今日の土曜ワイド劇場は「デパート仕掛け人!天王寺珠美の殺人推理7」

今日の土曜ワイド劇場はデパート仕掛け人!天王寺珠美の殺人推理7~和菓子の老舗で連続殺人!美人店長は見た!!一族経営の罠と野望に隠れた儚き復讐~です。

このシリーズの丸越デパート青葉支店の舞台になっているのはあついぞ!熊谷にある八木橋百貨店です。八木橋百貨店といえばこれ↓

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そうです,巨大手動温度計。今年も13日に設置されたそうです。熊谷の夏を象徴「大温度計」 今年も暑いまちをPRより一部引用:

熊谷の夏を象徴「大温度計」 今年も暑いまちをPR

熊谷の夏を象徴する大温度計型の看板が13日、熊谷市仲町の八木橋百貨店にお目見えした。八木橋と地元のなおざね商店街の企画で、暑いまちを全国にPRする。

大温度計は縦4メートル、横65センチのアルミ製。午前11時と午後2時に熊谷地方気象台が発表する熊谷の気温を表示する。今回は2月の大雪を受け、熊谷で観測された積雪62センチの目盛りも追加。同店東口と西口に8月末まで設置する。

熊谷は2007年、岐阜県多治見市とともに当時の国内最高気温40・9度を記録。暑さを逆手にとったまちおこしで知名度を上げたが、昨年8月、41・0度を観測した高知県四万十市に暑さ日本一の座を奪われた。

デパート仕掛け人!天王寺珠美の殺人推理7のあらすじ

テレビ朝日|土曜ワイド劇場より:

丸越デパートの販売員、天王寺珠美(泉ピン子)が企画した、老舗和菓子店『とうのや』のフェアが大反響を呼ぶ。人気商品は限定品の『いちじく大福』。売り場には行列ができ、山岡柊平(村田雄浩)は顧客の整理に大忙しだ。そこへ、一人の男が現れ、大福に画鋲が混入していたといちゃもんを付け始める。持ってきた画鋲を見た珠美は、男を一刀両断。その形状から、新商品として画鋲が発売された日付と、大福を購入した日付が合致しないことを即座に見破ったのだ。これに男が逆上。乱闘騒ぎとなるが、とうのやの会長、海老沢時子(星由里子)の秘書で、柔道経験のある藤原亮祐(池内万作)の活躍で一見落着する。
珠美には、フェアの成功と同時に、達成しなければならない大事な業務があった。それは、時子の次男でとうのやの商品開発を手掛ける雄二(小林健)と、丸越デパート内のとうのやで店長を務める長峰朝子(中山忍)との婚礼の引き出物を準備すること。会長の時子からは、とうのやの名に恥じないものをと厳しい注文が付けられている。その手伝いに販売課の石井久子(小林きな子)が名乗りを上げる。聞けば、一月前に知り合った客と、結婚を前提に付き合っているという。かわいい部下のめでたい話に、珠美は一層やる気をみなぎらせ、引き出物の選定に取りかかる。
その甲斐あって、珠美のセレクトは時子のお眼鏡にかない、大量500個の注文を受ける。ところが、時子が支払に使おうとしたクレジットカードは、なぜか使用停止状態に。その時、秘書の藤原から急の知らせが入る。長男で社長の一志(佐藤一平)が行方不明になったというのだ!
失踪した一志のデスクには、借用書の山と二種類の帳簿が隠されていた。一志のせいなのか、長女の仁美(中原果南)のカードも使えなくなっているという。
翌朝、一志は山中で、首を吊った状態で発見される。マスコミは、一志が会社の金を流用してカジノに8億円をつぎ込んでいたとし、自殺説を報道。丸越デパートのとうのやフェアの客足は、ぱったりと止まってしまう。
そんな中、警察は一志の死は他殺と発表。その直後から、仁美や朝子ら関係者への聞き込みが始まる。
当初、仁美は、一志のカジノ通いを知ったのは死後だと告げるが、実は、一志を最初にカジノに誘ったのは、仁美の別れた夫・堺田将彦(萩野崇)だったことが発覚。警察は朝子にも、仁美と一志の兄弟仲について執拗に聞いてくる。仁美は自分がとうのやを継ぎたかったばかりに、一志や、一志を社長に選んだ時子を恨んでいたらしいのだ。
一方の丸越デパートでは、とうのやのお菓子のキャンセルが相次ぎ、フェアも中止に追い込まれてしまう。また、雄二と朝子の結婚延期も決まり、時子はショックを隠しきれない。しかし、そんな時子を珠美は叱咤激励。勇気づけられた時子は、堂々と報道陣の前に立ち、今回の騒動を詫びるとともに、自らの社長就任を発表する。
ところが、その翌日、時子と総会屋の男が握手をしている写真がでっち上げられ、ネットや新聞に掲載されてしまう。一志が殺され、その疑いが仁美に向く中、さらに時子のスキャンダルとなれば、とうのやの社会的地位は失墜したも同じ。専務の上杉孝司(徳井優)は、海老沢一家の退陣を要求する。
その晩、力を落とした時子が、藤原に付き添われて珠美の自宅を訪ねてくる。上杉の反乱にショックを受けた時子は、行き場がなく、珠美を頼ってきたのだ。そんな時子を珠美は快く受け入れ、騒ぎが治まるまで匿うことにする。また、上杉の豹変が気になった珠美は、山岡に一志殺害時の上杉のアリバイを調べるよう指示。ところが、その矢先に山岡が何者かに襲われ…!?

そういえば,今週は月曜,昨日,今日と2時間サスペンスレギュラー放送に3回も泉ピン子が出ています。やめてほしいです。ハッキリいって,泉ピン子と菊川怜は2時間サスペンスにイラネ!!

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雷雨の中の日本ダービー(1967年)

1967年5月14日の東京地方は朝から絶好の“ダービー日和”でした。ところが,発走時刻の10分ほど前,一天にわかにかき曇り,電光が走り,雷鳴とともに激しい雨が降り出しました。日射で空気が暖められたところに寒冷前線が南下してきたことによる,いわゆる熱界雷 です。

“波乱”を予告するかのように,スタート13分前に大粒の雨が降った。しっかりと馬券を手に立ち見席でかたずをのんでいたファンは“天候のいたずら”にハンカチや新聞紙を頭にスタンドへ逃げる。スタンドは一瞬か“静”ら“動”にかわった。ところが場所を“確保”するためにカサをさして動かないファンもポツポツ。
雨が強くなってくると,だんだんと小さくなり懸命に雨をふせいでいた。すさまじい執念!
(5月15日付サンケイスポーツ)

ダービーは雷雨の中でのスタートとなりました。最初の1ハロンこそ13.0秒でしたが,2ハロン目はなんと10.0秒。ただ, 当時のハロンタイムは数字どおりには信用しないほうがいいようです。アラジンが先頭でバックストレッチにはいりますが,そこから先,馬の識別ができません。私の場合は質の悪いビデオ画面で見ているせいもありますが,フジテレビで実況していた鳥居アナウンサーも激しい雨のためにほとんど視界が利かなかったそうです。

リユウズキはちょっとわかりませんが……

人気馬のポジションを正確に伝えていた鳥居アナにしては珍しい実況だと思います。

激しい雨をついて馬群が向こう正面から3コーナーへと進んだところでマイクがかなり大きな雷鳴を拾っています。

4コーナーを回って先頭に立ったアサデンコウに,ヤマニンカツプが外から,シバフジが内から並びかけて激しい叩き合いが300mほど続きましたが,アサデンコウが凌ぎきりました。

アサデンコウはレース中に左前肢第一指骨を骨折しており,しばらくして馬運車で運ばれていった――ともいわれていますが,次の日の新聞に口取り写真が載っています。これはどういうわけなんでしょう?

その後(それ以前も?),日本ダービーが雷雨の中で行なわれたことはありません。

なお,5月14日の日本ダービーは東京優駿大競走として創設されたころはともかくとして,5月下旬~6月上旬に定着して以降は異常に早い日程です。とくに調べてはいませんが,東京競馬場の改修によるものと思われます。

ところで,この日は東北地方南部から関東地方にかけてのやや広い範囲で積乱雲が発生しました。落雷により千葉県と福島県で5人が死亡,重傷6人,また埼玉,栃木,群馬などでは雹の被害がありました。5月15日付読売新聞より:

熱界雷大あばれ
四人感電死,降ヒョウ被害
十四日午後“五月の雷”が関東・東北をあばれまわり,千葉,福島両県で計四人が落雷のために死んだ。初夏の日ざしで気温が上がったところへ,北から冷たい空気がもぐりこんで起こした熱界雷というあばれん坊。

同日の毎日新聞:

雷雨,ヒョウ,大暴れ
四人感電死 農作物にも被害
十四日の日曜日午後,東北南部から関東一円にかけて各地で雷雨やヒョウが降り,感電死や農作物の被害を出した。これは同日朝からのむし暑い陽気で地表の空気があたたまったところへ,北から寒冷前線が早いスピードで南下してきたため各地で雷雲が発生,雷雨やヒョウを降らせたもので,群馬,栃木,茨城,埼玉,東京などでは,ことしはじめての雷雨注意報が発令された。気象庁は毎年五月の十五日から雷雨予報を出しているが,ことしは予報を待たずに一日早く“夏の訪れ”をふれ回った。

ついでにこの日の天気図を載せておきます(日本時間21時)。

  • 地上天気図

  • 500mb天気図

  • 850mb天気図

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メイストーム・デーとメイストーム

メイストーム・デー

昨日も書いたとおり,きょう5月13日はメイストーム・デーです。

この日に何かきっかけになるような事件があったわけではなく,2月14日のバレンタインデーから88日後にあたり,“八十八夜の別れ霜”のごとくそろそろ別れ話が出てくるころ,裏を返せば別れ話を切り出すには手ごろな時期ということです。誰が考え出したのか知りませんが,よくできていると思います。

別れを告げるにせよ告げられるにせよ,備えあれば憂いなしです(ホントか?)。たとえきょうは乗り切れたとしても,次なるXデーに備えて今から準備しておきましょう。

メイストーム・デーの嵐を乗り切ると,6月12日は恋人の日,そのあとには7月7日のラブスターズデー(サマーラバーズデー,サマーバレンタインデーともいう。早い話が七夕)も控えています。

ちなみに,メイストーム・デーの翌日の5月14日はグリーン・デーですが,ほとんど広まっていないようです。ついでに4月14日のオレンジ・デーもほとんど知られていませんね。

なお,八十八夜は立春から数えて88日目,つまり87日後で,バレンタインデーから数えて88日目は前日の5月12日です。メイストーム・デーを考えた人はあまり深くは考えなかったのでしょうねぇ。閏年もとくに考えられていないようです。

メイストーム

というわけでメイストームです。May Stormなのでしょうが[ついでにドイツ語ではMaisturm],もちろん和製英語[和製独語?!]です。モノによって多少意味するところが違うのですが,比較的新しい『気象科学事典』には

4月後半から5月にかけて,日本海や北日本方面で発達する低気圧,またはそれに伴う暴風雨。

とあります。4月のメイストームってのは違和感ありありですが。

きっかけとなったのは,1954年5月8日09時に黄海に発生した1008mbの低気圧です。この低気圧は9日09時に朝鮮半島の東に進み 988mb。その後,北海道を横断し,10日09時にエトロフ島の北に進んだときは950mbまで発達しました。北海道を通過した低気圧としては,1934年3月に函館大火を引き起こした函館颴風と並んで観測史上もっとも強いもののひとつでした。

この低気圧によって海難事故が相次ぎ,数字は資料によって異なりますが,『理科年表』によると,死者31,不明330,住家全半壊12359,船舶の沈没・流失・破損348などの大惨事となりました。

当時の新聞から見出しをひろってみましょう。

暴風雨全道を襲う
家屋の倒壊続出
通信,交通施設も被害甚大
白老で五十戸全壊
(1954年5月11日付北海道新聞夕刊)

海陸に被害増大 全道を襲った暴風雨禍
六百九十戸全半壊 死傷十九,行方不明一
沈没三十八消息不明十六
遭難漁船二百六十九隻に達す
ひしひしと飢え,寒さ 壊滅的被害の御影村
(1954年5月11日付北海道新聞朝刊)

当時は日本で数値予報の研究がスタートしたばかりのころでした。その研究グループがモデルとして研究したのがこの1954年5月の低気圧で,これに「メイストーム」と名づけたのがメイストームの起源とされています。

この低気圧については宮澤清治『近・現代日本気象災害史』(イカロス出版)が詳しいです。

メイストーム・デーのメイストーム

以前メルマガを発行していたとき,メイストーム・デーに低気圧が日本付近を通過したことはないか調べたことがあります。

1968年,1976年,1980年,1988年,1995年,2004年などがめぼしいところですが, 1968年と1988年以外は低気圧がそれほど発達したわけではなく,メイストームといえるほどではありません。なお,最近のことには興味がないため,その後については調べていません。

調べてわかったことですが,なぜかこの日は移動性高気圧におおおわれることが多いです。そのせいで 東京では特異日というほどではないにしても晴れが多いです。別れ話を切り出すなら, メイストームのドサクサまぎれより,さわやかな五月晴れのもとでのほうがカラッとしていいかもしれませんね。

どうでもいいですが,“さわやかな五月晴れ”に文句をつける化石のようなヤカラって今でもいるんでしょうかね?

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メイストーム・イブ

1961年5月12日付読売新聞夕刊より:

五月のアラシ けさ最大風速20メートル

○…けさ出勤間ぎわの午前9時ごろから東京地方では横なぐりの強風とともにはげしいにわか雨があり,サラリーマン,BGなどがズブぬれになった。これは一昨日から記録破りのむし暑さをつづける“天候異変”とつながる現象。
○…日本海から北海道にかけて大きな低気圧があり,この谷間に向かってしめっぽい南の風が吹き込んでいるためだ。強風はけさ五時には瞬間二十・一メートルにもなる“メー・ストーム”(五月のアラシ)となった。

これが私が調べた範囲でのメイストームの新聞初出です。

というわけで,あす5月13日はメイストーム・デーです。したがって今日はメイストーム・イブ(ホントか?)。

5月13日は2月14日のバレンタインデーから88日目にあたり,“八十八夜の別れ霜”のごとく,そろそろ別れ話が出てくるころ,裏を返せば別れ話を切り出すには手ごろな時期(ホントか?)。誰が考え出したのか知りませんが,よくできていると思います。

別れを告げるにせよ告げられるにせよ,備えあれば憂いなしです(ホントか?)。明日に備えて今日のうちから準備しておきましょう。それが防災の心得です(ホントか?)。

でも,いくら備えてもダメなときはダメです。

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濃霧の紫雲丸沈没事故(1955年)

今年の4月16日に韓国のクヮンメド沖で起こったセウォル号の沈没事故は記憶に新しいところです。船長をはじめとする多くの船員のすさまじいまでのモラルの低さとともに,たくさんの修学旅行生が犠牲になった痛ましさが印象に残る事故です。

さて,59年前の今日,濃霧の瀬戸内海で国鉄宇高連絡船の客貨船紫雲丸が同貨物船第三宇高丸と衝突,紫雲丸が沈没し168人が犠牲となる事故が起こりました。犠牲者のうち100人が修学旅行生でした。

瀬戸内海は平均的に見ればそれほど霧の発生しやすいところではありませんが,5月から梅雨の時期にかけては温かく湿った空気と冷たい空気とが混ざり合ってできる混合霧が発生しやすくなります。

1955年5月11日,濃霧の中,紫雲丸が乗客781人と乗組員63人を乗せて高松港鉄道第一岸壁を出港したのは06時40分でした。そして16分後の06時56分に第三宇高丸と衝突,わずか5分後に横転・沈没しました。

事故の原因は紫雲丸の船長がやってはいけない左転をやったためとされていますが,船長が死亡したため本当の原因は不明になっています。

既述のように,犠牲者168人のうちの100人は修学旅行の生徒,さらにその中の81人が女生徒でした。ほとんどは衝突後に自分の荷物を取りに船室に戻って犠牲になったようです。

当時はまだ物質的に貧しかった時代,子どもを修学旅行に行かせることは多くの家庭にとって大きな経済的負担でした。子どもたちはそのことをよく理解しており,この日のために揃えてもらった旅行用の荷物や家族のために自分で買ったおみやげは大切なものだったのでしょう。修学旅行生の中でも女の子の犠牲が多かったのは,体力的な問題,水泳教育の問題のほかにも,こんなところにも原因があったのではないでしょうか。

衝突から沈没までわずか5分間だったにもかかわらず多くの人が救出されたのは,第三宇高丸の乗組員の救助活動によるところが大きかったようです。

また,1艘の小さな漁船が救助に大活躍し,50人近くの命を救ったそうです。

紫雲丸の中村正雄船長は退船を拒否してブリッジに残り,船と運命をともにしました。ただ,このことが事故の原因をわからずじまいに終わらせる結果になりました。

ところで,当時の天気図を見ると,中国の気象データがすべて空白になっています。

19550511-09

中国(中共)が気象管制を敷いていたためで,解除されたのは1956年6月になってからです。ちなみにその直後,のちの日本ダービーに大きな影響を及ぼすことになるあの事故が起こります。詳しくはダービーはなぜ5月下旬か[再] | Notenki Express 2014をご覧ください。

ブリンカーをしていないので話がそれました。西のほうの正確な気象情況がわからないというのはいってみれば見えないところから石が飛んでくるようなもので,このような条件下で天気図を解析して予報を組み立てなければならなかった当時の予報官の苦労が偲ばれます。

参考文献: 萩原 幹生. 宇高連絡船紫雲丸はなぜ沈んだか. 成山堂書店, 2000.

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花の猪苗代に猛烈な吹雪

1935年5月3日付福島民報より:

豬苗代町龜ヶ城の櫻花は今が見頃の三十日午前十時頃から,雪が降り出し地方民を驚したが翌一日午前三時頃から雪となり人々が目覺めた頃には木と言ふ木にみな花が咲き,どれが花やら雪やらまつたく見當つかな風景が描き出され午前中ずうつと牡丹の樣な雪が降り續き午後にない猛烈な吹雪と化し櫻花と雪とが入り亂れて飛ぶ有樣は美麗なうちに淒みをおびて一寸形容の出來ない風景であつた

ちなみに,亀ヶ城猪苗代観光協会 猪苗代・磐梯を遊ぶ 史跡によると,

磐梯山南麓の泥流地形突端部に築かれた平山城で、中世この地を支配した猪苗代氏代々の居城でした。戊辰戦争によって建物等は焼失してしまいましたが、明治時代に整備され今ではお城山公園と呼ばれて町民の憩いの場になっています。頂上に米国アラメダ海軍航空隊基地協会より日米友好の証として寄贈された野口英世の胸像があります。

とのことです。

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フェリーから乗客が転落し行方不明に (平家伝説殺人事件)

5月2日,前日の18時20分に東京を出港した高知行きフェリー「しーふらわー号」から男が転落しました。しかし,死体は発見されませんでした。(内田康夫『平家伝説殺人事件』)

平家伝説殺人事件は3回ほど2時間サスペンスドラマ化されました。

  1. 19870908 火曜サスペンス劇場 浅見光彦ミステリー1
    “高知-那智勝浦-名古屋,連続転落死事件の奇妙な符合を追え!!”

  2. 19990702 金曜エンタテイメント 浅見光彦シリーズ8
    “落人の子孫は、村から出ると不幸に!八百年前の恨みが今、蘇る! 故郷も年齢も同じ二人の男が死亡した。密室に秘められたトリック!! おごれる者は久しからず…落人伝説の地によみがえる死者の怨念!! 2年前のフェリーの同乗者を襲う魔物の影”

  3. 20051226 月曜ミステリー劇場 浅見光彦シリーズ21
    “平家の怨念が最後の清流・四万十川を血で染める!?愛に飢えた女の孤独と哀しい運命”

金曜エンタテイメントの長すぎるサブタイトルが異様です(笑)

平家伝説殺人事件は原作ではプロローグに伊勢湾台風が描かれており,これが伏線になっていくわけです。火曜サスペンス劇場と金曜エンタテイメントではきちんと伊勢湾台風として扱われており,とくに金曜エンタテイメントは放送された1999年が伊勢湾台風からちょうど40年目ということもあり,榎木光彦が現地の慰霊碑などを訪れています。

ところが月曜ミステリー劇場では沢村光彦は現地にも行かず,名古屋新聞(?)の見出に出てはきますが,

巨大台風18号 明日にも上陸か
死者は52人に
伊勢湾台風以来の被害に

台風18号の片隅に追いやられていました。

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ゴールデンウィークとお天気

今日から世の中はゴールデンウィークだそうで。NHKではいつのころからか大型連休といってゴールデンウィークとはいわなくなりましたが,NHK的には小型連休ってのもあるんでしょうか。

“ゴールデンウィーク”(以下GWと略します)は,1951年ごろから映画業界で使われはじめたことばのようです。娯楽の少なかった当時は,映画が身近なレジャーだったのでしょう。今流でいえば安近短,なんてもう死語かも。

新聞への初登場は朝日新聞に限れば1953年5月8日で,

邦画に押された洋画
ゴールデン・ウィークの興行成績
東京の映画街 トップは東宝の「妻」

と書かれています。このとき公開されていた映画は,邦画では「妻」の他に「花の講道館」「姉妹」「山下奉文」「池田屋騒動」など,洋画では「地上最大のショウ」「可愛い配当」「栄光何するものぞ」「果しなき蒼空」「底抜け落下傘部隊」などで,もちろんσ(^^;)はどれひとつとして知りません(笑)

翌年,1954年4月20日夕刊にも「てんやわんやの宣伝戦」という見出しでGWの映画の話題があり,君の名は(第三部)と七人の侍が激戦になりそうだと書かれています。このふたつの映画なら映画オンチのσ(^^;)でも知っているし,観たこともあります(テレビでですが)。

遭難事故(いわゆるパンパカ)

GWの時期の記事を見ていて目につくのはそうなんです……ではなくて遭難です。とくに山での遭難,いわゆるパンパカが目立ちます。もっとも,いくら人出が多いからといってディズニーシーあたりで遭難する人はいないでしょう,ふつ~。というより,あれだけ人が多ければ1人や2人いなくなってもわからない?! しかも夢の世界だし……。

そのパンパカですが,最近になって起こりはじめたわけではなく,GWの歴史とともにあるようです。1958年が“空前の登山ブーム”だったそうで,そのあたりから記事がぼちぼち目立ってきます。

そして1965年,低気圧が太平洋岸を発達しながら通ったために山は「猛ふぶき 死の春山」(朝日新聞)になり,15件の遭難が発生し,少なくとも55人が死亡しました。これに対しては当時も無謀登山だという批判があったようで,

県山岳遭難防止協会の関係者は「こんな日にまさか行動するバカものはいまい」とみていたが,この常識を裏切る遭難が続出した。(朝日新聞)

このように,バカものは最近になって現われたわけではなく,昔からいたことがわかります。

その後も1972年,1989年,1992年,1993年などに大量パンパカが起こっています。いずれも上空に寒気がはいっているという共通点があります。上空に寒気がはいると,山の上は冬に逆戻りです。また,大気が不安定になって雷も発生しやすくなります。

1972年は3月に富士山での大量パンパカがあったばかり。「実力相応の山選べ」との警告も出ました。

ちなみに,いろいろエラそうなことを書いているσ(^^;)は,パンパカの可能性は限りなくゼロに近いです。山にはまったく興味がないからです。登って下りてくるだけという,無駄なことはしません(笑)

予報がハズレて予定が狂った?!

天気予報がハズレるのは珍しくもなんともないですが(とくに週間予報は),1978年のGWの天気予報は,序盤(29~30日)はまずまずだったものの,そのあとはこれでもかというほどハズレまくり,哀愁が漂うほどでした。

これに対し,気象庁は「“はずれ”というよりは“ズレ”というべきですが」などというしょうもない弁明をしましたが,ズレでもなんでもはずれははずれです。競馬の予想屋と違って気象庁は往生際が悪いです。自分のフトコロが痛まないからねえ。

この年は28日に29日~7日までの予報,つまり10日先までの予報を発表しています。気象庁は現在は晴れとかくもりとかの予報については7日先までしか発表しませんから,精度はともかく,今よりもサービスがよかったことになります。

ちなみに,現在は民間気象会社にも10日先までの予報が認められていて,それはそれはスバラシイ精度です。信用するとエラい目が見られます。7日先と8日先の間で時空の谷間を通過するんじゃないかと思われるほど全然違うことも多いです。

連休明けの灼熱地獄

1992年。連休明けの5月6日,この年から登場したのぞみ型車両を使った「ひかり238号」が名古屋-三河安城間で故障し停車しました。気温が30℃以上にも上がった車内には「新しい車両なので,ブレーキの直しかたがわかりません」というふざけたアナウンスが……。よくもまあ暴動が起こらなかったものです。

観測史上もっとも早い台風の上陸(1956年)

1956年4月25日,台風3号Thelmaが九州に上陸してすぐに消滅しました。

25日付朝日新聞夕刊より:

台風三号 消える

台風三号は二十五日朝九州の南沖まできて消えた。中央気象台の観測では朝六時,台風の名残りとみられる小さい低気圧が宮崎県沖にあるが,陸地では風もなく所によってにわか雨が降っただけ。しかしこのように四月中に台風が日本に近づいたのは,大正六年以来三十九年ぶりという珍しい記録を作った。
なお台風とは別に二十五日朝,朝鮮海峡の低気圧が裏日本ぞいに東進しはじめたので,天気は西日本からくずれ,低気圧に吹き込む南風で蒸し暑くなった。
このため,二十五日午前十一時半「東京地方は今夜から二十六日にかけて南寄りの風が強くなる」との強風注意報が出た。

「気象要覧」(1956年4月)より:

台風第3号は・・・(中略)・・・その後ルソン島に接近するにつれて次第に衰え,ルソン島中部を通過して南支那海に出た22日朝には中心示度は990mb前後に衰弱した。台風は同日の午後から翌朝にかけて北東に転向し,そのころ中心示度は一時深まつたが,石垣島と宮古島の間にあつた24日9時ごろは中心示度は996mbと再び衰えた。25日早朝,台風は大隅半島南部を通過し,同日9時過ぎに宮崎市の南東海上で消滅した。

今の気象庁用語からすれば,上陸というより通過といったほうがいいかもしれません。

気象庁のベストトラックデータは次のようになっています。

56042400 002 9 248 1249  996
56042406 002 9 258 1260  997
56042412 002 9 272 1270  997
56042418 002 9 300 1285  997
56042500 002 2 315 1315  998

ついでに気象庁のサイトにある台風経路図も載せておきます。

このように気象庁では台風のままで大隅半島に“上陸”したように解析しており,これが観測史上つまり1951年以降ではもっとも早い台風の上陸ということになっています。

ところで,JTWCによるこの台風のベストトラックデータは次のようになっています。

WP, 03, 1956042400,   , BEST,   0, 248N, 1248E,  70
WP, 03, 1956042406,   , BEST,   0, 260N, 1261E,  60
WP, 03, 1956042412,   , BEST,   0, 275N, 1278E,  60
WP, 03, 1956042418,   , BEST,   0, 289N, 1290E,  45
WP, 03, 1956042500,   , BEST,   0, 306N, 1304E,  30

非情にも(?!)大隅半島の突端,佐多岬のわずか手前,北緯30.6度, 東経130.4度で中心付近の最大風速が30ノットに,つまりただの熱帯低気圧に衰えています。

三田から芝口,新橋に旋風が走る(1892年)

1892年4月1日付讀賣新聞より:

◎大旋風《おおつむじ》

昨三十一日午后一時頃俄然芝愛宕下通の各所の火の見にて三聲の警鐘を打ち出したるが人人驚きて外面に出れば南に方ッて黑煙捲起り如何にも凄じき有樣なるより近傍の消防夫は喞筒《ポンプ》を曳て駈け付るなど一時は非常に混雜なりしが火元は更に分らず黑煙も須臾にして消失せし由之れ全く火事ならずして三田邊より來りたる大旋風が露月町の裏手なる焦土を捲き揚げたるにて此旋風は芝口一丁目の横町より新橋停車場の派出所に突當り左折して遞信省農商務省の間を過ぎ築地の方に吹去りたり其勢ひ頗る猛烈にて砂石を捲き上げ市街各所の硝子戸を破砕せしものさへありしと

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