1969年2月8日,百里基地から小松基地に戻る途中の航空自衛隊小松基地205飛行隊所属のF104Jジェット戦闘機が金沢市上空を飛行中,12時08分ごろ,機首に落雷を受け,同市泉2丁目に墜落,爆発炎上しました。民家3棟が吹っ飛び,全焼13棟,半焼2棟,破損家屋100余棟,死者4人,重傷6人,軽傷13人の惨事となりました。
操縦していた二空尉の経三輝《たてみてる》はパラシュートでずらかりました。
国民を守るはずの自衛隊が国民を殺してはいけません。
1969年2月8日,百里基地から小松基地に戻る途中の航空自衛隊小松基地205飛行隊所属のF104Jジェット戦闘機が金沢市上空を飛行中,12時08分ごろ,機首に落雷を受け,同市泉2丁目に墜落,爆発炎上しました。民家3棟が吹っ飛び,全焼13棟,半焼2棟,破損家屋100余棟,死者4人,重傷6人,軽傷13人の惨事となりました。
操縦していた二空尉の経三輝《たてみてる》はパラシュートでずらかりました。
国民を守るはずの自衛隊が国民を殺してはいけません。
1969年2月3日に台湾沖に発生した低気圧は,本州南岸沿いに北東に進み,5日午後には三陸沖に達しました。一方,4日朝,日本海西部に別の低気圧が発生し,急速に発達しながら5日朝には津軽海峡を通過しました。2つの低気圧はオホーツク海南部でひとつになり,カムチャッカ方面に去っていきました。
この2つの低気圧の影響で,5~6日にかけて中部・関東地方以北で強い風が吹き,北海道では暴風雪となりました。全体で死・不明62,負傷82,家屋損壊117,船舶沈没・損傷1085などの被害が出ています。
もちろん,当時の新聞には台湾坊主が使われています。例えば,
“台湾坊主”陸にも被害
(6日付朝日新聞朝刊)
記事の中に
“春一番”を思わせる強い風が吹き荒れた。
とあります。東京の最大瞬間風速は23.1m/sで基準を十分に満たしているのですが,風向が北西だったため,これでは春一番ではありません。もっとも,当時は春一番の基準が必ずしも明確ではなかったので,今さらどうでもいい話です。ちなみに気象庁天気相談所のまとめによると,この年は春一番が観測されていません。
同じ記事には,蒲郡市で5日15時50分ごろ,突風でコンクリートブロックが倒れ,ちょうど塀沿いの道を歩いていた女子中学生3人が下敷きになり,2人死亡,1人重体という事故も載っています。このコンクリートブロックを所有していた山本織布会社の管理責任はどうなったのでしょうか。
さて,この低気圧による強風が吹いていた5日21時10分ごろ,福島県郡山市熱海町の磐光パラダイス1階の大広間で,客寄せの目玉だった金粉ショーの小道具として用意されたベンジンにストーブの火が引火しました。初期消火に失敗したため,折からの強風と乾燥も手伝って火はみるみるうちに広がり,磐光パラダイスとそれに隣接する磐光ホテル,レストハウスが全焼し,死者30人,重軽傷者28人,焼損面積15511m^2という大惨事となりました。
※2015/02/05(Thu) 若干加筆訂正
1922年2月3日13時ごろ,北陸本線の親不知-市振間で大雪崩があり列車運転不能となったため,糸魚川付近の農家から200人の除雪人夫を募集して除雪作業を行ないました。夜になって作業を中止し親不知から糸魚川方面に向けて列車に乗って帰る途中,20時17分ごろ,親不知-青海駅間の勝山隧道にさしかかったところで大雪崩が発生,その列車の客車2両が押しつぶされ,死者87?90人,負傷40?42人の惨事となりました。(資料によって死傷者の数が違います)
詳しくは次のとおりです。
(鉄道省着電)三日北陸線市振親不知間一九二哩五十鎖附近に長さ五鎖高さ三十尺の大雪崩あり第七七一列車(上野発京都行)は之がため親不知から第六五列車として折返し運転する事となり前位より郵便小荷物車,ボギー三等客車,小型三等客車三両計六両連結排雪人夫約二百名(糸魚川,梶屋敷附近から募集した者及逓信局電信工夫二名)乗車し午後八時七分頃親不知青海間一九五哩四五鎖五十節(米原起点)勝山隧道西口に差<U+83AC>《かか》つた際長さ四十呎高さ十五呎(約百八十坪)の雪崩来りてボギー客車三分の一小型三等客車全部(三両)下敷となり人夫約八十名の死傷者を出した,内負傷者二十九名は糸魚川に三名は親不知に収容し他の埋没者に対しては直に附近消防隊の応援を得て救護中死傷者今迄に判明の数左の如し
親不知に収容即死者十八名
糸魚川収容即死者十四名,重傷者八名,軽傷者二十四名計即死者三十二名重軽傷者三十二名
(2月5日付東京朝日夕刊)
この事故の後日談。2月28日付読売朝刊より――:
尚惨劇のあった勝山隧道附近には昨今多數の人魂が彷徨するとの噂ありて現地附近の各部落では戰戰兢兢の有樣である
さらに1927年のいわゆる昭和2年豪雪の際,この事故の恐怖から除雪作業が遅れ,北陸本線の復旧が遅れるひとつの原因になったようです。
1963年1月28日,300円の賭けで荒川放水路を泳いで渡ろうとした♂中学生(15)が,波にのまれて水死しました。
単純に比較はできませんが,当時の300円は今では2000~3000円に相当するようです。それにしても物好きな……。
ところで,時あたかもサンパチ豪雪の真っ最中でした。この日の福井新聞を見ると,
福井市36年ぶりの大雪
積雪二メートルを越す
効なし“一斉除雪デー”
などの見出しがあります。また,23日に新潟駅を出発した急行「越路」はこの日の08時29分にようやく上野駅に到着しました。新潟-上野112時間列車の旅 | Notenki Express 2014を参照してください。
東京も毎日冷凍庫のように冷え込んでいて,この日の最低気温は-4.1℃でした。
2001年1月27日,東京では02時25分からみぞれが降り出し,03時35分には雪に変わりました。積雪は09時に1cm,12時に6cmとなり,14時30分,東京地方に3年ぶりとなる大雪警報が発表されました。
東京の最深積雪は17時の8cmで,警報の割にはたいしたことはありませんでしたが,この雪のため東京都内では305人が病院送りとなりました。
一方,埼玉県の秩父では73年ぶりとなる53cmを観測しました。
発達した低気圧の影響により27日は、県内各地で大雪となった。熊谷地方気象台によると、特に秩父市では積雪が57センチとなり、1月としては観測史上最高を記録するとともに年間を通しても1928年2月の58センチ以来、史上2番目の大雪となった。秩父地方の市街地では28日も一面銀世界。道路ではタイヤチェーンを着けた乗用車がスピードを落として走り、商店街では夕方になっても商店主らが雪かき作業に汗を流した。このほか、県内各地で重傷九人を含む178人のけが人が出るなど、雪による影響が相次いだ。
「こんな大雪は生まれて初めて」と、秩父市内のコンビニエンスストアの店長(45)は店の駐車場や自動販売機の上に積もった雪を取り除くのに懸命。秩父郡吉田町の観光イチゴ園では、「イチゴ狩りのシーズンとはいえ、これだけ降っては観光客が来ないのは仕方がない」と、ビニールハウスに積もった雪を払った。
(2001年1月29日付埼玉新聞)
また,長野県の飯田と諏訪では,観測史上最深の積雪を記録しました。
諏訪と飯田で積雪が観測史上最高となるなど、中南部で記録的な大雪となった二十七日。JRは運休が相次ぎ、中央西線では立ち往生した列車内で、夕食も届けられないまま夜を過ごす人も出た。高速道は上信越道信州中野インター以南で通行止めが続き、交通網は終日まひ。暮らしを支える物流も滞った。湿った重い雪は電線を寸断し、下伊那地方などでは広範囲で停電が起きた。雪下ろし作業中にけがをする人も各地で続出した。
(2001年1月28日信濃毎日新聞ウェブサイトより)
1958年1月26日03時,東シナ海に1020mbの低気圧が発生しました。発達しながら速いスピードで九州西方海上から山陰沖を北東に進み,同日21時に能登半島沖に達したときは中心示度は1006mbを示していました。
一方,この低気圧が鳥取沖にあった同日15時,この低気圧から南西にのびる前線上の瀬戸内海西部に低気圧が発生し,近畿,中部地方を経て27日03時には金華山沖で先の低気圧と併合してさらに発達しました。
さて,26日17時30分に乗客139人を乗せて小松島を出航した南海丸(494トン)が和歌山に向けて航行中,18時28分に危険を知らせる無線連絡をした後,消息を絶ちました。28日16時,紀伊水道島の南西端から260度2.4海里の水深約40mの地点に沈没している船体が発見されました。旅客および乗組員167人のうち生存者は1人もいませんでした。
当時,付近海上には強風注意報が出されており,平均17~20m/sの風が吹き,平均4?5mの波があったと推定されるので,強風とシケのために沈没したと考えられていますが,生存者が1人もいないこともあり,海難審判の裁決は,
主文
本件遭難は,その発生原因が明らかでない。
となっています。
ついでに,今日は次のような事件があった日でもあります。
AD2001/01/26 19:18ごろ,山手線の新大久保駅で,ホームから転落した酔っぱらい坂本某を助けようとして関根史郎さんともうひとりが飛び降りたが,間に合わず3人とも死亡
このとき坂本某といっしょに酒を飲んでいてドサクサまぎれにトンズラした連中って,今ごろどうしているんでしょうね?
台湾坊主というのは,このブログでは何回も登場してきたとおり(これからも登場するでしょう(笑)),台湾近海で発生する低気圧のことです。新聞でも好んで使われ,もしかすると台風の次に有名な総観スケールの気象現象だったかも知れません。1975年3月に気象庁が「台湾低気圧」にいいかえるように部内に指示したことがきっかけで,新聞でも使われなくなったようです。ただ,あくまで気象庁では使わないというだけです。私のような部外者が使う分にはまったく差し支えありません。
さて,1986年6月16日,ロッキード裁判丸紅ルート控訴審の最終弁論が行なわれました。その弁護側の最終弁論に,なんと台湾坊主が登場します。
16日付朝日新聞夕刊より,弁論要旨:
【第三回(49年1月21日)の授受や搬送時間に関する原判決の不自然性,不可能性】
当日の気象は「台湾坊主」といわれる悪天候で,都内では強風を伴うみぞれや雪が降っていた。このような日に授受を行うのは不自然で,現実性に欠ける。
3回目の現金受け渡しが行なわれたとされる1974年1月21日,つまり35年前の今日,低気圧が発達しながら本州付近を通過していました。ただし,この低気圧は華中から東シナ海を通ってやってきたもので,残念ながら台湾坊主ではなく,いうなればニセ台湾坊主あるいは台湾坊主モドキです。
この低気圧のおかげで関東から東北地方にかけて雪が降り,前年11月11日以来71日間続いていた東京の無降水記録はやっと終息しました。
ところが,当初の予想以上に雪が降り,東京ではとくに21-22時の1時間に3cm積もる“短時間強雪”になりました。この影響で首都圏の交通は大混乱,東海道線,横須賀線,京浜東北線,常磐快速線,総武線などが相次いでストップ,首都高も22時20分に全面閉鎖となりました。
“台湾坊主”の悪天だからカネの受け渡しは現実的でないというのは,当時は“台湾坊主=荒天”の図式が成り立っていたとしてもバカバカしい論拠ですが(実際荒天だったわけですけど),メインはそこではなく,いわゆる榎本アリバイの補強のようです。第一審で退けられた榎本アリバイについて,独自の走行実験に基づいて次のように主張しています。
弁護人の実験によると,この往復にかかる自動車走行の時間だけで,高速道路利用の場合に六十六―八十二分,一般道路だと六十―八十二分を要した。本件当日は悪天候で積雪もあり,通常日の何倍もの渋滞があったことは容易に推定でき,一審認定によっては田中邸への現金搬入は不可能。
これに対する検察側の弁論要旨は次のようになっています。
第三回授受に関し,参院議員会館往復の時間を根拠にした弁護人主張は,本件当時とは交通事情が格段に異なる現時点の走行実験をもとに一審判決を論難するもので,失当である。また,当時,降雪があったことは認められるが,高速道路が通行不能であったとの立証はない。
上記の“ニセ台湾坊主”によるアリバイ主張が判決ではどのように扱われたのでしょうね? 今さら興味もありませんが。
1894年12月11日,颱風が房総半島に上陸したもようです。
「東京市史稿」より:
明治颱風誌ニ據レハ,十一月二十七日ヨリ十二月十二日ニ至ル颱風有リ。十二月十一日房総半島ヲ過グ。
また同記録によると,東京では10日には最大風速10.3m/s,降水量61.8mm,11日には最大風速13.5m/s,最低気圧735.9mmHg,降水量39.2mmを観測しています。
この颱風による強風雨のさなか,赤坂区権田原の民家から衣類数点を盗んだ泥棒が皇宮警手に怪しまれて跡をつけられたことから狼狽し,こともあろうに青山御所の土塀を乗り越えて御所の中に逃げ込みました。もちろんすぐに取り押さえられたことはいうまでもありません。「そゝつかしい奴もあるものかな」(東京朝日)。
競馬世界という競馬雑誌の創刊第2号(1907年12月発行)に,「目黒競馬會の混亂」と題する記事があり,次のような書き出しではじまっています。
初日はベンテンの銃殺亊件があつて,少からず看客を驚かした目黒競馬會は,二日目に,而も宮殿下の御前で,忌はしき血染沙汰を引起こしたのは甚だ遺憾な亊である
この2日目が1907年12月8日です。
ここで園田実徳なる人物が登場します。目黒競馬を実質的に運営する競馬会社,東京馬匹改良株式会社の創立委員長で当時の競馬界一の実力者です。
さて,騒動の第1ラウンドは第6レース「内国産馬競走」(距離1哩4分の1)。
出立点でスターチングの信号をしない中,鐘を鳴らしたので騎手は皆鞭を加へたが途中から引返して遺直しとは馬鹿気ていた
(12月9日付東京朝日)
要するにスタートミスがあり,カンパイ。その結果,人気だったキンカザンやハクウンが敗れ,穴馬のキキヨウが勝ちましたが,その馬主は岡田実徳でした。しかもカンパイの理由は
此竸馬を遣り直せし理由はキキヨウが一頭出遅れし爲めなりと云ふ
(12月9日付報知)
キンカザンやハクウンの馬券を買った連中は口々に「火を附けて建物を焼いて了はう」「やあい,擲つて了へ」と叫び,暴動の一歩手前。ことばだけを見ると何かノンビリしているような感じがしますが(笑)
騒動第2ラウンドは第9レース「内国産馬競走」(距離1哩2分の1)2頭立て。ハナゾノとクヰンタツのマッチレースでしたが,クヰンタツは6月の帝室御賞典を勝った名馬ハナゾノの敵ではなく,どうしてこんなレースが組まれたのか,園田実徳が恣意的にレース番組をつくっているのでは……? という不信感がありました。実際,この日の第8レースまでの内国産馬競走5レースのうち,園田実徳の持ち馬がすでに2勝を挙げていました。
こうした伏線があったため,第9レースにハナゾノが勝利した直後,檜山鐵三郎なる人物が酒気を帯びて記者席に闖入,「園田の馬は已に屡々勝てり,然るに又ハナゾノを出して勝を貪れり,こは寧ろ園田の名の為に惜しむべきに非ずや……」と演説をはじめました。記者たちが相手をしないでいると,それを見ていた群衆が檜山に同調して騒ぎ出し,場内が混乱しはじめました。そこに園田に雇われていた“馬丁”があらわれ,檜山の頭をビールびんで殴って大ケガを負わせる流血沙汰に発展しました。
競馬会はすでにハナゾノの当たり馬券を5円の元返しで払い戻ししはじめていました。しかし群衆が「クヰンタツはもっと売れていたはずだ」と金網や木板,ガラスなどを壊しはじめたのを見て,未払い分については50銭の割り増しをつけることになりましたが,今度はすでに払い戻しを受けた人々が騒ぎ出す始末。それでも鳴尾競輪暴動事件1のような大事にはいたらなかったようで,事態はすぐに収束したようです。
ちなみに,騒動のおおもととなった園田実徳の弟が,元近衛少尉武清澄の家に養子にはいり,武彦七となります。彦七の長男芳彦の三男が武邦彦で,武邦彦の三男が武豊です。
早い話が,武豊は明治の日本競馬を恣意的に操っていた人物の一族なのです。その武豊をJRAがどう遇しているかは,いわずとも明らかでしょう。
ついでに,のちに廃場となった目黒競馬場では目黒競馬場と大井×× | Notenki Express 2014のような事故が起こっています。
1944年12月7日13時半過ぎ,東海道沖を震源域とするマグニチュード8.0の地震が発生しました。東南海地震です。『理科年表』には
静岡・愛知・三重などで合わせて死・不明1223,住家全壊17599,半壊36520,流失3129.このほか,長野県諏訪盆地でも住家全壊12などの被害があった.津波が各地に襲来し,波高は熊野灘沿岸で6〜8m,遠州灘沿岸で1〜2m.紀伊半島東岸で30〜40cm地盤が沈下した.
とあります。
当時の新聞はどう伝えたかというと,例えば翌8日付の朝日新聞には次のようにあります。
十二月七日十五時五十分発表(中央気象台)―本日午後一時三十六分ごろ遠州灘に震源を有する地震が起つて強震を感じて被害を生じたところもある
この部分は各新聞共通です。
続いて各地のようす。マイクロフィルムから複写してからスキャナで取り込んだものを読んでいる関係で判読できない文字もあるので,引用ではなく要約します(「」の部分は引用。漢字は今の漢字)。
静岡……県はただちに対策本部を設け,「学徒等の応援を求めて逞しき復興に乗り出した」また,賀茂郡下田町では14時30分ごろに津波があり,「浸水家屋を生じた」
東海……「東海地方を襲つた七日の地震は意外な強震だったが一部に倒半壊の建物と死傷者を出したのみで大した被害もなく郷土防衛に挺身する必勝魂ははからずもここに逞しい空襲と戦ふ片鱗を示し復旧に凱歌を上げた」
当局の厳しい報道管制のために実態を曲げて伝えているのは確かですが,今の視線で読めば,隠そうとしても隠しきれない被害のようすが見え隠れしている感じです。あくまで今だからわかることでしょうけれど。
ちなみに,アメリカの大新聞などはこの地震を大きく伝え,例えば,8日付ニューヨークタイムスの1面トップにはJAPANESE CENTERS DAMAGED BY QUAKEという大きな見出しがあります。また,9日付の同紙には
Though they disclosed that great war-production centers, including Osaka, Nagoya, Hamamatsu, Shizuoka, Nagano and Shimizu were in the destruction area, they attempted to minimize damage.
とあり,完全に見透かされています。このことだけを見ても,およそ勝てそうもない戦争だったことがよくわかります。こんな戦争をおっぱじめた首脳の責任は地球より重いです。