兵庫県南部地震の第一報

当時常連だったDEN-NETという草の根パソコン通信への私の投稿:

23-01  DEN186 95/01/17 22:46   370 信じられない
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    私が聞いた第一報は,午前7時ちょっと前ごろで, 神戸付近で停電の
    ため新幹線の運転を見合わせています,というようなものでした。だ
    から,神戸や洲本で震度6と聞いてもピンと来なかった。

    地続きのところで,街が壊滅しているなんて信じられない。

    いーちゃんはだいじょうぶだろうか?

                                                              Kink

以前からラジオをつけっぱなしで寝ていたため,ラジオで地震情報は流れていたはずですが,まったく気がつかないで寝ていたようです。

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大仏の頭が落ちる

斉衡二年五月二十三日(ユリウス暦で855年7月10日),東大寺から都に,大仏の頭が落ちた,との報告がありました。

この前,五月十日,十一日に地震の記録があることもあり(六月二十一日,二十五日にも地震の記録がある。ついでに六月一日には日食の記録がある),地震によって落ちたとされることがありますが,『文徳実録』には

毘盧舍那大佛頭自落在地

とあるだけで,地震で落ちたとは書いてありません。

誰かが故意にやったのだとしても,もうとっくの昔に時効が成立していますね(笑) 奈良県警というと,2時間サスペンスでは誰だろう?

直接関係ないですが,5月23日というと,1960年5月22日のチリ沖地震(M9.5)によって発生した津波は太平洋を渡っている最中で,まだ日本には到達していません。すでに到達したハワイでは最大波高10.5mを記録しています。

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稲村ヶ崎の奇跡?! (1333年)

鎌倉」と題する唱歌があります(芳賀矢一作詞)。鎌倉の観光ガイドのような長い歌で,次の歌詞ではじまっています。

♪七里ヶ浜の いそ伝い
稲村ヶ崎 名将の
剣投ぜし 古戦場

ここに歌われている名将とは,もちろん新田義貞です。元弘三(1333)年五月,分倍河原での一時的な退却あったものの稲村ヶ崎まで順調に攻めのぼってきた新田義貞も,天然の要害,鎌倉への侵入路を捜しあぐねていました。五月二十一日の夜半過ぎ,意を決して稲村ヶ崎の浜で数万の自軍を背にしてひとり馬から降り,兜を脱いで沖合いを伏し拝み,龍神に祈りを捧げます。

……仰願ハ内海外海ノ竜神八部,臣ガ忠義ヲ鑒テ,潮ヲ万里ノ外ニ退ケ,道ヲ三軍ノ陣ニ令開給ヘ

祈りおわって,黄金づくりの太刀を海中に投じると,なんと不思議なことに,今まで潮の干いたことがない稲村ヶ崎の海が二十余町にわたって干いたではありませんか。

どうでもいいですが,TBSの世紀のワイドショー! ザ・今夜はヒストリーでこの場面を再現したときはなぜか真っ昼間に太刀を投げ入れていました。

いずれにしても,こうして生じた干潟から義貞軍は一気に鎌倉に攻め入り,鎌倉幕府の要人はもはやこれまでとほとんどが自害。ここに鎌倉幕府は滅びるのです。

以上は太平記に載っている話です。果たして潮が干いたのはほんとうなのか? 真実や如何に?

これについては諸説あり,いちばんもっともらしい(と私が以前思っていた)のは,義貞は潮の満ち干を知っていて,士気を鼓舞するためにひとり芝居を演じたという説です。

ところが,この説には致命的な欠点があります。この日は旧暦の五月二十二日ですから,稲村ヶ崎あたりの干潮は午前2時から3時ごろです。したがって潮が干いたのは事実でしょうが,これはいつでも起こっていることで,“今まで潮の干いたことがない”稲村ヶ崎が干上がったことを説明できません。それに上州育ちの義貞が潮の満ち干についてそれほど詳しかったとも思えません。

さらに潮が干いたあとは歩きにくく,海というものに慣れていない上州の軍勢がスムーズに通れたかどうか疑問です。江戸時代の詠史川柳に

義貞の勢はアサリを踏みつぶし

というのがあります。

ということで,ドラえも~ん,なんとかしてよ~とタイムマシンでも借りない限りほんとうのところはわかりませんが,私的にはこの話は作り話で,義貞軍の本軍は稲村ヶ崎を通ったのではなく,別のところを通って鎌倉に攻め込んだのだと思います。

ただ,義貞軍本隊が化粧坂路を進んでいたころ,大館宗氏率いる右翼軍の一隊が由比ヶ浜を突破しており(ただし,大館宗氏はその後の戦いで討死),このときにひょっとして潮が干いたのを利用したのが,話を面白くするためか軍記物にありがちな針小棒大癖のためか誤ってか義貞軍本隊の話として伝えられたのでは……と思えないことはありません(根拠はないです)。

ところで,鎌倉といえば,大仏です。唱歌「鎌倉」にもあります。

♪極楽寺坂 越え行けば
長谷観音の 堂近く
露座の大仏 おわします

ここに歌われているように,奈良の大仏さんと違って鎌倉の大仏さんは露座,早い話が雨ざらしです。

もちろん,つくられた当時は大仏殿のようなものがそれなりにあったようです。ところが,3回の大風(そのうちの1回は『吾妻鏡』に載っている台風と思われますが,他は確認していません)によって倒壊,追い撃ちをかけるように1495年の津波によって流され,それ以来露座となったのでした。

この津波は,1498年の明応東海地震によるものとされてきました。しかし,最近の研究では1495年の相模湾を震源とする地震に伴う津波と考えられるようになっているようです。

それにしても,大仏殿が流されたのに大仏さんはよく踏みとどまったものです。

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九十九里で津波被害(1877年)

1877年5月11日,九十九里に津波が襲来し,犠牲者が出たもようです。

この津波は1877年5月10日にチリ沖で発生したM9.0のイキケ地震による津波がはるばる太平洋を越えて到達したものです。

『日本被害津波総覧[第2版]』によると,太平洋沿岸各地で津波が観測され,チリ北部で死者多数,ハワイでは死者5人,家屋破壊37棟などの被害がありました。日本でも函館2.4m,釜石3m,東京湾0.7mなどの津波が観測されています。

14日付の読売新聞には次のようにあります。

午後四時過ぎ滿潮で凡そ一尺あまりも引汐になると又だんだんと二尺ほども揚て來たゆゑ海邊や川筋の者は膽をつぶし大地震でも有はしまひか何だか氣味の惡い變亊だと云てゐるうちに引てしまいひました・・・・

15日付の読売新聞には九十九里での被害のようすが次のように書かれています。

・・・・午後四時ごろに再び冲の方から大波を打よせ老若男女の周章は大たならず見る間に海岸が平ら一面の浪になり其内老人子供は泣々浪に引込まれ其きり命を捨たもあり九死をのがれて小高い所へ逃のびたも有て村々は死人怪我人が餘ほど有ツた樣子で實に眼も當られぬ憐れな亊なほ委しくハ跡よりと?して來ました

北上川で12日から洪水が起こり,13日には水位が“一丈”も上がったようですが,これについては11日の大雨による影響もあるかもしれません。

具体的な被害については『日本被害津波総覧[第2版]』にも

函館と三陸沿岸で被害があった。また房総半島で死者を含む被害があった。

とあるだけです。おそらく自治体編纂の地域誌にも記述がないのでしょう。

ちなみに,当時の新聞の同じ面には

二月十七日ハ西郷隆盛が鹿児島出立にて・・・・

などという記事があり,歴史を感じます。

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