でスリップによる交通死亡事故が相次ぎました。

中山競馬は3レース以降が中止になり,2週続けて日曜日の開催が中止になりました。12月としてははじめてです。

延期されていたミホシンザンの引退式は雪の中で行なわれましたが,芝コースが閉鎖されていたためにダートコースでの最後の走りとなりました。

当時,12月の第2日曜に国立競技場で行なわれていたトヨタカップは,もちろん雪のためにコンディションは最悪。勝ったFCポルトのイビッチ監督が「何千試合もしてきたが,こんな悪条件ははじめて」と語っています。これは雪のためばかりでなく,前週の “雪の早明戦”によって芝がかなり剥がされた影響もあったでしょう。

試合は延長の末,FCポルトがCAペニャロールを2-1で破りました。

もともと評判の悪かった日本のグラウンドの評価がこの日のトヨタカップによって最悪になりました。トヨタのせいだということに注目しましょう(笑)

国立競技場の芝が見違えるようになったのは1991年からだったと思います。

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伝説の雪の早明戦 (1987年)

12月第1日曜の初雪

1987年12月の最初の日曜,すなわち1987年12月6日,低気圧が発達しながら鳥島付近を通過,この低気圧に向かって北東から冷たい空気がはいってきました。

このため東京は最低気温0.9℃と冷え込み,前夜からの雨が06時から雪に変わりました。

これがこのシーズンの初雪で,戦後では1962年に次いで2番目に早い初雪です(当時)。そして09時には積雪2cmを記録しました。東京以外の積雪は八王子2cm,宇都宮4cm,軽井沢25cm,日光23cm,秩父7cmなどとなっています。

この雪の影響で,奥多摩有料道路が09時から全面通行止めになったほか,東北,関越,常磐などの自動車道路でも一時チェーン規制や速度制限が行なわれました。

また,中山競馬は11日に順延になり,この日予定されていたミホシンザンの引退式も次週に延期になりました。

東京で雪が降ればおきまりの相次ぐおむすびコロリンスッテンコロリン。東京消防庁の調べでは,この日だけで28人が重軽傷を負いました。私は大のおとながこれしきの雪で滑って転ぶのがいまだに信じられないのですが。

神宮外苑では,ほどよい感じで雪が降り,「思わぬ都心の雪景色に若者たちはちょっぴり“ロマンチック気分”」(毎日新聞)

雪の早明戦

12月の第1日曜といえばラグビー早明戦です。

今では12月の第1日曜と決まっているようですが,以前は12月の第1日曜以外に行なわれたこともあり,例えば1957年と1973年などは12月の第2日曜に行なわれています。

この日,国立競技場でも朝から雪が降り,グラウンドには一面の雪――。しかし,何があろうと中止にならないタテマエのラグビー,中止にしてはなるまじと約200人が雪かきに動員され,なんとかキックオフができる状態にこぎつけました。ビデオで見ると,それでもグラウンドのあちこちに雪が残っています。

試合は,先制した早稲田が一時は逆転されたものの今泉の2つのペナルティーゴールで再逆転,最後の明治の重量フォワードの猛攻を必死のディフェンスで凌ぎ,10-7で逃げ切りました。

ロスタイムにはいってからゴール前に釘づけとなった早稲田がオフサイドの反則を犯しペナルティーキックで同点という場面が2回あったのですが,明治は引き分けを潔しとしませんでした。

コンディションがコンディションだけにミスも多かったことは確かですが,とにかく白熱した名勝負でした。とくに最後の10分などはいまビデオで見ても力がはいります。

早稲田はこのシーズン,大学選手権も制し,さらには日本選手権で東芝府中も破り,学生としては(おそらく)最後の日本チャンピオンになりました。ちなみにこのときのNo.8が清宮・現ヤマハ監督です。当時は大学2年でした。

なお,ラグビーが何があろうと中止にならないというのはあくまでタテマエです。それが証拠に1996年2月18日には雪のために日本選手権の決勝が順延,1998年1月には同じく雪のために日本選手権の1回戦が順延になっています。また,1989年1月にはおよそ説得力があるとは思えない理由で全国高校大会の決勝は中止,大学選手権の決勝は順延になりました。

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※この記事は伝説の雪の早明戦 | Notenki Express 2014を少し書き直したものです。

豊橋市で竜巻 (1941年)

1941年11月28日06時40分ごろ,豊橋市を竜巻が襲い,郡是製糸工場の宿舎が倒壊して女子工員3人1が死亡したのをはじめ,全体で12人が死亡しました。12人というのは明治以降の竜巻による死者の数では2番目ですが,なぜかあまり知られていません。

1941年11月29日付名古屋新聞より:

今曉,豊橋に大旋風
死傷百五十名 倒壊三百七十戸

二十八日朝六時四十分ごろ豐橋市に秒速六十メートル(推定)の豪雨を伴ふ大旋風が襲來倒潰家屋四十四戸,半壞家屋三百三十戸,小破損家屋千餘戸を出し,下敷きとなった壓死者十二名,重傷三十名,輕傷百十三名を出した

“風速60メートル”が本当だとすれば,藤田スケールでF2クラスの竜巻だったことになります。同紙面の別の見出しでは“風の戦車”という表現が使われており,時代を感じます。

この竜巻は寒冷前線の前面の暖気内で発生したようで,同じ日,東京では“生暖かい雨”が強風を伴って豪雨となり,南部と江東方面で浸水が発生,“城東電車”が運転をストップしています。

やがて無謀な開戦とともに気象管制がはじまるので,これが敗戦前最後の気象災害報道となったと思われます。

ちなみに,豊橋はこのあとも1969年12月と1999年9月に強い竜巻に襲われています。とくに1999年の竜巻は日本で観測された4つのF3クラスの竜巻のひとつです。

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  1. 2人という資料もあります。 

11月3日は晴れの特異日?

晴れの特異日とされる日で最も有名なのはおそらく11月3日でしょう。でもホントに晴れの“特異日”なのでしょうか。

シツコいですが特異日について『気象科学事典』から引用しておきます。

暦の上の特定の日に,ある特定の気象状態が現れる割合が前後の日に比べて高い日

“前後の日に比べて高い”というのがポイントです。これを念頭に11月3日前後数日間の過去の天気を調べます。

ここで問題になるのはこれもまたシツコいですが“x月x日が晴れか否かをどう決めるのか”です。ここでは10月10日は晴れの特異日ではなかった | Notenki Express 2014と同じく次の日を晴れということにしました。

天気概況(昼:06時~18時)で“晴”がある日。ただし“雨”のある日はカウントしない

方法によって比率は変わるでしょうが,傾向は変わらないと思います。ちなみに,東京管区気象台では“日平均雲量8.5未満”かつ“日降水量1.0㎜以上ではない”を“晴”とした日別天気出現率を公開しています。

データを気象庁HPからダウンロードしてきて10月29日~11月8日について1967年~2014年の東京の晴天率を調べると次のようになります。

月/日 晴天率(%)
10/29 50.0%
10/30 56.3%
10/31 68.8%
11/01 54.2%
11/02 66.7%
11/03 64.6%
11/04 64.6%
11/05 52.1%
11/06 39.6%
11/07 47.9%
11/08 72.9%

なんかビミョーな値ですね。しかもとくに“前後の日に比べて高い”わけではありません。10月10日は晴れの特異日ではなかった | Notenki Express 2014と同じように“非雨率”を出してみると次のようになります。

月/日 非雨率(%)
10/29 70.8%
10/30 72.9%
10/31 81.3%
11/01 68.8%
11/02 77.1%
11/03 87.5%
11/04 83.3%
11/05 81.3%
11/06 60.4%
11/07 66.7%
11/08 83.3%

期間を通して雨が降りにくいので程度問題ですが,その中でも“雨が降りにくい日”とはいえるかもしれません。

10年でまとめた晴天率の5年ごとの推移は次のようになります。

期間 晴天率(%)
1970-1979 60
1975-1984 90
1980-1989 80
1985-1994 80
1990-1999 80
1995-2004 60
2000-2009 50
2005-2014 60

1970年代後半から1990年代ごろにピークがあってそれから下がってきたように見えますが,それが傾向なのかどうかはわかりません。

ちなみに,1956年11月2日付毎日新聞によると(ただし方法は不明),1881-1955年の75年間の晴天率は2日が54%,4日が52%なのに対し,3日は67%でした。それでも67%だからとくに高いとはいえませんが,1921-1955年に限定すると晴天率は70%を超えていたとのことです。

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雨のF1日本GP (1988年)

F1が日本の一般ピープルに注目されはじめ,モータースポーツがNHKでまともに取り上げられるようになったのは,中嶋悟がロータス・ホンダのNo.2ドライバーとなり,フジテレビで全戦中継するようになった1987年からでしょう。

もう28年も前なんですねえ(^^;)

そのF1人気をさらに盛り上げたのがアイルトン・セナでした。

アイルトン・セナは1987年はロータスのアクティブサスペンションが不調だったこともあってそれほどでもなかったのですが,1988年にホンダエンジンとともにマクラーレンに移ってから本領を発揮しました。

この年はマクラーレン・ホンダ旋風が吹き荒れ,イタリアGPを除いて同じマクラーレンのセナとアラン・プロストのうちどちらかが勝つという圧倒的な強さでした。

こうして迎えた1988年10月30日日本GP決勝。ポールシッターのセナがスタート直後にエンジンをストールさせるという波乱の幕開け。

プロストがスタートできないセナを横目で見ながら追い越していきます。しかし下り坂に助けられ,エンジン再始動,1コーナーを14位で回り,オープニングラップを8位で通過します。その後も驚異的な追い上げを見せ, 2周目で6位,5周目で3位まで順位を上げ,20周目には2位を走行していたレイトンハウス・マーチのカペリのリタイアがあって2位まで上がり,トップを走るプロストの背後にひたひたと迫ります。

そして27周目の最終コーナーの立ち上がりでプロストが周回遅れにひっかかってじゅうぶんに加速できないのに乗じて,セナはプロストのスリップストリームにはいり,第1コーナーでプロストのインに飛び込み,ついに先頭に躍り出ました。このときのフジテレビの空撮映像は大川アナ(当時)の実況ともあいまって絶品でした。

レース序盤から時折降っていたしぐれ模様の雨が後半にやや強くなりました。ただ,降水量としては大したことはなかったようで,最後まで全車スリックタイヤのままでしたし,レース短縮もありませんでした。

セナは滑りやすくなった路面も無難にこなしてそのままチェッカーを受け,ついにワールドチャンピオンの座に就いたのでした。

メーン・スタンド後方にかかった虹が,新チャンピオンを祝福しているように見えた。(スポニチ 1988/10/31付)

この日は日本の東海上を進んだ低気圧が千島列島付近で964mbと猛発達,東~北日本を中心に強い冬型の気圧配置になりました。

長野や松本では平年より20日も早く初雪が降って最早記録を更新したほか,各地で初雪を観測,野沢温泉では20cmの積雪があり,初滑りが楽しめました。また,43日も早く榛名山の初冠雪が観測されています。

この日,私は埼玉県の本庄市に出かけていまして,山々が雪化粧していたのをよくおぼえています。日本GPの結果が早く知りたくて,脱兎のごとく家に帰ってNIFTY-serve(当時)の時事通信ニュースを見ました。パソコン通信は当時のニューメディア(死語か)でした。 今ならあわてて帰らなくてもケータイで結果を知るどころか,ワンセグでレースを見ることだって可能です。

セナはこの年を含めて3回ワールドチャンピオンになりますが,1994年5月1日,サンマリノGPでのレース中の事故で天に召されました。若いF1ファンにとっては伝説の人なのでしょうね。

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屋島丸台風と嫁威し肉付の面 (1933年)

1933年10月20日04時ごろ,台風が中心気圧725mmHg以下の勢力で鹿児島県枕崎の東に上陸,07時に宮崎の西方,08時に愛媛県を通過,12時には瀬戸内海を横断し神戸と岡山の間に達しました。その後,14時ごろ若狭湾付近,16時ごろ金沢付近を通過して,18時には能登半島と佐渡の間に抜けました。

Image from Gyazo

かなり粗い経路図なので,上の文章で脳内補正してください。

20日07時50分,定刻よりやや遅れて高松を出港して神戸に向かった大阪商船別府航路の旅客船屋島丸(946トン)がこの台風に遭遇,13時05分に須磨沖で沈没,旅客41人及び船員26人計67人が死亡し,旅客2人が行方不明になりました。

海難審判所のサイトには次のようにあります。

 定期旅客船屋島丸 (946総トン) が昭和8年10月20日和田岬沖合で台風のため沈没して旅客41名及び船員26名計67名が死亡し、 旅客2名が行方不明となった。
 本船は、 大正4年英国で建造された鋼鉄船で船体は細長く、 英国の砲艦として使用されていたが、 上海で購入のうえ改造された船舶であった。
 本件は、 海員審判に付され、 昭和9年2月10日大阪地方海員審判所で裁決があった。
 なお、 本件は、 業務上過失船舶覆没並びに業務上過失致死被告事件として、 大審院まで争われた事件であった。

1933年10月25日付讀賣新聞によると,この沈没で,名工春日の作になる嫁威し肉付の面《よめおどしにくづきのめん》も海の藻屑と消えました。

「嫁威し肉付の面」には次のような伝説があるそうです。あそびーのマガジン(2008年)特集1|あそびーのフクイより(=リンク切れ)より:

信心深い十楽(じゅうらく)村の「お清」は夫に先立たれ、毎夜毎夜、吉崎御坊に弔(とむら)いのため通っていました。
村人の評判も良く、それを苦々しく思っていた姑の「おもと」は、お清を懲らしめようと家に伝わる鬼の面を被り、お清を夜道で待ち伏せします。しかし、お清は動じることなく、「南無阿弥陀仏」を唱えながら立ち去っていきました。慌てて家に帰った姑は面を取ろうとしますが、面は顔に張り付いてどうしても取れません。
家に帰ったお清は驚き、姑に念仏を唱えるよう勧めます。おもとが「南無阿弥陀仏」を唱えると面が落ち、その後は「おもと」も熱心な門徒になりました。

ところが,屋島丸とともに海に沈んだはずの嫁威し肉付の面が,なぜか今もあるみたいです。どちらかがマガイモノなのか,もともと複数あったのか,新聞が間違っていたのか,どうなのでしょう?

ついでですが,ある英国人女性を救助した功績により,のちに2人の日本人が英国皇帝ジョージ5世から銀牌を贈られたそうです。

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※この記事は屋島丸台風と嫁威し肉付の面 | 能天気Express Hyperに若干加筆したものです。