1989年2月24日,東京地方は冷たい雨で明け,ところどころで雪が混じる寒さになりました。大手町の最低気温は2.3℃。武蔵陵墓地のある八王子では,明け方から08時まであられ,その後雨に変わり,正午の気温は3.3℃でした。
この日,都心は道路も繁華街もガラガラ。夕方になってぼちぼち混みはじめましたが,いつもの金曜日ほどではありませんでした。
以上,20年前の今日(1989年) | Notenki Express 2014を少し書き換えただけの手抜き記事でした。
1989年2月24日,東京地方は冷たい雨で明け,ところどころで雪が混じる寒さになりました。大手町の最低気温は2.3℃。武蔵陵墓地のある八王子では,明け方から08時まであられ,その後雨に変わり,正午の気温は3.3℃でした。
この日,都心は道路も繁華街もガラガラ。夕方になってぼちぼち混みはじめましたが,いつもの金曜日ほどではありませんでした。
以上,20年前の今日(1989年) | Notenki Express 2014を少し書き換えただけの手抜き記事でした。
例えば春一番 – Wikipediaに次のようにあります。
なお、「春一番」という語の新聞での初出は、1963年(昭和38年)2月15日の朝日新聞朝刊での「春の突風」という記事であるとされ、このため2月15日は「春一番名付けの日」とされている。
というわけで,今日は春一番名付けの日なのだそうです。
しかし,もうすぐ春一番? | Notenki Express 2014で書いたように,“春一番”は1962年2月11日にすでに新聞に登場しています。こんなことは新聞をちょっと検索すればわかることです。
もうすぐ春一番?では朝日新聞の記事を紹介したので,ここでは読売新聞の記事を紹介しておきます。
気象庁の話では発達した低気圧が日本海を東に進み,いわゆる“春一番”ということしはじめての南風が吹きこんだのが原因。
“春一番名付けの日”については誰が名づけたのかわかりません。Wikipediaにはいちおう出典が載っているっぽいですが,現在ではリンク切れです。いずれにしてもある程度広まっているということは根拠不明のネタをネットから拾うだけの人間が多いということでしょうねえ。
東京の2月の大雪 (1~3位) | Notenki Express 2014に引き続き,東京での2月の大雪によるドタバタです。ただし今回はランク順ではなく年代順に見ていきます。
去年の8日,14日を真っ先に取り上げるのがふつうなのでしょうが,最近のことには興味がないのでここでは取り上げません。
この日,東京で歴代4位となる積雪33cmを記録しました。
朝日新聞によると,状況は次のとおりです。
中央気象台十五日午前二時発表=八丈島付近にある九七六ミリバールの強い低気圧はますます発達しながら毎時五十キロの速さで北東に進んでいる。このため東京地方は風速二十五メートルを越(ママ)える暴風雪となり,瞬間風速は三十メートルを越(ママ)えるところもあり,積雪量は三十センチを越(ママ)え,各所に深い雪だまりを作っている。
ここまで中心気圧の低い低気圧が関東南岸を通過することはあまりなく,中央気象台でも「東京地方では前代未聞」として注意を呼びかけていました。
この暴風雪のため,東海道線はストップ,4年ぶりに都電にラッセル車が出動しましたが,一部ラッセル車もきかない箇所もありました。
時間は前後しますが,19時ごろ,上野公園のスロープにスキーヤーが数人現われ,「汽車節約のゲレンデ」とシャレこんでいたものの間もなく猛吹雪で退散したそうで(朝日新聞より),見かけによらず根性なしの連中でした(笑)
また,時間帯はよくわかりませんが,銀座でもスキーが楽しめたそうです。
暴風雪は15日朝には過ぎ去り,春の日が射して気温は7.1℃まで上がり,雪の街は一転して泥の街と化しました。丸の内,浅草などの映画館は午後からの営業となりましたが,出勤してもろくに仕事のないサラリーマンや休講の学生などでけっこう賑わったそうです。また,この日デパートでいちばん売れたのはスコップだったとか。
10日未明から降りはじめた雪は,南岸に前線が停滞したこともあり,12日まで降り続きました。降雪の深さは10日2cm,11日16cm,12日6cm,最深積雪は10日1cm,11日17cm,12日21cmとなっています。
また,北高型の気圧配置のために北から冷たい空気が下層に流れ込んできて気温が上がらず,11,12日の最高気温はそれぞれ0.0℃,-0.2℃で,これは1956年以降,東京の低い最高気温の2位と1位の記録です(気象庁天気相談所調べ)。また,2日連続で最高気温が0℃以下というのはもちろん新記録で,これ以降もありません。
この雪のため,羽田空港は一時全面閉鎖,“空港雪原”の上を除雪車が雪煙を上げながら走り回っていました。例によって東海道新幹線は遅れが相次ぎ,国電も運休が続出しました。
熱海では,交通止めで立往生したドライバーが通常1泊2000円程度の中級旅館に泣く泣く6000~8000円も払って宿泊する姿も見られました。
12日の東京競馬は中止となり,これは中央競馬会発足以来初の雪による東京競馬の中止となりました。ちなみに,東京競馬以外では中京競馬が1965年12月に雪のために中止になっています。
明けて13日は朝から久々の青空が広がりましたが,最低気温は-4.0℃まで下がり,国電各線は冷え込みと積雪のためにポイント故障やドア故障が相次ぎ,連休明けの通勤の足が大混乱しました。
最深積雪は1969年以来となる23cm。去年2週連続で最深積雪27cmを記録するまでは最近ではいちばんの大雪でした。例によって交通は大混乱,佳境にはいっていた大学入試も大きな影響を受けましたが,3連休の最中であったため,雪の量の割には混乱は少なかったようです。
ちなみに,σ(^^;)は食料調達のほかはずうっと家にいて,パラボラアンテナに積もった雪をはらった後,リレハンメル冬季五輪の関連番組をほとんど一日中見ていました。だから,この日の雪は単独ではほとんど印象がなく,リレハンメル五輪とつながって記憶されています。
17日から雪が降りはじめ,18日には最深積雪が14cmになりました。横浜では22cmを記録しています。
この雪のため15000人が参加する予定だった青梅マラソンは30回目にして初の中止になりました。
また,どんなことがあっても試合を行なうというタテマエだけは立派なラグビーの,しかも国内最高峰である日本選手権の決勝が順延になるという珍事が発生,「ラグビー本日スノーサイド」とお寒いオヤジギャグのネタになりました。ラグビーの日本選手権はこの2年後にも1回戦がやはり雪のために順延になっていますから,どんなコンディションでも試合をやるとは二度と口にできないでしょう(笑) 実際いってないようですし。
前日の17日には,北海道・豊浜トンネルの崩落によって押しつぶされたバスに閉じ込められた乗客の救出作業が行なわれ,また,ニューギニア近海で発生したマグニチュード8.0の地震に伴う津波警報が発表されました。それに加えての大雪で,テレビから目の離せない2日間でした。
なお,17日に雪の降る東京競馬場で行なわれホクトベガが快勝したフェブラリーSについては雪のフェブラリーS(1996年) | Notenki Express 2014をご覧ください。
以上,東京の2月の雪 (part 2) | Notenki Express 2014を少し書き換えただけの手抜き記事でした。
去年,東京で2月8日と14日に最深積雪27cmを記録したことは記憶に新しいところです。
平年値で見ると,東京で雪が降ることがもっとも多い月は2月で,3.7日となっています。また,2月には最深積雪が10cm以上の日数が0.4日あります。ということは平均すると2~3年に1日は10cm以上積もる日があるということです。そして10年に1日は20cm以上積もります。
さらに東京の月最深積雪の1位から4位までは2月に記録されています。
ということで,東京の月最深積雪の歴代1位から3位までを見てみましょう。
東京でもっとも雪が積もったのは1883年2月8日のことです。このときの積雪は46cmと記録されています。
1883年2月9日付の東京日日新聞によると,7日の02時ごろからみぞれが降り出し,05時ごろから雪になりましたが,そのころはまだ「降るより先に早く解たれば」ほとんど積もりませんでした。ところが,夕方から冷たい北風が吹き出し,「泥道の氷の上に降積りて夜半許には一尺の上に満たるが此頃より風が益ゝ荒く雪が彌ゝ降頻りて……」という状況になりました。そして翌日は一面の銀世界。
戸外に出れば扠も降積みにけり。軒下の雪除ある所にても三尺に近く満たれば況て往来の風の吹溜る所(?)にては五尺より六尺にも及びたらんか
ちなみに,大坂(当時)でも「実に二十年以来の大雪」だったようで,12日付の東京日日新聞によると,7日午後6時から降りはじめ,8日午前6時には「大坂市中の積雪一尺一寸余」積もったようです。
“尺”とか“寸”とかいった単位に時代を感じます(笑)
ちなみに,翌日の9日には白木屋の来客が0人という椿事が発生しました。白木屋,来客0人(1883年) | Notenki Express 2014をご覧ください。
東京の歴代2位の積雪は,1945年2月22日に記録した38cmとなっています。しかし敗戦が決定的になっていた時期のせいか,気象管制がなされていたせいか,裏表の2面しかない紙面のせいか,新聞には記事が一切ありません。翌23日付の朝日新聞の第1面には
神風特攻隊第二御楯隊二空母を撃沈す
空地呼應硫黄島の敵に痛撃
などの空しいというか痛々しい文字が見えます。
ちなみに,この月の25日から26日にかけてもかなりの降雪があったようですが(最深積雪等はそのうち調べますm(_ _)m
),この日米軍によるはじめての東京への大規模空襲がありました。
東京の歴代3位は,1936年2月23日に記録した36cmとなっています。
実は同じ月の4日に31.5cmの積雪があり,「四十九年来の暴風雪」「悽愴,雷電を加へて狂乱」「全市の動脈停止す」「白魔の蹂躙・帝都を闇に化す」などと新聞に書かれていました。
この大雪がいい教訓になったのか,新聞で見るかぎり,23日のほうが積雪が多かったにもかかわらず,混乱は少なかったようです。新聞には「徹夜で護るレール」「東鐵は熱湯戦術」「市電でも終夜運轉」などの見出しがあります。
4日のときにはホテル替わりにされてしまった各劇場も,いい教訓――というより懲りたのか,さっさと閉場時間を切り上げてしまったようです。
なお,この23日の雪は気温が上がらなかったために26日まで残り,二・二六事件で反乱軍が踏みしめた雪になっています。一部の歴史書にある「25日の夜半から東京は30年ぶりという大雪が降りはじめた……」などという記述はデタラメです。東京では24日から26日の朝まで降雪は観測されていません。
東京の都心など平野部も積雪 – NHK 首都圏 NEWS WEBより一部引用:
低気圧の影響で関東甲信地方は広い範囲で雪が降り、東京の都心など、関東の平野部でも雪が積もっています。
このあともしばらくは甲信地方や関東北部の山沿いを中心に雪が降ると予想され、気象庁は交通への影響や路面の凍結などに注意を呼びかけています。
気象庁によりますと、低気圧が本州の南岸を東へ進んでいるため、関東甲信地方は30日の明け方ごろから広い範囲で雪が降り、東京の都心など平野部でも雪が積もっています。
午後2時の積雪は長野県松本市で13センチ、甲府市で6センチ、宇都宮市で4センチ、東京の都心で2センチなどとなっています。
また、気温もあまり上がらず、午後2時の気温は甲府市で0度7分、さいたま市で1度1分、東京の都心で1度2分、宇都宮市で1度3分、横浜市で1度7分などとなっています。
東京都心(北の丸公園)の最深積雪は11時の3cmでした。
東京で雪が降るとこの程度の雪であってもおきまりのおむすびころりんスッテンコロリン。降雪の都内、20人転倒し病院へ 手首骨折した男性も:朝日新聞デジタルより:
東京消防庁のまとめによると、東京都内では降雪の影響で30日正午までに2~83歳の20人が転倒し、病院に運ばれた。いずれも命に別条はないという。
運ばれたのは男性9人と女性11人。立川市では同日午前6時ごろ、30代の男性が出勤途中に路上で転倒し、左手首の骨が折れるけがを負った。
13時過ぎに去年の12月まで使われていた大手町の(旧)露場に行ったところ,次のようなようすでした。
積雪は0~1cmってところでしょうか。同時刻の北の丸公園の積雪は2cmでした。
このあたりに北の丸効果が現われているような気もしますが,顕著なのはこれ(笑)↓
北の丸公園のKY感w pic.twitter.com/7B3Pn7fQUP
— Yagi Kei (@yagikei) 2015, 1月 30
ちなみに,私の住んでいる埼玉県南部の端っこでは18時過ぎに積雪が3~4cmありました。雨でどのくらい解けたかわかりませんが,最深は5~6cm程度あったと思います。
気象庁では顕著な災害を起こした自然現象については固有の名称をつけることになっており,2015年1月30日現在,26の気象現象について名称がつけられています。その中で唯一の温帯低気圧が昭和45年1月低気圧です。なぜか気象庁の気象庁 | 災害をもたらした気象事例には掲載されていません。
1970年1月29日午後沖縄西方海上に発生した1010mbの低気圧は発達しながら60km/hで北東に進み,30日15時には足摺岬付近で996mbとなり,紀伊半島に上陸,31日03時には静岡付近で976mbに発達しました。その後,進路を変えて関東北部から東北地方を60km/hで通り岩手県から太平洋に抜けました。今でいえば爆弾低気圧ですが,当時は爆弾低気圧ということばはありませんでした。
この低気圧が引き起こした暴風雨雪による被害はほぼ全国に及び,死者・不明25人,住家全壊45棟,同半壊126棟,同破損736棟,同流失9棟,床上浸水925棟,床下浸水3497棟,船舶流出・沈没293隻などとなっています。
被害が大きかった原因は,低気圧が強かったこともさることながら,気象庁の予報ハズレ,警報の出し遅れでした。31日付読売新聞夕刊より。“日本語でおk”って感じの記事です(笑)
台湾坊主があばれて各地に被害が続出した。なぜ予報がおくれたのか。
「東京サバクにおしめり」「雨量は五,六ミリ」というのが,三十日昼ごろの気象庁の予報だっが一夜あけてみたら,東京地方の雨量は五十八ミリ。平年の一月分(四十八ミリ)を一日で軽くオーバー。
ところが,気象庁が「これはおかしい」と,低気圧の異常な発達に気づいたのは三十日の夕方になってから。午後三時に,四国付近にあった“旋風”の目は九九六ミリバールで,ぐんぐん発達する勢い。ここで,午後四時,東京地方に初めて「風雨波浪注意報」が出た。やがて三十一日午前三時二十五分に「大雨強風波浪注意報」に切り替えられたが“赤信号”の「暴風雨波浪警報」が出たのは朝の五時十分という遅れ方。小名浜港で「空光丸」が遭難したあと。
低気圧は二つの目を持ち太平洋岸と日本海側とを併進し,東京地方が九七四ミリバールという最低気圧となったのは午前七時過ぎだが,低気圧の前面に回り込んだ南風による被害は明け方がピーク。警報はすべて後手,後手と回ったわけだ。
しかし,三十日午後八時には富士山頂の測候所では五十メートルの強風を記録したあと,風速計がふっとんでしまった。大荒れの“前兆”はあったのだ。
「まさか夜中にコースがずれ,発達するとは考えなかった」と予報官たちはいうが,そうした動きをつかむのが役目のはず。
ついでに,31日の夕刊から見出しをいくつか拾ってみましょう。例外なく台湾坊主が使われています。
“台湾坊主”各地で大暴れ
大雨・強風・ヒョウ・落雷 不意打ち“台風”
各地で火事や浸水騒ぎ
(朝日)抜打ち“冬台風” 強烈パンチ
絶叫,大波に消える 空光丸巡視船も手が出せず
東京で二百戸浸水
八重洲通りにはポッカリ大穴
(毎日)“いたずら台湾坊主”大荒れ
豪雨・強風・バカ陽気
(読売)
このようにすっかり定着していた“台湾坊主”ですが,前にも書いたように,1975年3月に気象庁が台湾低気圧(=死語)にいいかえるように部内に指示したことがきっかけで,新聞でも使われなくなりました。
ちなみに,どうしてこんな指示が出されたのかというと,憶測に過ぎませんが,1974~1975年に日本,カナダ,アメリカ,オーストラリア共同で行なわれた「気団変質観測計画」(AMTEX)がきっかけではないかと思われます。研究結果を Taiwanbozu is a one of the most… なんて報告するわけにはいかなかったのではないでしょうか。
まあ,気象庁やマスコミが使わなくても,部外者が使う分にはいっこうに差し支えないです。
以上,観測史上最強(?!)の台湾坊主(1970年) | Notenki Express 2014に若干加筆しただけの手抜き記事でした。
今日は午前中に運転免許の更新に行って,午後から時間があいたため,気象神社に行ってきました。
場所はここです。
気象神社はこのブログでは意外なことに初登場ですが,ググればいくらでも情報が出てくるので,詳しくは書きません。
過去に何度か行っており,明後日気象予報士試験が行なわれるといっても直接関係あるわけではなく,どうして今日行ってきたかというと,これです。
ポータルキーをゲットしに行ってきたのです。2個取ってきました。それだけの話です。いつまで保つかわかりませんが,レゾネーターも3本挿してきました。
アンハッピーマンデーのせいで今はさまようよろいと化していますが,1999年までは1月15日が成人の日でした。
その1月15日の恒例行事として,かつてはラグビー日本選手権,「NHK青春メッセージ」(またはその前身の「NHK青年の主張コンクール」)などが行なわれ,NHKで生中継されていました。
「NHK青春メッセージ」の視聴率は平均して3~4%ってところだったようですが,1998年だけ突然10.9%にはね上がっています。朝6時~深夜0時の総世帯視聴率も歴代9位の59.5%を記録しました。
この日1998年1月15日,関東地方は未明から大雪に見舞われ,東京の積雪は1月としては1984年以来の16cmに達しました。
“雪の成人式”となった各地の会場の参列者はいつもの年よりもかなり少なく,さびしい式典となりましたが,そのおかげで,当時すでに問題になっていた式典会場やそのまわりなどで大騒ぎするバカもほとんどあらわれなかったようです。
汚れるのを気にしながらも,一生に一度の機会だからと晴れ着にブーツ姿の女性も多く見られました。
成人式以外を見てみると,神奈川県大和市のOLは午前11時ごろ,3年前に買ってからほとんど使っていないスキー板を持ち出し,「あんた,信じられない」という母親のあきれた声をものともせず,坂道に何度もシュプールを描きました(16日付朝日新聞より)。
16日付読売新聞には,新宿駅西口からスキーで帰宅するオッサンの写真が載っています。ホントにスキーで家までたどり着いたかどうかは知りません。
このように屋外に娯楽を見いだす人も一部にはいましたが,多くの人は外出もままならず,娯楽といえばテレビでした。この日の総世帯視聴率や「NHK青春メッセージ」の視聴率がはね上がったのも宜なるかなです。
なお,雪の成人式で一昨年(2013年)を素通りするのも芸がないので,ネットニュースから記事を2つほど引用しておきます。
大雪の「成人の日」交通機関も混乱 – 社会ニュース : nikkansports.comより:
急速に発達した低気圧の影響で、関東甲信と東北の太平洋側は14日、広範囲で雪となった。東京都心など首都圏でも積雪があり、交通機関が混乱した。気象庁は大雪への注意を呼びかけた。
東京都内では成人式に出席した振り袖の女性が足元を気にしながら歩く姿も目立った。
気象庁によると、14日夕までの最大積雪は、山梨県富士河口湖町36センチ、埼玉県秩父市と福島市14センチ、横浜市13センチ、東京都心(大手町)8センチ、千葉市5センチなど。東京都心と横浜市は初雪だった。
低気圧は発達しながら本州の南海上を進んでおり、西・東日本の広範囲で沿岸部を中心に風も強まった。長崎県の雲仙・普賢岳で最大瞬間風速34・7メートル(1月として観測史上最大)を記録した。
国土交通省によると、羽田空港では除雪作業のため、4本ある滑走路のうち2本を一時閉鎖。羽田発着便を中心に400便以上が欠航となった。成田空港でも除雪のため滑走路2本のうち1本を一時閉鎖した。
JRによると、東京発の東北新幹線や上越新幹線に最大約50分の遅れ。中日本高速道路によると、中央自動車道や長野自動車道の一部で通行止めとなった。
東京・国立競技場で開催予定だった全国高校サッカー選手権の決勝は、降雪のため19日に順延。
東京都墨田区の成人式に参加した大学1年生八木翔子さん(20)は「振り袖を着ているので大変だったけど、久しぶりに中学の友達に会えたから」と笑顔だった。(共同)
さいたま市では雪が降りうっすら積もるなかで成人式が開かれました。
さいたま市の成人式は、中央区のさいたま新都心の「さいたまスーパーアリーナ」で開かれました。
さいたま市では午前9時すぎから雪が降りはじめうっすら雪が積もるなか、振り袖やスーツ姿の新成人が次々と会場を訪れました。
中には、振り袖姿でブーツを履き足もとを気にしながら歩く姿も見られました。
ことしのさいたま市の新成人は1万2474人と前の年に比べ135人増えています。
専門学校に通う20歳の女性は「とにかく寒いです。祖母に言われ滑らないようにブーツをはいてきました。勉強を頑張りたいです」と話していました。
以上,雪の成人の日の珍事 | 能天気Express Hyper (2009/01/12)を書き換えただけの手抜き記事でした。
天和二年十二月二十八日(グレゴリオ暦では1683年1月25日,以下同様),駒込大円寺から出た火は,折りからの北西の季節風に煽られて本郷,神田,伝馬町,日本橋に燃え広がり,3500人以上の死者を出しました。これが江戸十大火のひとつお七火事です。
お七(八百屋お七)は実在の人物で,放火の咎で天和三年三月二十九日(1683年4月25日)に火炙りの刑に処せられたのも事実のようですが,お七が放火した火事については天和二年一月説,天和三年三月説などがあり,特定できる確固たる根拠はありません。ただ,皮肉なことにお七火事がお七が放火した火事ではないことは確かなようです。σ(^^;)的には,お七の放火は天和三年三月だとするのがもっとも違和感がありません。
この火事は天和三年三月二日(1683年3月29日)の夜,本郷の森川宿の八百屋の娘お七が近くの商家に放火したところを通行人に発見されすぐに消し止められたというもので,今流にいえばボヤです。しかし,当時はボヤでも放火は放火,市中引き廻しの上火炙りと相場は決まっていました。
放火の動機については,天和二年十二月二十八日の火事(要するにお七火事)でお七の家も被災して正仙院というお寺に仮住まいした際,そこの“イケメン”と恋仲になったのですが,新居が完成して会えなくなり,再び火事になれば会えるという妄想が放火に駆り立てたとされています。
このあたりは諸説ありますが,お七の年齢,被災した火災,仮住まいしたお寺や“イケメン”の名前などに違いはあるものの,大筋では似たりよったりです。
お七のお墓は文京区白山に現在も存在します。知る人ぞ知る恋愛成就のパワースポットです。
内田康夫センセの『追分殺人事件』では,1987年3月8日にこのお墓の前で男の変死体が発見されることになっています。作品では前日から雪が降っていたことになっていますが,実際に東京では午後から雪になりました。降雪の深さ合計は7日が3cm,8日が2cmとなっています。
ちなみに,2004年に放送された女と愛とミステリー 信濃のコロンボ事件ファイル5 追分殺人事件では,雪は積もっていませんでした。死体が発見されたのはここです。
明日12月28日は中山競馬場で有馬記念が行なわれます。
聞くところによると,かつてはJRAは協定で12月28日~1月4日は開催できないことになっていたそうで,2003年のJBCデー(11月3日)に開催予定のなかった福島競馬場で開催することにしてJBCの馬券をJRAの施設で販売することを引き換えに12月28日に開催する了解を取りつけ,28日に有馬記念を行なえるようになりました。
そのおかげで,28日有馬記念→29日東京大賞典という強力ラインアップが可能になったわけです。
ちなみに,ラインアップはさらに30日KEIRINグランプリ→31日スーパースター王座決定戦(オートレース)と続きます。
話が大晦日まで飛びましたが,以上のようなわけで12月28日の有馬記念は歴史が浅く,過去に2回しか行なわれていません。
さて,12月28日の最初の有馬記念,その前日(2003/12/27)の天気図です。
中山競馬場には未明から雪が降りました。
27日に中山競馬で予定されていた中山大障害(J・GI)は積雪のため中止、来年の1回中山2日目10R(1月10日)に代替開催されることになった。芝コースで行う予定だった平地全5レースもすべてダートに変更。発走時刻も1Rを10時45分に繰り下げ、昼休みなしで全11競走を行った。
中山競馬場のある千葉県北西部は27日未明から雪が降り約5センチ積雪。ダートコースはハロー(馬場整備)をかけ続けたため積もることはなかったが、芝コースはすっかり雪に覆われた。「中山大障害は28日に行うのか」。「代替もせず中止になるのでは?」と厩舎関係者は一時、戸惑いを見せたが、JRAは午前8時、中山大障害の中止とダート変更を決定した。ビッグテースト騎乗で有力視されていた常石騎手は「残念ですが仕方ないこと」と話し、中山を後にした。「GI競走が積雪によって延期となったことは記憶にない」とJRA報道室。なお交流GIでは98年ダービーグランプリ(盛岡競馬場)が14センチの降雪のため順延となったことがある。
一面雪景色となった芝コースは除雪作業が行われ、正午までには内、外回りともに雪が取り除かれた。
(スポーツニッポン)
雪が1日遅れていたらどうなっていたのでしょうね? 年を越して最初の重賞が有馬記念とか,あるいはダート変更でノングレードの有馬記念とか,面白いことになっていたに違いありません。
このときの雪の写真は残念ながら見つかりませんでした。かわりに翌年の東京大賞典当日の東京の雪の写真があったので載せます。