東の風 雨 (1932年) (目黒競馬場跡探訪記つき)

「東の風 雨」といっても,1941年12月8日の朝に本来なら放送されるはずだった暗号放送ではありません1。1932年4月24日,第1回東京優駿大競走(今の日本ダービー)の日の東京地方の天気予報です。正確には「東よりの風 雨」でした。

レース当日は前日からの雨が降り続いていました。いわゆる北高型の気圧配置になっていて,ぐずついた天気が続いていたようです。中央気象台で前日23日に0.7mm,当日24日に19.4mmの降水が観測されています。

馬場状態は不良(今とは基準が違うようですが),残されている記録映画からもなんとなくドロドロの馬場の雰囲気が伝わってきます。翌日の東京日日新聞によると,

生憎の雨で最悪のコンジションであつたため好記録を得られなかつたのは遺憾であつたが十九頭もの優駿が一團となつてもみ合つた壯觀は全く本邦においてはじめてみるものであつた

多少(かなり?)ヨイショ感のただよう記事ですが(笑)

東京優駿(大)競走はその後もしばらくはなぜか天気に恵まれず(馬場の水はけも悪かったと思われる),良馬場ではじめて行なわれたのは牝馬のヒサトモが勝った第6回でした。

目黒競馬場跡

目黒競馬場の跡地はいまでは住宅地になっており,むかしの面影はほとんどなく,一部に当時のコース跡か外周道路の名残と思われる道路があるほかはバス停「元競馬場前」と記念碑,トウルヌソルの銅像がその歴史をとどめているくらいです。

  • バス停元競馬場前

  • トウルヌソル像

  • 第1コーナーあたり

  • 第2コーナーから向正面

  • 向正面中ほど

    当時の代表的な競馬場,例えば根岸競馬場や池上競馬場などは向正面が直線ではなく,ゆるやかにカーブを描いていました2。これに対し目黒競馬場は今では当たり前の陸上競技場型につくられました。大江志乃夫『明治馬券始末』によると,この形状に対しては当時批判があったそうです。あえてこの形にしたのにはちゃんとした意図があったようなのですが,そのあたりについては『明治馬券始末』をご覧ください。

  • 第3コーナー手前にあるさくらの里まちかど公園

    公園にあるサクラの由来という説明板によると,

    このサクラは,目黒競馬場があった当時の樹木だといわれており,平成9年秋,台風の影響により倒木したときも,地元の熱い要望により区が復旧したもので,区民に愛されています。

    ここに出てくる台風は,秋ということですから20号でしょうか。1997年の台風といえば7月の9号が有名ですが,それについては雨のバカヤロー!!の8年後 | Notenki Express 2014をご覧ください。

第3コーナーから第4コーナーにかけてはコースの面影はほとんど残っていません。

  • 第4コーナーを回って最後の直線

というわけで,軽く1周してきました。

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  1. よく知られているように,実際に放送されたのは「西の風 晴れ」でしたが,これは対英関係が危険になったときの暗号で,対米関係危険化の暗号は本来は「東の風 雨」でした。 
  2. 松戸競馬場は地形の関係で逆くの字に曲がっていました。 

隅田川にもどった早慶レガッタ (1978年)

※この記事は初代ブログ(ココログ)に2006年4月13日に書いたものですが,今のブログになぜかインポートされていないのでそのまま投稿します。

春のうららといえば今は高知競馬場が有名ですが(というのは2年前までの話で,今では完全に忘れられた存在(笑)),大昔は隅田川でした。その隅田川の春の風物詩といえばやはり「早慶レガッタ」。

早慶レガッタは1905年に隅田川ではじまり,敗戦後,1947年に復活したときも隅田川でした。1957年の“あらしのボートレース”も隅田川。このように隅田川で多く行なわれていましたが,川の汚染や首都高の向島線の架設工事などによって,隅田川はボートレースのできる環境ではなくなり,1961年を最後に隅田川を離れました。江戸時代から続く夏の風物詩「両国花火大会」も1961年で廃止になっています。

時は過ぎ,1970年代の後半になると,汚染対策も若干進んで隅田川にも魚が戻るようになり,関係者の努力もあって早慶レガッタは隅田川に帰ってきました。

その隅田川復活の早慶レガッタは1978年4月16日に行なわれました。コース設定などの苦労話については公式ページhttp://www.the-regatta.com/ に詳しいです。

この日は,関東の南東海上の高気圧と日本海の低気圧の間で気圧の傾きが急な領域が関東南部にかかっており,東京では朝から南~南南西の風が吹き荒れていました。大手町の最大風速は14.8m/s,最大瞬間風速は24.5m/sでしたが,隅田川の川面ではもっと強かったかもしれません。

レースは予定より遅れて15時17分に永代橋をスタート。スタート直後こそ早稲田が出たものの,早稲田の「韋駄天号」にはスタート前から水がたまっており,スピードが乗らないばかりかコントロールを失っていました。その後も清洲橋(615m地点)で2艇身ほどリードした慶應艇の水しぶきを受け,ますます浸水が進むという悪循環。結局,なんとか沈めないようにゴールまでもたせるのが精一杯,レースは慶應が55ストローク,距離にして500mもの大差で圧勝しました。

勝った慶應クルーはコックスを水に“投げ込んだ”後,われ先にと隅田川に飛び込みましたが,水はとくに汚くはなかったそうです。

このレースを見に隅田川に集まった観衆は18000人。ただし,川岸のマンションやビルの屋上の見物人,通りすがりの通行人を含めると10万人になるとか。

早慶レガッタの隅田川復帰大成功も呼び水となり,7月29日,両国の花火大会が17年ぶりに開かれることになります。ただ,当初の予定は7月22日だったようですが,1週間のびたのはなぜなんでしょう……?1

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  1. 潮回りの影響だったようです。ちなみに1週間延びたせいで板橋区と戸田市の花火大会と同じ日になり,丁々発止の果たし合い的展開になるのですが,それはまた別の機会に。[20150416付記] 

カッツポーズ列伝 part2

4月11日はカッツポーズの日。いわれについてはガッツポーズの日 | Notenki Express 2014をご覧ください。ちなみに,ガッツポーズという名前が最初につけられたのはガッツ石松の勝利のポーズだという俗説は間違いです。

さて,ガッツボーズ列伝 | Notenki Express 2014のあとのガッツポーズをテキストクリップから拾ってみました。

まず,2011年1月のサッカーアジア杯。李忠成のボレーシュートが今でも目に浮かびますが,もう4年も前なんですね。

アジアカップで優勝、ガッツポーズでピッチに向かうザッケローニ監督 (ASA)

写真を載せられないのが残念です(手もとにはある)。

2011年2月,ガールズケイリンの1期生が誕生しました。

合格が決まりガッツポーズする左から白井美早子、田中麻衣美、渡辺ゆかり (日刊スポーツ)

このころが穏やかな時代の最後だったかもしれません。

3.11の直後,メイダンで奇跡が起こりました。

スタート直後は最後方に控えたが、スローペースを読み切ったデムーロ騎手の好判断によって向正面で追い上げ、逃げるトランセンド(牡5、栗東・安田)をぴったりマーク。最後の最後まで懸命に粘るトランセンドを半馬身かわし、昨年まで日本から延べ18頭が挑戦して成し得なかった悲願を達成した。勝ち時計は2分05秒94。ゴール手前でガッツポーズを繰り出したデムーロは「信じられない! いつもはいいスタートが、今日は良くなかった。バックストレッチでスローペースになったことがラッキー。いいポジションに付けられた。直線がすごく長くて、終わらないかと…。家族のみんな、ありがとう! 日本のみなさん、ありがとう!」と感涙にむせんだ。(日刊スポーツ)

4月,楽天ゴールデンイーグルスは田中の好投で主催開幕戦を白星で飾りました。

完投勝ちし、ガッツポーズで雄たけびを上げる東北楽天・田中 (河北新報)

5月,雨の中,オルフェーヴルが二冠を達成します。

薄暗い府中でも、オルフェーヴルと池添にはビクトリーロードが見えていた。残り300メートル。ごちゃついた馬群を割ると、一瞬前に出られたウインバリアシオンを抜きにかかった。芝の塊が飛び、水しぶきが跳ね返る最悪なコンディションもものともせず、内から鋭く抜け出す。残り1ハロンで完全に先頭に立つと、あとは後続を離すだけ。皐月賞で自粛したガッツポーズが自然と出た。2着に1馬身3/4差、3着はさらに7馬身離れた。「本当によく頑張ってくれた」。愛馬をなでる池添の目には涙が浮かんだ。(日刊スポーツ)

夏,武豊がついにばんえいでも勝利を挙げます。

今年で5回目を迎える「JRAジョッキーDAY」には武豊、藤田、安藤勝や、今年初参戦の吉田豊と隼人兄弟、謎のX騎手こと小林徹らが駆けつけた。例年通り、ばんえいの騎手とコンビを組んで2レースに出場。優勝は1レース目で6着(6ポイント)、2レース目で1着(20ポイント)の武豊騎手だった。昨年に続いて2回目の参戦となった武は念願の初Vにガッツポーズ。トロフィーを受け取り「夢がかないました(笑い)。体が倍以上あってまだ少し怖いけど、楽しいですね」と満面の笑みを見せた。 (日刊スポーツ)

いい加減疲れてきました。この調子で続けてもなんか2011年で終わりそうなので,一気に2012年にタイムワープして終わりたいと思います。

2012年の箱根駅伝往路。“山の神”柏原が区間新で山を登り,東洋大が往路4連覇を達成しました。

最後の角を曲がって、苦しそうだった柏原が笑顔になった。ゴール前、右手で3度ガッツポーズ、両腕を大きく広げてゴールテープを切り、仲間たちの待つ輪に加わった。 (スポーツ報知)

続きはまた来年のガッツポーズの日に(笑)

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あなたの夢は今こそかなう (1966年桜花賞)

タイトルは故・志摩直人さんの詩の一節より。

1951年4月22日,阪神競馬場での第11回桜花賞。クモワカは向正面で馬群に包まれる不利もあり,ツキカワの逃げ切りを許して2着に敗れました。このレースについては天候が曇,馬場状態が良ということと全着順,簡単な展開がわかるだけで,それ以上はわかりません。当時の「優駿」にも掲載されていないですし。

クモワカは翌年の夏までに通算11勝をあげ,秋に備えて休養中のところに,突然伝染性貧血症と診断されます。この病気についての説明がJRA競走馬総合研究所感染症シリーズ -馬伝染性貧血-にあります。現在も有効な治療法はないようです。

伝染性貧血症(正確には“馬伝染性貧血”)は家畜伝染病予防法第17条で

都道府県知事は、家畜伝染病のまん延を防止するため必要があるときは、次に掲げる家畜の所有者に期限を定めて当該家畜を殺すべき旨を命ずることができる

病気のひとつで,これに基づいてクモワカの薬殺命令が下されます。

ところが,クモワカはなぜか回復してしまい,経緯は文献によって違うのですが,いずれにしても北海道にひそかに渡り,丘高という名前で繁殖牝馬となって何頭かの仔を産みました。しかし,“死んだ”はずの馬が産んだ仔の血統登録は認められず,ここに血統登録を求める裁判が起こされます。一審ではクモワカ側の負けとなりましたが,控訴審で和解が成立し,1963年9月から登録が認められるようになります。この年に生まれた玲祐が後のワカクモです。

そして1966年4月10日,第26回桜花賞――。

前日からの雨は朝には上がり,青空が広がりましたが,馬場状態は稍重,4角の内側はかなり悪くなっています。

レースはキヨズキが逃げ,ワカクモは中団の位置。3角から内目を通って徐々に追い上げ,4角では他馬が馬場の悪い内を嫌って外をまわる中,1頭だけ最内をついて先頭に躍り出ます。一時は後続に3馬身ほど差をつけたものの,さすがに最後は脚いろが鈍り,外からヒロヨシ,さらに大外からメジロボサツがきわどく迫ったところがゴールでした。

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1966年 4月10日(日) 1回阪神8日  天候: 晴   馬場状態: 稍重
10R  第26回桜花賞
4歳・オープン(牝)  芝 1600m   24頭立
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着 枠 馬  馬名               性齢 騎手     斤量 タイム 人  廐舎
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 1 4 10  ワカクモ            牝4  杉村一馬  55  1.39.5  4  杉村
 2 2  4  ヒロヨシ            牝4  古山良司  55  クビ    7  久保
 3 3  7  メジロボサツ        牝4  矢野一博  55  ハナ    1  大久
 4 3  8  キヨズキ            牝4  武邦彦    55  1 1/4  3  内田
 5 3  9  キヨシゲル          牝4  加賀武見  55  クビ    2  川上
 6 2  5  タカノハホマレ      牝4  内藤繁春  55  2     13  鈴木
 7 8 22  ハードイツト        牝4  簗田善則  55  クビ    8  坪重
 8 7 19  ニホンピロールビー  牝4  須貝彦三  55  3     17  田所
 9 4 11  アランバード        牝4  瀬戸口勉  55  1/2    10  上田
10 1  3  ミスハヤシヤ        牝4  郷原洋行  55  ハナ    9  鴨田
11 5 15  ウインジエスト      牝4  大根田裕  55  3/4    11  松田
12 6 16  リユウラツクス      牝4  野村彰彦  55  クビ   23  中村
13 6 17  タニノジヨウイナ    牝4  新川恵    55  クビ   22  吉田
14 2  6  モンタフオード      牝4  松永高徳  55  アタマ 15  梶与
15 7 20  セルフリツジ        牝4  高橋成忠  55  ハナ   20  佐藤
16 4 12  アカツキノボル      牝4  山本正司  55  クビ   14  松山
17 1  2  ヨシヒサ            牝4  松永善晴  55  1      6  夏村
18 5 14  セカイイチ          牝4  栗田勝    55  クビ    5  日迫
19 7 21  アサヤング          牝4  田島日出  55  1 1/2 24  柳田
20 8 23  マンジユ            牝4  諏訪真    55  3     16  諏訪
21 5 13  ゴルトホース        牝4  古賀一隆  55  1/2    12  西塚
22 1  1  メイシー            牝4  鹿戸幸治  55  3/4    18  田所
23 6 18  ホツカイフジ        牝4  松田博資  55  3     19  木村
24 8 24  ダテスガタ          牝4  清水出美  55  8     21  黒川
----------------------------------------------------------------
LAP :12.9-11.5-12.1-12.2-11.9-12.4-13.1-13.4
通過:36.5-48.7  上り:50.8-38.9
単勝 10 \610    複勝 10 \240 / 4 \330 / 7 \170
枠連   2-4 \2330
----------------------------------------------------------------

ワカクモのその後とその仔テンポイントキングスポイントについてはここに改めて書くまでもないでしょう。ちなみに,キングスポイントの最後のレースとなった第92回中山大障害は1984年4月8日,この年は桜の開花が遅く,まだつぼみでした。

なお,この桜花賞で3着と敗れた馬体重わずか376kgのメジロボサツは,メジロドーベルの3代母に当たります。

また,クモワカが敗れたツキカワは二冠馬サニーブライアンの4代母に当たります。

桜花賞というと毎年思い出す物語です。

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NHKがモータースポーツをはじめて生中継 (1989年)

30年くらい前まではNHKはモータースポーツをスポーツと認めていなかったそうで,イロモノ的に扱ったり,1977年富士スピードウェイで開かれた日本GPでの観客死亡事故を伝えたりすることはあっても,ニュースでスポーツとして取り上げることはなかったようです。当然生中継などすることはありえませんでした。テレビの草創期にはプロレスを生中継したこともあるというのに……。

ところが,時代の流れか,中島悟がロータスに加入したころが風向きが変わり,1987年シーズンの開幕前に子ども向け情報番組(「600こちら情報部」だと思ったら違ったようだ)でF1特集が企画され,中島悟が電話出演したりしました。

そして1989年4月8日,NHKが鈴鹿サーキットから世界スポーツプロトタイプ選手権(WSPC)第1戦の予選を中継することになりました。しかし――。

当初は13時からの公式予選2回目を生中継する予定だったようですが,日本の南海上を通過中の低気圧に伴う大雨のため,予選2回目は翌日,決勝の朝に延期になり,マシンの走行の生中継も事実上,翌日に延期になりました。

というわけで,初の生中継が行なわれたのは4月9日です。決勝レースではザウバー・メルセデスがワンツーを決め,この後しばらくメタリックシルバーのC9がWSPCを席巻することになります。WSPCのシリーズからは外れましたが,この年のルマン24時間レースもワンツーフィニッシュでした。まだユノディエールがシケインで分断されず,テルトルルージュからミュルサンヌまで6kmの直線だった時代です。

ついでですが,この年からしばらくの間,NHKはBS1で鈴鹿8耐を生中継していました。そういえば,この年の中継には本田美奈子さんがスポットゲスト出演したんですよねえ……。

というわけで,写真は本文とはあまり関係なく,朝霞駅前にある本田美奈子の記念碑:

このあたりにあります↓

どうでもいいですが,朝霞台駅でも北朝霞駅でもなく,朝霞駅ですので(笑)

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花魂を驚かして柳楊を壓す 交通機關を奪て勤人を泣す (1908年)

この『南総里見八犬伝』あるいは『水滸伝』風のタイトルは,1908年4月10日付の東京日日新聞に使われていた見出しです。

一昨八日夜十時頃より滿都花なる今日この頃奇しくも降り出せる妖雪《ゆき》は終夜《よもすが》ら花魂を驚かして降りしきり明けて昨朝となるも尚降り歇《や》まず春の泡雪と思ひしは違ひて世は白妙の目の行く限り白皚々たるのみか量《かさ》さへ尺と積もりて寒中にも都には容易《たやす》く見られぬ大雪

そして,

されば其が爲めの被害も少からず先づ第一に惜しまるゝは今を盛りの櫻花にて都大路は是よりなる各所の櫻花は枝もたわゝの雪に壓せられて紅褪せ白散じて見るも無殘の姿痛々しく……

とあり,桜の被害もかなり大きかったようです。

東京の積雪は20cmで,今でも4月の最深積雪となっています。

この日の雪は晩雪という点では過去数十年なかった大雪だったらしく,東京日日新聞でも東京朝日新聞でも桜田門外の変を引き合いに出しています。当時はまだ江戸末期の動乱の記憶が残っていたんですね。

4月10日付の時事新報には「氣象臺設置以來三十二年間」にあった4月の降雪日が載っています。

明治十三年四月三日
同十八年1四月二日
同三十五年四月十日
同四十年2四月一日

いずれも積雪には至らなかったようです。

なお,この雪の影響で,11日から開催予定だった目黒競馬場での春季恒例競馬は12日からの開催に変更になりました。私の知る限り,4月の競馬の開催中止はこれがはじめてで,これ以降は2010年4月17日の福島競馬まで飛びます。

ちなみに,福島競馬は2013年4月21日にも雪のために中止になっています。(福島競馬がまたまた雪のために中止 | Notenki Express 2014をご覧ください)

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※この記事は花魂を驚かして柳楊を壓す 交通機關を奪て勤人を泣す | Notenki Express 2014に少し加筆したものです。


  1. 4月10日付の読売新聞では“十九年”になっています。 
  2. 4月10日付の読売新聞では“四十八年”になっています。明らかに間違いですね。 

桜中学が閉校 (2005年)

2005年3月31日をもって足立区立第二中学校が閉校になりました。とはいってもピンと来ないかもしれませんが,金八シリーズの桜中学校の舞台になった中学校といえば,あの学校かぁ~,とドラマのOPの胴上げが思い浮かぶ人がいるかもしれません。

桜中学の舞台,足立区立第二中学校です。35年前,ここの校庭でジャンプしてドラマがはじまったそうです。

堀切駅。何回か,別れの場として登場しました。場所的にムリのような気がするのですが。各駅停車しか停まらないし(笑)

荒川河川敷。この角度,何度も見たような気がします。気のせいかもしれませんが。

誰かここに立てこもりませんでしたっけ?

以上の写真はすべて10年前,閉校のウワサを聞きつけて撮りにいったものです。跡地は現在,東京未来大学になっているそうです。桜中学の名残をとどめているかどうかは知りません。

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春三番の大嵐 (1972年)

1972年の3月31日から4月1日にかけて,日本近海で春三番の大嵐が吹き荒れました。海は大シケになり,3000トン級の船舶を含む海難50件が発生し,合わせて死者・不明100人以上という戦後3番目の海難となりました。

“春三番”の語は1972年4月1日付朝日新聞朝刊の見出しに登場しました。

死者10,不明65人に
春三番の海難事故48件

そればかりか,気象庁の公式記録である「気象要覧」でも次のように使われています。

春三番があるなら春二番,春一番も当然あったわけで,春二番は3月24日が該当しそうです。また,この年の関東地方の春一番は3月20日に観測され,観測史上もっとも遅い春一番だったわけですが,この春一番をもたらした低気圧によって富士山では死亡・不明24人という史上最大(=当時1)のパンパカ遭難,また九州西方の男女群島付近で死亡・不明13人という漁船の座礁事故がありました。

なお,俗に

花おこしの春二番,花散らしの春三番

などといわれることもありますが,調べてみるとほとんど一致しません。

※以上,この記事は春三番の大嵐 | Notenki Express 2014の画像へのリンク切れなどを直したものです。

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  1. その後これを超えるパンパカ遭難があったかどうかは興味がないので知りません。 

杉野はいずこ 杉野はいずや (1904年)

AD1904/03/26 第2回旅順口閉塞作戦(~27日)
AD1904/03/27 第2回旅順口閉塞作戦。広瀬武夫少佐が壮烈な戦死(死後中佐に昇進)

その名も「広瀬中佐」という唱歌がありまして,なぜか小学生のころから知っていました(笑) もっとも,そのころはどうも「勇敢なる水兵」と状況を混同していたきらいがあります。軍事ヲタでもなんでもない私は当然のことながら閉塞作戦なんて知らなかったですから。

もっとも今の時代,閉塞作戦を知らない人はけっこういるようで,日本映画専門チャンネルのホームページに次のような解説記事(=リンク切れ)がありました。

“杉野はいずこ”広瀬少佐といっても誰もわからないかも知れないので、ちょっと説明しよう。自分の乗っていた戦艦が敵の攻撃を受けて大破、沈没寸前というとき、広瀬少佐は乗組員を全員救命ボートで脱出させたあと、火柱が上がりどんどん浸水する艦内でたったひとり姿の見えない部下、杉野を探すのだ。しかし、とうとう見つけられずに自分も杉野も艦と運命をともにしてしまう、という話なのだ。当時は、部下を思い遣る上官の美談として語られて有名になった。

なんの映画の解説かは忘れました。

話がそれましたが,その唱歌「広瀬中佐」に

やみをつらぬく 中佐の叫び
杉野はいずこ 杉野はいずや

というフレーズがあります。杉野さんっていったいどうなったんだろう? となんとなく疑問に思っていました。たぶんなくなったんだろうという想像はできましたが,軍事ヲタでもなんでもない私は広瀬中佐とともに軍神レベルに祭り上げられているなんて知りませんでしたし。

ただ,実際には死亡は確認されていなかったようです。林えいだい『日露戦争秘話 杉野はいずこ―英雄の生存説を追う』によると,東郷平八郎司令長官の報告書には杉野孫七一等兵曹は「戦死せるものゝ如く」とあるだけで,今流のいいかたでいえば行方不明ということだそうです。

そういうこともあり,杉野さんについては日露戦争直後から生存説が流布していたようです。

しかし,かりに生存していたとしても,広瀬「中佐」を軍神扱いする以上,杉野「上等兵曹」も戦死していないとサマにならないわけです。軍神扱いをされていた本人に生きていられては当時の軍部としては困るわけで,帰国はかなわず,杉野孫七という個人がこの世からいなくなったことには変わりありません。

ちなみに,広瀬中佐はロシアに滞在したこともあり,ロシアに恋人もいたそうです。このあたりは“年末の大河ドラマ”「坂の上の雲」で詳しく描かれていました。

「坂の上の雲」といえば,このドラマが放送されていたころ,“広瀬はいずこ”でググって私のブログに来るのがいて,最近のなんとかウヨは広瀬中佐も知らんのかと思ったものです。

参考文献: 林 えいだい. 日露戦争秘話 杉野はいずこ – 英雄の生存説を追う. 新評論, 1998.

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※この記事は杉野はいずこ 杉野はいずや | Notenki Express 2014を今流に書き換えただけの記事です。

函館大火と函館颴風

次は1934年3月21日18時の地上天気図です。なんかすごそうな低気圧があります。中心気圧724粍1≒965hPa程度でしょうか。

この直後,函館で火災が発生しました。天気図から想像できるように強風にあおられ,火はみるみる燃え広がります。

函館大火 – Wikipediaより一部引用:

当日、北海道付近を発達中の低気圧が通過し、函館市内は最大瞬間風速39mに及ぶ強風に見舞われていた。早春の日が落ちて間もない午後6時53分頃、市域のほぼ南端に位置する住吉町で1軒の木造住宅が強風によって半壊し、室内に吹き込んだ風で囲炉裏の火が吹き散らされ、瞬く間に燃え広がった。さらに強風による電線の短絡も重なり、木造家屋が密集する市街地20箇所以上で次々と延焼したため、手が付けられない状態となった。時間の経過とともに風向きは南から南西、そしへ西風へと時計回りに変っていったため火流もそれに従い向きを変え、最終的には市街地の1/3が焼失する規模となった。死者の中には、橋が焼失した亀田川を渡ろうとして、あるいは市域東側の大森浜へ避難したところ、炎と激浪の挟み撃ちになって逃げ場を失い溺死した者(917名)、また溺死しないまでも凍死した者(217名)もいた。

そして,死者2166人,焼損棟数11105棟を数える大惨事となりました。

この函館大火の記録映像があります。

低気圧はさらに発達しながら北東に進み,12時間後の22日06時には中心気圧704粍≒938hPaまで発達しました。12時間で約27hPaも中心気圧が下がったわけで,今流にいえば爆弾低気圧です。当時は低気圧ということばも一般化してはおらず,温帯低気圧は(大陸)颴風とよばれていました。ちなみに,“颴”はShift_JISにはなく,メルマガを出していたころは青空文庫風に<風|旋>と書いていました。

そういえば去年の12月16日,次の17日09時の予想天気図を見て,こんな低気圧見たことない,などとツイートしていたお天気キャスターがいましたが,函館颴風は宮澤清治『近・現代日本気象災害史』にも載っていることですし,不勉強のそしりを免れないでしょう。

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  1. 粍=mmHg,760mmHg=1013.25hPa。