チャララーン,チャラララーン,チャラチャー,チャーラララーン

1902年1月25日,旭川(当時は上川測候所)で日本の気象官署としては現在に至るももっとも低い-41.0℃を観測しました。

ちょうど同じころ,津軽海峡を挟んだ八甲田山中では,陸軍第八師団第四旅団歩兵第五連隊の雪中行軍隊が猛吹雪の中をさまよい,210名中生存者わずか11人という大惨事が発生していました(死者には救出後の死亡者・“自殺”者を含む)。新田次郎の小説のタイトルにもなっている八甲田山死の彷徨です。この記事の意味不明とも思えるタイトルは,映画「八甲田山」のテーマ(芥川也寸志作曲)の人間カラオケ版です(笑)

神成文吉大尉率いる第五連隊の雪中行軍隊210名(山口少佐をはじめとする臨時移動大隊本部14名を含む)が青森の連隊本部を出発したのは1月23日午前6時55分でした。この日の青森の最低気温は-8.7℃,風は西の微風,夜来の雪は降り続いていたものの,まず平穏な気象条件でした。ところが昼ごろ,小峠での大休止の最中に天気は急速に悪化,気温がみるみる低下し,風雪が強くなりました。このとき永井三等軍医は凍傷者の発生を恐れて帰還を具申しましたが,経緯はともかく雪中行軍を続行することになります。このころから本来編成外であるはずの山口少佐が指揮に口をはさむようになり,指揮系統が乱れ,遭難の要因のひとつになりました。

なお,雪中行軍隊の指揮官はあくまで階級がもっとも上の山口少佐だったという話もあっておそらくそのとおりだと思うのですが,ここでは通説どおりにしておきます。

そのころの気象状況について,「気象要覧」に次のようにあります。

……二十一日一箇ノ低氣壓琉球南部ヨリ南岸ニ沿フテ北東ニ走リ全國ノ天候又一變シタレトモ二十三日該低氣壓ハ極北東海ニ入リ高氣壓部ハ追及シテ天候恢復シ寒風旺盛トナリ日夲海沿岸ハ雨雪殆ト絶エス……

天気図を見ると,21~23日にかけて低気圧(とおぼしきもの(笑))が日本の南岸を進んでいます(今流にいえば南岸低気圧)。等圧線が粗い当時の天気図には描かれていませんが,もうひとつ日本海から津軽海峡付近に進んだ低気圧もあったような感じです(要するに二子玉低気圧)。23日の天気の急変は,津軽海峡付近に進んだ低気圧かそれに伴う寒冷前線の通過によるものだったのかも知れません。

ちなみに当時の新聞によると22日,降雪のために大相撲が中止(新聞には“休業”とある)になっています。この日東京で13.3mmの降水量が観測されており,降雪に換算すると数cm~10cmくらいになります。おそらく南岸の低気圧によるものでしょう。

2つの低気圧は23日には日本の東海上に出て西高東低の気圧配置になり,それと同時に猛烈な寒波が襲ってきました。青森大学雪国環境研究所の杉見良作氏は第五連隊の雪中行軍隊が通過した各地点の最高・最低気温を次のように推定しています。(2002年1月25日付東奥日報より)
http://www.toonippo.co.jp/rensai/ren2002/sechukougun/0125.html(リンク切れ)

平地と山間部で気象が違うことはある意味では常識ですが,青森市内と雪中行軍のルートとなった北八甲田山麓でも気象条件はまったく違うといってもよく,大休止中に天候が悪化した小峠付近までは青森市内とあまり変わらないものの,その先の大滝平付近からは様相が一変し,吹き上げる風と吹き降ろす風が複雑に絡み合い,気温もかなり低下します。さらに,のちに雪中行軍隊が迷いこむことになる鳴沢の峡谷は一段とひどく,雪の吹きだまりになっていました。

いずれにしても,比較的良好な天候下でも容易ではない雪中行軍であるのに,準備不足・装備不足・認識不足に加え,指揮系統の混乱,そのうえ猛烈な寒波に襲われては成功する道理はありませんでした。

(続く)

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