大蔵省炎上 (1940年)

♪あゝ 一億の民は泣く~と歌われた紀元二千六百年の1940年6月20日21時53分,麹町区大手町の逓信省航空局新館に落雷して炎上,火はみるみる広がり,航空局新館・旧館,農林省営林局,神田橋税務署,対満事務局,厚生省,大蔵省などが全焼しました。中央気象台の一画も焼けました。

「気象要覧」によると,このときの雷雲は17時30分ごろ荒船山の東斜面に発生し,御荷鉾山→群馬県藤岡町→熊谷市鴻ノ巣町→大宮町→浦和市と移動してきたもので,東京市で大暴れしたあと,23時10分ごろ千葉県勝浦町沖の太平洋で消滅しました。ひとつの雷雲がこのような長時間にわたって存在し続けるとは考えにくいので,おそらくマルチセル型だったのでしょう。

この年は奇しくも平将門公の没後1000年にあたっており,雷が落ちたのは将門公の首塚の近くでした。もともと大蔵省はこの首塚を取り壊そうとした経緯があるので,将門公のたたり再燃と噂されました。平将門は菅原道真の生まれ変わりという説もあるそうで,そうだとするとたたりの手段に雷を使ったというのも説明がつきます。

ちなみに,大蔵省本庁舎に落雷したとする文献やサイトがありますが,誤りです。そちらのほうが話としては面白いですが。

※この記事は大蔵省炎上 | 能天気Express Hyperほとんどそのままです。

付記

国会図書館の近代デジタルライブラリーで中央気象台彙報. 第17冊 昭和15年6月20日關東地方の大雷雨 雷雨報告という文献が公開されています。

20140620-1

興味のあるかたは検索してみて下さい。URLを貼るなどという親切なことはしません。

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楽しい?!高波見物 (2004年)

2004年6月21日の9時半ごろ,台風6号が室戸市付近に上陸,徳島市付近を通過し,13時過ぎに明石市付近に再上陸。死亡2人,行方不明3人,重軽傷19+99人などの被害を出して去っていきました(消防庁まとめ)。

死亡・不明の詳細は次のようになっています。

  • 6月18日……13時10分頃,東京都神津島村鴎穴の食道岩礁において,釣りに来ていた73歳男性が行方不明
  • 6月19日……19時30分頃,静岡県静岡市内の海岸において,21歳と20歳の男性2名が友人とバーベキューをしていたところ,高波にさらわれ行方不明(6月20日4時35分 20歳男性の遺体発見(同時刻,身元確認),5時50分 21歳男性の遺体発見(同時刻,身元確認))
  • 6月20日……13時30分頃,和歌山県美浜町の煙樹ヶ浜において,19歳男性が友人と打ち際で遊んでいたところ,高波にさらわれ行方不明
  • 6月21日……13時30分頃,和歌山県和歌山市加太の大波止赤灯台付近において,26歳男性が友人と波を見物していたところ,高波にさらわれ行方不明

6月18日の件は不明ですが(最後になっていきなり出てきた不明者なので),あとの3件は似たり寄ったりです。要するに,波を見物に行ってその波にさらわれたという,事故というより自爆です。

2年前(2012年)の今ごろ台風4号が北上してきたときに,この2004年の6号について

九州から東海地方にかけて大雨を降らせ,死2,不明3,負傷者116人の被害

というような記事を見かけましたが,死者と不明者は上記の連中です。大雨は関係ありません。

ちなみに,2012年の4号が上陸したのは2年前の今日です。

加太海岸での自爆

6月21日に加太海岸で3人組が波にさらわれたときのようすは,ビデオカメラでバッチリ捉えられていました。テレビのナレーションにもありましたが,あの3人組は防波堤で度胸試しのようなことをしていたようです。3人組の「なぁんだ,たいしたことねえじゃねえか」「こんな波,チョロいチョロい」というような声が聞こえてきそうな波が何発か去ったあと,それまでの波とは比べものにならない高波が押し寄せ,アッという間に3人組をのみ込みました。

近くの漁船のそれこそ命がけの救助によって2人は救助されましたが,1人はそのまま外洋に流されたようです。

まあ,あえていわせてもらえばあんなヤツらを助ける必要はないと思いますが,漁師さんにとっては,自分たちの海があんなヤツらに穢されてたまるか,という思いがあったのかもしれません。

一発大波

海の波は,いろいろな高さの波が混じっています。人間の目に感じる波の高さは,全部の波を高いほうから並べたとき,高いほうから3分の1の平均くらい,といわれています。したがって,人間が感じるよりも高い波が必ず混じっているわけです。

そして,100波に1波はこの1.5倍,1000波に1波はこの2倍の高さになることが統計的に導かれます。これは“一発大波”とよばれます。おおざっぱに,波の周期をかりに6秒とすると,だいたい10分に1波,100分に1波は平均的な波の高さのそれぞれ1.5倍,2倍の波があらわれることになります。

なお,これはあくまで統計上の話なので,一発大波がいつあらわれるかは実際には予測ができません。

水の流れの怖さ

海岸では一発大波だけが怖いわけではなく,もともと水の流れは想像以上に怖いものです。底がしっかりしている流路でも,3m/s 程度の流れがあれば,30cm ほどの深さで歩行は困難になります(体験済み(笑))。3m/s といえばかなりの急流ですが,2m/s 程度の流れでも深さが 50cm もあればやはり歩行が困難になります。砂浜では砂自体が動きますから,なおさらです。ちなみに,子どもの場合は 1m/s 程度の流れがあれば深さ 30cm 程度でも歩行が困難になります。川や海では一瞬たりとも大人が目を離してはいけないということです。

6月19日の事故は,静岡大学モダンダンス部御一行様(総勢60人)がよせばいいのに静岡市高松の海岸でバーベキュー大会(一種の合コン?)を開き,部長の忠告を無視して波打ち際に遊びに行った数人のうちの1人が,尻もちをついた拍子に胸の高さまで水につかって波に引き込まれ,それを助けようとしたもう1人も波にのまれた……という事故のようです。水の怖さをなめてかかった,起こるべくして起こった事故でしょう。

ちなみに,海岸には離岸流(リップカレント)とよばれるハマるとたとえ北島康介やイアン・ソープでも逃げられないかなり恐ろしい流れがありますが,長くなるので,またの機会といたします。

ところで,静岡大学モダンダンス部御一行様は,もちろんちゃんとバーベキューのあとかたづけをして帰ったんでしょうねえ……。

小学生じゃあるまいに

6月19日の事故を受けて,静岡大の天岸祥光学長は次のようなコメントを発表しています。

今後は部活動の顧問教員などを通じ,危険な状況があれば,それに近づかないよう学生に注意を促したい。

なんか小学生を相手にしているみたいです。

海に行くときは,フジツボの恐怖のような作り話を怖がるよりも,海はもともと怖いところだということをしっかりと肝に銘じてほしいです。などとエラそうなことを書いているσ(^^;)はといえば,別の意味で海は怖いことをよく承知しているので,海には近づかないようにしています(笑)

ちなみに,この台風によって近江八幡市にあるラブホテルの屋根が飛び,東海道新幹線の架線を切断,7時間にわたって運休させるという珍事も発生しています。ラブホテルの屋根 新幹線を止める (2004年) | Notenki Express 2014をご覧ください。

※この記事は楽しい?!高波見物 | 能天気Express Hyperほとんどそのままです。確かもともとはココログだったおぼえが。

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この間の遺恨おぼえたか!! (645年)

皇極天皇四年六月十二日,飛鳥板葺宮の殿中において,中大兄皇子が蘇我入鹿に突然,

この間の遺恨おぼえたか!!

と斬りかかりました。留守居役の中臣鎌足も

殿中でござる!!

と止めにはいるふりをして中大兄に加勢して蘇我入鹿にひと太刀ふた太刀浴びせたものだから,蘇我入鹿は

話せばわかる!!

と抵抗することもできずその場で絶命しました。

これが世にいう乙巳のクーデターです。なんかちょっと(かなり?)違うような気が……。

ちなみに,『日本書紀』のこの日の条に

是日雨下潦水溢庭

とあります。時期的に梅雨末期にあたり(ユリウス暦で645年7月10日),飛鳥付近にいわゆる梅雨末期の豪雨でもあったのかもしれません。

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まぼろしのワールドカップ台風上陸 (2002年)

日本で国際的な大きなイベントが開かれたとき,決まって台風がやってきたものです。1964年の東京五輪しかり,1970年の大阪万博しかり。

2002年のW杯もそうでした。

W杯サッカー開催中の2002年6月11日12時05分,気象庁から次のような台風情報が発表されました。

平成14年 台風第4号に関する情報 第60号

 平成14年6月11日12時05分 気象庁予報部発表

(見出し)
台風第4号の中心は、11日12時前に、高知県東部(安芸市付近)に上陸
しました。

(本文)
なし。

6月11日の京都新聞のWebニュースから――:

台風4号高知に上陸 W杯に水差さないで

台風4号は十一日正午前、高知県東部の安芸市付近に上陸した。今年の台風上陸は初めて。台風は勢力を弱めながら紀伊半島方面に進んでおり、午後に熱帯低気圧に変わる見通しだが、四国から東海にかけて大雨の恐れがあり、気象庁は警戒を呼び掛けている。

・・・(中略)・・・

▽台風接近に備え避難所確保

十一日夜、カメルーン-ドイツ戦が行われる静岡県に台風4号の接近が予想されることから、同県やW杯日本組織委員会(JAWOC)などは十一日、避難所の確保など準備を始めた。

同県は、新幹線が運転停止した場合、スタジアム近くの袋井市の三つの体育館に分散して避難させることを決め、同市に協力を要請した。

JAWOC静岡県支部は、強風に備えてスタジアム周辺に設営したテントや看板を撤去。試合終了前後にJRが不通になった場合は、復旧するまでの間、観客にスタジアム内にとどまってもらうことも検討している。

JAWOCは、強風で物が飛んだり、雷が激しくなったりした場合は、試合の中断もあり得るとしている。試合は同日午後八時半から始まり、午後十時半ごろ終了する見込み。

ところが7月2日,W杯の終了を待っていたかのように(?),この台風について気象庁から次のような報道発表がありましたとさ。

台風第4号の上陸について

気象庁は、台風第4号が本年6月11日に高知県東部(安芸市付近)に上陸したと 発表しました。しかし、その後の各種気象資料による詳細な解析の結果、この台風は 上陸前にすでに勢力が熱帯低気圧に弱まっていたことが判明しましたのでお知らせ します。この結果、台風第4号は「日本本土への上陸台風」ではなくなりました。

※この記事はまぼろしのワールドカップ台風上陸 | 能天気Express Hyperを少し手直ししたものです。

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台風が女性名から番号に (1953年)

中央気象台は1953年6月4日から,台風の名前を英語圏女性名から発生順位番号に変更しました。

敗戦後それまではカスリーン,アイオン,キティ,ジェーン,ルースなどの名前の台風が新聞紙上を賑わせていましたが(ただし,カタカナは統一されていたわけではないので,キャスリーン,キッティなどと表わされることもあった),これ以降,“台風××号”一色に染まることになります。

同時に,それまで“弱い熱帯低気圧”,“熱帯性低気圧”,“台風”の3段階だった熱帯低気圧のクラス分けが,“弱い熱帯低気圧”と“台風”の2段階に変更されました。

ちなみに,現在では“弱い熱帯低気圧”は“熱帯低気圧”に変更になり,たんに熱帯低気圧というとき,一般的な熱帯低気圧のことなのか,以前の“弱い熱帯低気圧”のことなのか,まぎらわしくなっています。σ(^^)などは以前の“弱い熱帯低気圧”をただの熱帯低気圧とかノーブランドの熱帯低気圧とかいっています。σ(^^)など公人でもなんでもないので,何とよぼうとσ(^^)の勝手です。

さて,番号台風の第1号となったのは1953年の2号でした。1号でなかったのは,1号は2月にすでに発生していたからです。

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この台風は5月29日09時に“弱い熱帯低気圧”として発生,同日15時に台風になりました。名称変更前なので,このときはまだ2号ではなくJUDYでした。その後,ルソン島に上陸,先島諸島付近を通って東シナ海に進み,6月7日09時過ぎ八代湾から九州の北西部に上陸しました。1953年6月7日付読売新聞夕刊の見出しから:

「台風第二号」熊本上陸 熱低に衰弱して東進
死者十名 山陽地方被害甚大
五名が圧死 門司で崖崩れ 筑肥線不通

この台風で,死・不明53,負傷53,家屋全壊98,同半壊103,流失98,浸水27850などの被害が出ました。

ここで上の見出しの台風第二号に注目。気象庁では現在でも例えば「台風第5号に関する情報」のように“台風第××号”と必ず“第”をつけていますが,マスコミではNHKを筆頭に“第”をつけていません。でも,1953年当時はこのように少なくとも新聞では“第”をつけていたのです。次第に“第”をつけなくなり,この年の9月には台風××号が定着するようになります。理由はわかりません。

女性名は日本国内では使われなくなりましたが,米国では使われ続けていて,気象庁も海外に台風情報を発信するときはこの女性名も記載していました。

ところが,台風とは比べものにならない異次元(ヤプールか(笑))の恐ろしさを持つ女性団体の圧力で,1979年の台風3号から男女名が交互に使われるようになりました。

その後,2000年からはわけのわからないアジア名が使われるようになって現在に至っています。アジア名は提唱国のアルファベット順に並んでいて,発生順と名前のアルファベット順が一致しないこともあり,きわめて扱いにくいです。こんなシロモノ誰が考え出したんだろう?

※この記事は台風が女性名から番号に | 能天気Express Hyperとほとんど同じです。

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日本ダービーと台風

5月に台風が上陸することは少ないし,日本ダービーは最近では5月の最終日曜日(または6月の第1日曜日)に定着していることもあり,日本ダービーが台風の直撃を受けたことはありません。

直撃ではないにせよ史上もっとも台風の影響を受けたと思われるのが1965年5月30日のダービーです。

ダービーの直前の5月27日,潮岬の南方海上にある定点観測点付近を通って北東に65~85km/hの速い速度で進んできた台風6号が12時ごろ東京湾をかすめて館山市付近に上陸しました。5月の台風上陸は1914年5月30日以来51年ぶりのことでした。

196506

この台風と梅雨前線の影響で,東北地方南部から九州にかけて大雨となり,新幹線が全線不通となって雨に弱いことを暴露したほか,かなりの被害が出ました。

この日東京競馬場で行なわれたダービーの追い切りも強風雨の中,泥んこ馬場での追い切りとなりました。

台風警報下の“ダービー調教”なんていうのは前代未聞,今後も恐らくないだろう。二十七日の午前五時半から行なわれた東京競馬場での追い切りは,田植えのできそうな泥んこのダートコースで,全くの“責め馬?”だった。
(1965.05.28日刊スポーツ)

レースももちろん,ビデオで見る限りものすごい不良馬場。もっとも,質のよくないモノクロフィルムのせいで実際よりも悪く見えているかもしれません。

単騎で逃げるキーストンの1頭だけ白いままの帽子が印象的です。前半1000m通過64.0秒の“タメ逃げ”でしたが,最後の200mに14.3秒かかっています。ダイコーターが詰め寄ったというよりは,終いバタバタになってしまったのでしょう。

最近では,まず2003年があげられます。

5月31日05時ごろ台風4号が愛媛県宇和島市付近に上陸しました。上記の1965年の台風6号以来38年ぶりとなる5月の台風上陸です。

200304

翌6月1日にダービーが行なわれましたが,この台風から変わった低気圧と前線の影響による雨のため,馬場状態は重でした。府中のアメダスでは31~1日にかけて83mmの降水量が観測されています。

4角で各馬外をまわる中,エイシンチャンプと逃げたエースインザレースが最内をついたシーンをおぼえている人も多いでしょう。

勝ったのはネオユニヴァース,鞍上はミルコ・デムーロでした。

2011年は,四国に向かって北上していた台風2号がダービー当日の15時に温帯低気圧に変わりました。

201102

西日本~東日本はちょうど梅雨入りしたばかりで,西日本を中心に大雨になりました。

東京競馬場でも26日(木)から断続的に雨が降りはじめ,府中のアメダスでは28日(土)に17.5mm,ダービー当日の29日(日)には91.0mmの降水量が観測されました。

ダービーの馬場状態は2009年以来となる不良。2冠を達成したオルフェーヴルの勝ちタイムは2.30.5でした。

このダービーからもう3年たつんですね。

※この記事はダービーと台風 | 能天気Express Hyperを少し書き直したものです。

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虎が雨

阪神タイガースとかいう名前の野球チーム関係の涙雨ではありません。プロ野球には全然興味がないからわからないんですけど,阪神って今年も最下位なんですか?

さて,虎が雨とは五月二十八日(旧暦)に降る雨です。今日降る雨ではありません。

建久四年五月二十八日,ユリウス暦で1193年6月28日のことです。源頼朝が催した富士山麓での大巻狩の深夜, 曽我十郎祐成曽我五郎時致の兄弟が月のない真っ暗な闇の中,松明を手に父の仇である工藤祐経の陣屋に討ち入りました。

寝込みを襲われた祐経はあっけなく討ち取られましたが,その後の十番切りとよばれる乱戦の中で兄十郎は朝比奈四郎に討たれ, 弟五郎は捕らえられました。そして翌日,頼朝による尋問ののち処刑されました。

十郎には虎御前という愛人がいました。五月二十八日にその虎御前が十郎の死を悲しんで流す涙が雨となって降るのが「虎が雨」 であると伝えられています。

兄弟の敵討ちの記憶と梅雨という気象現象が結び付き, そこに田植えのために雨を乞う人々の思いが重なって徐々に用いられるようになったもの
~『曽我物語の史実と虚構』

のようです。

『吾妻鏡』には仇討ちの日の天気について次のように書かれています。

小雨降る。日中以後霄《は》れ。……

まず,はじめ小雨が降っていたが,日中から晴れたとあります。そして,祐経を討ち取ったあとの「十番切り」 のときは

雷雨,鼓を撃ち,暗夜に燈を失ひ……。

とあり,激しい雷雨だったようです。

江戸時代には,兄弟の仇討ちのときに雨が降っていたことは常識になっていたらしく,次のような詠史川柳があります。

泥足で工藤が夜具をはね除ける

しかし,『吾妻鏡』や真名本『曽我物語』では「十番切り」に雷雨の記述があるので, 兄弟が工藤の陣屋に向かう途中はまだ雨は降っていなかったと思われます。そうでないと“なけなしの銭”で買ったらしい松明が消えてしまいます。

なけなしの銭で松明二本買ひ

これもまた,江戸時代の詠史川柳です。曽我兄弟は貧乏だったというのも江戸時代の常識だったようです。

今では曽我兄弟なんかよりウルトラ兄弟とか宇宙兄弟なんかのほうが有名みたいですが,六代目宝井馬琴さんの夜討曽我 紋づくし,機会があったら聞いてみて下さい。思わず引き込まれます。

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5月の“五月雨”

五月晴れとなりは何をする人ぞ

話の順序として五月晴れから。

サツキバレという競走馬がいましたが,ここでは取り上げません。さつきばれを『大辞林』で引くと次のように載っています。

(1) 新暦五月頃のよく晴れた天気。
(2) 陰暦五月の,梅雨の晴れ間。梅雨晴れ。[季]夏。《男より女いそがし―/也有》

もともとは(2)の意味で,いつのころからか(1)の意味に変わったといわれています。

それがいつごろのことなのかはハッキリとはわかりませんが,倉嶋厚さんの『季節ほのぼの事典』によると,1961年発行の『広辞苑』に

[1] さみだれの晴れ間 [2] 転じて五月の空の晴れわたること

とあるそうなので,1960年代のはじめにはすでに一般化していたものと思われます。

私自身は俳句以外で『大辞林』の(2)の意味で使われた例を見たことがありません。お天気番組などの「今日は五月晴れの一日でした」というような表現に文句をいっている人も,(2)の意味で使われた例を実際に見たことがあっていっているのか,はなはだ疑問です。

ちなみに,今の時期に「さわやかな五月晴れ」というのは俳句的にいえば二重の間違いになっているようです。

まず“五月晴れ”は,俳句では今もって(2)の意味でしか使われない(らしい)から×。次に“さわやか”は本来,どういうわけか秋の季語なので×。まあ,私は俳句には何の興味もないのでどうでもいいですが。

五月雨をあつめて早し××川

意味を変えて生き残っている(再生した!?)“五月晴れ”に対し,ほとんど死語になっているのが五月雨《さみだれ》です。

旧暦は平均的に見れば今の暦よりも30日あまり遅いですから,旧暦の五月は今の暦の6月くらいに相当し,ちょうど梅雨の時期です。だから,五月雨《さみだれ》は梅雨どきの雨,あるいは梅雨そのものです。ただ,今は“さみだれ式××”という表現を除いてめったに使われなくなりました。ちなみに“五月雨式”は『大辞林』によると

(梅雨時の雨のように)途中,途切れながらもだらだらと長く物事が続くこと。また,そのようなやり方。「一か月間―に会議がある」

という意味らしいです。

ついでですが,五月雨といえば,蕪村の

さみだれや大河を前に家二軒

には,俳句の好きでない私も圧倒される迫力を感じます。同じ蕪村の句でも

さみだれや名もなき川のおそろしき

は,だから何なの?とかそれがどうしたの?と反応したくなります。

なお,五月雨で増水した川を五月川《さつきがわ》とよぶそうです。

5月の“五月雨”

沖縄や奄美地方では5月の梅雨は当たり前です。しかしそれより北では,もっとも早い九州南部でも梅雨入りの平年日は5月31日ごろですから,梅雨といえばふつうは6~7月です。5月に梅雨のような状態になったときは通常梅雨のはしりあるいははしり梅雨とよばれます。

ところが,5月がほとんどまるまる梅雨にはいってしまった年があります。

1963年の5月は,4日に移動性高気圧が三陸沖に去って東シナ海に前線を伴った低気圧が現われてから,早くも“はしり梅雨もよう”になりました。10日には気象庁が

例年より約十日早く“はしり梅雨”にはいった。とくに,下旬から六月はじめにかけては全国的に曇雨天が多く,しかも,低温が予報される

という向こう1か月の予報を発表しています(新聞からの孫引き)。

その後も前線が日本付近に貼りつき,気象庁は28日,“梅雨入り”を発表しました。ただ,当時の発表は今とは違っていたようで,新聞には取り上げられていません。今だったら必要以上に大騒ぎするでしょう。号外が出るほどのバカ騒ぎにはならないでしょうけれど。

梅雨入りの時期はのちに修正され,東海が4日,関東甲信が6日,中国が8日,九州南部が28日,北陸が29日,九州北部が30日,四国と近畿は特定できない――となりました。梅雨入りの日が特定できなかったのはこの年だけです。また,沖縄の梅雨入りが6月になったのも東北地方(南部)より遅かったのもこの年だけです。

これだけ早いとどこまでがはしり梅雨でどこからがホンモノの梅雨なのか区別できません。もともと自然現象に明確な境界などあろうはずはなく,はしり梅雨とホンモノの梅雨の区別もあくまで便宜的,人為的なものです。

ちなみに,この年の梅雨の時期の新聞には気違い梅雨前線という,今ではまずお目にかかれない表現が出てきます。だから昔の新聞の社会面は面白い(笑)

気違い梅雨前線

1963年7月1日付朝日新聞朝刊より:

“気違い梅雨前線”
抜打ち豪雨
死者は16人に 九州北部

記事を読んでもどこが“気違い”なのかわかりません。

ただ,同日の読売新聞朝刊の見出しにも

狂った天候
二時間に一一四ミリ降った北九州の豪雨
16人死に,23人が不明
福岡の浸水,三万戸を越《ママ》える

とあるので,当時の感覚で何か狂った感じがしたのかもしれません。あるいは気象庁の記者発表にそのような表現が使われたのかもしれません。

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長篠の合戦 (天正三年)

桶狭間(山)の合戦から15年後,天正三年五月二十一日(グレゴリオ暦で1575年7月9日),織田信長が徳川家康と連合して設楽原で武田勝頼を破った戦いです。

名だたる武者から組織された武田の騎馬軍団を織田の名無しさん足軽鉄砲隊が三段撃ちという新戦法で壊滅させた戦術革命ともいえる画期的な戦い……と最近までいわれてきた戦いです。実際には,武田の“騎馬軍団”も織田鉄砲隊の“三段撃ち”もなかったし,まして“戦術革命”をもたらしたといえるような戦いではありませんでした。

ちょっと馬の歴史を調べればわかるように,当時の日本の馬はかなり小さく,平均すると120~140cm程度の体高で,現在ではポニーとよばれる大きさでした。有名なところでは,宇治川の先陣争いで名を馳せた佐々木四郎高綱の生喰《いけずき》は145cm,源義経が乗ったと伝えられる青海波《せいがいは》は142cmでかなり大柄な部類ですが,それでも160~165cm程度である現在のサラブレッドとは比べるのもかわいそうなくらいです。しかも体重は220~260kg程度で,今のサラブレッドのせいぜい半分です。さらに当時まだ蹄鉄は使われていませんでした。

このような“ポニー”が蹄鉄なしで重武装の武者を乗せたりしたら,そもそも戦場を駆け回れるかどうかわかりませんし,かりに戦場を駆け回れたとしても,すぐにバテてしまってとても“いくさ”にならなかったのは火を見るより明らかです。しかも当時は去勢の習慣がなかったため(なぜか日本だけらしい)気性の激しい馬が多く,整然と隊伍を組んで命令一下突撃などできたのか,はなはだ疑問です。

戦国時代になると,馬に乗って戦場にやってきても,馬から降りて戦うことが多くなっていました。武田軍の中に馬に乗って織田陣に切り込もうした武者はもしかしていたかもしれませんが,とても“騎馬軍団”などといえる集団ではなかったはずです。

話が馬のほうにヨレてしまいましたが(ブリンカーをしたほうがいいかな(笑)),合戦の前日は一日中雨が降っていました。戦いの舞台となった設楽原は水田地帯で,この雨のため泥沼と化して足場がたいへん悪くなっていました。合戦の当日は朝から雨が上がりましたが,足場が悪いのには変わりなく,20kgにもおよぶ甲冑を着込んで,5kgほどもある鉄砲を撃ち,撃ったらその鉄砲をかついで最後方に下がって弾を込め……なんて三段撃ちを続けざまに2~3回もやったらすぐにバテてしまいます。かりにこんなことができたとすれば,それは名無しさん足軽の寄せ集めなどではなく,サイボーグのような超人的な精鋭部隊だったでしょう。別の意味で“戦術革命”だったに違いありません。

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桶狭間(山)の合戦

永禄三年五月十九日(現行のグレゴリオ暦に換算すると1560年6月22日)正午過ぎ,織田信長は

敵は疲れとるぎゃ~! この一戦に勝てば末代までの功名だぎゃ~!! 一心に励めだぎゃ~!!!

ニコチャン大王弁を話したかどうかは知りませんが,桶狭間山に陣取る今川軍の本陣を目指し進軍を開始します。その数およそ2000ですが選りすぐりの精鋭部隊。一方,桶狭間山の今川義元の本隊は,その数不明(笑) 諸説あるようですが,全軍の数もホントのところ15000から20000くらいだったそうですから,本隊には5000くらいがいたものと思われます。しかし戦闘員がどのくらいいたかは不明です。

すると突然,一天にわかにかき曇り,突風とともに猛烈な雨が降り出しました。突風によって沓掛峠のふた抱えもあるくすのきが音をたてて倒れました。信長軍では

これぞ熱田明神のお力だぎゃ~!!

とささやき合ったそうです。

この突風はダウンバーストガストフロントだったのかもしれません。ダウンバーストについて,『気象科学事典』による説明を見ておきましょう。

ダウンバーストは,積雲や積乱雲から生じる,冷やされて重くなった強い下降気流のこと。地面に到達後激しく発散し,突風となって周囲に吹き出していく。突風の風速は,10m/s 程度のものから強いものでは 75m/s に達する。 吹き出しの水平的な広がりは,数 km 以下と小さく,寿命は10分程度と短いことが多い。

どっちにしろ,気象庁の機動調査班が現地調査を行なっても,物証が残ってないため今となっては確認できないでしょう。

突風が文字どおりの追い風になったかどうかはわかりませんが,熱田明神云々からもわかるように,精神的な追い風にはなったことでしょう。今川軍にも何らかの影響を与えたかもしれません。

信長は自軍の行動を今川軍に隠すつもりはなかったようですし,天候の急変を利用しようとする意図もなかったようですが,突然の強雨と突風によって今川軍に気づかれにくくなったことは確かです。

信長軍は雨が止むのをみはからって,今川軍本陣に攻めかかりました。今川軍は大混乱におちいり,混乱の中で偶然にも今川義元が討ち取られたことは広く知られているところです。

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