濃霧の紫雲丸沈没事故(1955年)

今年の4月16日に韓国のクヮンメド沖で起こったセウォル号の沈没事故は記憶に新しいところです。船長をはじめとする多くの船員のすさまじいまでのモラルの低さとともに,たくさんの修学旅行生が犠牲になった痛ましさが印象に残る事故です。

さて,59年前の今日,濃霧の瀬戸内海で国鉄宇高連絡船の客貨船紫雲丸が同貨物船第三宇高丸と衝突,紫雲丸が沈没し168人が犠牲となる事故が起こりました。犠牲者のうち100人が修学旅行生でした。

瀬戸内海は平均的に見ればそれほど霧の発生しやすいところではありませんが,5月から梅雨の時期にかけては温かく湿った空気と冷たい空気とが混ざり合ってできる混合霧が発生しやすくなります。

1955年5月11日,濃霧の中,紫雲丸が乗客781人と乗組員63人を乗せて高松港鉄道第一岸壁を出港したのは06時40分でした。そして16分後の06時56分に第三宇高丸と衝突,わずか5分後に横転・沈没しました。

事故の原因は紫雲丸の船長がやってはいけない左転をやったためとされていますが,船長が死亡したため本当の原因は不明になっています。

既述のように,犠牲者168人のうちの100人は修学旅行の生徒,さらにその中の81人が女生徒でした。ほとんどは衝突後に自分の荷物を取りに船室に戻って犠牲になったようです。

当時はまだ物質的に貧しかった時代,子どもを修学旅行に行かせることは多くの家庭にとって大きな経済的負担でした。子どもたちはそのことをよく理解しており,この日のために揃えてもらった旅行用の荷物や家族のために自分で買ったおみやげは大切なものだったのでしょう。修学旅行生の中でも女の子の犠牲が多かったのは,体力的な問題,水泳教育の問題のほかにも,こんなところにも原因があったのではないでしょうか。

衝突から沈没までわずか5分間だったにもかかわらず多くの人が救出されたのは,第三宇高丸の乗組員の救助活動によるところが大きかったようです。

また,1艘の小さな漁船が救助に大活躍し,50人近くの命を救ったそうです。

紫雲丸の中村正雄船長は退船を拒否してブリッジに残り,船と運命をともにしました。ただ,このことが事故の原因をわからずじまいに終わらせる結果になりました。

ところで,当時の天気図を見ると,中国の気象データがすべて空白になっています。

19550511-09

中国(中共)が気象管制を敷いていたためで,解除されたのは1956年6月になってからです。ちなみにその直後,のちの日本ダービーに大きな影響を及ぼすことになるあの事故が起こります。詳しくはダービーはなぜ5月下旬か[再] | Notenki Express 2014をご覧ください。

ブリンカーをしていないので話がそれました。西のほうの正確な気象情況がわからないというのはいってみれば見えないところから石が飛んでくるようなもので,このような条件下で天気図を解析して予報を組み立てなければならなかった当時の予報官の苦労が偲ばれます。

参考文献: 萩原 幹生. 宇高連絡船紫雲丸はなぜ沈んだか. 成山堂書店, 2000.

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