渋谷の地下街が水没?!

東京都内を中心に29日夜、激しい雷雨に見舞われ、150棟で床上、床下浸水した。JR渋谷駅前の地下街が約30センチも水につかるなど、住宅や商店が被害を受け、夏休み最後の日曜日を豪雨が直撃した。東京消防庁によると、中野区で計28棟が床上浸水、練馬、豊島区などで住宅計122棟が床下浸水した。
[毎日新聞 08月30日]

29日夜というのはもちろん今日の夜ではなく,1999年8月29日の夜です。

ちなみにこの日,小机駅近くの横浜国際総合競技場では,土砂降りの雨にもかかわらず,B’z LIVE-GYM’99 Brotherhoodが行なわれたそうです。はじめから降っていたわけではなく,途中から降り出したようですね。

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仏崎

今から46年前の1961年の今日,次のような事故が起こりました。

AD1961/10/26 大分で350mmを超える豪雨。大分交通別大線の電車が仏崎付近でがけ崩れに巻き込まれ,31人が死亡,36人が重軽傷

この日,大分では06時ごろから10mm/h,12時過ぎからは20mm/hの大雨となっていましたが,14時50分ごろ,大分市仏崎の大分交通仏崎のカーブで,乗客70数人を乗せた大分発亀川行き電車が通行中,線路横の高さ15メートルの崖が100平方メートルにわたって崩れ,電車は横倒しになって乗客は電車もろとも生き埋めになりました。この事故で31人が死亡,36人が重軽傷を負いました。

国鉄日豊本線が豪雨で不通になっていたのと,大雨のために下校時刻を切り上げた学校があったため,電車は満員に近い状態でした。

乗っていたK子(20)さんの話(1961年10月27日付毎日新聞朝刊)。

車内には立っている人も相当いました。私は運転手のすぐ右側に立っていました。海がたいへん荒れていたのでながめていたらゴーッという音がした。うしろを振り向いたらすでに電車はペチャンコ全く一瞬の出来事でした。運転手は非常に落着いていたようで乗客に「静かにして下さい。騒がないで下さい」としきりに呼びかけていましたが不気味なほど静かでしたので乗客は一瞬にして死亡,または気絶したのではないかと思います。

現在,この現場近くにお地蔵さまが立てられていたりして,ある種の心霊スポットになっているとかないとか。『日本縦断心霊スポット情報版』(日正堂,2000年)に次のようにあります。

ここ別大国道は、大分市と別府市の境目付近の国道10号線のことを言います。自然と海のきれいなマラソンコースとしても有名な道路ですが、実は地元の人の間では心霊スポットとしてもかなり有名なのです。別大国道沿いには電車が通っているのですが、30年以上前にこの場所で土砂崩れが起きて、そこを通っていた電車が巻き込まれたのです。

ここまでで内容がインチキだということがわかります。事故があった大分交通別大線は1972年に廃止になっているので,この本が発行されたころにはもちろん電車なんか通っていません。

聞くところによると,これはとあるサイトに投稿された文章をパクっただけのものらしいです。まあ,魔海の恐怖もそうですが,しょせん心霊スポットなんてものはなんの裏づけもなくウワサだけが広がっていくものでしょう。

その他の事件――。

AD1881/10/26 「OK牧場の決闘」

日本では“OK牧場”とよばれていますが,もともとはOK Corralで,牧場というよりは庭に近いそうです。まあ,日本と違って庭といっても広いんでしょうけれど。

AD1941/10/26 京都農林省賞典四歳呼馬競走(今の菊花賞)で,セントライト,日本競馬史上初の三冠馬に

当時の新聞などを見ると,“三冠”ということばが使われています。日本でも野球の三冠より古いことは確かなようです。

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東京湾の高潮

1917年9月25日にフィリピンの東方海上に発生した颱風が,30日の夜半ごろ駿河湾に到来し,沼津付近より上陸しました。

東京では10月1日03時30分,714.6mmHg(約953hPa)を観測,

東京に於て気圧の斯の如き低度に降りしこと中央気象台創立以来未だ嘗て之れあらず (『気象要覧』)

1日03時30分銚子で風速51.8m/s,同じく03時東京で39.6m/sを観測しました。1

東京湾では,台風の中心気圧が低かったことに加え,台風が西側を通ったために南よりの強風が吹き荒れ,さらに大潮(9月30日は中秋の名月だった)に満潮が重なるという最悪の状況となり,記録的な高潮が発生しました。

沿岸一帯もっとも害を被り家屋流出し人畜の死せるもの累々として其惨状見るに忍びざるものあり (同)

このときの最高潮位は東京湾平均海面(T.P.)上3.1mと推定されています。

当時の新聞から見出しをいくつか拾うと(東京朝日)

10月1日付

大暴風雨襲來
市内の被害甚大
東亰の始まつて以來曾てなき猛威を揮ふ

列車悉く立ち徃生
發着列車の所在不明
東亰上野兩驛の混雜

穩原小學校破壞

全市暗黒
電綫切斷して危險限りなし

品川に海嘯起る
海岸の家屋數夛浚はれ死傷者も亦夥しき模樣

月島全く孤立
慘憺たる築地河岸
暴風雨中火亊起こる

洲埼方面の慘状
海と化せる木塲方面
泥舩數十隻吹上げらる

号外も出ています。

深川は水地獄
折柄の滿潮に河川は氾濫
家皆床上に浸水す
避難民叫喚修羅塲の如し

ちなみに,当時はまだ颱風(=台風)ということばは一般化していません。

90年前とはいえ,いまの東京からは考えられない惨状です。ただ,伊勢湾台風なみの高潮が起こればいまでもどうなるかはわかりません。とくに最近は防災というと地震対策に偏る傾向が強いので,高潮は半分忘れられているかも。そういえば,明日から緊急地震速報の一般提供がはじまります。

4日になってもまだ惨状が次々と伝えられていますが,

食料品大暴騰
突拍子な白米相塲
魚類は殆ど皆無
青物は四五倍の値上

というように悪徳商人も目立ちはじめました。こういうヤカラはいつの時代,どこの世界にも現われれるようで,一昨年のハリケーンKatrinaの被害のあと,米国副大統領の息のかかった悪徳企業グループが災害をタネに荒稼ぎをしようとしていたそうです。

この台風によるおもな被害は,死者・不明1304人,負傷2022人,全壊家屋36459棟,半壊家屋21274棟,流失家屋2442棟となっています。

なお,この高潮により,江戸時代以来続いていた行徳の塩田が大打撃を受け,姿を消しました。浦安ディズニーランドが開園したころまであった谷津遊園は,その塩田の跡地につくられたのだそうです。

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  1. ともに補正前の値。 

史上最凶の“三つ子”

1966年9月22日21時,台風25号,26号,27号が同時刻に発生しました。台風の三つ子です。観測史上,三つ子の台風はこの1組だけです。双子の台風は何組かあり,最近では去年の台風7号と8号,2000年の15号と16号が双子です。四つ子以上の台風の記録はありません。

三つ子に話を戻すと,彼女たち1は仲が悪かった――かどうかは知りませんが,それぞれ独自の道を歩むことになります。中でも26号はとくに凶暴になり,5日前に発生した24号と義姉妹[1]の杯を交わし(?),24号の“鉄砲玉”として東日本に殴り込みをかけることになります。

同じ日に2つの台風が上陸

24日09時の天気図を見ると,九州に上陸寸前の大型の台風24号(984mb)があり(当時の分類では“大型で並”),その東に小さいですが965mbの台風26号があります(同じく“中型で並”)。姉貴分24号と妹分26号といった感じですが,妹分のほうが強力です。しかも,24号が上陸を躊躇していたのに対し,怖いもの知らずの26号は60km/hという猛スピードで北上し,25日00時過ぎ,御前崎の西に上陸しました。これに引きずられるように24号も重い腰を上げ,10時過ぎ,高知県安芸市付近に上陸しました。記録上,同じ日に2つ以上の台風が上陸したのはこの日だけです。

この24号と26号のように,2つの台風が東西に並んだとき,東側の台風が鉄砲玉のように高速で北上してくる――という現象は,比較的よく起こります。秋雨前線と台風 | Notenki Express 2014に出てきた1965年の24号と25号もそうでした。これは藤原効果の現われとみることができます。藤原効果については藤原効果と足尾台風 | Notenki Express 2014もご覧ください。

26号は上陸後,猛スピードのまま富士山のすぐ西を通過,関東北西部,東北地方を通って三陸沖に抜けました。台風がすぐ西を通過した御前崎では24日23時 17分に最大瞬間風速50.5m/sを観測,さらに富士山では25日01時07分に国内最高となる最大瞬間風速91m/sを観測しました。

また,26号の進路付近の静岡県北部から山梨県にかけての山岳地帯と栃木県北部山岳地帯では,南よりの強風による地形性降雨によって60~100mm/hの激しい豪雨(NHK的にいえば“猛烈な雨”)となりました。

秘湯梅ヶ島温泉

武田信玄の隠し湯とも伝えられる梅ヶ島温泉。温泉の発見は古く,記紀の時代に遡る――というような伝説の真偽はともかく,安倍川上流のひっそりとした峡谷にあることは事実です。少なくとも1966年当時はそうでした。裏を返せば世俗の交通や通信とは途絶した辺境の地ということですが,それが悲劇を生みました。

台風26号の直撃により,梅ヶ島村で25日01時までの1時間雨量が115mmを記録するなど安倍川上流では激しい豪雨に見舞われ,このため安倍川は急激に水かさを増し,2時ごろ10軒の旅館のうち8軒を押し流しました2。流された旅館の中には,慰安旅行で訪れていた県経済連の20~31歳の9人の女性職員が宿泊していた泉屋も含まれており,1人は助かりましたが,8人が犠牲になりました。梅ヶ島温泉では合わせて33人が死亡または行方不明になりました。

11kmほど下流にある梅ヶ島村役場でこの惨事を知ったのは朝になってからで,それも水死体が流れてきたという連絡を受けてからだったそうです。自衛隊などの救援隊が赴きましたが,途中の県道の土砂崩れなどで,丸1日経ってもたどり着けませんでした。

全然関係ありませんが,このblogの左上に住み着いているさすらいペット,ときどき梅ヶ島温泉で休憩します。

壊滅した文化村

山梨県足和田村では100mm/hに達する猛烈な雨が降り,25日1時25分ごろ土石流が発生しました。直撃を受けた根場集落では全戸数41戸のうち全壊32戸,半壊5戸,床上浸水4戸などほとんど壊滅状態となり,住民218人中63人の死者・行方不明者が出ました。

根場集落は豊かな森林資源によって日本一,二の文化村を誇っていました。この災害の一因が木を切りすぎたことだった――のかどうかはさだかではありません。

根場集落はこのまま廃村となりました。今も根場という地名があり,ググると“根場民宿村”などがヒットします。しかし,昔の“文化村”根場との関係は不明です。あえて書く必要がないから書いてないのでしょうが,ひたすら口をつぐんでいる感じがしないでもありません。

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  1. 当時の台風はすべて女性名なので,義兄弟ではなく義姉妹になります:-) ちなみに,24号,26号,27号の名前はそれぞれHelen,Ida,Juneで,25号には名前がありません。これは当時女性名をつけていたJTWCが台風(TS)とは認めなかったためでしょう。 
  2. “13軒のうち9軒”と書いてある新聞もあります。「気象要覧」では“11軒中9軒”になっています。 

100mm/hの雨ってどんな雨?

一昨年の今夜(要するに2005年9月4日の夜),東京,埼玉,神奈川でところによっては100mm/hを超える猛烈な雨が降りました。実測値では,杉並区下井草(杉並区観測)で4日21時50分までの1時間に112mm,三鷹市長久保(東京都観測)で4日22時20分までの1時間に105mmなどが観測されています。

σ(^^;)は90mm/hの雨なら実地体験がありますし,実験装置では200mm/hまで経験がありますが,実験装置の200mm/hより実際の90mm/hのほうが迫力がありました。

よく“滝のような雨”とか“バケツをひっくり返したような雨”というたとえがありますが,わけのわからないたとえです。滝によって水の落ちかたは違うでしょうし,1時間もバケツをひっくり返し続けたら計算上1000mm/hをはるかに超えてしまい(こんな雨はもちろん観測されたことはありません。もちろんひっくり返しかたやバケツの大きさにもよります),ノアの大洪水を超えるチョ~大洪水になるのではないでしょうか(笑)

東京の従来の都市インフラ(どこでも似たようなものかも知れませんが)はだいたい50mm/hが限界です。これを超える雨が降り続くと,まず側溝が溢れます。そしてふだんはチョロチョロとしか流れていないような善福寺川妙正寺川のような小規模な河川が,信じられないくらいの速さで増水します。地表が舗装されていることもあって保水能力がなく,降った雨がそのまま流れ込むからです。これらの川から溢水するのも時間の問題です。

ところでこの日,東京ドームでB’z LIVE-GYM2005 “CIRCLE OF ROCK”がありました。この方面から来た観客は無事に帰宅できたのでしょうか……。

B’zのライブといえば,2003年9月21-22日には台風15号が接近する中,浜松でB’z LIVE-GYM The Final Pleasure “IT’S SHOWTIME!!”が行なわれていたり,渋谷の地下街が浸水した1999年8月29日には横浜国際競技場で大雨の中,ライブが行なわれていたり……。

また,2000年8月9日には,千葉マリンスタジアムでのライブが雷雨のため2曲だか5曲だかを残して打ち切りになりました。このときメンバーのひとりが「埋め合わせは必ずするから……」といったらしいですが,埋め合わせなるものが実際に行なわれたかどうかは寡聞にして知りません。

そういえば,直接関係ないですが,毎年のように騒音問題を起こしていたエイベックスのa-nation,最近はどうなんでしょうかねえ……。

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台風11号による山崩れで旅行客1人死亡

AD????/08/29 台風11号による豪雨のため仁多町美女原で山崩れが発生。民宿に宿泊中の2人の女子大生が生き埋めになる。うち1人が死亡

このとき犠牲になったのは浅見祐子さん。浅見光彦の上の妹さんです。

一方,救出された女子大生・正法寺美也子さんは,のちに国鉄芸備線三次駅の跨線橋で不審死することになります。この事件を描いたのが『後鳥羽伝説殺人事件』で,今では浅見光彦シリーズ第1作に数えられる作品ですが,執筆当時はシリーズ化の意図はまったくなかったそうで,浅見光彦も犠牲者の浅見祐子さんの兄として,どちらかというと唐突に登場します。

以前,モデルとなった台風が実在するかどうか,調べてみました。もともと8月下旬は台風の接近・上陸が多い時期なので,候補となりそうな台風はけっこうありますが,11号が接近・上陸したのは1970年だけです。12号とアベック(死語)でやってきて,西にそれて行きました。しかし,このときに中国地方で豪雨があったという記録はありません。しかも1981年ごろの8年前という設定からして古すぎます。

女子大生の夏休みの旅行中に遭った災難ということで,日付を8月に移した可能性もあります。モデルがあるとすれば,別の日付をさがさなければならない……などなど毎年今ごろになると思い出したように調べるのですが,いまだに見つかっていません。

ちなみに,『華の下にて』に登場する台風17号も謎の台風です。

そういえば,『贄門島』などを読んでいると,浅見祐子さんは浅見家では忘れられた存在のように感じられます。お盆のときに思い出してももらえない。

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『長崎殺人事件』と長崎豪雨

AD1982/07/23 夕方から深夜にかけて長崎県を中心に記録的な集中豪雨。長与で20時までの1時間に187mm/h(日本における1時間雨量の極値)。死者不明299人,全壊家屋約1500棟,床上浸水約18000棟。重要文化財の眼鏡橋も一部崩壊

この長崎豪雨についてはググれば解説サイトがいくつも見つかりますので,ここでは述べません。

ネタバレになりかねないので詳しくは書きませんが,内田康夫センセの『長崎殺人事件』は長崎豪雨がバックボーンになっています。センセが長崎を取材に訪れたのは大水害からまだ3,4年のころだったそうで,爪痕がまだ生々しく残っていたそうです。

『長崎殺人事件』は1回だけドラマ化されました。2004年4月12日に放送された月曜ミステリー劇場「長崎殺人事件・黙秘する殺人容疑の父…鍵は島原の女!?凶器の指紋が暴く30年前の悲劇」。

長崎豪雨がどのように描かれるのか注目していたのですが,なんと原作の“5年前の水害”をそのまま使ったため,1999年に長崎県で大規模な水害が起こったという,架空の災害のデッチ上げになっていました。

このような例は他にもあります。

2005年12月26日に放送された月曜ミステリー劇場「平家伝説殺人事件…平家の怨念が最後の清流・四万十川を血で染める!?愛に飢えた女の孤独と哀しい運命」。

原作ではプロローグに伊勢湾台風が描かれており,これが伏線になっていくわけです。ところがこのドラマでは肝腎の伊勢湾台風が脇に引っ込み,“沢村光彦”は現地にも行かず,名古屋新聞(?)の見出しとして

巨大台風18号 明日にも上陸か
死者は52人に
伊勢湾台風以来の被害に

のように出てくるだけで,台風18号という架空の台風のデッチ上げになっています。

一方,1999年7月2日に放送された金曜エンタテイメント「平家伝説殺人事件…落人の子孫は,村から出ると不幸に!八百年前の恨みが今,蘇る! 故郷も年齢も同じ二人の男が死亡した。密室に秘められたトリック!! おごれる者は久しからず…落人伝説の地によみがえる死者の怨念!! 2年前のフェリーの同乗者を襲う魔物の影」では(どうでもいいけど,サブタイトル長すぎ),1999年が伊勢湾台風からちょうど40年目ということもあり,“榎木光彦”が現地の慰霊碑などを訪れています。

こう見てくると,“沢村光彦”のいい加減さが目立ちます。

挙げ句の果てに,“沢村光彦”には致命的なドラマがありました。2006年9月25日放送月曜ゴールデン「佐用姫伝説殺人事件……悲劇を招く遊女の幻?叶わぬ愛を貫く女の涙が佐賀・唐津の海に消えてゆく…」。

売春防止法が全面施行されたのは1958年ですから,呼子に遊郭があったのはそれ以前ということになり,成沢久子さんは50歳以上ということになるんですけど……?!

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雪が降る前の二・ニ六事件

だいたいこの時期に取り上げる話といえば,二・二六事件桜田門外の変になってしまいます。桜田門外で井伊直弼の首が挙げられたときには,定説どおりに雪が降っていたので,面白くもなんともありません。しかも私は幕末史がきらいですし……。もっとも,昭和史も幕末史に劣らずきらいなのですけれどね。

二・二六事件とは,いくつかの歴史書を総合すると,次のような事件です。

1936年2月26日早朝,降りしきる雪の中,皇道派の青年将校率いる第一師団歩兵第一連隊,同第三連隊,近衛歩兵第三連隊の将兵約1500名からなる反乱軍は,陸相官邸,警視庁,内大臣私邸,蔵相私邸,首相官邸などを次々と襲撃,斎藤実内大臣,高橋是清蔵相,渡辺錠太郎教育総監らを殺害し,鈴木貫太郎侍従長に重傷を負わせ,永田町一帯を占拠した。(その後についてはここでは関係ないので略)

ここで問題なのは“降りしきる雪の中”という部分です。歴史書から音声を変えて引用すると(もちろん映像にはボカシがはいっています(笑)),

1936年2月26日の早朝,降りしきる雪のなか,皇道派青年将校の一隊は……

25日の夜半から東京は30年ぶりという大雪が降りはじめた。

などとあります。他の本にも似たような記述があるものが何冊かありました。

これらの本の筆者がどこで何を調べて書いたのかは知りませんが,事実に反する記述です。

大手町にあった中央気象台の観測原簿によると,24日から25日にかけては降雪は観測されておらず,雪が降りはじめたのは26日の08時08分でした。

反乱軍が兵営を出たのは04時か04時30分ごろで,陸相官邸襲撃が05時ごろ,内大臣私邸襲撃が05時05分ごろ,首相官邸襲撃が05時10分ごろで,政府要人に対する襲撃は07時までにあらかた終わっています。襲撃場所の大半があった永田町と大手町の中央気象台とは2km程度離れているので,若干の時間の前後はあるでしょうが,それにしても“降りしきる雪の中……”などということはありません。

しかし,当時の写真を見ると,26日の早朝に雪が積もっているのは事実です。実はこの雪は23日に降り積もった雪が残ったものです。23日は04時40分から降りはじめた雪が20時45分まで降り続き(その後,みぞれから雨に変わった),20時に最深積雪35.5cmを記録しています。この積雪は当時としては1883年の46cmに次ぐ第2位の大雪で,現在でも第3位の記録になっています。

23日に積もった雪は24~25日には降雪がなかったにもかかわらず気温の低さも手伝ってなかなか溶けず,観測原簿には26日09時に“旧雪の深さ”として12.0cmが記録されています。この旧雪の上に“新雪”が降り積もったわけですが,26日の観測原簿によると新旧あわせた最深積雪は21.8cmとなっています。(※現在の積雪の記録のしかたとは違います)

ところで,当時の記録を見ると,二・二六事件の直前に“天変”がいくつか目撃されています。

まず,1月5日に仙台で流星が観測されました。そして1月13~14日は浜松で,24日には船津でそれぞれ異常な黄道光が観測されました。また,1月15日には宮崎で,2月20日には木津川尻で,それぞれ日没時に異常な光象が観測されています(木津川尻のは幻日のようですが,宮崎のは記事からだけでは不明)。さらに,1月23日には鳥取県で稲妻のような閃光とともに大音響が轟きました。おそらく火球でしょう。1月26日には箱根山で5層のレンズ雲が目撃され,2月3日には太陽柱が釧路で観測され,2月17日には根室港に蜃気楼が現われました。

天変だけでなく,地異も起こっています。2月21日,奈良県北部を震源とするM6.4の「河内大和地震」が発生,9人死亡,家屋の全半壊148棟などの被害が出ました。新聞によると総選挙の開票中に起こったとのことです。

そして二・二六事件の前々日と前日には東京で彩雲が観測されています。

とまあ,いろいろ並べてきましたが,どれも前兆などといえるものではありません。なんといっても,実際に兵乱が起こった東京で観測されたのが瑞兆とされる彩雲だったのですから。

【付記】この事件の前日,井伏鱒二が見たとされる“日を貫く白虹”については,白虹日を貫く(1936年) | Notenki Express 2014をご覧ください。

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チャララーン(2)

チャララーン,チャラララーン,チャラチャー,チャーラララーンの続きです。長すぎるタイトルを端折って短くしました(笑)

第五連隊の雪中行軍とほぼ同じ時期,福島泰蔵大尉率いる同じく第八師団第四旅団の歩兵第三十一連隊の雪中行軍隊が逆のルートから第五連隊よりもはるかに長い234kmの踏破を12日かけて成功させました。

小説や映画では話を面白くするために,第五連隊と第三十一連隊が互いに競い合ったり(というより競い合うように仕向けられたり),神田大尉と徳島大尉が八甲田山中での再会を約束したりしていますが,そこは縦割り組織のこと,お互いのことはまったく知らなかったというのが真相のようです。

第三十一連隊の雪中行軍隊の成功は,道案内に立った民間人によるところが大でした。とくに増沢から八甲田山中を命がけで先導した大深内村の7人は,現在でも「七勇士」とよばれ称えられているそうです。

最大の功労者であるはずのこの7人は,用が済むとひとことの感謝のことばも受けなかったばかりか「過去2日間の事は絶対口外すべからず」と脅しをかけられ,雪の中に置き去りにされました。しょせん帝国陸軍とはその程度のものでしょう。ちなみに,映画「八甲田山」が上映されたときは,なぜかこのシーンがカットされていました(DVD版にはあります)。

それはともかくとして,隠さなければならないような何があったのか――謎に包まれています。第五連隊の雪中行軍隊の遭難死体を見てしまった……と考えるのがふつうでしょうが(軍の恥になることだから),ひょっとして第五連隊の生存者を見殺しにしたのではないか……と考える人もいます(川口泰英『雪の八甲田で何が起ったのか』)。

ついでに,第五連隊の大隊長の山口少佐は生還後ピストルで自殺したことになっていますが,重度の凍傷を負った指でピストルの引き金が引けるのかという疑問などがあり,発見時すでに死亡していたのに,当時の考えでは指揮官の死亡すなわち負けだから,体裁を繕うために生きていることにしたのでは……ともいわれています。

さて,八甲田の雪中行軍からちょうど3年後,第五連隊と第三十一連隊が所属する第八師団はいわゆる「黒溝台の会戦」ではじめてロシアとの戦闘に参加しました。

この戦いは厳冬期にはロシア軍は戦いを仕掛けてこないと勝手に思いこんでいた無能な陸軍首脳部の虚をついて手薄な左翼方面に大攻勢をかけてきたものです。戦いは激戦となり,第三十二連隊に移っていた福島大尉と第五連隊の雪中行軍隊の生存者のひとりだった倉石大尉はともに戦死しました。

ちなみに,映画「八甲田山」の最後のテロップでは全員が戦死したとなっていますが,生還した人もいます(伊東=伊藤中尉など)。映画や小説はあくまでフィクションです。

(完)

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チャララーン,チャラララーン,チャラチャー,チャーラララーン

1902年1月25日,旭川(当時は上川測候所)で日本の気象官署としては現在に至るももっとも低い-41.0℃を観測しました。

ちょうど同じころ,津軽海峡を挟んだ八甲田山中では,陸軍第八師団第四旅団歩兵第五連隊の雪中行軍隊が猛吹雪の中をさまよい,210名中生存者わずか11人という大惨事が発生していました(死者には救出後の死亡者・“自殺”者を含む)。新田次郎の小説のタイトルにもなっている八甲田山死の彷徨です。この記事の意味不明とも思えるタイトルは,映画「八甲田山」のテーマ(芥川也寸志作曲)の人間カラオケ版です(笑)

神成文吉大尉率いる第五連隊の雪中行軍隊210名(山口少佐をはじめとする臨時移動大隊本部14名を含む)が青森の連隊本部を出発したのは1月23日午前6時55分でした。この日の青森の最低気温は-8.7℃,風は西の微風,夜来の雪は降り続いていたものの,まず平穏な気象条件でした。ところが昼ごろ,小峠での大休止の最中に天気は急速に悪化,気温がみるみる低下し,風雪が強くなりました。このとき永井三等軍医は凍傷者の発生を恐れて帰還を具申しましたが,経緯はともかく雪中行軍を続行することになります。このころから本来編成外であるはずの山口少佐が指揮に口をはさむようになり,指揮系統が乱れ,遭難の要因のひとつになりました。

なお,雪中行軍隊の指揮官はあくまで階級がもっとも上の山口少佐だったという話もあっておそらくそのとおりだと思うのですが,ここでは通説どおりにしておきます。

そのころの気象状況について,「気象要覧」に次のようにあります。

……二十一日一箇ノ低氣壓琉球南部ヨリ南岸ニ沿フテ北東ニ走リ全國ノ天候又一變シタレトモ二十三日該低氣壓ハ極北東海ニ入リ高氣壓部ハ追及シテ天候恢復シ寒風旺盛トナリ日夲海沿岸ハ雨雪殆ト絶エス……

天気図を見ると,21~23日にかけて低気圧(とおぼしきもの(笑))が日本の南岸を進んでいます(今流にいえば南岸低気圧)。等圧線が粗い当時の天気図には描かれていませんが,もうひとつ日本海から津軽海峡付近に進んだ低気圧もあったような感じです(要するに二子玉低気圧)。23日の天気の急変は,津軽海峡付近に進んだ低気圧かそれに伴う寒冷前線の通過によるものだったのかも知れません。

ちなみに当時の新聞によると22日,降雪のために大相撲が中止(新聞には“休業”とある)になっています。この日東京で13.3mmの降水量が観測されており,降雪に換算すると数cm~10cmくらいになります。おそらく南岸の低気圧によるものでしょう。

2つの低気圧は23日には日本の東海上に出て西高東低の気圧配置になり,それと同時に猛烈な寒波が襲ってきました。青森大学雪国環境研究所の杉見良作氏は第五連隊の雪中行軍隊が通過した各地点の最高・最低気温を次のように推定しています。(2002年1月25日付東奥日報より)
http://www.toonippo.co.jp/rensai/ren2002/sechukougun/0125.html(リンク切れ)

平地と山間部で気象が違うことはある意味では常識ですが,青森市内と雪中行軍のルートとなった北八甲田山麓でも気象条件はまったく違うといってもよく,大休止中に天候が悪化した小峠付近までは青森市内とあまり変わらないものの,その先の大滝平付近からは様相が一変し,吹き上げる風と吹き降ろす風が複雑に絡み合い,気温もかなり低下します。さらに,のちに雪中行軍隊が迷いこむことになる鳴沢の峡谷は一段とひどく,雪の吹きだまりになっていました。

いずれにしても,比較的良好な天候下でも容易ではない雪中行軍であるのに,準備不足・装備不足・認識不足に加え,指揮系統の混乱,そのうえ猛烈な寒波に襲われては成功する道理はありませんでした。

(続く)

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