颱風が房総半島に上陸

1894年12月11日,颱風が房総半島に上陸したもようです。

「東京市史稿」より:

明治颱風誌ニ據レハ,十一月二十七日ヨリ十二月十二日ニ至ル颱風有リ。十二月十一日房総半島ヲ過グ。

また同記録によると,東京では10日には最大風速10.3m/s,降水量61.8mm,11日には最大風速13.5m/s,最低気圧735.9mmHg,降水量39.2mmを観測しています。

この颱風による強風雨のさなか,赤坂区権田原の民家から衣類数点を盗んだ泥棒が皇宮警手に怪しまれて跡をつけられたことから狼狽し,こともあろうに青山御所の土塀を乗り越えて御所の中に逃げ込みました。もちろんすぐに取り押さえられたことはいうまでもありません。「そゝつかしい奴もあるものかな」(東京朝日)。

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風が吹き荒れ 屋根が飛ぶ

4年前の今日,2004年12月5日,東京で最大瞬間風速40.2m/sが観測されました。12月では歴代1位,通年でも歴代2位の記録です。

今日は4年前ほどではありませんが,サハリン付近を通過する低気圧に向かって南よりの強い風が吹いています。

ところで,その昔「緊急指令10-4・10-10」(きんきゅうしれいテンフォーテンテン)という特撮ドラマがありました。主題歌がすばらしい。

嵐の中で ただひとり
風が吹き荒れ 屋根が飛ぶ

屋根が飛ぶって?!……めったに聞かれない歌詞です。

2番は

吹雪の中で ただひとり
風が吹き荒れ 屋根が飛ぶ

3番は

瓦礫の中で ただひとり
息が苦しい 目がくらむ

いただけないのは

緊急連絡 テン・スリー・フォー
(テン・フォー テン・フォー 了解!)

というフレーズ。“テン・フォー”は“了解”の意味であるため,“テン・フォー 了解!”というのは不自然です。ドラマの中でも使われていて,違和感がありました。

映画「252 生存者あり」の予告編でもレスキュー隊員が「252! 生存者あり~!!」と叫んでいるシーンがありますが,はっきりいってシラケます。

ちなみに,“252”は本来は生存者ありという意味ではなく,要救助者(逃げ遅れ)という意味です。“生存”しているとは限りません。「252は852。体幹轢断」とか「252は852。高度脳実質脱出」なんてたまに聞きます。

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富士山で集団学生パンパカ

1954年11月28日10時40分ごろ,富士山の吉田八合目付近で雪崩が発生,七合目付近で雪山訓練中の東大,慶大,日大の学生がこれに巻き込まれ,15人が死亡しました。

29日付毎日新聞より:

“八甲田山”以来の規模
学生登山として日本最大

“雪山の遭難の歴史”のなかでなまなましい記録はまず明治三十五年一月雪中を行軍演習のため青森県八甲田に向ったまま歩兵伍長ほか十一名を残して消息を絶った青森歩兵第五連隊二百余名の将兵の遭難事故に始まる。・・・・

なんと,映画「八甲田山」「天は我々を見放した……」で有名なあの陸軍第五連隊の遭難が引き合いに出されています。

もっとも,八甲田山で死の雪中行軍が行なわれたのは1902年ですから,当時としては52年前のできごとに過ぎず,今からこの学生集団遭難を振り返るのとあまりかわりはありません。

「八甲田山」については↓をどうぞ。

この日は低気圧が発達しながら日本の南岸を通過しており,伊豆諸島,静岡県東部,関東南部を中心に強い風雨になっていました。富士山では18時に風速43.8m/sを観測しています。こんなときに雪山訓練なんてやらなくてもねえ……。

ちなみに,富士山では1972年3月20日,春一番をもたらした低気圧によって死亡・不明24人の遭難が起こっていますが,それについては春三番の大嵐 (1972年) | Notenki Express 2014で少しふれています。

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アグネスといえば・・・

やはりアグネスデジタルですね。テイエムオペラオーと並ぶ1990年以降における日本競馬の最強馬の1頭だと私は思っています。

という話ではなくて,実は台風の話だったりします。

1948年11月12日にマリアナ東方海上に発生した“低気圧”は14日に台風アグネスAGNESとなり,19日,房総半島に上陸しました。

「気象要覧」には上陸したとハッキリとは書かれていないのですが,JTWCのベストトラックデータによると,19日の15時と21時の間に房総半島に上陸しています。その前後の中心付近の最大風速は55~50ノットです1

『続・台風物語』などによると,これは記録上4番目に遅い上陸です。

とくに強い台風ではなかったのですが,やはり台風は台風で,東京都内では墨田区で約600戸が浸水,葛飾区や江戸川区でも床下浸水の被害がありました。また,愛知県で新築中の中学校が2校,全壊しました。被害は全体で死者・不明11人,家屋全壊137棟,床上・床下浸水2902棟などとなっています。

アグネス台風は1952年11月に再度?!来襲し,上陸はしなかったものの,大島に300mmの大雨を降らせました。その後も何度かあらわれていますが(1957年7号,1960年13号,1963年8号,1965年27号,1968年13号,1971年27号,1974年22号,1978年9号,1981年18号,1984年24号,1988年7号),再び上陸することはありませんでした。

そういえば,大昔,アグネス・ラムとかいう元祖グラドルのようなタレントがデビューしたときスゴい騒ぎだったみたいですが,ある意味これもアグネス台風ですね。

ちなみに,アグネスタイフウという競走馬は昔も今もいないようです。

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おもな参考文献: 饒村曜. 続・台風物語 – 記録の側面から. クライム, 1999.


  1. これは日本で通常使われている10分間の平均ではなく,1分間の平均です。 

ノルマントン号と暴風雨

「ノルマントン号沈没の歌」と題する長~~~~~い歌があります。

岸打つ波の音高く
夜中の嵐に夢さめて
青海原をながめつつ
わが兄弟は何処ぞと

ではじまり,なんと59番まであります。「鉄道唱歌」を全部歌える物好きはいるかも知れませんが,この歌を全部歌える人がいるとすればかなりの変人でしょう(笑)

そのノルマントン号が沈没したのは1886年10月24日のことです。沈没そのものや時代的な背景についてはググればいくらでもヒットしますので,ここでは書きません。

ノルマントン号は潮岬付近で暗礁に接触する前,暴風雨に巻き込まれていました。この暴風雨が台風によるのか,温帯低気圧によるのかはわかりません。

『日本の気象史料』が引く『測候瑣談』に,『紀伊の海底の水屑』からの引用として次のようにあります。

ノルマントン号は横濱居留地三十六番館の英人 アダム,ソンベルの持船で 一五三三噸の二本檣の汽船で英國ロンドンのスコツト・ウード・オン・タイン會社の建造である……横濱と神戸の第三回目の航海として明治十九年十月二十三日午後六時に横濱を出航した ……乘客は日本人二五名であつた 船員は船長以下三十八人 支那人ボーイ一名で合計六十四名であつた

翌朝夜の明ける頃は相模灘を經て 御前崎へさしかゝるまでは天氣は良好の方であつたが 午後四時頃から荒れ出し南東の風が吹き雨を交へ 日暮の頃は咫尺も辧ぜざる程暗澹たる荒天となり 大島燈臺に近づく頃に七時三十分頃 暗礁に乘り上げ 日本人乘客は全部死亡したが船員は避難して助かつたものが多かつた

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1964年10月10日の雷雨

1964年10月10日,東京五輪開会式が行なわれました。

開会式が10月10日に決まった経緯については,この日が晴れの特異日だったからとする俗説がいまだに語られることがありますが,それがデタラメだという件については10月10日は晴れの特異日ではなかった | Notenki Express 2014をご覧下さい。

簡単にいうと,10月10日を開会式とする案はもともとは存在しなかった,それどころか10月開催という案すらはじめは存在しなかった――ということです。

さて,その1964年10月10日,北出清五郎アナウンサーの「世界中の青空を集めてきました」というようなアナウンスのとおり,国立競技場の上空には抜けるような青空が広がりました。気象庁の公式記録である「気象要覧」にも次のように記述されています。

特に10日のオリンピック開会式当日は,前日までぐずついていた天気も一挙に快晴に逆転し,奇跡的ともいわれるほどの最上の五輪日和になった。

ところがこの日,ちょうど日本選手団の入場行進が行なわれていたころ,世田谷の一部で落雷があったという記録があります。

その記録自体は手元にないのですが,

昭和39年10月10日,世田谷地方は一瞬,集中的な雷雨に見舞われ,お宅の前のトランスに落雷,付近一帯は午後2時30分から3時まで停電。当時の東京電力の記録です。

と橘警部が読み上げています。

えっ,橘警部? 橘警部って……???

はい,そうです。これはフィクションであり,実在の人物・事件等とは何の関係もありません。1985年10月10日に放送された「特捜最前線スペシャル 疑惑のXデー・爆破予告1010!」に出てくる話です。

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台風22号が薩摩半島に上陸

1955年9月29日22時ごろ,台風22号が薩摩半島に上陸しました。九州を縦断して日本海に抜け,北海道に再上陸する前後に温帯低気圧に変わりました。

この台風は,どちらかというと日本海を通過中の10月1日に発生した新潟大火で知られていますが,上陸時の中心気圧が940mbと勢力が非常に強かったため,九州から中国・四国地方にかけて暴風と高潮による被害も大きく,それに加えて竜巻が発生したこともあり,死者・不明68人,重軽傷314人など,あまり知られていない台風にしては大きな被害が出ています。

当時,柳井市南浜(ただし現在の地名。当時の地名は知らん(^^;))にあった柳井オートは,高潮による浸水を受け,さらに堤防の決壊も加わり,敷地全体が水没した上にスタンドなどの建物も全半壊しました。

翌年1月にはなんとか開催にこぎつけましたが,折からの経営不振もあり,1957年に山陽オートに移転という形で事実上廃止されました。

競馬に限らず,競輪にしても競艇にしてもオートにしても,一定水準以上のコースを維持しなければならない上に広大な敷地を抱えているわけで,しかもすぐそばに川や海があったりすることも多く,台風などの自然災害には弱いといえるでしょう。

最近では,レース場の数も減ったせいか,台風による大きな被害は聞きませんが,2004年,台風16号による高潮で高松競輪場のバンクの内側が水没しました。しかし,10月の共同通信社杯競輪(G2)は予定どおり行なわれました。ちなみに,高松競輪と観音寺競輪で2005年1月に「台風災害復興支援競輪」を開催したことは,いつかの日記で書いたような気がします(誰も読んでないでしょうけれど(笑))。

復興支援レースで大暴動が発生したこともありました。詳しくはジェーン台風が招いた鳴尾競輪暴動事件 | Notenki Express 2014をご覧下さい。

2002年には台風6号によって次のようなこともありました。

競争《ママ》馬のひざ付近まで水位

 足利市五十部町の渡良瀬川河川敷にある足利競馬場では、11日午前2時過ぎから放水路の水位が上昇、競馬場東側の厩(きゅう)舎兼住宅11棟が床上浸水した。午前4時ごろには2家族が孤立、市消防がボートで救出した。けが人はなかった。
 厩舎では馬400頭が飼育され、一時は水が馬のひざ付近まで上がってきたという。馬はぬれたエサを食べないため、厩務員は乾いた地面を探して、ぬれた干し草を干し直したり、厩舎にたまった水をくみ出すなどの復旧作業に追われた。
 ある厩務員は「馬が無事だから良かったが、脚に傷があるまま水につかると、そこから菌が入るのではないかと心配だ。しばらく気を抜けない」と疲れた表情で話した。[2002年7月12日19時3分更新]毎日新聞

いまはなき,足利競馬場……。

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1日に2つの台風が上陸

1966年9月25日の00時過ぎ,猛スピードで北上してきた台風26号が御前崎の西に上陸しました。そして10時過ぎ,ようすをうかがっていた(?)台風24号も高知県安芸市付近に上陸しました。1951年以降,同じ日に2つ以上の台風が上陸したのはこの日だけです。

この義姉妹台風の暴れっぷりについては本ブログの史上最凶の“三つ子” | Notenki Express 2014をご覧下さい。

上で“1951年以降”といちいち断わったのは,それ以前には1日に複数の台風が上陸したと思われる記録があるからです。σ(^^;)が確認しただけで3組ほどあります。

いきなり全部を紹介するのはもったいないので(笑),ここでは最も古いのだけ。

1902年9月28日,ひとつは08時ごろ布良付近を通過して08時20分ごろ横須賀の西に上陸,もうひとつは15時ごろ潮岬の東に上陸しました。

この2つの台風のうち横須賀の西に上陸したほうは足尾台風とよばれます。詳しくは本ブログの藤原効果と足尾台風 | Notenki Express 2014をご覧下さい。

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リンゴ台風のない「箱庭」なんて……

内田康夫センセの作品『箱庭』にはプロローグに1991年の台風19号,いわゆるリンゴ台風が描かれています。かなり迫力のある描写です。そして,この台風の暴風で大損害を受けた厳島神社の大鳥居付近に男の変死体が流れ着く――というのが事件のはじまりですが,これについてはリンゴ台風と箱庭 (1991年) | Notenki Express 2014をご覧下さい。

さて,つい先ほどまで金曜プレステージで箱庭が放送されていました。デキもアレでしたが(とにかくヒロインがアレではねえ……),リンゴ台風が無視されていたのはガッカリでした。もっとも,17年前の台風をそのまま取り入れると,TBS月曜ワク“沢村光彦”お得意のメチャクチャな設定になってしまいますが(例えば,『長崎殺人事件』と長崎豪雨 | Notenki Express 2014参照)。

もうひとつ。原作では東尾静江さんの夫は1993年の5年前,つまり1988年の崖崩れで死んだことになっています。これは1988年7月20~21日の豪雨によるものと思われます。

それがドラマでは,10年以上前,鉱山で働いていたときに豪雨による山崩れで死亡したことになっていました。いつの災害によるものかはもちろん不明です。

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台風13号列伝(1)

沖縄の南海上にある台風13号Sinlakuの動きが気になるところですが,忘れたころに登場する「台風××号列伝」,もちろん13号です。歴代の13号の中から今回は1953年の13号Tessを取り上げたいと思います。

とはいうものの,この台風については気象庁のHPに台風第13号 昭和28年(1953年) 9月22日~9月26日として載っていますので,台風そのものものや被害状況についてはそちらを参照してください。

ここでは気象庁のHPには載っていないことを紹介します。

13号が日本に近づいてから,気象庁の進路予想はネコの目のように二転三転しました。とくに上陸が間近となった25日の09時から12時までの間に,「室戸岬から紀伊水道へ」「潮岬から東海地方へ」「やはり紀伊水道へ」「やっばり東海地方へ」というように3回も大きく変わりました。

テスTessといえば,トマス・ハーディの小説『ダーバヴィル家のテス』(Tess of the D’Urbervilles)の主人公で,純情でだまされやすい女性です。しかし13号Tessは性格的には正反対,気象庁をだまし続けたわけです(笑) もしかして,だまされるほうが悪い?

この台風の勢力は,当時としては1945年の枕崎台風に次ぐ戦後2番目のものでした。その割に被害が少なかったのは,大都市を避けて通ったから……ということがあげられます。9月26日付読売新聞に次のようにあります。(送りがななどは原文のまま)

珍らしい“田舎まわり”型

・・・・その通過地点がほとんど大都市をさけていわば“田舎まわり”となったために幸い大都市には予想されたほどの被害をもたらさなかった。

今なら抗議殺到,まずお目にかかれない表現でしょう。

ちなみに,この13号による被害の復旧・復興をめぐる行政のドタバタを描いたルポルタージュ,杉浦明平『台風十三号始末記』(岩波新書)はなかなか面白いです。今も変わっていないでしょう。

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